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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八柳李花「sanctuary10 」

2011-04-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
八柳李花「sanctuary10 」(「おもちゃ箱の午後」創刊号、2011年03月20日発行)

八柳李花「sanctuary10 」はことばの粘着力がおもしろい。1行のなかに複数のことが語られる。そして、それは不思議にねじれながらからみついている。

しなだれる髪は長く時の鈍色にかかるので

 この書き出しの1行は、「しなだれる髪は長い」、そしてその「(長い)髪は(長さゆえに)時の鈍色にかかる(届く)」ということを言っているのか。あるいは、「しなだれる髪は」「長い(間)」「時の鈍色にかかる」と言っているのか。つまり「長く」は「髪」の属性(性質、ありよう)を語っているのか、それとも副詞的に働いて「長く(長い間)/かかる(掛かる、懸かる)」と言っているのか。
 詩だから、これは、どうでもいいのだ。その都度、読者が好きなふうに読めばいいのだ。と、私は考えているが、「好きなふうに」読もうとすると、何かがべたべたと絡みついてきて、いやあ、なかなか好きなふうには読めない。「時の鈍色」だって、それはいったい何? 「時」に色なんて、ある? わからないねえ。
 そして、わからないからこそなのかもしれないけれど、ことばがはっきりした「主語」「述語」の形をとらないままつづいていることに、引きずられてしまう。八柳のことばの動き、「構文」に引きずられてしまう。
 変な粘着力がある、ということにだけ意識が引っ張られてしまう。「意味」を考えない。だから「時の鈍色」というのも、なんだかわからなくたって、まあ、いい。そのうち、なにかの拍子にわかるかもしれないくらいの気持ちで、ことばを読むことになる。
 2行目。

死に絶えた魚類の陳列棚を端から模写しては地軸は傾いていった

 「死に絶えた魚類の陳列棚を端から模写し」たのは、だれ? 「模写しては」の「は」省略された「主語」が次の文の「主語」と共通しているということをあらわしていると思う。ウィスキーを一口のんで「は」、私は唾を吐いた、というときの「は」。「私は」ウィスキーを一口のんでは、唾を吐いた、と言い換えることができる。そういうときの「は」。--のはずだけれど、「地軸は傾いていった」の「主語」である「地軸」は、「模写」する「主語」になれる? 地軸はなにかを模写などできない。(学校教科書の「国語」では。)
 そうすると、「死に絶えた魚類の陳列棚を端から模写」する「主語」と、「地軸は傾いていった」の「主語」は違うのだから、それを「は」で結びつけて、関係があるかのようにしてしまうことばの動きは「間違っている」ことになる。
 「間違っている」のだけれど、その「間違っている」とこが「は」によって、強い力(粘着力)で結びつけられると、「意味」が消えて(ふたつの文章が、ありえない形で結びつけられている、という指摘がつまらないものになって)、あ、この「は」はすごい力をもっているなあ、とその「粘着力」のなかに引きずり込まれてしまうのである。
 3行目。

白いハンカチに広がる染みに世界から滑り落ちたかたまりは解きほぐされ

 「白いハンカチに広がる染み」。これは容易に想像ができるひとつの世界である。その「染みに」(染みのために/染みによって)「世界から滑り落ちたかたまりは解きほぐされる」、と読んでいいのかな? しかし、「染み」を思うと、「白いハンカチに」「世界から滑り落ちたかたまり」がつくりだしたものが「染み」のようにも思える。いや、やっぱりそうではなくて、白いハンカチに広がる染みを見ると、その染みを見た効果によって(?)、世界から滑り落ちたかたまりは解きほぐされる。白い、純潔な(あ、すけべなおじさんみたいなことばだなあ)ハンカチの染みは、あらゆる汚れを浄化してしまうほどの強烈なインパクトをもっているのだ……。
 えっ? そんなことは書いていない?
 あ、そうだろうなあ。
 だから、おもしろいのだ。八柳が書こうとしたこと(意味、あるいはストーリー)がなんであったか、読んでいて、私は気にしないのだ。何が書いてあったか、何を書こうとしているか、ではなく、そのことばの運動から、どれだけ「世界」を「誤読」できるか--「誤読」するためにことばを動かしていけるか。そのためのインスピレーションを与えてくれるものが詩なのである。
 八柳のことばから私が受け取るのは「意味」ではなく、ことばの「粘着力」だ。ことばの「粘着力」が強すぎて、ほんとうならば(?)、結びつかないものまでが結びつけられてしまう。その時の「結びつける力」に、これはおもしろいなあ、と思うのである。

