奥田春美「反復する森」(「現代詩手帖」2013年06月号)
森を思い出す詩。
……のような、が少しずつ変わっていく。私は前半が好きで、最後の「やまんば」からあとはピンとこない。「やまんば」も「ゾンビ」も見たことはない。「ゴブリン」というのは何のことかわからない。肉体と接触のないもの、知らないものについては、私の反応は鈍くなる。とても保守的な人間なのかもしれない。
ことばの動きとしては、吐瀉物、内臓、粘菌、皮膚と、体の内部からだんだん外へ向けて動いてくる感じが、それこそ吐瀉するときの感覚、肉体の内部にあるもの、たんに食べたものだけではなく、胃や腸の粘膜、のどの粘膜までをも引き剥がしてくる感じを思い出させ、あ、おもしろいなあと思う。すごいなあ、と思う。奥田はこういうことを肉体で覚えているのか……。私は苦しいことは苦手なので、できるなら覚えていなくない。でも、ことばを聞くとその覚えていたくないことを覚えているということを思い出ししてしまう。思い出すことを「強制」される。奥田にはそのつもりはなくても。それは、いやな感じなのだけれど、それがおもしろい。
でも、後半はおもしろくない。それは先に書いたけれど、私の肉体が知らないことだからだ。そして、その「知らない」ことばは「意識」と関係している。奥田は「意識」ということばをつかっているが、ここから詩がおもしろくなくなる。「肉体」を離れてしまう。
ところが。
詩は、そのあと1行あけて、突然「変容」する。そこからが、私にはまた非常におもしろく思えた。
「意識」「言葉」「頭」と「存在」の関係を書いている。森はほんとうにあるのか。それは、ない。森の反復だけがある。森を思い出すということだけがある。それは「……のような」ということばでくりかえしたものとことだけがあるということだ。
--こういうことは、奥田のことばをつかえば「頭」の世界、「意識」の世界なのだけれど、その「……のような」の「……」に「肉体」が関係してくると、そのとき「肉体」が存在する。たとえば吐瀉物。何かを吐く。そのとき「吐く」という動詞と、「吐く」を実践する「肉体」が存在する。森はなくても、「肉体」は私がいるかぎり存在する。森は「肉体」のなかで反復される。何かを「肉体」で反復するとき、その反復を動かしているものが「頭」であっても、その「頭」は「肉体」とのつながりを生きている。「頭」は「肉体」になっている。
「頭」が「肉体(内臓など)」に「分有」されている。「肉体」は「頭」を「共有」している。つまり「頭」と「肉体」は一体になっている。「ひとつ」になっている。
こういう「頭」は「肉頭(肉眼、ということばにならって言えば……)」である。
これは、いいなあ。
「肉頭」とセックスすると、私の「頭」はぶっこわれる。「頭」とだけ書いて、「肉」を隠しているので、それに気づかずに接触して、「肉」がいきなり反応する。「肉体」が反応する。
だれでもそうかもしれないが(私だけ?)、「隠れている肉」というのは、出会った瞬間にどきりとする。なんだか秘密をのぞいたようで、ぞくぞくする。しかも、その「隠された肉体」は、何度も何度も、その肉体しか知らないことを、つまり私の知らないことを反復していたのだ。
うーん、その繰り返された「肉体の欲望」に、私の「肉体」はこたえることができるのか--と書くとまるでほんとうにセックスになってしまうが、そういう書かれていないことを読みとる(誤読する)のが、私の、楽しみである。
森を思い出す詩。
眼球すれすれ
それはあった
「それって何?」
美しい吐しゃ物のような
溶けだした贓物のような
粘菌のような
「それって何?」
じかに皮膚への接触をせまるような
いっそこちらからと
身を投げださせるような
意識の混濁を誘発するような
「それって何?」
だから変容途中のやまんばのような
ゾンビのような
ゴブリンのような
……のような、が少しずつ変わっていく。私は前半が好きで、最後の「やまんば」からあとはピンとこない。「やまんば」も「ゾンビ」も見たことはない。「ゴブリン」というのは何のことかわからない。肉体と接触のないもの、知らないものについては、私の反応は鈍くなる。とても保守的な人間なのかもしれない。
ことばの動きとしては、吐瀉物、内臓、粘菌、皮膚と、体の内部からだんだん外へ向けて動いてくる感じが、それこそ吐瀉するときの感覚、肉体の内部にあるもの、たんに食べたものだけではなく、胃や腸の粘膜、のどの粘膜までをも引き剥がしてくる感じを思い出させ、あ、おもしろいなあと思う。すごいなあ、と思う。奥田はこういうことを肉体で覚えているのか……。私は苦しいことは苦手なので、できるなら覚えていなくない。でも、ことばを聞くとその覚えていたくないことを覚えているということを思い出ししてしまう。思い出すことを「強制」される。奥田にはそのつもりはなくても。それは、いやな感じなのだけれど、それがおもしろい。
でも、後半はおもしろくない。それは先に書いたけれど、私の肉体が知らないことだからだ。そして、その「知らない」ことばは「意識」と関係している。奥田は「意識」ということばをつかっているが、ここから詩がおもしろくなくなる。「肉体」を離れてしまう。
ところが。
詩は、そのあと1行あけて、突然「変容」する。そこからが、私にはまた非常におもしろく思えた。
言葉のたどりつけないものは存在していることにはならないから
たいていの言葉が一度はそれに結びつけられた
ようなは増殖した
ほとんど一生です
ほんとうにあったことと頭の中だけにあったこと
記憶にいちいちシルシはついていない
森はもうないのに反復は止まらない
こっそり書くしかないことがあるのです
「意識」「言葉」「頭」と「存在」の関係を書いている。森はほんとうにあるのか。それは、ない。森の反復だけがある。森を思い出すということだけがある。それは「……のような」ということばでくりかえしたものとことだけがあるということだ。
--こういうことは、奥田のことばをつかえば「頭」の世界、「意識」の世界なのだけれど、その「……のような」の「……」に「肉体」が関係してくると、そのとき「肉体」が存在する。たとえば吐瀉物。何かを吐く。そのとき「吐く」という動詞と、「吐く」を実践する「肉体」が存在する。森はなくても、「肉体」は私がいるかぎり存在する。森は「肉体」のなかで反復される。何かを「肉体」で反復するとき、その反復を動かしているものが「頭」であっても、その「頭」は「肉体」とのつながりを生きている。「頭」は「肉体」になっている。
「頭」が「肉体(内臓など)」に「分有」されている。「肉体」は「頭」を「共有」している。つまり「頭」と「肉体」は一体になっている。「ひとつ」になっている。
こういう「頭」は「肉頭(肉眼、ということばにならって言えば……)」である。
これは、いいなあ。
「肉頭」とセックスすると、私の「頭」はぶっこわれる。「頭」とだけ書いて、「肉」を隠しているので、それに気づかずに接触して、「肉」がいきなり反応する。「肉体」が反応する。
だれでもそうかもしれないが(私だけ?)、「隠れている肉」というのは、出会った瞬間にどきりとする。なんだか秘密をのぞいたようで、ぞくぞくする。しかも、その「隠された肉体」は、何度も何度も、その肉体しか知らないことを、つまり私の知らないことを反復していたのだ。
うーん、その繰り返された「肉体の欲望」に、私の「肉体」はこたえることができるのか--と書くとまるでほんとうにセックスになってしまうが、そういう書かれていないことを読みとる(誤読する)のが、私の、楽しみである。
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