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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』(2)

2015-07-10 11:36:43 | 詩集
北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』(2)(思潮社、2015年06月30日発行)
        
 北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』を読みながら、きょうは「なぜ北川透の詩はおもしろいか、と問われたとき」どう答えようかと考えた。「なぜ」は「どこが」かもしれない。
「道具愛」のなかの「嘘つき機械」。

真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。

 「真実を告白します」とひとは言うが、そのときひとは「真実」を語っていない、つまり「嘘」をついているというのは、いわば「常識(真実)」かもしれない。人間はみんな「嘘つき」だ。しかし、こんな「真実」はおもしろくも何ともない。「真実」なんて退屈だし、何やら「教訓めいている」(教科書めいている?)から、うんざりする。
 では、北川の書いていることが、なぜ「詩」なのか、どこがおもしろいのか。
 簡単だ。
 「嘘つき」と呼ばれているのが、ドストエフスキイやマタイ(あるいはキリスト)だからである。尊敬をあつめている人間、偉大な人間が「嘘つき」である。これが、おかしい。「嘘つき」という点では、ふつうの人間とかわりがない。
 しかも、「嘘」がへたくそである。ほんとうの「嘘つき」というのは、「嘘」がばれないようにして、ひとを騙すものである。ドストエフスキイもマタイ(イエス)もひとを騙して、自分の「利」を得ようとなどしていない。「湖上を歩いた」など、嘘を通り越した、ばかげた作り話である。「大風呂敷」をひろげる類である。見え透いた「自慢話」である。
 いや、ドストエフスキイはほんとうに浴場で少女を犯したかもしれない。でも、ほんとうかどうかなんて、どうでもいい。ひとはそれが「真実」か「嘘」かを気にしていない。そこに語られていることが、自分を刺戟してくるかどうかだけを考えている。スキャンダラスならそれでいいのだ。スキャンダルのなかで、自分のできない「夢」を生きる。そのために、ことばはスキャンダラスでなければいけない。ことばが煽情的なら、それでいいのだ。
 スキャンダルとは、広辞苑によれば「不名誉な噂。醜聞。みにくい事件」である。「不名誉」や「みにくい」が似合うのは「偉大な人間」「尊敬を集めている人間」である。「偉大な人間」と「不名誉」の出会いは、手術台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いのように、ひとを驚かす。つまり「現代詩」なのだ。
 で、こういうとき、詩を詩として成立させるのは、実は「量」である。ドストエフスキイが浴場で少女を犯した、というだけでは、もう、「現代人」は驚かない。それくらいしたって、大したことはない。あんなに異常な作品をたくさん書いたのだから、ふつうのひとと同じセックスをしているはずがない。ドストエフスキイなんて長くて難しくて、字が小さいから読んだことないけど、そう思うなあ。
 ドストエフスキイだけのスキャンダルなら、それでおしまい。けれど、北川はそれをどんどん書き並べる。

真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。
労働者のために誰が一番尽くしてくれたか。ヒトラーさ。セリーヌ。
女の性や奴隷の性を持つ者。たち。……に吐き気! ニーチェ。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。谷川俊太郎。
皇統、千万世の末までにうごきたまはぬ。これぞよろづの理。宣長。
一緒に寝た女の数は/記憶にあるものだけで百六十人。鮎川信夫。
猿が人間化するのに最もあずかった力は労働であった。エンゲルス。
私は殆ど生きた気がしない。鼻を摘み通り過ぎただけ。三島由紀夫。