 でも。
 この「粘着力」というのは、ほんとうに「粘着力」なのかな?
 もしかすると、それは「汚れ落としの粘着テープ」のように、絡み合った世界を引き剥がす力、世界を切断する力かもしれない。八柳は、何かを世界から必死になって引き剥がそうとしているのかもしれない。そして、その引き剥がし--引き剥がされる皮膚(?)のようなものの、悲鳴が、ほんとうはそこにあるのかもしれない。「悲鳴」(苦痛)の声(音、響き)というのは、人間の肉体にぐいと食い込んでくる。そして、感情をひっかきまわす。「意味」はわからないのに、それが「悲鳴」であることがわかる。「悲鳴」は「感情(感性)」を強い力で「粘着」し、かっさらっていく。
 私のなかからかっさらわれた何か--それが八柳の何かとべたべたと粘着している。絡み合っている。
 ということは、私の何かが、引き剥がされた、私が「切断」されたということである。私の「切断」されたものが、八柳のことばのなかにある。

しなだれる髪は長く時の鈍色にかかるので

 この冒頭の1行のなかの「時の鈍色」。その「意味」は私にはわからない。それは、私から「切断」されたものである。私と「時の鈍色」を結ぶものは何もない。
 いや、そうではなく、それは八柳のこばによって、そこに定着させられている。それはどこへも逃げてなどいかない。そして、読む度に、私をそこでつまずかせる。

 ああ、変だねえ。とても変だ。この、何がなんだかわからないけれど、そこには何か引きつけるものがある。

なぜ知っているのにこんなにも踏みしめる絵は美しくうつくしみを描くのか
壺のなかの香油を割って見たことのない深海にこうべを垂れた
髪を結いながら脚を洗うあのひとの声はどこかくぐもって沈んで
孤独の草原に麦を摘みながら実のならない樹木の蔭にやすんだ
知らないことがあまりにも知り得る世界に生まれ堕ちたから

 それぞれの行のなかに、本来なら別個に書かれるべきものが、結合した形で書かれている。粘着力を持って書き留められている--と読むことができるし、また、その別個の間には粘着力と同時に、全体に触れあわない切断が存在するとも読むことができる。
 粘着力が粘着力としての力を証明することができるのは、かけ離れたものを「接続」させるときである。そして、「切断」というものが「逆の形」で証明されるのは、それが「接続」されるときである。接続できるものは切断されたものだけである。
 この矛盾。
 どう言っていいか、わからない矛盾が八柳のことばのなかにある。
 もし、こう書くことが許されるなら、その切断と接続の矛盾としての「粘着力」が八柳の「sanctuary 」になるのかもしれない。

 --きょうの感想は、あっちこっち、走りすぎている。反省。タイマーとにらめっこをしながらキーボードを打つので、どうしてもこうなってしまう。




Beady‐fingers.―八柳李花詩集
八柳 李花
ふらんす堂
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ナボコフ『賜物』(39)

2011-04-05 09:13:42 | ナボコフ・賜物
 (長い中断のあとなので、前に書いたことと重複したことを書くことになるかもしれない。でも、書いていくしかない。)

 ナボコフを読むと、ナボコフがことばを追いかけているのか、ことばがナボコフを追いかけてつかまえてしまうのかわからなくなるときがある。それは何も華麗な文章を指していうのではない。たとえば、

フョードル・コンスタンチノヴィは上着も着ないで、素足にズックの短靴をつっかけて、日焼けした長い指で本を持ち、深い青色のベンチに腰をおろして一日の大半をすごした。
                                 (95ページ)

 この文章は、短くすれば「フョードル・コンスタンチノヴィせ、一日の大半を、ベンチで本を読んですごした。」ということになるだろう。
 「上着も着ないで」など、どうでもいい。「素足にズックの短靴」というのは、「素足にズックの靴」で十分である。そこに「短」ということばが入り込む。「深い青色のベンチ」の「深い青色」も同じ。ナボコフが事実をより具体的に書いている、というより、まるでことばがナボコフの本に降ってきた感じ。ナボコフは、それを書き留める。書き留めないことには先に進めないから--という感じすらする。
 しかし、そうではないのだ。
 その「証拠」を書こう。そのことを「証明」してみよう。
 先に書いたが、引用した一文は「主人公は一日の大半をベンチで本を読んですごした。」になる。誰が(主人公が)、いつ(一日の大半)、どこで(ベンチで)、何をした(本を読んだ)、をつたえるのが文章だとすれば、ナボコフの文章はそこまで短くできる。
 そして私の要約(?)とナボコフの文章を比較すると。
 ナボコフは本を「読んだ」とは書いていない。(訳が正確だと仮定しての話であるが)。「読んだ」のかわりに、本を「持ち」と書いている。
 「読む」という、主人公の動作をナボコフは省略している。もし、ことばがどこからともなくナボコフに降り注ぐものならば、ナボコフは「読んだ」と書いてしまうだろう。ナボコフは「読んだ」を避けているのである。肝心な「行動」を描写することを、その周辺を丁寧にことばで歩き回るのだ。
 ナボコフはことばに追いかけられるふりをして、実際には、ことばをふるいにかけている。こんなに長い小説を書きながら、実際は、ことばを削りこんでいるのだ。そして、ナボコフの小説が長いのは、このことばの「削り込み」を文章そのものの内部に抱え込んでいるからなのである。


賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社
コメント (3)
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