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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(2)

2014-03-24 23:59:59 | カヴァフィスを読む
カヴァフィスを読む(2)               

 「老人」はカフェの片隅で机にうつぶせになって居眠りしている老人を描いている。

老人は思う、強く賢く見目よかった時を、
楽しまずに過ごした歳月の多くを。

 「見目よかった」という言い回しに、私は「老人」の本質を感じる。「美しかった」「美男子だった」では、何かが欠けている。「肉感的」な感じが欠けてしまう。「見目よかった」には見る/見られるという往復する運動がある。見られることによって、見られていることを意識することによって、見られているものが美しくなっていくような響きがある。目の、肉体の動きがある。それが生々しく、私の肉体に響いてくる。
 「美しかった」「美男子だった」では、そのことばは「頭」のなかで「論理」として整然と動く。しかし、「見目よかった」は視線の交錯を感じさせる。
 こういう肉体の感覚を思うとき、あ、これは男色の詩だなと感じる。

「分別」が自分を愚弄した。老人は思う、
バカだった。いつも信じた あのごまかし。
「明日しよう。時間はまだたっぷり。」

思い出す。衝動に口輪をはめた。喜びを犠牲にした。
失ったせっかくの機会がかわるがわる現れて
今あざわらう、老人の意味なかった分別を。

 「分別」ゆえに男色に手を出さなかった。喜びを犠牲にした。あのときああすればよかった、と後悔している。その後悔の、「明日しよう。時間はまだたっぷり。」が非常になまなましい。分別というような、はっきりした「意味」を超えるなまなましさがある。
 なぜだろう。
 「時間はまだたっぷり。」という表現のなかに秘密がある、と私は思う。この一文は、きちんとした文章にすると「時間はまだたっぷりある」になると思う。「ある」という動詞が省略されている。そのために、なまなましくなる。「ある」という表現をつかわなくても、老人(若い時代の彼)には「ある」はわかりきっている。わかりきっているので「ことば」にする必要がなかった。
 「時間」とか「分別」ということばは、それをことばにしないかぎり何をさしているかわからない。しかし、「時間がたっぷり。」と書くとき(言うとき)、それが「ある」ということは老人にはわかりいっていた。「頭」でわかっているというより、「肉体(頭以外の感覚)」でわかっていた。
 この若い肉体感覚を、中井久夫は「ある」を省略することで、なまなましく再現する。「見目よかった」と作用し合って、「肉体」が輝いている姿がそこに浮かび上がる。
カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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タケイ・リエ「山鳥」

2014-03-24 10:37:12 | 詩(雑誌・同人誌)
タケイ・リエ「山鳥」(「ウルトラ」15、2014年03月20日発行)

 タケイ・リエ「山鳥」は、不思議な気持ちになる。

「猟犬をたくさん放して、ひよりが良くなったら山鳥を撃ちに行こうよ」

からだからいっせいに猟犬を放ってそれが
弾丸に変わってゆくときのきもちよさが
あなたにもわかるだろうと言われてもわからないのです
わたしはどちらかといえば山鳥なのでわからないのです

撃ち落とした山鳥から内臓をずるずるずるずる引き出して
猟犬に食わせることなどなんでもないとあなたは言います
でもわたしはどちらかといえば山鳥なのでとうてい賛成できない
百舌鳥がはやにえのショウリョウバッタを食べそこねては死ねないように

