吉田広行『記憶する生×九千日の昼と夜』(2)(七月堂、2017年09月01日発行)
吉田広行『記憶する生×九千日の昼と夜』の「九千日の昼と夜」はどんなふうにことばが動いているか。
他人のことば(あるいは映画)と向き合いながら吉田はことばを動かす。他人のことばのなかには他人の「論理(意味)」がある。それが他人のことばを支えている。それを意識することは、当然、自分のことばを意識する形になる。
53ページに、こんなことばの運動がある。
何も取捨せずに想起のままに奔り去ろうとする(われわれにあるのは想起であって精神ではないから)。ほとんど奔ることが止ることと同じように遅れつづけながら。私たちは遡行しつつ、ついにつながらず・・・・。どこへも行くことはできず、また問うこともできない。いや問いはない。ただそこから帯状の何かになって無数の映像の漣のようなものと出会うことができるだけだ。まひる=真闇のなかで。浮遊のまま、未生のまま、平坦のまま亀裂のままで、名指すことができずに漂い続けてゆく。そこにはたぶん意味の回廊はなく、所在もなく、対象もない。終わりも始まりもない風景。そこは沼津であっても三島であってもきっと同じだ。
何が書いてある?
実は、ある詩人の詩への「批評」なのだが、何のことか私にはわからない。つまり、ここでは広田の「論理」は不透明になっている。「透明」は「わかる」、「不透明」は「わからない」である。そして、その「わからない/不透明」の原因は、ことばが結論へ向かって動いていかないことにある。
「結論」を目指さない「論理」がある。それを吉田は「終わりも始まりもない」呼ぶのだが、もっと簡単にあらわすことばがある。
同じ
このことばは「ほとんど奔ることが止ることと同じように遅れつづけながら」と「沼津であっても三島であってもきっと同じだ」と二回つかわれている。さらに、「同じ」ということばではなく「まひる=真闇」という具合に、記号としてあらわれることもある。
で。
「記号」であらわされた「同じ」、つまり
=
こそが吉田の「論理」のすべてである。そこには「過程」がない。「過程」をつみあげることで結論を目指すということがおこなわれていない。結論とはじめは同じものだからである。「過程」を消すことで「同じ=」を発見し、その「等式」をことばでつくりあげることが吉田にとっての「論理」なのである。
「結論」は「過程」と同じである、と考えるひとがいるかもしれない。たしかに「1+2=3」という算数を考え、「1+2」を過程、「3」を結論と呼べば、結論は過程のあとに生まれてくるが、文学(詩)というか、人間の行動では、「3」はやっぱり過程にすぎなくて、その「3」を超える何かが現れたとき、はじめて「結論」になる。「3」を破るものが出現し、それが「等式」そのものを破壊し、新しい「数式」を考えろとせまってくるとき、それがはじめて「結論」になる。つまり、ものごとが新しくなった、ということになる。吉田は、そういうことをしない。
だからこそ、「不透明」にみえる。言い換えると「カタルシス」がない。たとえばギリシャ悲劇では、思わぬ展開で破局がおとずれ、その破局によって、私たちは異次元につれていかれる。吉田は、そういう運動をことばに託しているわけではない。「運動」しないのだ。運動しても、常に、それを否定するのだ。
奔ることが止ることと同じ
と言ってしまうのだ。そして、この「同じ」は、この詩集で一回だけつかわれている「=」という記号になったとき、「全体的透明」を獲得するのである。
こう書き直すと、さらにはっきりする。
奔ること=止ること
「同じ」には、まだ「同じと考える/同じだと断定する(決定する)」のような意思(肉体/動詞)のかかわりがあるが、「=」は動詞が抽象化され(動詞が排除され)、「思考されたもの/思考的存在(?)」として、すべてが「記号」になってしまう。「奔る(こと)」も「止まる(こと)」も「記号」なのである。
「まひる=真闇」ということは、「まひる」も「真闇」も「記号」だから成り立つのである。すべてを「記号」にしてしまい、そのなかで「=」を発見し続け、その結果としてあらゆる存在を「=」でつないでしまう。すべてが「=」ならば、それはつながりではないかもしれない。異質なものだからこそ、「つながり」によって「ひとつ」になる。すべてが「=」ならば、存在(世界)が「ひとつ」なのである。
だから、その「等式」では「過程」は進展ではない。「過程」はむしろ解体されるものになる。
吉田は、こんなふうに書いている。53ページ、54ページにつづくことばの運動。
「真景」-実際の、実在の、あるいは零地点の風景。それは「帰還」に始まり「生まれる場所」で終わる。まるで逆向きのネガプリントのように遡行してゆき、最後に生まれる場所に還ってゆく。あるいはすでに死も生も等置となるような、あるいは死から始まりもう半分の生で終わるような地皮にすでに現在の私たちはいるのだ、と。
「逆向き」「還ってゆく」、その結果、すべてが「零」という形で「=」になる。「等置」と「等値」がどう違うのかわからないが、「置く」というのは吉田が行為としてかかわるということだろう。「値」にもかかわることができるが、それは他人が決めることもできる。しかし「置く」ならば自己決定できる。
そして、「置」という動詞をつかって言い直せば、それは「併置」である。「並置」と「造語」にした方がいいかもしれない。ならべて置く。逆にしても同じ。左項と右項はいつでも入れ替え可能。この記号の論理の絶対透明を、吉田の散文(のことば)は動いている。
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