志田道子「閏九月十三夜」(「something 」27、2018年06月30日発行)
志田道子「閏九月十三夜」は鶏の描写から始まる。
鶏の脚は「太古の巨獣の甲羅の匂い」がするかどうかは知らないが、言われてみるとそうかもしれないと思う。あれは不気味なものだ。ことばが「事実」をつくりだしていく、この瞬間に詩が動く。
その鶏が疾走する。理由は書いていないが、私は卵を産まなくなった鶏が首を切られて、それでも走っていく姿を思い浮かべた。「卵を腹に孕んだまま」が、そう思わせる。私の家では、卵を産まなくなると鶏は首を切られて、食べられてしまう。鶏の腹のなかには、まだ卵になる前の卵(黄身)がたくさんある。
この疾走が「百七十一年ぶりの自由」というのは、よくわからないが、わからないから「事実」なのだと思うしかない。志田が「百七十一年ぶりの自由」と感じたのだ。(私の「誤読」では、その鶏は死んでしまうのに。死は不幸だが、この鶏にとっては自由なのだ。きっと太古の獣にかわるのだ。)
この一連目が、二連目でがらりと転換する。
卵から、妊娠、出産を思い出し、そこから子育てのことも思い出したのだろうか。そこに「太古」が重なる。鶏の脚が太古の巨獣の甲羅に通じるなら、人間の「子宮」は太古はどんなものだったのか。「外皮」だったと志田はいう。「気づいた」という。始めは「外皮」で「子供」を守ってやった。それがだんだん「肉体の内部」に包み込まれるような形になった。包み込まれた「子供」はやがて足で蹴って、外へ出せとせがむ。出してやったら、怒って殴る。怒鳴り散らす。泣いてわがままをいう。なんだ、こいつは、という気持ちだろうか。
「たった一度の命を貸してやった恩義も知らず/消えて無くなれ 此畜生」は、とっさに出た怒りの声である。抑えることができない。つまり、そこには「ほんとう」がある。
このことばの運動は、どこへ落ち着くのか。
三連目。
「夢」とは「ことば」である。鶏の脚には「太古の巨獣の甲羅の匂い」がすると定義する。「人の胃袋も子宮も外皮だ」と定義する。そうすると、それがいままで存在しなかった「事実」を現実のなかに生み出す。その「ことばが生み出した事実」が志田の「肉体(身)」を救う。
志田の肉体は、鶏になって、月夜を駆け抜ける。
「岩群青」という強いことばが、ことばを「神話」に昇華させる。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」5、6月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか5、6月号注文
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
志田道子「閏九月十三夜」は鶏の描写から始まる。
鶏は太古の巨獣の
甲羅の匂いのする
脚を高らかに振り上げて
鋭い悲鳴をあげて
疾走する
百七十一年ぶりの自由
卵を腹に孕んだまま
ではあるが
鶏の脚は「太古の巨獣の甲羅の匂い」がするかどうかは知らないが、言われてみるとそうかもしれないと思う。あれは不気味なものだ。ことばが「事実」をつくりだしていく、この瞬間に詩が動く。
その鶏が疾走する。理由は書いていないが、私は卵を産まなくなった鶏が首を切られて、それでも走っていく姿を思い浮かべた。「卵を腹に孕んだまま」が、そう思わせる。私の家では、卵を産まなくなると鶏は首を切られて、食べられてしまう。鶏の腹のなかには、まだ卵になる前の卵(黄身)がたくさんある。
この疾走が「百七十一年ぶりの自由」というのは、よくわからないが、わからないから「事実」なのだと思うしかない。志田が「百七十一年ぶりの自由」と感じたのだ。(私の「誤読」では、その鶏は死んでしまうのに。死は不幸だが、この鶏にとっては自由なのだ。きっと太古の獣にかわるのだ。)
この一連目が、二連目でがらりと転換する。
人の胃袋も子宮も外皮だと
最近気づいた
見知らぬ幼子が女の体に入り込むことはない
女の体の外側の一部を
いっとき貸してやっているだけだった
という 理由をやっと見つけて救われた
女は見知らぬ強欲に粉微塵に食い尽くされることはない
なので・・・
蹴る子 殴る子 怒鳴る子 泣く子
たった一度の命を貸してやった恩義も知らず
消えて無くなれ 此畜生
卵から、妊娠、出産を思い出し、そこから子育てのことも思い出したのだろうか。そこに「太古」が重なる。鶏の脚が太古の巨獣の甲羅に通じるなら、人間の「子宮」は太古はどんなものだったのか。「外皮」だったと志田はいう。「気づいた」という。始めは「外皮」で「子供」を守ってやった。それがだんだん「肉体の内部」に包み込まれるような形になった。包み込まれた「子供」はやがて足で蹴って、外へ出せとせがむ。出してやったら、怒って殴る。怒鳴り散らす。泣いてわがままをいう。なんだ、こいつは、という気持ちだろうか。
「たった一度の命を貸してやった恩義も知らず/消えて無くなれ 此畜生」は、とっさに出た怒りの声である。抑えることができない。つまり、そこには「ほんとう」がある。
このことばの運動は、どこへ落ち着くのか。
三連目。
後にも先にも
夢だけが現身を救うのだから
岩群青の真空に漂う
巨大な月明かりのもと
鶏よ 駆けて行け
もういちど
「夢」とは「ことば」である。鶏の脚には「太古の巨獣の甲羅の匂い」がすると定義する。「人の胃袋も子宮も外皮だ」と定義する。そうすると、それがいままで存在しなかった「事実」を現実のなかに生み出す。その「ことばが生み出した事実」が志田の「肉体(身)」を救う。
志田の肉体は、鶏になって、月夜を駆け抜ける。
「岩群青」という強いことばが、ことばを「神話」に昇華させる。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」5、6月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか5、6月号注文
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
![]() | エラワン哀歌 (叢書現代の抒情) |
クリエーター情報なし | |
土曜美術社出版販売 |