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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

奥田春美「反復する森」

2013-06-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
奥田春美「反復する森」(「現代詩手帖」2013年06月号)

 森を思い出す詩。

眼球すれすれ
それはあった
「それって何?」
美しい吐しゃ物のような
溶けだした贓物のような
粘菌のような
「それって何?」
じかに皮膚への接触をせまるような
いっそこちらからと
身を投げださせるような
意識の混濁を誘発するような
「それって何?」
だから変容途中のやまんばのような
ゾンビのような
ゴブリンのような

 ……のような、が少しずつ変わっていく。私は前半が好きで、最後の「やまんば」からあとはピンとこない。「やまんば」も「ゾンビ」も見たことはない。「ゴブリン」というのは何のことかわからない。肉体と接触のないもの、知らないものについては、私の反応は鈍くなる。とても保守的な人間なのかもしれない。
 ことばの動きとしては、吐瀉物、内臓、粘菌、皮膚と、体の内部からだんだん外へ向けて動いてくる感じが、それこそ吐瀉するときの感覚、肉体の内部にあるもの、たんに食べたものだけではなく、胃や腸の粘膜、のどの粘膜までをも引き剥がしてくる感じを思い出させ、あ、おもしろいなあと思う。すごいなあ、と思う。奥田はこういうことを肉体で覚えているのか……。私は苦しいことは苦手なので、できるなら覚えていなくない。でも、ことばを聞くとその覚えていたくないことを覚えているということを思い出ししてしまう。思い出すことを「強制」される。奥田にはそのつもりはなくても。それは、いやな感じなのだけれど、それがおもしろい。
 でも、後半はおもしろくない。それは先に書いたけれど、私の肉体が知らないことだからだ。そして、その「知らない」ことばは「意識」と関係している。奥田は「意識」ということばをつかっているが、ここから詩がおもしろくなくなる。「肉体」を離れてしまう。

 ところが。

 詩は、そのあと1行あけて、突然「変容」する。そこからが、私にはまた非常におもしろく思えた。

言葉のたどりつけないものは存在していることにはならないから
たいていの言葉が一度はそれに結びつけられた
ようなは増殖した
ほとんど一生です
ほんとうにあったことと頭の中だけにあったこと
記憶にいちいちシルシはついていない
森はもうないのに反復は止まらない
こっそり書くしかないことがあるのです

 「意識」「言葉」「頭」と「存在」の関係を書いている。森はほんとうにあるのか。それは、ない。森の反復だけがある。森を思い出すということだけがある。それは「……のような」ということばでくりかえしたものとことだけがあるということだ。
 --こういうことは、奥田のことばをつかえば「頭」の世界、「意識」の世界なのだけれど、その「……のような」の「……」に「肉体」が関係してくると、そのとき「肉体」が存在する。たとえば吐瀉物。何かを吐く。そのとき「吐く」という動詞と、「吐く」を実践する「肉体」が存在する。森はなくても、「肉体」は私がいるかぎり存在する。森は「肉体」のなかで反復される。何かを「肉体」で反復するとき、その反復を動かしているものが「頭」であっても、その「頭」は「肉体」とのつながりを生きている。「頭」は「肉体」になっている。
 「頭」が「肉体(内臓など)」に「分有」されている。「肉体」は「頭」を「共有」している。つまり「頭」と「肉体」は一体になっている。「ひとつ」になっている。
 こういう「頭」は「肉頭(肉眼、ということばにならって言えば……)」である。
 
 これは、いいなあ。
 「肉頭」とセックスすると、私の「頭」はぶっこわれる。「頭」とだけ書いて、「肉」を隠しているので、それに気づかずに接触して、「肉」がいきなり反応する。「肉体」が反応する。
 だれでもそうかもしれないが(私だけ?)、「隠れている肉」というのは、出会った瞬間にどきりとする。なんだか秘密をのぞいたようで、ぞくぞくする。しかも、その「隠された肉体」は、何度も何度も、その肉体しか知らないことを、つまり私の知らないことを反復していたのだ。
 うーん、その繰り返された「肉体の欲望」に、私の「肉体」はこたえることができるのか--と書くとまるでほんとうにセックスになってしまうが、そういう書かれていないことを読みとる(誤読する)のが、私の、楽しみである。



かめれおんの時間
奥田 春美
思潮社
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ウディ・アレン監督「ローマでアモーレ」(★★★)