 痛快だなあ。豪快だなあ。死んでしまっているひとを「嘘つき」と呼ぶのは、まあ、平気だけれど。谷川俊太郎は生きている。「嘘つき」って言い切っていい? 言ってみたいなあ。鮎川信夫って、「荒地」の詩人のなかで北川が一番尊敬している詩人じゃなかったっけ。「寝た女百六十人」なんて「大風呂敷ひろげて」なんて笑っていい? いやあ、笑い飛ばしたいなあ。そういう「嘘」もついてみたいが、(ニーチェみたいに「女の性や奴隷の性を持つ者。たち。……に吐き気!」なんて暴言を吐いてみたいが)、言われたことをそのまま信じてしまうのではなく、そんなの嘘に決まっている、と笑い飛ばすのもいいなあ。やってみたいなあ。
 どのことば(暴言?)にも、その瞬間の「感情」がある。それが「理性的」に判断すると否定すべきものであっても、その感情が動いたということは「真実」。これが、きっとポイントなのだ。ことばの奥で「感情」が動いている。「肉体」が動いている。その「動き」、「動いた」ということが、たぶん、絶対的な「真実」なのだ。私たちは、他人の動きにつられて動いてしまうものなのだ。
 人間のなかで、何かが動く。動いてしまう。その「動き」を感じる。
 で。
 「動き」が「真実」なら。(ここから、私は「飛躍する」。)
 その「動き」をあおる「動き(ことばのリズム)」が詩にとって重要である。北川は、「意味(人間はみんな嘘つき)」だけでことばを動かしているのではなく、ことばそのものを「意味」にはならないもの、「意味」から断絶したもので動かしている。ことばをリズム(音楽)にしてしまっている。リズムそのものに「意味」はない。言ったひとの名前を行の最後にそろえるという形式をつくり、一行の長さをそろえるという外形的なパターンもつくり、そのなかで、読みやすいように(聞きやすいように)ことばを動かしている。苦労してやっと書いたという印象を与えない。思いついたまま書いた、そうしたらこんな詩ができたという感じでことばを動かしている。このことばのリズムで動くことばの「軽快さ」、リズムをつくり出してしまう「強靱さ」が北川の、詩なのである。
 でたらめ、言いたい放題を、ただ書きなぐっているかのように装っているが、そのことばの奥には北川が吸収してきた「日本語」のリズムが生きている。多くのことばを読んで、そのなかで北川がことばを鍛えているということを感じさせる。
 これは、たとえば、そこに書かれているドストエフスキイ、マタイ、セリーヌ……の「引用」そのものにもあらわれている。北川は、多くの読書から、そこに書いてあることばを抜き出している。北川は「出典」を知っている。幅広い「出典」。その「幅広さ」が北川のことばを「強靱」にし、「軽快」にしている。「文学」が鍛え上げた「文体」を背後に感じるのである。
 「意味」を超えた、ことば自身の「動き方(文体)」、そのエネルギーの配分の具合、そういうものに「文学(詩)」の力を感じる。北川はさまざまな「文体」を自分自身のものとして「つかう」ことができる。「文体」を北川の「肉体(ことばの肉体)」は確立したものとして持っている。それを感じるから、安心できる。
 表面的には「笑い」で読者を引きつけ、その背後でゆるぎない「文体」を感じさせる。そこに、この詩の楽しさがある。

 北川の「文体の強靱さ」をもっとも感じさせるのは、
「おや、月見草」である。

バスに揺られて御坂峠の茶屋に帰る時、
「僕」の隣に座っていた老婆が、
「おや、月見草」といって、路傍の花ひとつを、
ゆびさしました。--こんな演出ができるなんて、
こころにくいなぁ。ここでわたしはおののき震えました。
三七七六米の、日本一俗な富士。
それと立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、
すくっと立っていた、金剛力草とでも言いたい、
けなげな月見草。富士に月見草はよく似合う?
似合わないか? じゃないよ。
このシュールな組み合わせに驚いたら?

 詩集のなかでは、やわらかな味のある「文体」だ。
 この作品について、北川は、

鶴谷賢三の著作『太宰治 作家と作品』(有精堂)の中の「『富嶽百景』鑑賞」から、全面的に引用しています。

 と書いている。自分のことば、自分で見つけ出した世界を書くのではなく、鶴谷の書いたことばをそのまま「引用」する。(そこには、太宰も引用されている。)注釈がなければ「引用」は「剽窃」と呼ばれるかもしれない。注釈があっても「剽窃」と批判するひとがいるかもしれない。
 でも、そうではない。「わたしは浴場で少女を犯しました。」がドストエフスキイからの「剽窃」ではないのと同じだ。北川は、ことばを「引用」するとき、そのひと(ドストエフスキイ)になって、ことばの「動き」そのものを再現している。「意味」ではなく、「動き方」を示している。北川の「肉体」がおぼえているものを、北川の「ことばの肉体」として、再現している。(パフォーマンスしている、と言えばいいのかも……。)
 「引用」するという行為のなかには「出典(原典)」と、それを引用する北川の「ことばの肉体」のセックスがある。「一体」になったうえで、セックスすることで生じた変化(エクスタシー)を「北川のことばの肉体」を素肌かとして読者にさらしている。その動きがぎくしゃくせず、違和感がないものに見えるのは、北川の「ことばの肉体」がいろいろな「文体」を引き継ぐことができるだけの幅の広さを持っているからである。背後の「文体の蓄積」という「教養」があるのだ。こんなに自分の外(エクスタシー)まで行ってしまっても、まだ「自分(自分のことばの肉体)」であるという「連続」する強靱さがある。

