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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」(★★★)

2018-02-04 18:00:14 | 映画
監督 マーティン・マクドナー 出演 フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウェル

 冒頭、フランシス・マクドーマンドが帰宅中に、道路脇の看板に気がつく。誰もつかっていない。古い看板が破れている。このときの「絵」が、まさに「絵」。映画の一シーンというよりも「絵画コンクール」の作品。構図がきちんとしていて、「そうか、こういう絵を描きたいのか」ということがよくわかるものなっている。
 ここが曲者。「絵」として美しいから、文句のつけようがないのだが、「絵」として変に完成しているから面白みに欠ける。はみだすものというか、あふれだすものがない。「枠」におさまりすぎている。まあ、これは芝居で言えば「書き割り」のようなものだからこれでもいいのかもしれないが。
 この「かっちり」した感じ、「絵」になりすぎる感じが、全編をつらぬく。役者が登場して動いても、その「動き」が「絵」のなかでおさまってしまう。これが、どうも窮屈である。「映画」というよりも、「文学」になってしまっている。
 娘をレイプされ、さらに殺されてしまった母親が「警察は何をしているんだ」という怒りを「看板」にこめる。そこから「あつれき」が街中に広がり、思わぬ展開になる。憎み合い、やがて和解へというのは、なかなか「人間臭い」ストーリーなのだが、それが「ストーリー」の「枠」のなかにおさまりすぎてしまう。「小説」で読むならこれでいいのだが(好きなところでページをめくるのをやめ、もう一度ことばを読み直すことで、そこにある感情を味わいなおすことができるが)、時間といっしょに動いていく映画では、「ストーリー」を突き破って動く人間の「肉体」がないとおもしろくない。ストーリーを忘れて、役者の「肉体」に認める瞬間というものがないと映画ではない。役者の「肉体」にみとれながら、ふいに気がついて「あ、これはこういうストーリーだった、こいつは悪役だったんだ、忘れて応援してしまった」と思ったりするのが、映画の不思議な魅力である。
 あるいは「舞台」でなら、生身の「肉体」の代わりに、激しく動く感情が「ことば」となって空間に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれない。ことば、声が肉体のように「劇場」内に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれないが、「映画」では「ことば」はぶつかりあうものではなく、あくまで補足だからね。実際、この映画では、ことばはとてもしっかりかみ合ってストーリーを動かしていくウッディ・ハレルソンの「遺書」などは、あまりにもご都合主義だ。そのことは、この映画がことばをストーリーの都合に合わせてつかっている、という証拠でもある。そういう「部分」が、まったく「映画」になっていない。
 サム・ロックウェルが「だらしない」警官を演じ、その「だらしなさ」のなかに、「こいつ、こういう男なのか」と思わせるもの(演技を超える存在感)があって、それはすこし見物だが、フランシス・マクドーマンドもウッディ・ハレルソンも、まるで「教科書」みたい。欠けているものは何もない。でも、「余分」もない。それが窮屈なのだ。
 何度も何度も取り直して、「演技」を閉じこめてしまっている。「間違い」はないけれど、「味」もない。
 上映前にイーストウッドの新作の予告編「15時17分、パリ行き」をやっていたが、イーストウッドが監督なら、完全に違った映画になっていただろうと思う。イーストウッドの映画では、だれもが「完璧」な演技をしない。「完璧」になる寸前の、ちょっとあいまいな部分がある。そこに不思議に「人間らしさ」が滲む。「スナイパー」では主役が赤ん坊を抱くシーンがあったが、そこでは「赤ん坊」は最近の映画では珍しく「人形」だった。本物ではなかった。リハーサルだったのかもしれない。そのリハーサルの方が「演技」になりきっていないのでよかったのだろう。それで、それをそのまま本編にしてしまった、という感じである。なんといえばいいのか、イーストウッドの映画では、役者か「演技」に疲れていない。余裕がある。そこに何か「安心感」がある。
 でも、この映画では、フランシス・マクドーマンドが特にそうだが、「完璧」に「演技」になってしまっている。「余分」がない。フランシス・マクドーマンドは「疲れていない」というかもしれないが、観客が疲れてしまう。「ミシシッピー・バーニング」や「ファーゴ」のような「肉体」の感じがない。これでは、窮屈である。
 ラストシーンなど、「頭」では理解できるが、フランシス・マクドーマンドの「未決定の感情」(意思)が「肉体」として伝わってこない。「台詞」をとおして「意味」になってしまっている。最後に「台詞」で「感動」を呼ぶというのは、まるで「芝居」であって「映画」じゃないね。
(t-joy 博多、スクリーン2、2018年02月04日)




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小型核は開発? 増強?

2018-02-04 08:13:44 | 自民党憲法改正草案を読む
小型核は開発? 増強?
             自民党憲法改正草案を読む/番外174(情報の読み方)

 2018年02月03日の夕刊(西部版・ 4版)の一面の見出し。

朝日 米、小型核兵器開発へ/新戦略発表 使用制限も緩和

毎日 米 小型核開発へ/「使いやすく」に転換/トランプ政権 核体制見直し

読売 米、小型核を増強/戦略転換 抑止力拡大

 「戦術核」自体はすでにあるから、読売の「増強」でもいいのかもしれないが、いまの「戦術核」よりさらに小型の核ならば、やはり「開発」が見出しでないと「事実」を伝えきれないのではないだろうか。
 読売新聞の記事によると、

潜水艦搭載の現行の核弾頭の威力はTNT火薬換算で100-455キロ・トンだが、1-5キロ・トンほどまでおさえたものになるとの見方が出ている。

 これでは、核専門家でないと、どの程度の規模なのかわからないだろう。
 広島に投下された原爆は15キロ・トン、長崎は22キロ・トンと言われている。広島の方が重さは少ないが被害が大きい。どこで爆発したかによっても被害が違ってくるということだろう。「1-5キロ・トン」が実際に、どんな被害をもたらすかはわからない。だから、「小型だから危険が少ない」とは言えない。
 河野外相は「抑止力」が高まるとして「高く評価する」という談話を出したが、「小型核の開発」が抑止力にはならないだろう。アメリカの核ミサイルは、結局、北朝鮮の核ミサイルの開発を促しただけで、「抑止」できなかった。「小型核」の開発は、北朝鮮の小型核の開発を促すだけだろう。
 「小型核」の開発は、またテロなどに悪用される可能性も招くのではないのか。
 「小さければ被害が小さい」という「幻想」が広がり、さらに使用の危険が高まるとも考えられる。「小型だからいい」というような発言は、許されていいはずがない。

 日本では東京電力福島第一原発の事故処理さえすんでいない。原発事故と核を同列に考えることはできないが、福島の事故(爆発)の規模はNTN換算でどれくらいか。放射性物質の「放出量」はどうなるのか。それが人間や自然にどういう影響を与えるのか、具体的には何もわかっていない。「被害」はつづいている。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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