詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「ヨンダルビナ」

2019-10-05 15:01:43 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「ヨンダルビナ」(朝日新聞夕刊=西部版・4 版、2019年10月03日発行)

 谷川俊太郎「ヨンダルビナ」は五連から成り立っている。

言葉が詩に化けるのを待ちながら
書きかけている今
外で車がアイドリングしている
唐突に死んだ友人を思い出す

「な」というひらがなに
名や菜を幽閉しているのは
よろしくないと息巻いていた
何年も前のことだ

心は言葉の泡立つ水脈をひいて
どこへ旅するつもりなのか
つかの間詩を放下して紅茶を飲む
私という実体!

オーライオーライと
男が大声で叫んでいる
彼奴は今夜何を食すのか
詩も言語以前の事実に拠る

ヨンダルビナという
聞いたこともない地名
そこの天気予報をウエブで探す
意味のない小さな悦び

 ばらばらで、ばらばらな気持ちのまま読み進む。というのは、変な感想か。さっと読んで、あ、ばらばら、と思った。詩を書きかけていると、外から車のアイドリングの音が聞こえる。ふたつの間には関係がない。偶然だ。アイドリングをしているのを聞く(見る?)ことと友人を思い出すことの間にも関係が見出せない。どんな脈絡があるのか、説明されない。たが事実だけが、ばらばらに並べられている。そのあと、いったん詩を書くことをやめる。外から声が聞こえる。やめたはずの詩が、どこからかふっと顔を出す。ここにも読者を納得させるだけの脈絡がない。ばらばら、がつづいているのだが、四連目の最後のことば、「詩も言語以前の事実に拠る」を受けて、

ヨンダルビナ

 ということばが動く。これも唐突だが、唐突すぎて脈絡があるかないかということさえわからなくなる。一瞬、これまで脈絡があるとかないとか考えていたことを忘れてしまう。これまでの思いがたたき壊される。
 「ヨンダルビナ」という地名がほんとうにあるのかどうか、知らない。あったとしても、私には関係がない。これまで考えていたことを吹き飛ばされたまま、私は「拠る」と「ヨンダルビナ」か。濁音が、不思議と気持ちがいい。その音に惹かれる。「ヨンダルビナ」か、美しいなあ。楽しい音だなあ、と。しかし、タイトルを読んだときは、そんなことは思わなかった。「拠る」を読んだ直後だから楽しいと感じたのだ。
 こういうところに「言語以前」というもの、あるいは「詩」というものがあるかもしれない。うだうだと考えてしまう「脈絡」とは無関係に。

 それにしても。

 「詩」ということば、「言葉/言語」ということばが目につくなあ。短い詩なのにねえ。なぜ、何度も書いたのだろう。
 さらに不思議なのは、二連目、

「な」というひらがなに
名や菜を幽閉しているのは
よろしくない

 というのは「友人」のことばだね。ことば、と書いたけれど、ほんとうにことば? というのは四連目に「大声」ということばがあるからだ。友人は、どんな声で言ったのだろう。私は、谷川が「友人の言葉(詩)」を思い出しているのか「声」を思い出しているかということの方が気にかかる。
 最終連の「聞いたこともない」ということばのせいかもしれない。「聞いたこともない」は、この場合、ほんとうに「聞いたことがない」というよりも「知らない」という「意味」である。「意味」だけれど、それを「聞いたことがない」と「肉体」にかえしてつかみとっている。こういうことも、友人の「言葉」を思い出したのか、「声」を思い出したのかということにつながっていく。
 まあ、そういうことは、どうでもいいんだけれどね。

 どうでもいい、と書くと谷川は怒るかもしれないけれど、私はこういうどうでもいいことを書いておきたい。それは、それこそ

意味のない小さな悦び

 なんだけれど。
 と、書いて……。

 この「意味のない小さな悦び」というのが、きっと詩なのだと思う。「意味のない」は「言語以前の事実」ということだね。
 きっと「友人の言葉(声)」もまた「言語以前の事実」だね。「言葉(声)」になっているけれど「言語以前」。だから、ほんとうは二連目こそ書かずにはいられなかったものかもしれないなあ。無意識に溢れ出てきた谷川の「思想」かもしれないなあ、と思ったりする。







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安倍の所信表明演説を読む

2019-10-05 11:02:39 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の所信表明演説を読む
             自民党憲法改正草案を読む/番外291(情報の読み方)

