詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

徳永孝「夜の子馬」、池田清子「幸せ」、青柳俊哉「点滴」、永田エミ「ジャズが聞きたい」

2022-05-06 09:33:48 | 現代詩講座

徳永孝「夜の子馬」、池田清子「幸せ」、青柳俊哉「点滴」、永田エミ「ジャズが聞きたい」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年05月02日)

 受講生の作品。

夜の子馬  徳永孝

夜のベッドに寝ていると
バルコニーに小馬がやってきた

歩きまわり 白い鼻息を吐く
いななく声が 聞こえる
空を飛んで いろんな所へ行こうよ
一諸に冒険しようよ

ケニーは馬に乗って
旅立って行ったけれど

ぼくはおくびょうなんだ
ここを抜け出して
君がそこにいることを
確かめることも出来やしない

君のけはいを感じながら
ただベッドにじっとしているだけ

 四連目。「ぼくはおくびょうなんだ」をどう読むか。「ぼくは臆病だから、馬に乗って旅立っていくことはできない。ケニーのようにはならない」、そして「ただベッドにじっとしているだけ」と読むのが自然だと思うが、受講生のひとりがとても味わい深い読み方をした。「もし、そこに小馬がいなかったら。失望に対する臆病さ。感じていることが間違いだったらと恐れて、部屋から出ることができない」。
 確かに、そういうことはあると思う。
 そのことを手がかりにして「確かめる」とはどういうことか、考えてみた。「姿を見る」というのが多くのひとの感覚だと思うが、ここでも別の受講生が、とてもおもしろいことを言った。「触ること」。小馬に触って、その存在を確かめる。
 確かにこの詩では「白い」鼻息と視覚が言語化されている。いななく声が「聞こえる」では聴覚が言語化されている。「白い鼻息」は空想(想像)かもしれないが、そこでは視覚が動いている。ある意味で、視覚は存在に先行して、存在を確かめている。
 五感には、嗅覚、味覚もある。これは馬の存在を確かめるとき、つかうかどうかわからない。この匂いは牛ではなく、馬のものである、と言える人は少ないだろう。残る「触覚」はどうか。牛であれ、馬であれ、触ることでそれが存在していると確かめることはできる。
 徳永はそういうことを意識して書いたかどうかはわからない。しかし、書かれていることばを関係づけると、確かに、ここには触覚が欠如している。だから、確かめるためには「触覚(触る)」ことが大切になってくる。
 そこからさらに読み込んでいくと、最終連の「けはい」も違ったものに見えてくる。「気配」とは何だろう。「確認していない何か/確認できない何か」でもある。手で触って見て、そこに「馬」がいるとわかれば「気配」ではない。「気配」は手では触れない。しかし、その「触れない」ものに「耳」や「目」は微妙に反応している。「目にはっきり見えないけれど、何かが存在している」と書いてしまうと、「幻想」になってしまうが、そういうことはある。
 徳永の詩特有の「空想」あるいは「メルヘン」のような印象を語り合っているうちに、私たちは、ちょっと不思議な「哲学」「心理学」の領域へ踏み込んだ。
 こういうことは、ひとりで詩を読んでいるときは、なかなかできない体験である。

幸せ  池田清子

去年 一番悲しかったことは
若い時に比べて
身長が五センチ縮んだこと

二番目に悲しかったことは
一時停止違反で七千円とられたこと

と 話したら

「幸せやね」と 娘
「本当やね」

 最後の娘との対話があたたかい。ユーモアもあり、池田らしい。
 この詩では「去年」に注目した受講生がいた。池田は何気なく書いたのだと思うが、「去年」と書き出しているのは、「去年よりもっと前には、幸せや、本当やね、というやりとりでは乗り切れないようなことがあったのではないのか」という指摘である。そうだからこそ、「幸せやね」「本当やね」という会話が生きてくる。実感になる。
 なるほど。
 私がこの詩で注目したのは、ことばの反復とリズム。「悲しかったことは/……したこと」「幸せやね/本当やね」。同じ音が繰り返されて、自然にことばが耳に残る。その一方、三連目の一行は、ぶっきらぼうで散文的だけれど、反復をもたないこの一行が起承転結の「転」をしっかりと演じていると思った。
 もうひとつ。「悲しかったこと」の「悲しい」のつかい方もおもしろい。別なことばでは「残念」に相当するかもしれない。しかし、「残念」にしてしまうと、意味は似ていても、どうも最後の「幸せやね」「本当やね」のことばとの響きあいが違ってくるように思う。詩の中に占める「音」の領域は広い。

