詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小津安二郎監督「秋刀魚の味」(★★★★)

2016-02-28 09:43:35 | 午前十時の映画祭
監督 小津安二郎 出演 笠智衆、岩下志麻、佐田啓二、岡田茉莉子、東野英治郎、杉村春子、中村伸郎、北龍二

 小津安二郎の映画をスクリーンで見るのは初めてである。こういう評価の定まった作品の感想を書くのはむずかしい。
 最初に驚くのは、役者たちの演技の淡白さである。笠智衆、中村伸郎、北龍二の仲良し三人組(?)の酒を飲んでのやりとりなど、ただの棒読み。感情というものが感じられない。東野英治郎、杉村春子の父娘が、演技といえば演技っぽい。ただしまわりの役者が淡白な演技をしているので、浮いて見えてしまう。
 えっ、昔のひとは(現代でも評価が高いのだが……)、こういう演技を見て感動していた? 登場人物に共感していた?
 と、思いながら見ていて、ほとんど後半、ラスト近くになって。
 岩下志麻の結婚が決まり、花嫁衣装を着て、お決まりの父への挨拶をする。これがまた、そっけないのだが。そのあと、結婚式に出かけてしまい誰もいなくなった家のなかが映される。ここで、私は、「うーん」と唸ってしまった。椅子に、ぐい、と体を押さえつけられたような衝撃を受けた。
 岩下志麻のつかっていた鏡台だとか、窓だとか、畳だとか。そういうものが、とても美しいのである。
 スティルライフ、静物画ということばを思い出した。すばらしい「静物画」、たとえばモランディやセザンヌの絵を見たときのような美しさを感じた。スティルライフ、静かな生活でもあるのだが、「静かな生活」ではなく「静物画」の視点からこの映画を見つめなおすと、その美しさがわかるのでは、と考えた。
 たとえば薬罐とポットとコップの「静物画」があったとする。そのとき、その薬罐、ポット、コップは最初からそこにあるのではない。そこにそれがあるのは、それをつかっているひとが、そこに置いたからである。その「位置」が決まるまでには、それなりに繰り返される時間があり、同時にひとの動きがある。すぐれた「静物画」はものの形を書いているのではなく、そのものがそこに収まるまでのひとの動き、暮らしの時間を描いている。そのものが、その「色」に落ち着くまでの暮らしの時間、ひとの関わり方を描いている。
 その、「暮らしの時間/ひとの関わり方」の蓄積に通じるものを、最後になって、私は強く感じた。あるものが、ある位置に定まるまでには、はげしいできごともあったかもしれないが、そういうものは沈澱してゆき、淡々とした暮らしが繰り返され、そこに落ち着くのである。
 この「静かな生活(あるいは静かないのち、かもしれない)」の美しさは、「わかっている」ということばで言い直すことができるだろう。
 この映画のなかで、その「わかっている」を拾い上げると。
 花嫁衣装の着付けが終わった岩下志麻が膝をつき「お父さん……」と言おうとすると、笠智衆が「わかっている」と言う。何も言わなくてもいいと言う。この「わかっている」である。笠智衆は岩下志麻のことが「わかっている」。岩下志麻は笠智衆のことが「わかっている」。このままの暮らしではいけないということも「わかっている」し、いままでの暮らしを変えると大変だということも「わかっている」。「わかっている」から、むずかしい。どう動けばいいのか、悩んでしまうのである。
 この映画では、すべて「わかっている」ことだけが、「わかっている」ままに描かれる。逆に言えば「わかってほしい」と誰も主張しないのである。笠智衆の仲良し三人組が酒を飲む。そのとき三人は互いの家庭のことを、みんなわかっている。中学の教師をまねいて同窓会の話をするのだが、そのときだってきちんと詰めないといけないようなことなど何もない。みんな「わかっている」。だから、ただ顔をあわせて、台詞を棒読みするだけである。「感情」を主張する必要などない。自分を打ち出す必要はない。みんな「わかっている」のだから。
 どのシーンについても言える。佐田啓二、岡田茉莉子の夫婦がゴルフのクラブを買うことで揉める。岡田茉莉子が「だめ」と言いながら、最後には最初の月賦二千円を渡すまでのやりとりなども、岡田茉莉子はどうせそうするしかないのが「わかっている」。「そのかわり、私は白いハンドバッグを買うからね」と岡田茉莉子が言うことも、佐田啓二はどこかで「わかっている」。夫婦なのだから。
 それにしても……。岡田茉莉子が「トマト二個貸してちょうだい」と隣の部屋へトマトを借りに行くシーンは驚いたなあ。たしかに昔は、そういう貸し借りがあったなあ。いまは、そういうものがすっかりなくなり、他人が「わからなくなった」。昔は、だれもが他人がどうしているか「わかっていた」。
 いっしょにいれば、だれもが相手のことを「わかる」。「わかっている」から、声高に主張しなくてもいい。したがって役者も「感情」を動かして見せる必要はない。「感情」はそれぞれの観客のなかにあって、観客がつくりだすもの。観客が、それぞれが「暮らし(いのち)」のなかで反復し、育てるものなのである。この「感情」、わかる、知っている、自分も経験したことがある。そういうことを、ただ、思い出し、それを丹精に育てなおす。薬罐やポットやコップ、鏡台の位置や、カーテンの開き方、窓の開け閉めのように、それにふさわしい位置、動きにととのえる。そうするために見る映画なのだと感じた。
              (午前十時の映画祭、天神東宝6、2016年02月26日)










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松竹

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