 安倍の所信表明演説には、どんな問題点が隠れているか。いま起きていることの何を隠しているか。
 3点だけ書いておく。(引用は読売新聞、2019年10月05日朝刊、西部版・14版=全文は9面・12版、丸数字は私がつけた。)

①「みんなちがって、みんないい」
 新しい時代の日本に求められるのは、多様性であります。みんなが横並び、画一的な社会システムの在り方を、根本から見直していく必要があります。多様性を認め合い、すべての人がその個性を活かすことができる。そういう社会を創ることで、少子高齢化という大きな壁も、必ずや克服できるはずです。

 これは「れいわ」の船後さん(私のワープロでは漢字が表記できないので、「船」をつかった)を引き合いに出して語った部分である。金子みすゞも引用している。
 ここに書かれている「ちがい」とは身体的なことである。さらに広げれば、性差や年齢を超えた主張である。そこに「多様性」ということばがつかわれているが、安倍は「多様性」をほんとうに認めるつもりはあるか。
 最近話題になったことに「あいちトリエンナーレ」の問題がある。名古屋市長が批判し、「平和の少女像(慰安婦像)」の公開中止になり、文化庁が補助金を撤回した。このことと関係づけると何が見えてくるか。
 「多様性」と言えば、「身体的特徴」や「病気」のことよりも、まず、一人一人の「思想」こそ「多様性」に満ちている。(障害や病気をかかえていることを「多様性」ということばでくくっていいのか、という問題は、とりあえずは「わき」においておく。)
 「少女像」をつくり、展示することで日本軍がやってきた行為を批判する、というのは、ひとりの思想である。それに対して、「慰安婦は存在しなかった。像は日本軍をおとしめるためにつくられている」と批判するのもひとりの思想である。どちらに与するか、それを権力は問うてはならない、というのが憲法で言う「表現の自由」だ。権力が、どちらかの「表現」を気に食わないと排除してはならない。ひとりひとりの主張が「ちがっていていい」というのが憲法から導き出される哲学である。
 名古屋市長、文化庁のやったことは、「みんなちがって、みんないい」を否定している。「政策」は矛盾していると実現出来ないが、「芸術」や「思想」は個人のものであるから、それがどんなふうにちがっていても、国(権力)が関与する問題ではない。もし「芸術表現」に問題があるとすれば、それは「憲法」の「表現の自由」ではなく、「法律」を適用し、制限する問題である。こどもの裸体写真を展示すれば、「児童ポルノ禁止」など、法律にもとづいて処理されることである。
 安倍が「みんなちがって、みんないい」というのなら、率先して、あいちトリエンナーレ再開を支援すべきだろう。
 安倍がここで語っているは、「芸術」や「思想」の問題ではない、というかもしれないが、私は、「射程」をあえて広げて、隠されているものを指摘するのである。金子みすゞの詩も引用されているので、「芸術」の場合はどうするのか、と、質問を投げかけておくのである。

