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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐々木安美『新しい浮子 古い浮子』

2010-12-04 23:59:59 | 詩集
佐々木安美『新しい浮子 古い浮子』(栗売社、2010年10月30日発行)

 佐々木安美『新しい浮子 古い浮子』の詩集のタイトルとなっているのは二つの詩である。二つだけれど一つとして読むことができる。だからあわせてタイトルになっているのだと思う。二つだけれど一つ、というのは、佐々木の「思想(肉体)」の基本である。
 「新しい浮子」「古い浮子」については、同人誌に発表されたとき感想を書いたはずなので、きょうは違う作品を引用しよう。「山毛欅(ぶな)の考え」。

あるかないかもわからない わたしらの考えの中に
みしらぬ山毛欅の大木が入ってきて いっせいに若葉を鳴らす
すこし前に かすかな風の前触れがあったはずだが 気づかなかった
それでよけいに 若葉を鳴らす山毛欅の音が鮮やかだ
山毛欅の大木は あるかないかもわからない
わたしらの考えというものを見つけだして
わたしらの中に もうひとつ別の考えがあることを
告げようとしているのか
ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを並べておくこと
そうすることで わたしらは世界を立体的に把握できる
そう告げようとしているのか

 最初に、私は「新しい浮子」と「古い浮子」は「二つだけれど一つ」と書いたが、その「二つ」と「一つ」の関係は、この作品のなかでは、

ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを並べておく

ということばで書かれている。ここに佐々木の「肉体」(思想)がある。「二つ」をただ並列させるのではない。「並べて」ということばを読むと、どうしても並列を思い浮かべるが、佐々木の「肉体」のポイントは「ひとつの考えの中に」の「中に」である。「内部」に置くのだ。そして、その置きかたが「並べて」置くのだ。
 ひとつの考えの中にもう一つを並べて置く--というのは、現実的には(?)できない。並べて置くには、二つはそれぞれ離れていなければならない。だから、佐々木の書いていることは「間違っている」(論理的ではない)。不可能なことを書いている。
 そして、この「間違い」「不可能」のなかにこそ、佐々木の書きたいことがある。佐々木の思想がある。「間違っている」のは、佐々木の考えがほんとうに間違っているのではなく、いま、つかわれていることばでは書けないことを書こうとしているから、それが「間違い」という形になってしまうだけのことなのである。
 「間違い」や「矛盾」のなかにこそ「思想」がある、と私はいつも考えている。「間違い」や「矛盾」のなかには、まだだれも書かなかったことが書かれている。そういうことばは、いま、私たちがつかっていることばでは判断できないものなのだ。私たちのつかっていることばを基準に強引に判断すれば「間違い」としかいいようのないものであるということだけだ。
 佐々木は、この「間違い」をとおして何を言いたいのか。何を言うために、あえて(わざと)「間違い」を犯したのか。

ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを並べておくこと
そうすることで わたしらは世界を立体的に把握できる

 「立体的」が佐々木の書きたいことである。
 この「立体的」ということばは、なかなか難しい。そこにこめられている佐々木の思いを正確につかみ取るのは難しい。
 私たちはだれでも「ひとつ」の視点で世界をみる。そのときの世界は「立体的」ではないのか。そんなことはない、とひとは言うだろう。ひとつの視点で見ても世界は「立体的」である。机や椅子は立体的に見えるし、そういう「もの」だけではなく、たとえばいま話題のウィキリークスも、アメリカ政府と内部告発者の関係を、平面的な綱引き(?)というだけではなく、なにやら複雑な、平面というよりは、立体に、立体というよりはさらに次元の多い世界のように感じさせる。
 「立体」とは何なのだろう。「立体的」とはどういうことなのだろう。

ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを(並べて)おく

 ひとまず、「並べて」をかっこに入れて、除外して考えてみる。そうすると、「ひとつの考え」が外側の存在、中におかれた「もうひとつ別の考え」が内側の存在になる。考えに内部と外部が生まれる。この内部・外部という関係が「立体」なのである。
 では、かっこに入れた「並べて」は何だろう。「並べる」とき、それが「もの」であるときは、たいていは「ひとつの平面」に並べる。机の上にならべる、とか。「中」(内部)には並べられない。中には「置く」ことしかできない。けれど、佐々木は「並べて・おく」と言う。
 「並べておく」というのは、実は、別の「意味」をもっている。「もの」を並べておくとき、ひとは、その「二つ」を同等のものとして、そこに「並べておく」。それがたとえ 100万円のダイヤと 500円のガラス玉だとしても、それを「並べておく」とき、そのどちらを客が買おうが、その選択を売り手としては区別しないということである。 100万円のものを買ってもお客様、 500円のものを買ってもお客様。(もちろん、値段にそれだけの差があれば、店員の対応の仕方は違ってくるだろうが、そういう「心理」は別のものとして考えてください--比喩なのだから。)
 内部・外部を同等に扱う--というのは、あるときは内部であったものが、あるときは外部である、という入れ替えを許すということである。区別しないということである。
 というよりも、内部・外部を積極的に往復するということである。
 外部があり、内部があるから「立体的」なのではなく、内部と外部を往復するからこそ「立体的」なのである。「的」にこめられた意味合いは、往復にある。

