詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柳岸津(ユ・アンジン)「神を待っていた」

2013-07-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
柳岸津(ユ・アンジン)「神を待っていた」/奇廷修(キ・ジョンス)訳(「something 」17、2013年06月28日発行)

 柳岸津(ユ・アンジン)「神を待っていた」は短い作品である。

ヒマラヤに登る道
人里離れた山村の外
がらんとした村の上り口、がらんとした道の真ん中
子ロバが一頭、独りで立っていた
手綱で縛られぬままでただ立っていた
登る時も立っていたのだが
下る時に見てもそのまま立っていた
澄んだ目であてもなく立っていた
さらにいっそう下って振り返ってみると
礼服のように白い裾を翻して白い雲が燃えていた
神を待っていたとは想像もできなかった

 最後の「神」が私にはわからないのだが、なぜわからないのかを考えると、この詩人は「論理性」が強いからだと気がつく。「論理性が強い」というのは、正しい日本語かどうかわからないが、唐突に出てくる「神」が柳の実感というよりも、何かことばの「論理」が勝手につくりだしたものという感じがする。柳ではなく、論理を求める気持ちが「神」ということばを要求しているのだと感じた。柳の実感ならば、もっと切実に迫ってくるはずなのに、何か、借りてきた「概念」のような感じがしたのだ。
 実感ではないもの、そういうものが書けるのか--というと、まあ、困った問題だけれど、ことばはそういうものを勝手に書いてしまうのである。
 「論理」というのは、ちょっと困ったものであって、何か「結論」めいたものを要求する。柳が「神」という「答え(結論)」を要求するというよりも、積み重ねられたことばが「結論」を求めてしまうのだ。「結論」をつくりだしてしまうのだ。どこかで聞きかじったものを「結論」として利用してしまうことがあるのだ。
 言い換えると。
 子ロバはほんとうに「神」を待っていたのか。それはだれにもわからない。子ロバは単に日が暮れるのを待っていただけかもしれない。でも、ことばは「日が暮れるのを待っていた」では落ち着かないのだ。それまで動いてきたことばの描いている「状況」を超えるものにたどりつきたいという欲望をもっている。この欲望は、柳自身のものであるというよりも、ことば自身の欲望である。
 この欲望に、この詩では、柳は負けている。
 子ロバが立っている。いつまでも立っている。それは立っているではなく「待っている」のである。自分で動いていくのではなく(たとえば柳のようにヒマラヤに登るという運動をとおして、自分をどこかに運ぶのではなく)、そこにいるのは、そこへ何かが「やってくる」来るからである。自分から行かずにそこにいること、これが「待つ」。
 そして、その「待つ」は、今書いたように、「いま/ここ」にいるのではなく、「いま/ここ」から動いてゆく、何かしらの「結論(目的)」へと動いていくものと対比すると、その性質がよくわかる。
 「いま/ここ」から別な場所へ動いていくという運動が、「いま/ここ」にいるものを「待つ」という動詞に変形させてしまう。これはいわばことばの運動の「反作用」のようなもので、ことばが勝手にでっちあげることがらである。ことばの内包する力が、ことばの「論理」の必然性として、別のことばを呼び寄せるのである。
 子ロバはほんとうに待っているのかどうかはわからない。わからないけれど「いま/ここ」からヒマラヤへ登るという運動が「立っている」を「待っている」にねじまげてしまう。ことばの「論理性」はそういう問題を孕んでいる。
 「論理」とか「結論」というものは、どこからでも姿をあらわし、「いま/ここ」のあるがままをねじまげてしまう。「いま/ここ」は勝手につくられた、「いま/ここ」の「過去」と「未来」によって「意味」にかえてしまう。ことばを身につける過程で、私たちはそういう「危険」に、知らず知らずにそまってしまう。
 人間は、「いま/ここ」をもちつづける(いまだけを生きる)ということがなかなかむずかしく、どうしても「未来」や「過去」にによって「いま/ここ」を定義づけ、「意味」にしてしまう。そういうふうに「論理」を動かして、それがほんとうかどうかわからないのに安心してしまう。
 ことばの合理主義というのか、資本主義というのか、そういうものがことばの運動そのものを勝手に「ゲシュタルト」してしまう。(こういう言い方、あってます?)
 そういうことばの「悪い癖」のようなものを、この詩の最後に感じてしまった。
 振り返ってみたら、子ロバのみつめる方向にある白い雲が夕陽のために赤く燃えていただけでいいのに、「神」を登場させて「意味」にしてしまう。「論理」は「意味」を求めるばかりで、「いま/ここ」を「無意味」のなかに解放しない。だから、最後の「神」が非常に気持ちが悪い。「意味」が暴走している。
 この気持ち悪い「意味」を「詩」と感じるひともいるかもしれないけれど、私は、違うと思う。「意味」を拒絶して、孤立する「無意味」が詩だと思う。
 美しいものが「論理」によって破壊されている--と柳の詩を読むと感じてしまう。

 「真実、反語的真実」の後半。

クモの巣を通り抜けた西風が
夕焼けの落ちるカラタチの垣を超えるとき
不意に刺されて血を流す
平常時が非常時に
出入口が非常口に
愛が憎悪に
急変するきまぐれも泥棒のように訪れるということを
知れば病気になり
知らなければ薬にもなる

 平常時-非常時、出入口-非常口、愛-憎悪、病気-薬。対比を利用して動くことば、その対比の「正確さ」が「論理」というものである。それはそれで、ことばを動かす力になり、「知る-知らない」というところにまで到達するのだが。
 うーん、
 私はその「到達点」よりも、出発点の脇の方にある「クモの巣」からの3行の方が好きなのだ。

コメント (1)
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