②アベノミクスによって(略)正社員は130万人増えました。

 統計というのはいつでも「罠」を隠している。たとえば労働者が100人の会社がある。子会社をつくる。本社に「3人」残し、子会社で「97人」再雇用し、さらに「3人」社員を雇い入れる。このとき、正社員の総数は「103人」になる。でも、給料は? つまり給料の総額、会社の支出総額は? 子会社で再雇用したときは、給料は本社にいたときと同じかもしれない。けれど別会社になったのだから昇給は同じにする必要はない。労働時間や、福利厚生もちがってくるだろう。「平等」でスタートしても、「差」が生まれ、拡大する。そして、その「差」は「本社」の利益としてどんどん内部蓄積されていくのだ。高齢者が退職し、若い人をいままで以上に低賃金で雇用すれば、「差益」はどんどん拡大する。(こういう話は、私の身の回りで実際に体験したことである。同じ体験をしている人がきっといるはずである。)
 「総数」のなかの「ひとりひとり」を見ていかないと、現実は見えない。
 「ひとりひとり」の現実を隠して、つごうのいい「総数」だけアピールする安倍の手法を信じてはならない。
 いろいろややこしい「現代経済学」が新聞やその他のマスコミをにぎわしているが、(山本太郎もなにやら似たことを語っているが)、経済を「カネ」の流れだけでとらえるのではなく、人間とむすびつけて見つめなおす必要がある。労働時間、労働の質、賃金と「商品」との関係から見つめなおし、現実を再構成する「新しいマルクス」が必要なのだ。社会に蔓延している「トリック」を暴いて、生きている労働者に「システム」を還元しないといけない。
 社会では「現金」から「電子決済」へと、「カネの流れ」がかわりつつある。カネはますます抽象的になる。この「抽象性」は「カネ」がもっている暴力性を見えにくくする。現金と商品(ほしいもの)を交換しているときは、まだ手元から消えていく現金を見ながら、自分自身の「労働」がどう評価されているか思い描くことができるが、電子決済になると、よほど自覚が強くないと、いま自分の「労働」が何と対価なのかということなど想像しなくなる。
 こういうシステムの中で、経済弱者が、どういう問題にぶつかるのか。搾取は起きないのか。「ポイント還元」というようなことばにだまされて、不要なものまで買わされる(企業の利益になる)というようなことが起きないのか。「自己責任」という名で、破綻した個人が排除されていくというシステムができあがってしまうのではないか。そのとき「統計」は、その事実をきちんと「数字」にできるのか。
 「老後2000万円」問題では、麻生は「報告書」を受け取らない。そして、そういう「報告書」はなかった、「老後2000万円」問題は存在しないという形の処理をした。きっと、これから、それがもっと増えてくる。
 「消費税」は総額いくらなのか。それはどこにつかわれたのか。「ひとりひとり」の家計簿とは関係ない場所で、「ひとりひとり」を無視するシステムが動いていく。「ひとりひとり」を無視した方が「数字がきれいになる」からである。

③1000万人もの戦死者を出した悲惨な戦争を経て、どういう世界を創っていくのか。新しい時代に向けた理想、未来を見据えた新しい原則として、日本は「人種平等」を掲げました。
 世界中に欧米の植民地が広がっていた当時、日本の提案は、各国の強い反対にさらされました。しかし、決して怯むことはなかった。(略)
 日本が掲げた大いなる理想は、世紀を超えて、今、国債人権規約をはじめ国際社会の基本原則となっています。

 抽象的な言い方だが、いわゆる「大東亜戦争は、欧米の植民地化からアジアを解放するための戦いだった」という説を展開している。
 「世界中に欧米の植民地が広がっていた当時、日本の提案は、各国の強い反対にさらされました」というのは、欧米が「人種平等」に反対したというよりも、「人種平等」を旗印にして、日本が欧米と同じ植民地政策に乗り出してくることに反対した(自分たちの権益を守ろうとした)ということだろう。
 日清、日露戦争のときから、日本は欧米の「植民地政策」をまねしてきただけである。台湾など、一部しか植民地にできない(一部の地域に対する植民地化だけした欧米の国から認めてもらえない)ことが不満で、武力をつかって侵略し「既成事実」にしようとしただけにすぎない。
 「人権平等」というようなことばをいまごろ持ち出してきて、太平洋戦争を正当化するのは、あまりにも時代錯誤だ。
 レーガンが日系人を強制収容したことに対して謝罪したのはいつだった。オーストラリアの首相が先住民に対して謝罪したのはいつだったか。世界は「人権平等」をとおりこし、「人権尊重」へと動いている。「人権」はあらゆるものに優先する。アメリカの映画界からはじまったセクハラ告発は、その顕著なものだ。こういう時代にあって、「慰安婦」の存在を否定し、謝罪しない、徴用工の賠償請求を拒絶する(徴用工は、日本政府に対してではなく、企業に対して請求している)ということをやっている。「人権無視」が安倍の政策である。都議選で安倍批判をする市民に向かって「こんなひとたちに負けるわけはいかない」と市民排除の演説をした。安倍に「人権感覚」はない。

 ①②③は違う問題に見えるかもしれないが「人権」ということばを規定にしてみつめなおせばひとつの問題だとわかる。
 ある出来事をどう認識するか、そしてそれをどう表現するかは個人の権利である。「表現」は「ひとりひとりの固有の権利」である。労働に見合った賃金を要求し、その賃金で生きていくというのは「ひとりひとりの固有の権利」である。被害を受けた人が賠償を求めるというのは「ひとりとひりの固有の権利」である。被害を与えた人は謝罪する、償うというのは、加害者の責任である。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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