つる見忠良「黒仁田の風」(「歴程」571 、2010年09月01日発行)
(つる見の「つる」は「雨」冠に、「金」と「鳥」)
つる見忠良「黒仁田の風」は「想像する」という「過程」がない。「現実」があって、それをはっきり見るために「仮説」を導入するとか、「現実」のなかに感じる違和感がことばを「ここにないもの」へと突き動かしていく、という運動がない。
ことばが動くのではなく、いきなり「もの」が動く。
くろにたの ほそみち わすれみち
かぜが はかりしれぬ へびに なって
うずを まきながら わたって ゆく
あちらで あちらの たにが よんで いる
かぞえきれない きぎや くさやぶが
おおきな おおきな へびの てに なって
うれしげに どうどうと
なにもかもが ゆさぶられている
やまの そこが こきざみに ゆれている
もう ちょいとで
ぼくも とべる
「へび」。この「へび」は「なって」ということばを出発点に考えるなら、「かぜ」が「へび」に「なる」わけだから、現実には存在しないもの、「比喩」としての「へび」であるはずなのだが--私の「頭」はそう理解しろというのだが……。
なんといえばいいのだろう。
「比喩」という「構造」、「比喩」という「精神運動」とは違ったものとして私には感じられる。私の「肉体」はそれを「比喩」の運動として受け入れることをいやがっている。言い換えると、「比喩」として理解する前に、私の「肉体」は「へび」そのものを見てしまう。
「理解する」のではなく「見る」。見てしまう。詩のタイトルが「黒仁田の風」であるにもかわらず、私は「風」ではなく、「へび」を見てしまう。
「はかりしれぬ」というのは「無数」ということかもしれないが、私には「はかることのできない・巨大な」という大きさで迫ってくる。数ではなく、一匹の巨大さ。長い長い、太い太い「へび」。それが見える。
どれくらい大きいかというと、黒仁田の谷だけではなく、「あちらの」谷間でつないでしまうくらいの巨大な長さである。そこまで大きくなると、それは「想像」の産物でしかない。「空想」でしかないはずなのに、「想像・空想」ではなく、ほんとうに巨大な「へび」が見えてしまう。目が、その存在を要求している。
そんな巨大な「へび」などいるはずがないから、その「へび」はまたありえない「世界」を呼び込んでしまう。「きぎや くさやぶが」「へびの てに なって」しまう。蛇に手などありはしないから、「頭」で考えるとこれは奇妙なことばの世界だが、私にはまったく奇妙には感じられない。とても不思議である。私の目は「へびの て」を見てしまうのだ。
2行目の「へび」、そして6行目の「へびの て」は、きのう読んだ小島の詩と重ね合わせるようにすると、「その音の中に」と「たとえその音の中から」の関係に似ているかもしれない。
「へび」という「世界」へいったん入ってしまったことばは、それを土台にして「へびの て」という世界へ突き進んでいく。そういう関係に似ているかもしれない。
けれども、どこかが違う。
小島のことばの世界はあくまで「比喩」という論理を動いている。構造を動いている。ところが、つる見のことばは「比喩」として動いていないのだ。
言いなおすと……。
この「かぞえきれない」から「ゆさぶられている」までの4行は、「学校教科書」の「文法」では、少し奇妙である。
数えきれない木々や草藪が蛇の手になって、何かを「揺さぶっている」ではなく、「揺さぶられている」。「論理」が破綻している。「比喩」ではない、というのは、たぶん、この「論理」の破綻と関係があるのだ。
「比喩」というのは、もともと「いま」「ここ」にないものをつかって、「いま」「ここ」にあるもの語る「技法」である。「ない」という意識が明確にあり、それを「ある」にかえる。それが「比喩」である。
きみの瞳はダイヤモンドであるというとき、ダイヤモンドは「ここ」にはない。「ここ」というのは「瞳」のことである。瞳はダイヤモンドではないからこそ、ダイヤモンドが瞳の「比喩」になる。存在しない(ない)ダイヤモンドを「ある」にかえ、あると仮定する力のなかへ聞き手を誘い込むのが「比喩」である。
そして、「比喩」が成り立つとき、そこでは「論理」が一貫している。瞳とダイヤモンドは明確に区別されている。
ところが、つの見のことばは、「比喩」のもっているはずの「区別」を失っている。「ある」と「ない」がどこかで結びつき、「一体」になり、区別がつかなくなっている。
「へびに なって」「へびの てに なって」の「なる」は「比喩」ではないのである。
いや、言いなおそう。
それは「かぜ」が「へび」に「なる」のではなく、「かぜ」と「へび」が「一体」になるのだ。それは「へび」ではないのだ。「かぜ」と「へび」が一体になった、なづけられないもの、新しい存在そのものなのだ。「へび」は「比喩」ではなく、「かぜ」と「へび」が一体になりに、融合した、新しい「存在(もの)」なのだ。
それは、「頭」では理解できないものだ。それは、ただ「見る」ことしかできないものなのだ。
「へびの て」も同じだ。もともと「へび」に手などありはしない。したがって、それは「比喩」には最初からなりようがない。「て」は「比喩」ではなく、「存在(もの)」なのだ。
「へび」と「きぎ」「くさやぶ」が「一体」になったもの、区別のつかないものが「へびの て」であり、「へび」が「かぜ」と「へび」が一体になったもの、なづけられないものであるとき、「へびの て」は、「かぜ」「へび」「きぎ」「くさやぶ」の区別がつかない「世界」そのものである。そこに「かぜ」と「へび」がすでに含まれているから、その「て」は「かぜ」と「へび」に「ゆさぶられる」のである。
そして、この「一体」となった世界は「ゆさぶられる」と同時に、「ゆれている」ということそのものになる。
つる見は、この作品では「比喩」など書いていない。「頭」で世界を整理しているのではないのだ。
黒仁田という土地と風をそのまま「肉体」でつかみとり、「ことばの肉体」のなかで、まだ名づけられていない「もの」そのものとして再現しているのである。いや、生み出している、というべきか。
「かぜ」と「へび」と「きぎ」と「くさやぶ」が一体になる。こちらの谷も、あちらのたちも一体になる。そこでは、つる見自身が、「黒仁田」という土地そのものとも一体になっている。何もかもをゆさぶる「て」、ゆれている「て」は、当然つる見の「肉体」そのものでもある。
「いま」「ここ」が「つる見」そのものなのだから、そこでは何でも可能である。つの見は「かぜ」になって飛ぶことができる。どこまでも、へびのように地を這いながら、同時に飛翔するという「矛盾」を一気に実現できる。
うれしげに どうどうと
いいなあ、この実感。それは、つる見の肉体そのものの感覚なのだ。世界との一体感なのだ。一体感のあるところ、矛盾はない。
矛盾は「頭」のなかなにだけあるものだから。