監督 マーティン・マクドナー 出演 フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウェル
冒頭、フランシス・マクドーマンドが帰宅中に、道路脇の看板に気がつく。誰もつかっていない。古い看板が破れている。このときの「絵」が、まさに「絵」。映画の一シーンというよりも「絵画コンクール」の作品。構図がきちんとしていて、「そうか、こういう絵を描きたいのか」ということがよくわかるものなっている。
ここが曲者。「絵」として美しいから、文句のつけようがないのだが、「絵」として変に完成しているから面白みに欠ける。はみだすものというか、あふれだすものがない。「枠」におさまりすぎている。まあ、これは芝居で言えば「書き割り」のようなものだからこれでもいいのかもしれないが。
この「かっちり」した感じ、「絵」になりすぎる感じが、全編をつらぬく。役者が登場して動いても、その「動き」が「絵」のなかでおさまってしまう。これが、どうも窮屈である。「映画」というよりも、「文学」になってしまっている。
娘をレイプされ、さらに殺されてしまった母親が「警察は何をしているんだ」という怒りを「看板」にこめる。そこから「あつれき」が街中に広がり、思わぬ展開になる。憎み合い、やがて和解へというのは、なかなか「人間臭い」ストーリーなのだが、それが「ストーリー」の「枠」のなかにおさまりすぎてしまう。「小説」で読むならこれでいいのだが(好きなところでページをめくるのをやめ、もう一度ことばを読み直すことで、そこにある感情を味わいなおすことができるが)、時間といっしょに動いていく映画では、「ストーリー」を突き破って動く人間の「肉体」がないとおもしろくない。ストーリーを忘れて、役者の「肉体」に認める瞬間というものがないと映画ではない。役者の「肉体」にみとれながら、ふいに気がついて「あ、これはこういうストーリーだった、こいつは悪役だったんだ、忘れて応援してしまった」と思ったりするのが、映画の不思議な魅力である。
あるいは「舞台」でなら、生身の「肉体」の代わりに、激しく動く感情が「ことば」となって空間に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれない。ことば、声が肉体のように「劇場」内に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれないが、「映画」では「ことば」はぶつかりあうものではなく、あくまで補足だからね。実際、この映画では、ことばはとてもしっかりかみ合ってストーリーを動かしていくウッディ・ハレルソンの「遺書」などは、あまりにもご都合主義だ。そのことは、この映画がことばをストーリーの都合に合わせてつかっている、という証拠でもある。そういう「部分」が、まったく「映画」になっていない。
サム・ロックウェルが「だらしない」警官を演じ、その「だらしなさ」のなかに、「こいつ、こういう男なのか」と思わせるもの(演技を超える存在感)があって、それはすこし見物だが、フランシス・マクドーマンドもウッディ・ハレルソンも、まるで「教科書」みたい。欠けているものは何もない。でも、「余分」もない。それが窮屈なのだ。
何度も何度も取り直して、「演技」を閉じこめてしまっている。「間違い」はないけれど、「味」もない。
上映前にイーストウッドの新作の予告編「15時17分、パリ行き」をやっていたが、イーストウッドが監督なら、完全に違った映画になっていただろうと思う。イーストウッドの映画では、だれもが「完璧」な演技をしない。「完璧」になる寸前の、ちょっとあいまいな部分がある。そこに不思議に「人間らしさ」が滲む。「スナイパー」では主役が赤ん坊を抱くシーンがあったが、そこでは「赤ん坊」は最近の映画では珍しく「人形」だった。本物ではなかった。リハーサルだったのかもしれない。そのリハーサルの方が「演技」になりきっていないのでよかったのだろう。それで、それをそのまま本編にしてしまった、という感じである。なんといえばいいのか、イーストウッドの映画では、役者か「演技」に疲れていない。余裕がある。そこに何か「安心感」がある。
でも、この映画では、フランシス・マクドーマンドが特にそうだが、「完璧」に「演技」になってしまっている。「余分」がない。フランシス・マクドーマンドは「疲れていない」というかもしれないが、観客が疲れてしまう。「ミシシッピー・バーニング」や「ファーゴ」のような「肉体」の感じがない。これでは、窮屈である。
ラストシーンなど、「頭」では理解できるが、フランシス・マクドーマンドの「未決定の感情」(意思)が「肉体」として伝わってこない。「台詞」をとおして「意味」になってしまっている。最後に「台詞」で「感動」を呼ぶというのは、まるで「芝居」であって「映画」じゃないね。
(t-joy 博多、スクリーン2、2018年02月04日)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
