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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林坩堝『でらしね』

2013-10-30 09:01:31 | 詩集
小林坩堝『でらしね』(思潮社、2013年10月20日発行)

 小林坩堝『でらしね』の詩は、乱暴にわけてしまうと散文詩風のものと行分け詩とがある。私は散文詩の方がすきである。リズムが自然に感じられる。
 「叙景--黒く塗り潰された「われわれ」の為の」の書き出し「※暮らしのあった風景」の部分。

 その朝、雨が降った。その朝、生活は終わった。アパートの扉の外側に、立っている男たち。光っている革靴。遠く、遠く、黒光りする列車の、鉄橋を渡ってゆく音を聞いたような気がして、シアン化カリウム、それきり生活は終わった。

 「シアン化カリウム」が唐突である。唐突だけれど(唐突だから?)、音が美しい。音の美しさは書き出しの「その朝、雨が降った。その朝、生活は終わった。」からはじまっている。「その朝」の繰り返しがリズムをつくり、「あ」さ、「あ」めの頭韻(?)が繰り返しにとてもなじんでいる。「あ」が「お」わった、と「お」に引き継がれて文が終わるのも気持ちがいい。そのあとも、歯切れのいい文がつづき、「遠く、」から長い文になるのだが、その長さ(遠さ?)を「列車」「鉄橋」「音」という具合に切断しながら(独立させながら)、唐突に「シアン化カリウム」。「いま/ここ」の切断が、「いま/ここ」を超えて深い裂け目から「もの」をつかみ取る。
 シアン化カリウムって何?
 何かわからない。わからないけれど、音がそこにあり、音であることによって、それまでの「切断」をさらに鋭くする。それまでの「切断」は「切断」というより「分解」だったかもしれない。「いま/ここ」を感覚で把握し直す。黒光りする列車を「見る」、鉄橋を渡ってゆく音を「聞く」。それは「現実」のなかでも「ひとつ」のものだが、「肉体」のなかでは視覚/聴覚が絡み合って、やはり「ひとつ」になっている。そこには「連続」がある。
 でも、シアン化カリウムは? ない。「連続」がない。いや、「意味」を強引にもってくることもできるが、そんなことをしたって現実はどうにもならない。
 それよりも「意味」を捨て去ることが大事なのだ。
 シアン化カリウムって何? 前の文章とどうつながっている? わからない。わからないものはわからないまま、何がわかるかを考える。私にはそれが「シアン化カリウム」という音をもっているということ以外はわからない。音があることがわかる。そしてその音を、私の「感覚の意見」は「美しい」と言う。なぜ、その音が特別に美しいか。理由は簡単だ。ほかのことばとは違って「意味」になっていないからである。ほかのことばと脈絡がないからである。「意味」を拒絶して、ただ音である。
 あ、こういう「音」だけの存在というものが「現実」に存在するのである。
 この音の美しさ(無意味)を持続するのはむずかしい。特に「散文」では、とてもむずかしい。ことばというものはいい加減なもので、どんなことばでもつないでしまうと「意味」を捏造してしまう。

 ちくたくの時計は炸裂するときを待っている。刻まれているのは時間ではない、すくなくとも時計はおれを前進させない。

 ね、「意味」が動いているでしょ? 時計は時間を刻むが、だからといって「おれが前進する」わけではない。時計とおれの「肉体」は別のものである。別のものだから「連結」して「意味」になる。ここだけではわかりにくいかもしれないが、このつづき。

おれは広場でおまえが待っているのを知っている。おまえはおれが永遠に現れないことを知っている。

 「時間」と「肉体」は別の存在である。そして「時間」が「肉体」を、あるときには測る(?)基準になる。「肉体」が「時間」を分断するのではなく、「時間」が「肉体」を分断し、「時間」どおりにあらわれないという「肉体」を出現させる。待っている-来ないという関係は、そうやって「必然」になる。「意味」になる。
 そこにないのに、その「ない」を出現させる。「ない」に「意味」をつけくわえてしまう。そこから「意味」が逆流して「待っている」を引き出すと言いなおすこともできる。(これが、ことばがいい加減という理由。)。そして、その「ない」ことの「意味」を増幅させて(?)、「永遠」までもでっちあげる。(ことばは、ここまでいい加減になることができる。)
 おれがこないことと「永遠」なんて、何の関係もない。そこには「普遍」はない。「こない」という事実があるだけである。こういう事実にすぎないことを「永遠」というもの強引に結びつけ、そこにセンチメンタルな「意味」を捏造するとき、それは抒情というものになったりするのだけれど。
 あ、これでは、私の書きたかったことからどんどん離れて行ってしまう。離れて行ってしまってもいいのかもしれないけれど。(いま書いたことは小林の詩の否定ではなく、単にことばの運動の「性質」の一般を語っただけ。)

 音にもどりたい。
 音から、この部分「ちくたく時計は炸裂するときを待っている」にもどると。この部分には、残念ながら「シアン化カリウム」のような絶対的断絶をもったことばがない。音の無意味がない。そのために、ことばが「意味」に引っぱられて行ってしまうとも言えるかもしれない。
 音がほしいなあ、と思わず思ってしまう。

 失くしたものの数だけ、前進してきたつもりでいた。だがおれは畢竟佇むことで精一杯の己の姿を発見しただけだった。

 この「意味」の苦しさは、つらい。「意味(抒情)」はわかるけれど、そのわかるは「頭」でわかるのであって、私の肉体には響いてこない。「畢竟」というような、ごちゃごちゃした漢字(私は日常的にこんな漢字は書かない--私だけの問題かもしれないが)が「音」ではなく「意味」をいっそう強調する。「畢竟」が呼び出す「意味」が「肉体」をさらに遠ざける。「畢竟」なんてことばを私は「頭」でしか知らない。「畢竟」の瞬間、自分の「肉体」がどんな感じなのか、さっぱりわからない。実感がない。(これも、私の問題であって、小林に実感がないと言っているわけではない。--実感がないから、そこから肉体の触れ合い、人間の直接の触れ合い、セックスがはじまるという感じがしない。つまり、この瞬間に、私は小林を「遠く」感じる。)
 あ、「わからない」だけでいえば「シアン化カリウム」という音の前でも私は、それが私の「肉体」とどういう関係があるのかわからないのだけれど、「音」が耳から「肉体」の内部へ入り込んで、その「音」だけを浮かびあがらせる。「声」になって、喉や口蓋や舌を動かす。「畢竟」のように「頭」に入り込んで、「畢竟の意味は……」というような具合に何かが動くわけではない。ただ「音」だけがそこにあって、あ、その音を言ってみたい、つかってみたいという気持ちにさせる。そのときの無責任な感じが、アナーキーな感じが、自由でいいなあと思う。こういう瞬間、私は、私であって私ではない。無防備になっている。無防備だから、直接、小林と触れる感じがする。--私は、私を無防備にさせてくれることばが好きなのだ。

 ことばが「音」を求めて、もっとアナーキーになれば、小林の詩はもっともっと楽しくなると思う。「視覚」ではなく「聴覚」のなかで「パースペクティヴ」が動くといいのかなあ、動かせるはずだと思うんだけれどなあ。
 こんな感想では何も書いたことにならないのかもしれないけれど……。「シアン化カリウム」という音の美しさ、文脈(意味)を離れて独立する音の輝き--そういうものを増やしていくと、小林の詩がもっと好きになれそうな予感がする。あ、これいいなあ、と書きたいなのに、書こうとすると「畢竟」のようなことばが邪魔する。そこにつまずいてしまう。



でらしね
小林坩堝
思潮社
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