帷子耀「キキキ」(「ROKU」10、2019年10月05日発行)
帷子耀「キキキ」は、わけのわからない詩である。
今の今
誰か表にきたぞと月が言った
誰か表にきたぞと雪も言った
誰か表にきたぞと口にするかわりに
顎を表の方に向けたのが花だ
月も雪も花も猿だった
「言った」「言った」と繰り返され、「言う」が「口にする」という言いなおされる。「言う」も「口にする」も、目的語は「言葉」である。しかし、私には「言葉」は「目的語」ではなく、「主語」のように感じられる。
つまり、
言葉が、月が表にきたぞと言った
言葉が、雪が表にきたぞと言った
言葉が、花が表にきたぞと口にした
と読んでしまうのである。
なぜ?
問われるとわからない。答えようがない。
そして、それはさらに、こう読み替えたくなるのだ。
月が、月が表にきたぞと言った
雪が、雪が表にきたぞと言った
花が、花が表にきたぞと口にした
何かしら「自己完結」している。「言葉」から外へ出ていかないという「決意」のようなものが感じられる。「言葉」が「自己」のなかで完結していて、ことば以外のものを拒絶している。「言葉」は「月」であり、「言葉」は「雪」であり、「言葉」は「花」であるなら、「言葉」を消してしまったら「月=雪=花」になる。「月は雪のように降り、雪は花のように散り、花は月のように輝く」と言ってしまうと、「世界」が完結してしまう。そのとき「言葉」という「主語」は書かれていないが、「月」も「雪」も「花」も「もの」ではなく「言葉」である。
しかし、帷子は、こんなふうに言うのだ。
いいな
呼ぶ時には
月
雪
花
この順を違えるな
ここがポイントだと思う。「言葉」「月」「雪」「花」が、「ひとつ」のものでありながら、融通無碍に入れ代わり、その運動のなかで自己完結しているものなら、その順は、私には「無関係」に思える。どの順序で呼ぼうが同じだと思える。しかし、帷子は「順」を大事だという。
この詩では、
月
雪
花
と並列で書かれているが(そして、詩の書き出しも並列であったが)、帷子は並列ではないことばの運動を明確に意識している。意識に逆らって、並列を生きている。そういう意味では、これは横に一文字ずつ書いたものではなく、扁額の書のように、一文字が一行、つまり縦書きのままなのだ。垂直の線状 (時間) を内に抱え、孤立することばが並列している。
帷子が意識しているのは、だから「時間」と言ってもいいかもしれない。ことばは(とくに音声=「言う」)は「線状」に動く。必然的に「時間」を抱え込む。それをいかにして破壊し、自由にするか。その方法が「並列」ということになる。
帷子の詩を最初に読んだのは半世紀ほど前のことだ。何が書いてあるかわからないまま「見た」と言った方がいい。「読んだ」というよりも、何か「もの」のようにして「活字」を見た記憶しかない。何もわからなかった。いまもわかるとはいえないが、そうか帷子は「時間」と「ことば」をテーマに考えていたのかと、想像するのである。音声(言葉)は口にされると、先に出たものから消えていく。書かれた文字は消えないが、そのとき「線状」はかなり変質する。「消えていく線状」ではなく「消えない並列」にかわる。
これは帷子にとって、好ましいことなのか。それとも拒絶したいことなのか。
わからない。
けれど、きっと帷子にとって「書かれた言葉(文字)」は「線状」を越えて、つまり「過去」を越えて、いま、ここに噴出してきて「ある」ものなのだ。帷子は、「言葉」を「過去」であると同時に、「過去」を破壊し、「いま」に並列してしまうものと感じているのではないだろうか。
きのう私は朝吹亮二の詩について触れながら、西脇順三郎の詩についても書いた。そのとき「百人一首」のパロディーを例に引いたが、帷子もまた「古典」を解体し、批評する詩人なのではないだろうか。
で、ふと立ち止まって、詩をもう一度読み直す。すると、いま引用した詩のなかほどに、
三猿斎の辞世にある月雪花だと月が言い
という一行がある。「三猿斎」って、有名な人? 私は知らないが、「辞世の句(和歌?)」が伝わっているのだとしたら、有名な人なのだろう。
久しぶりに「広辞苑」をひっぱりだしてみたが「三猿」しか載っていない。「見ざる、聞かざる、言わざる」。わからない。
書かれた一行を手がかりにするしかない。
三猿斎の辞世にある月雪花だと月が言い
この「三猿斎」を主語にすると、最初に私がことばを入れ替えながら読んだ三行はどうなるのか。
三猿斎が、月が表にきたぞと言った
三猿斎が、雪が表にきたぞと言った
三猿斎が、花が表にきたぞと口にした
「月」「雪」「花」は、「三猿斎」にとって「死」ということになる。辞世の句(和歌)で、それを詠み込んでいるのだとしたら。そして、それが「循環する」ものだとしたら「三猿斎」は、その循環のなかで生き続けることになる。「三猿斎」の「言葉」が生き続けることになる。
実際、帷子が「三猿斎の辞世」を下敷きにしてことばを動かしているのだとしたら、それは「生きている」ことになる。一行のなかを線状に縦に(垂直に)に流れる和歌の時間を破壊し、横に並列させる(孤立させる)ことで、ことばに新しい命を与えている。
私の「妄想」は勝手に動く。しかし、どこへ動いていけばいいのかわからない。途中で「広辞苑」を引いてしまったので、私のなかの「意識」が切断されてしまったのだ。
私は、わからないまま、詩を読みつづけた。そして、実は、いま書いてきたこととは関係なく、最後の部分に、「意味」ではない「ことば」を感じた。
シザルソロッテと
初めて花が口をひらいた
オノヒトツダニナキゾカナシキキキキキキキキキキ
キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキ
キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキ
本当にこれほどキを連ねたのか
気がつくと女は倒れていた
キキキキと月がわらった
キキキキと雪がわらった
キキキキと花がわらった
キキキキキキ
これが私だな
キキキキキキ
「シザル」は「四猿」であり、その「四」が「私(=帷子)」ということになるのか。「三猿斎」の句(というより、和歌だな)は「オノヒトツダニナキゾカナシキ」ということばを含むのか。
それは、わからない。
わからないまま「キキキ」という音の繰り返しだけが、いままで考えてきたことをけちらして、そこに存在する。それが「意味」のように「頭」のなかにはいってきて落ち着く(どこかの位置を占める)というのではなく、私を拒絶して、そこに「ある」。
この絶対的な拒絶に、私はとまどう。
せしかすると一行の和歌を破壊し、その内部の時間を並列させるとき、そこから何かが噴出してきたのかもしれない。その痕跡が「キキキキキ」。ことばにならない音、意味を拒絶する「もの」としての音。音の存在。
キキキという文字を書きつらねていた時、帷子は、それを拒絶と感じたのか、それとも帷子を受け入れていると感じたのか。両方なんだろうなあ。
*
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