冒頭、フランシス・マクドーマンドが帰宅中に、道路脇の看板に気がつく。誰もつかっていない。古い看板が破れている。このときの「絵」が、まさに「絵」。映画の一シーンというよりも「絵画コンクール」の作品。構図がきちんとしていて、「そうか、こういう絵を描きたいのか」ということがよくわかるものなっている。
ここが曲者。「絵」として美しいから、文句のつけようがないのだが、「絵」として変に完成しているから面白みに欠ける。はみだすものというか、あふれだすものがない。「枠」におさまりすぎている。まあ、これは芝居で言えば「書き割り」のようなものだからこれでもいいのかもしれないが。
この「かっちり」した感じ、「絵」になりすぎる感じが、全編をつらぬく。役者が登場して動いても、その「動き」が「絵」のなかでおさまってしまう。これが、どうも窮屈である。「映画」というよりも、「文学」になってしまっている。
娘をレイプされ、さらに殺されてしまった母親が「警察は何をしているんだ」という怒りを「看板」にこめる。そこから「あつれき」が街中に広がり、思わぬ展開になる。憎み合い、やがて和解へというのは、なかなか「人間臭い」ストーリーなのだが、それが「ストーリー」の「枠」のなかにおさまりすぎてしまう。「小説」で読むならこれでいいのだが(好きなところでページをめくるのをやめ、もう一度ことばを読み直すことで、そこにある感情を味わいなおすことができるが)、時間といっしょに動いていく映画では、「ストーリー」を突き破って動く人間の「肉体」がないとおもしろくない。ストーリーを忘れて、役者の「肉体」に認める瞬間というものがないと映画ではない。役者の「肉体」にみとれながら、ふいに気がついて「あ、これはこういうストーリーだった、こいつは悪役だったんだ、忘れて応援してしまった」と思ったりするのが、映画の不思議な魅力である。
あるいは「舞台」でなら、生身の「肉体」の代わりに、激しく動く感情が「ことば」となって空間に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれない。ことば、声が肉体のように「劇場」内に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれないが、「映画」では「ことば」はぶつかりあうものではなく、あくまで補足だからね。実際、この映画では、ことばはとてもしっかりかみ合ってストーリーを動かしていくウッディ・ハレルソンの「遺書」などは、あまりにもご都合主義だ。そのことは、この映画がことばをストーリーの都合に合わせてつかっている、という証拠でもある。そういう「部分」が、まったく「映画」になっていない。
サム・ロックウェルが「だらしない」警官を演じ、その「だらしなさ」のなかに、「こいつ、こういう男なのか」と思わせるもの(演技を超える存在感)があって、それはすこし見物だが、フランシス・マクドーマンドもウッディ・ハレルソンも、まるで「教科書」みたい。欠けているものは何もない。でも、「余分」もない。それが窮屈なのだ。
何度も何度も取り直して、「演技」を閉じこめてしまっている。「間違い」はないけれど、「味」もない。
上映前にイーストウッドの新作の予告編「15時17分、パリ行き」をやっていたが、イーストウッドが監督なら、完全に違った映画になっていただろうと思う。イーストウッドの映画では、だれもが「完璧」な演技をしない。「完璧」になる寸前の、ちょっとあいまいな部分がある。そこに不思議に「人間らしさ」が滲む。「スナイパー」では主役が赤ん坊を抱くシーンがあったが、そこでは「赤ん坊」は最近の映画では珍しく「人形」だった。本物ではなかった。リハーサルだったのかもしれない。そのリハーサルの方が「演技」になりきっていないのでよかったのだろう。それで、それをそのまま本編にしてしまった、という感じである。なんといえばいいのか、イーストウッドの映画では、役者か「演技」に疲れていない。余裕がある。そこに何か「安心感」がある。
でも、この映画では、フランシス・マクドーマンドが特にそうだが、「完璧」に「演技」になってしまっている。「余分」がない。フランシス・マクドーマンドは「疲れていない」というかもしれないが、観客が疲れてしまう。「ミシシッピー・バーニング」や「ファーゴ」のような「肉体」の感じがない。これでは、窮屈である。
ラストシーンなど、「頭」では理解できるが、フランシス・マクドーマンドの「未決定の感情」(意思)が「肉体」として伝わってこない。「台詞」をとおして「意味」になってしまっている。最後に「台詞」で「感動」を呼ぶというのは、まるで「芝居」であって「映画」じゃないね。
(t-joy 博多、スクリーン2、2018年02月04日)
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