 詩、そのものにもどって、読み返してみる。

あるかないかもわからない わたしらの考えの中に
みしらぬ山毛欅の大木が入ってきて いっせいに若葉を鳴らす

 この書き出しの2行では、「わたしらの考え」が「外部」であり、その中に入ってきた「山毛欅の大木」は「内部」である。その山毛欅は、「内部」で何をするか。

山毛欅の大木は あるかないかもわからない
わたしらの考えというものを見つけだして
わたしらの中に もうひとつ別の考えがあることを
告げようとしているのか

 山毛欅は、「わたしらの考えの中に」、さらに「もうひとつ別の考えがあること」を見つけ出す。このとき、「内部」のなかに、さらに「内部」が生まれる。最初の「わたしらの考え」は「外部」であり、山毛欅が見つけ出した「もうひとつの別の考え」がさらなる「内部」になる。そして、そのとき、山毛欅はどこにあるのか。最初の「外部」としての「わたしらの考え」の中にあるのか、それとも「内部」の考えを見つけ出したのだから、発見された「内部としてのわたしらの考え」の中にあるのか。「外部」だけでも、「内部」だけでもない。それは、「外部」と「内部」を往復して、「内部」があることを報告しなければ、その考えが存在していることがわからない。
 そうして実際に往復がはじまると、「外部」「内部」の区別はどうなるだろう。
 「内部」と思っていたものがだんだん重要になり、「外部」を圧倒してはみ出して、いままで「外部」だったものを飲み込んで「内部」にしてしまう--そういうこともあるだろう。「考え」というようなものは、不定型なのだから、そういうことがだれにでも起きる。
 それは「考え」の「内部・外部」だけの問題ではない。「考え」というのは「名詞」だけれど、「考え」という「名詞」は便宜的なもので、「考え」には「考える」という動詞しかない。
 「わたし」が何かを考える。
 そうすると、その何かが「わたし」の内部に入ってきて、それまで「わたし」が気がつかなかったもの、「わたしの中のもうひとつのわたし」を見つけ出す。でも、その「発見されたわたし」というのは「わたし」が発見したものではなく、「わたし」の内部に入ってきた「もの」が発見したのだから、そのとき「わたし」は「わたし」ではなく、「わたしの中に入ってきたもの」になっている。
 「わたし」(内部--入ってこられた方は、内部である)が「わたしの中に入ってきたもの」(外部から入ってくるのである)が、そのとき、入れ代わる。「考え」だけではなく、「わたし」という存在(肉体)そのものが入れ代わってしまう。
 「考える」というのは、「わたし」が「わたし」ではなくなることなのだ。

山毛欅の大木はわたしらの考えの中で 小さな光の短冊をいっせいに鳴らす
わたしらは山毛欅の考えの中で 大気をいっぱいに吸い込んで
細い枝の先まで光をあびている

 佐々木の書いている「わたしら」は「わたしら」ではなく「山毛欅」になっている。世界が「考え」(考えるという運動の中で)、逆転する。「わたしら」は「わたしら」と「山毛欅」を往復して、世界を新しくみつめなおすのだ。そういう「往復運動」と、世界の把握の仕方を、佐々木は「立体的」と呼ぶ。
 「立体的」とは「内部・外部」の区別をなくし、そこを「往復すること」なのだ。「外部」「内部」という「二つ」は往復運動によって「一つ」になる。「二つ」を「一つ」にしてしまう運動を「立体的運動」と呼ぶことができる。そのような「立体」としての「肉体」が佐々木である。




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ナボコフ『賜物』(27)

2010-12-04 10:34:34 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(27)

 ナボコフのことばには乱暴と繊細が同居している。

 にわか雨が止んだ。恐ろしく単純に、なんの仕掛けも芝居気もなく街灯が一斉に点った。(略)街灯の湿っぽい光に照らされて、自動車が一台、エンジンをかけたまま停まっている。車体の水滴は一つ残らず震えていた。
                               (50-51ページ)

 これ以上短くはいえないというくらい短く「にわか雨が止んだ。」と言い切ってしまう。「恐ろしく単純に、なんの仕掛けも芝居気もなく」というのも「乱暴」な表現である。そこにはどんな繊細な感覚も入ってくることはできない。繊細さを拒絶した、剛直なことばの運動である。それが車の上に残る水滴の描写になると一転して繊細になる。
 「車体の水滴は一つ残らず震えていた。」の「一つ残らず」が、ナボコフの視覚の強さを、繊細さを浮き彫りにする。そして、その振動(震え)によって、水滴が落ちる、ということを書かないことが、とても魅力的だ。ボンネットはまっ平らではない。エンジンによって震え、水滴が震えているなら、その車体からこぼれ落ちる水滴があってもいいはずだが、ナボコフは、それは書かない。
 時間が止まる--のではなく、たぶん、あらゆる時間がその「震え」のなかになだれ込むのだ。
 車と、その車の上の水滴の描写なのに、なぜか、車の「過去」(来歴)が見えるような、不思議な気がする。その車は、だれを乗せてきたのか、なぜそこに止まっているのか--そういうことを、思わず想像してしまう。



ナボコフのドン・キホーテ講義
ウラジーミル ナボコフ
晶文社
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