詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金子鉄夫「マディビート論、ナガシマ へ」

2012-11-23 10:58:46 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「マディビート論、ナガシマ へ」(「おもちゃ箱の午後」5、2012年11月20日発行)

 「おもちゃ箱の午後」を読みはじめてすぐに、同人誌はむずかしいなあ、と思った。「人数」がむずかしい。誰といっしょにやるかがむずかしい。似たもの同士はつまらないけれど、違いすぎるとまた遠心力が強すぎて……。
 「おもちゃ箱の午後」のような状況のなかでは、金子鉄夫「マディビート論、ナガシマ へ」がとても読みやすい。どうせ、みんなばらばら。そこで生き残るには軽さとスピード。混沌はどうしても停滞する。まあ、そこでさらに停滞し、重力そのもののことばになればそれはそれでいいのだろうけれど。重力そのものになれないときは、ただ突っ走る。そうすると、動いているということが、何かしら輝かしいものに見えてくるのである。

ノラ猫のエリコ(ツレがつけた名前さ、

 これは秋亜綺羅がフェイスブックで引用していた部分だが、ここはほんとうにおもしろい。音がおもしろい。「ら行」「な行」が交錯するのだが、「エリコ」ではなくてほかの名前だったら、「ツレ」ではなく「恋人」とか「女」だったら、このことばの美しさは完全に消えてしまう。
 こういう音に対する感覚というのはきっと生まれついてのものだと思う。あれこれことばを動かしても、自然な音の響きにはならない。そして、その音というのは、黙読しかしない私が言うと奇妙なことになってしまうが、ことばを「声」としてつかんでいる人間にしか書けないものだと思う。ことばを「声」からとらえる人間にしか書けないものだと思う。
 「声」というのは「肉体」である。「文字」と比較するとわかりやすいと思う。「文字」は肉体と離れて存在するが、「声」は肉体とは離れて存在することはできない。
 もっとも、いまは録音器機が発達しているから、必ずしもそうとはいえないのだけれど。そして、きっと、(と私は思うのだが)、録音器機が発達してしまった時代のひとのことば(音に対する感覚)と、それ以前の人間のことばは違うんだろうなあ。
 変ないい方になるが、そういう意味では、金子のことばは「古い」のである。秋亜綺羅と私は、まあ、同年代である。テープレコーダー(古い!)をもっていることは「自慢」できることのひとつであった世代である。そういう人間にとってことば、声とは「肉体」そのものである。だから、「肉体」を感じさせる「音」に出会うと、それに反応してしまう。いまのひとは、「音」と「肉体」の関係が、もしかすると、私たちの世代の「文字」と「ことば」のようなのかもしれないとも思うので、私の書いていることは的外れということになるかもしれないが……。
 まあ、いいか。

 金子の詩にもどる。

わけわからないけどさ、どういうわけだかさ、
さっきからピンクっテラテラって、カワイイねってキミの
パックリひらいたひらいた網膜の穴に、たとえばサンシャイン60を出しては入れて入れては出して・・・

 これは詩の書き出しである。ここには「くりかえし」が多用されている。ことばの「経済学」からいうと「わけわからないけどさ、どういうわけだかさ、」は「わけわからないけどさ、」だけか、あるいは「どういうわけだかさ、」だけでもおなじ「意味」である。指し示すことがらはおなじである。けれど、これが「文字」ではなく「口語」の場合はどうか。もちろん「意味」そのものはかわらないのだが、くりかえしによって何かがかわる。
 くりかえしによって、聴いているひとが「意味」を反復するのである。一回ではつかみとれないものが2回くりかえされると、そこに引き込まれていく。それは「意味」というよりも、「肉体」そのものにひきこまれていく。
 反復のなかで「肉体」が共有されるのである。「意味」ではなく、そういうことばを話す人間といっしょに「いる」感じがしてくる。「わけわからないけどさ、」だけでは、ことばが指し示しているものが「肉体」のなかを素通りしてしまう。
 で、そんなことを思うと「音楽」というのはよくできているね。学校で習う簡単な音楽の形式のことだけれど、最初の旋律は少し形を替えて反復される。それから別な動きをして、最後にまた最初と同じようなメロディーが出てくる。そうするとその旋律が自然と「肉体」のなかに入ってくる。「肉体」のなかに残る。変奏しながらくりかえすというのは、「肉体」の外にあるものを「肉体」のなかに取り込む方法なのだ。そしてそれは音楽が生まれたときから自然に人間がつかみとってきたものなのだろう。
 だれかがおもしろい音を口ずさむ。すこしずれてだれかが反復する。いや、そうじゃないよ、こうだよ、というようなことをくりかえしていて、音を変化させることのおもしろさを発見したのかもしれない。そういうことは、「音楽」だけではなく、「ことば」のなかでもきっと起きているのである。
 くりかえされる「音」は「ことばの経済学」からいうとむだだが、「肉体の経済学(?)」にはきっと必要なものなのだ。
 あ、どうも、脱線するなあ。すっきりとは書けないなあ。
 金子の詩にもどる。
 2行目、

さっきからピンクっテラテラって、カワイイねってキミの

 ここには「って」というくりかえしがある。そして、その最初の音は正確には「……って」ではなく「……っテ」と「テラテラ」という「ことば」を先取りする形(?)で始まっている。
 この「正確ではない」ところが、つまり、「論理的構造(?)」ではないことろが、「口語」のおもしろさだね。その場のなりゆきしだいなのだ。「肉体」の動き、のどの動き、舌の動きが最初にあって、そのあとを「ことば」が追いかけてくる。「肉体」をとおってことばが生まれてくる。
 私は、こういうことばを信頼してしまう。「してしまう」というと、変だけれど、まあ、こういうことばの動きは信じて大丈夫と、私は思う。(←「感覚の意見」です。)
 「頭」で考えたことば、頭で集めてきたことばというのは、いつか「肉体」を裏切るような不安があるが、「肉体」をとおってきたことばは、それが私を裏切ったとしても大丈夫だ。それによって傷つく部分は少ない。なんといっても、まず、金子の「肉体」で「毒味」されたことばだからである。
 「頭」だけをとおってきたことば、どこかから「移植されたことば」は、こんな具合には信じることができない。そのことばは「経済学」的には非常に効率的だけれど、その効率のよさが「肉体」を傷つける--というのは、ことばではなく、現代の「ものの生産過程」でよくおきることだよね。
 あ、また、脱線した。
 
 で、こういう「肉体」をとおって動きつづけることばが、いろんな「むだ」を経ながら(いろんな「むだ」を経たからこそ)、 

ノラ猫のエリコ(ツレがつけた名前さ、

 というような、美しい「音」に結晶するのだと思った。
 そしてまた、金子のことばは、何がなんだかわからない「同人誌」のなかで、「肉体」を根拠にしているぶんだけ、強烈に印象に残る。


ちちこわし
金子 鉄夫
思潮社
コメント
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