 ここには「あなた」と「わたし」がいる。でも、その「あなた」と「わたし」は明確に違うのだろうか。
 1行目は書き方が違っている。カギ括弧のなかに「あなた」のことばが入っている。独立している。ところが2連目からは「あなた」の言ったことばは「と言われても」「とあなたは言います」ということばのなかに組み込まれてしまっている。「わたし」のことばと接続している。
 切断しているのはと「と」ということばと「言う」と動詞。しかし、その「と」と「言う」は同時に「接続」でもある。「と/言う」は「切断」しながら「「接続」している。--あ、これは今書いたばかりのことの繰り返しか……。何か、ごちゃごちゃしてきたなあ。矛盾したことを書いているなあ。
 矛盾のなかには、大事なことがからみあっている。そのからみあいが、ごちゃごちゃ。だから、ごちゃごちゃを言いなおそう。
 「切断」と「接続」がごちごちゃになるのには理由がある。
 「切断」と「接続」のキーワードとなる動詞は、「言われる」「言う」という形で変化しているが、このとき変化しているのは「動詞」だけではない。「主語」が変化している。「わたしは・言われます」「あなたは・言います」。「主語」がすりかわって、動詞の活用を変化させてしまっている。
 こういうことは無意識におこなわれることなのだろうけれど、無意識だからこそ、そこに詩人の本質のようなもの(この詩の本質のようなもの)が浮かび上がる。
 だれかのことばを聞く。そこには「話者」の「思い」があるのだけれど、それを自分のことばで反復するとき、自分の「思い」が紛れ込む。
 紛れ込んで。
 最初は「わからないのです」と反発するのだけれど--これは、ほんとうに反発? もし絶対にいやなことならことばを反復などしないかもしれない。ていねいに反復してしまうのは、そこに何かしら惹きつけられるものがあるからかもしれない。
 あるいは、「あなた」は「わたし」が「わからない」という形で拒絶する、その拒絶をみたくて、わざとそんなことを言ったのかもしれない。そういう「かけひき」のようなものが、「あなた」のことばのなかにはないだろうか。(こういう「かけひき」が成り立つのは、「わたし」と「あなた」がある程度ねんごろなときである。)そういうことを「わたし(タケイ)」は感じ取ってはいないだろうか。つまり、反発しながらも(切断しようとしながらも)、反発(切断)より先に、何かが「接続」していないだろうか。「肉体」の「接続」がありはしないだろうか。
 タケイがどう感じたかは無視して、私は「あなた」の言っていることがとてもおもしろく感じられる。とても「肉感的」に感じられる。私はタケイも知らなければ、当然タケイの「あなた」も知らないのだが、「あなた」のことばから「肉体」の「誘い」を感じてしまう。「からだ」という表現があるからだけではない。
 「からだからいっせいに猟犬を放ってそれが/弾丸に変わってゆく」というのは、時系列が錯乱しているように感じられる。銃を撃つ。弾丸が飛び出す。山鳥が落ちる。それをみて猟犬が走りだす--というのが時系列かもしれないが、そういうことを繰り返しているとだんだん時系列の間隔がつまってきて、すべてが同時に起き、同時に起きることは順序が逆になっても違いはないような感じになる。そこに一種の陶酔感がある。それは「きもちよさ」に通じるのだと思う。この陶酔感にとっては時系列の切断と接続の順序はどうでもいい。どんな順序でおきようと、かまわない。
 これが、なぜか「わかる」。わかってしまうので「わからない」と言うことで自分の感覚を守ろうとする。「あなた」から「わたし」を引き離して(切断して)、自分を守ろうとする。
 でもね、「と言われて」「と言います」ということばで「接続」してしまったのは、タケイの方なのである。「接続」してしまったら、もう、その「接続」を生きるしかない。「賛成できない」というのは「ことば」の表面的な「意味」であり、「ことばの肉体」は「あなたのことば」とセックスしてしまっている。同じ方向へむかって動きはじめている。
 この官能(ことばの肉体のよろこび)が、不思議な長さの、ひらがなが多くて「ずるずるずる」としか感じのなかで動く。
 そして、最終連。(途中は省略。)

山ふかく走る猟犬たちの目がキラキラしている昼下がりに
しろいけむりがいくすじも流れてくるのをじっと見ている
春よりもあたたかい血のにおいがずっと消えないことを知って
うれしいようなうらめしいような気になるのはどうしてだろう

 「うれしい」と「うらめしい」が同列(区別のつかないもの)になる。「あなた」と「わたし」の区別がつかないように。初めての体位でセックスし、それが思いもかけないよろこびをうみだしたとき、それがうれしいような、うらめしいような、というのに似ているかな?そういう「記憶」(体でおぼえたこと)は、ずっと消えない。
 セックスのことなどどこにも書いていないのだけれど、ことばの動きが、セックスを感じさせるなあ。
                          

まひるにおよぐふたつの背骨
タケイ リエ
思潮社
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