2013-06-09 21:51:28 | 映画

監督 ウディ・アレン 出演 ウディ・アレン、ペネロペ・クルス、アレック・ボールドウィン

 ウディ・アレンは女優の魅力を引き出すのがとてもうまい。女性が見てどう感じるかわからないが、私から見ると、ウディ・アレンの映画に登場する女優はとても自然だ。役者というよりも、「そこにいるだれか」という感じ。映画を見ていることを忘れ、女優であることを忘れ、そこにいる女にひかれる。女優を「女」にしてしまう。
 こういう映画ではペネロペ・クルスは損をしている。美しすぎて、ふつうの女性の役をもらえない。「そこにいるだれか」というのはむりで、「どこにいても目立つだれか」という役を演じるしかない。
 いちばん得をしているのがウディ・アレンの妻を演じた女優。ウディ・アレンに好きなことをさせながら、「私がついていないとどうしようもないんだから」という感じで見下している。長い夫婦生活のなかで、自然に身についた夫操縦法なのだが、これが実にいい。まわりの人間には、「夫はばかなんだ」と伝えることで、まわりを安心させる。「この場は私に任せておいて」という感じ。受けているようで、攻めている。ひとつの行動のなかに、受けと攻めの両面があるので、全体の調子がそこに収斂していく。目立つ役どころではないのだけれど、いやあ、すごいなあ。自分の連れ合いにどうかととわれると、まあ、答えに困るのだけれど、見ていて安心するね。あ、こういう人間っているなあ、こういう具合に状況をコントロールする人間がいるなあ、ということを自然に感じさせてくれる。
 役者志望の女と、田舎から新婚旅行でやってきた女--このふたりもすばらしい。ふたりの名前を私は知らないのだけれど(はじめて見た、と思う)、とても魅力的だ。とりたてて美人ではないのだが、ひとりは見栄っ張りの、いわば「見栄」の部分で男をひきつける。男の「見栄」をくすぐる、と言い換えることもできる。もうひとりは、うぶな感じで男をひきつける。
 二人のうち役者志望の女の方が、私にはより魅力的に見えのだが……。この女優のやっている演技はかなり複雑である。男の心を引きつけるために、知ったかぶりをするのだが、知ったかぶりをしているということがわからないといけない。あれ、それ、ほんとう? 芝居じゃない? 芝居なのだけれど、いいか、その嘘にひっかかってみるか、という一種の矛盾した気持ちをおこさないといけない。見ている観客にもわからないといけない。
 こんな役は、うまくやるのはむずかしいと思う。うまくやればやるほど、観客はそれが役ではなく、彼女はそういう人間なのかもしれないと思い込むからね。この女、美人じゃないということを自覚していて、どうやれば男ごころをひきつけられるかを、ずっーと考えて芝居しているんだな、と思い込んでしまうからね。(ペネロペ・クルスのやっている役なら、初めから虚構の演技とわかる。誰もそれがペネロペ・クロスのほんとうの姿とは思わないけれど……)
 そういう変な(?)役どころなのだけれど、変な女なのだけれど、そういう女にだまされてみるのもいいかなあ、などと思ってしまうのである。彼女が女優であることを忘れ、そういう状況になったら、どうするかなあという思いに誘われてしまうのである。
 うーん、どうしてかなあ。
 ウディ・アレンが、女優たちに「受け」の演技をさせているからである。「受け」の演技を引き出しているからである。「受け」というよりもさらに進んで「引き」の演技といった方がいいのかもしれない。女優たちが男優たちがどんどん自己主張しやすいようにする。ウディ・アレンの妻の役どころそのままに、男を遊ばせるのである。その気にさせるのである。
 これは男優の演技と比べるとはっきりするかもしれない。ウディ・アレンの映画では、男優はなかなか魅力的にならない。受けの演技をさせてもらえない。女を、あるいは男をでもいいのだが、人間を遊ばせる演技をさせてもらえない。アレック・ボールドウィンのやった役がそうだが、(ウディ・アレンの役もそうだが)、状況を批判したり、自分で状況を変えるために何かをしようとする。自分の主張(遊び)にのめりこむ。そのために人間のひろがり(幅)が小さくなる。受け止めてくれるひとがいて、はじめて世界が生まれる。
 この映画では、ひとり、しがないサラリーマンをやった男が、状況的に「受け」にまわる役どころで、そこはほんとうに「見せ場」なのだけれど(だからこそ、イタリア人をつかっているのだけれど)、うーん、「受け」きれていない。つまり「受け」が、まわりを遊ばせていない。まわりの遊びを引き出すところにはたどりついていない。
 それは基本的にウディ・アレンが攻めの人間だからだろう。攻める(批判する)という形で世界をみつめるからだろう。ウディ・アレンは世界を批判することで自己表現をするけれど、世界をそのまま受け入れることで自己実現をしない。受け入れてくれる人間を魅力的に表現することで、受け入れてくれる人を探しているということかもしれない。
 
 あ、映画の感想になっていないか。これでは。
 まあ、ローマを舞台に、人間の駆け引き(恋の駆け引き)が描かれているのだが、駆け引きのバランスがうまくかみ合わないのだね。演技が偏っている(人間の描き方が偏っている)からかもしれない。ウディ・アレンはローマはこういうところと切り取る形で要約するが、ローマのすべてを受け入れてはいない。
 先日見たフランチェスコ・ブルーニ監督「ブルーノのしあわせガイド」では、高校生は自分で落第を選ぶことで「ローマ帝国の時間感覚」を引き受けていた。ローマを受け入れていた。
 ウディ・アレンはパリッ子にはなれてもローマッ子にはなれないね。



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