詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(106)

2018-10-22 00:24:16 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
106  もう一つの顔

 ソクラテスのことを書いている。

知恵の人よ あなたの太い首の上の顔については さんざ語られている
しかし 二つの腿の付け根のもう一つの顔に関しては 言及の例を知らない
想像するに下の顔は上の顔の醜さに匹敵するほど 美しかったのではないか

 性器を「顔」と呼ぶのはふつうのことなのか。私は「例を知らない」。
 もうひとつ、この詩には「醜さに匹敵するほど 美しかったのではないか」という表現がある。こういう例も、私は知らない。しかし、「匹敵する」という「動詞」を中心にみつめなおせば、なんとなく「わかる」。「醜さ」と「美しさ」が比較されているのではなく、醜さの「程度都」、美しさの「程度」が比較されている。ソクラテスの顔の「醜さ」は誰もが知っている。一目でわかる。その、一目でわかるという「程度」が匹敵する。
 性器の「美しさ」とはなんだろうか。形だろうか。性交する「能力」のことだろうか。「子沢山」ということばでソクラテスのことを書いているから、今年流行りのことばで言えば「生産力」が高いということか。この詩で問題になっているのは男色だから、「生産性」ではなく、勃起能力ということかもしれない。
 「顔」は見目のよさ、人を魅了する力で勝負する。性器は勃起力で勝負す、人を魅了する。なんだか露骨すぎておもしろくない。
 この詩には、こういう行もある。

見せなかったせいで それは想像の中でますます美しくなっていった
                    
 「美しさ」は固定していない。「美しくなる」という動詞としてつかわれている。しかもそれは「想像の中で」である。想像する、という動詞が加わってくる。想像すると、美しくなる。想像するのはソクラテスではない。そして「想像する」は、詩を読み直してみれば先に引用した三行目にも登場している。
 「想像する」ことが「匹敵する」を呼び覚ましている。「想像する」が「匹敵させる」のである。そうだとすれば、それは「美しくなる」のではなく「美しくさせる」。
 ここにギリシアのすべてがあるかもしれない。
 想像する、想起する。それが「現実」を美しくさせる、完全なものにさせる。ギリシアの、この想像するときの集中力は、ものすごいものだと思う。美しくできないものは、何一つない。


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