点滴  青柳俊哉

空中で 静止する 滴
雨粒がみている 空とわたしと海を
水晶体のうえで 震えているそれらを 
水の神経が うつしとる   

わたしは夕顔の瓢(ふくべ)をさすっていた 
太陽のように大きく 育つようにと
海面は輪を描こうと 張りつめていた
空に 藻を刈る海女を反射して

滴深く それらは一重になりめぐっていく
わたしたちの空間から分かれて 

太陽の瓢をみがくわたしが 
雨にぬれて 海女の空を泳ぐ

 講座で詩を読むとき、まず作者が読む。次に別の人が読む。そのあと、作者の発言をいったん封じておいて、参加者が感想を言う。作者の意図とあっているかどうかは気にしないで語り合う。
 そのとき「点滴」というタイトルがわからない、という声が出た。ひとりではなく、複数。ひとりがこう説明した。点滴はからだが弱っているときの治療。生きることの心地よさが点滴によってもたらされる、というのである。
 たしかに「点滴」にはそういう意味もあるが、自然現象のことを書いているのではないか。「空中で 静止する 滴」、つまり「雨粒」の一滴を「点滴」と呼んでいるのではないか。「点滴、石をもうがつ」の「点滴」だろう。
 しかも、その「点滴」を青柳がみつめ、青柳の見たものを書くというよりも、視点を転換させ「雨粒がみている」という立場から書く。青柳自身を「雨粒の一滴(点滴)」に託して描いた世界。託してというよりも、雨粒と一体化してという感じかもしれない。
 読んだひとに、「読むとき、つまずいた行はなかったか」と聞いてみた。思い出しにくそうだったが、朗読を聞いていると三連目の「一重になりめぐっていく」では声がはっきりと出ていなかった。「わかりにくかったんじゃない?」「わかりにくい」。詩の音は、読むひとのなかでも確実にある役割をしている。
 その、受講生がつまずいたことばのなかには、どういう運動が起きているのか。
 青柳の詩には、いくつものイメージが出てくる。そのイメージが動いていく。このことは、すでに受講生の意識のなかで共有されている。「イメージがつぎつぎに展開して行き、おもしろい(楽しい/興味深い)」。その「展開」が、この詩では「めぐっていく」と、わざわざ書かれている。これは、ここに青柳が書かずにはいられなかったことが書かれているのである。ふつうならば書かない。でも、書く。こういうことばを私は「キーワード」(そのひとの思想に深く入り込んだことば、肉体になってしまっていることば、無意識のことば)と呼んでいる。ただし、この「めぐっていく」がキーワードかというと、それに付随している「一重になり」の方がより大事(ほんとうのキーワード)である。イメージは展開化していく。しかし、そのイメージは、ばらばらに動いていくのではない。あるいはつながって動いていくのでもない。「一重になり」動く。
 「一重になる」とは、どういうことか。
 小さく固まる(凝固するのでもなく)、何重にも重なるわけでもない。いや、何重にもなっているのだが、透明であるためにそれは「一つに、重なる=一重になる」のである。複数のイメージがあるが、それはすべて重なり、「ひとつ」になる。それが「一重になる」である。
 この「一重」のなかの「遠近感」を読み込むことが、読者にとっての課題だし、作者にとっての課題という感じがする。

ジャズが聞きたい  永田エミ

眠れないのも
胃が痛いのも
自分の脆弱な感受性のせい
午前2時
真っ暗なキッチンの冷蔵庫を開け
長方形の光の中から
長方形の牛乳を取る
冷蔵庫を閉めれば
また暗闇がのし掛かる
ああ、こんな夜は
むかし高校の副教材でみた
タバコロードで
タバコをはこぶ
黒い肌の女たちの
地を這うような
ジャズが聞きたい                             

 胃が痛くて眠れないという現実から出発し、キッチンの長方形に触れた後、タバコロード、ジャズと転換していくところがいい。引き込まれる、という声。
 私は、永田に、「詩を書いていて、ここのところがうまく書けなかった、と感じていることろはありますか?」と聞いてみた。
 「真っ黒なキッチン……冷蔵庫を閉めれば、というところ。長方形が二回出てきて、重複する感じ、もたつく感じ」
 私は、逆に、この部分がとてもいいと思った。特に、冷蔵庫を開けたときの「長方形の光」というとらえ方がとてもいい。冷蔵庫が見えてくる。そして、長方形が繰り返されるのもとてもいい。「長方形」がなくて、「冷蔵庫の光の中から/牛乳を取る」でも、永田のしている行為に変わりはない。しかし、ことばがもたらす印象は全く違う。詩は「意味」ではなく、「ことば」が語りかけてくる「意味以外のもの」の方が大事である。
 「長方形」が繰り返されることで、自然なリズム、永田だけが向き合っている「ことばの世界」が前面に出てくる。私が見逃していたものを確実に見て、それをことばにしているという印象が強く残る。つまり、ことばに「個人/個性」を感じる。繰り返されなければ見落としてしまうかもしれないが、見落としを防ぐ力、「これを見て/これを聞いて」と主張している「ことば自身の声」が聞こえる。「ことば自身の声」とは作者の意識の中心としっかり結びついている。(青柳の「一重になりめぐっていく」と同じように。)0
 さらにこのことば(音)の繰り返しは、眠れないのも/胃が痛いのも」の「のも」繰り返し、「タバコロードで/タバコをはこぶ」の「タバコ」の繰り返しに通じる。音の重複がイメージを明確にする。「意味」を越えて「ことば」が別なものを独自に引き寄せる。その効果が大きいのが、「長方形」の繰り返しである。「長方形の光の中から/三角形(ピラミッド形)の牛乳を取る」では牛乳をのむという行為において違いはないが、ことばのもっている音楽とイメージの自立性がなくなる。
 この詩は、また、「むかし高校の副教材でみた」という一行がとてもいい。これの一行は、池田の詩でふれた「と 話したら」のように、起承転結の「転」のような働きをしている。眠れない夜、冷蔵庫の牛乳という「現実」から、いまそこにないジャズをもとめる気持ちの転換点。「アメリカ旅行をしたとき目撃した」とか、「著名な作家の書いている文章」ではなく、「高校の副教材」。その「現実感」。リアリティ。衝撃力のない衝撃。私はこうしたことばを「正直」と呼んでいるのだが、そこに「正直」が働いているからこそ、「ジャズが聞きたい」という気持ちがほんとうになる。本当の気持ちとして響いてくる。
 ことばの繰り返しだけではないが、全体の口調というか、口の動き、舌の動き、声の動きがとても自然で、ことばを「声」をとおしてつかんできたんだなあと感じさせる詩である。永田は短歌を学んだことがあるという。なるほどと、納得した。舌でしっかり繰り返しなじませた音が、ことばの肉体そのものになっている。

 

コメント
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