 「なぜ北川透の詩はおもしろいか、と問われたとき」、私は「北川の文体が強靱だからだ」と答えよう。

なぜ詩を書き続けるのか、と問われて
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長田弘『最後の詩集』(11)

2015-07-10 09:02:22 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(11)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「フィレンツェの窓辺で」は、空を走っていく雲をみつめ、雲は「小さな翼をはためかして飛んでゆく」「童子天使」だと思う詩。童子天使は雲の比喩ではなく、雲が童子天使の比喩であるかのように、詩の後半は、天使がかろやかに飛びまわる。
 最後の部分、

ずっと、不思議な音楽の響きが、
耳の奥で鳴っていた。シュトックハウゼンの
「少年たちの歌」だ。近づいてきては
遠ざかり、消えたかと思うと、不意に耳元で、
飛び散る水沫のように、童子天使たちの
幼く短い叫び声がする。フィレンツェでは、
束の間にすぎないのだ、五百年だって。

 こんなふうに動くことばを読むと、「少年たちの歌」さえ天使の比喩のように思える。比喩とは、いま/ここにあるものの本質を表現するために、いま/ここにはないものを代用することだ。ふつうの比喩では「少年たちの歌」を「天使」のようだ、と比喩的に語る。けれど、長田は逆の語り方をしている。
 「少年たちの歌」の方が、雲と同じように、論理的(客観的)には存在する。しかし、それは「耳の奥」という長田の「肉体」の内部にあるので、それがいま/ここに客観的に存在しているということは、他人(第三者)には確認できない。そういうことを利用して、「少年たちの歌」を天使の比喩にしているのだが、そういう語り方をすると、その音楽が客観的にいま/ここには存在しないがゆえに、逆に天使が存在しているような感じになる。実在する天使の本質を語るために、いま/ここにはない音楽が比喩としてつかわれていると感じてしまう。
 現実と比喩が入れ代わってしまう。「童子天使たちの/幼く短い叫び声」こそがいま/ここにあり、それは「飛び散る水沫のよう」という比喩で語られなおしている、と感じてしまう。
 こういう比喩と現実の交代のあと、「束の間」と「五百年」が入れ代わる。「束の間(一瞬)」が「五百年(永遠)」と入れ代わる。長田は、いま、「一瞬」にいるのではなく「五百年」という長い時間(永遠に匹敵する時間)のなかにいる。「五百年」を実感できるフィレンツェに入る。「五百年前」のフィレンツェを「いま」と感じながら、そこにいる。
 「一瞬」と「永遠」は、長田にとってはいつでも同じものである。「一瞬」が充実するとき、それは「永遠」にかわる。長田は童子天使を雲や音楽の比喩で語ることで、「一瞬」を「永遠」に変えている。
 この張り詰めた詩の後半、特に最終行には長田の思想(生き方)が強く感じられるが、私は、そういうことばがはじまる前の部分もとても好きだ。

フィレンツェの石の宿からは
アルノ河のゆたかな水の輝きが見える。
部屋の反対側の小さな窓からは、
くすんだ建物のあいだを抜けてゆく
すり減った石畳の細い路地が見える。

 一方の側だけを見るのではなく、反対側も見つめる。そして見えたものをていねいにことばにしてゆく。見える「風景(光景)」をしっかり見極めて、その先にある「見えないもの(本質)」を探そうとする姿勢が、そこに感じられる。
 こういう長田の姿勢を、「知っていることばを捨てるために書く」と私は感じている。知っていることばを捨ててしまったあとに、知らないことば(新しいことば)がやってきて光景を発見する。光景に最適のことばがみつかる。そういう発見するためには、それまでの知っていることばを捨てて、視線そのものを新しくしないといけない。視線だけでなく肉体(聴覚や触覚など)を新しくないといけない。生まれ変わることで、初めて発見できるものがあるのだ。

路地には有機パンの小さな店があって、
パンを抱えた老女が路地の奥へ消えてゆく。
過ぎてゆく時の足音が聴こえるようだ。

 この「聴こえる(聴く)」という動詞が後半で「音楽(少年たちの歌)」を聴くことになる。
 詩のハイライトも美しいが、詩の助走も美しい。助走が美しいからこそ、あざやかな飛躍ができるのだと思う。


最後の詩集
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