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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マイケル・ホフマン監督「終着駅-トルストイ最後の旅-」(★★)

2010-10-27 16:47:27 | 映画
監督 マイケル・ホフマン 出演 ヘレン・ミレン、クリストファー・プラマー、ジェームス・マカヴォイ、ポール・ジアマッティ、アンヌ=マリー・ダフ、ケリー・コンドン

 私はトルストイを1冊も読んだことがない。で、トルストイ主義というのも実感がない。映画でみるかぎり、社会がリアルに描かれていないので、非常に抽象的にしか感じられない。絵空事の博愛主義にしか感じられない。トルストイはともかく、とりまきが主義を具体化しようとする根拠のようなものがさっぱりわからない。ほんとうは、働かずに、社会に役立っていると思いたいだけ?
 ヘレン・ミレンの熱演だけが印象に残るなあ。その熱演も、まあ、悪く言えば周りがあまりにもぼんやりした演技をしているからだね。まわりの人から、肝心の「トルストイ主義」がまったく感じられない。だから、三大悪妻といわれるトルストイ夫人だって、全然悪妻には見えない。トルストイを愛しているのに分かってもらえない悲しみがつたわってくるだけ。
 トルストイ主義者(信奉者?)の若い男女の恋愛がサブテーマとして描かれるけれど、これも変だね。トルストイの「博愛主義」のアンチテーゼ? で、トルストイ主義を破っていく力があるのかな? それともトルストイ主義に屈した? なんとも中途半端。童貞が、初めての女性を忘れられずに泣きついているだけのように感じられるが、それがトルストイの若い時の姿?
 わからないことだらけだ。
 まあ、ロシアの自然は美しい。白樺が特に美しい。透明な、冷たい空気があって、その木肌も葉っぱも輝くんだねえ。


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誰も書かなかった西脇順三郎(148 )

2010-10-27 11:31:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。

 俗なことば、といっていいのかどうかわからないが、西脇の詩には、私の感覚からすると「俗なことば」が頻繁に出て来る。

リキュア・グラスのようなヴィーナスが
山際にふるえる九月の夕方近く
無限に近い悲しみを背負つて
すみれ色の影のある壁によりかかつて
永遠にふるえる存在の涙をさがした

 「涙」ということば自体は「俗」ではないかもしれないが、「悲しみ」「すみれ色」「影」ということばといっしょになると、非常にセンチメンタルになる。「意味」よりも先に「感情」があふれてくる。
 こういう「感情」に「無限」「永遠」「存在」という堅苦しいことばがぶつかる。そうすると、センチメンタルもつきつめ方しだいて「哲学」になるような気持ちになる。一瞬、「感情」が破られたような気持ちになる。
 あ、でも、私のこの書き方は、間違っているね。
 西脇は「無限」「永遠」「存在」ということばを先にもってきて、それに「悲しみ」「すみれ色」「影」「ふるえる」「涙」をぶっつけている。
 「無限」「永遠」「存在」は、西脇にとって「哲学」のことばではなく、センチメンタルなことば以上に「俗」なのものなのかもしれない。その「俗」を悲しみ」や「涙」という「俗」で破ろうとしている。
 だから、「涙」という「俗」なことばが、それ自体では「俗」なのに、この詩のなかでは「俗」ではなく、もっと違うものになる。
 なんといえばいいだろう。
 粗野--ちがうな。荒々しい何か。野蛮--あ、きっとそうなのだ。野蛮なのだ。
 西脇は野蛮の美しさ、強さを書いているのだ。

 「背負つて」「よりかかつて」という脚韻(?)の響きを「さがした」が破るとき、その「が」という濁音がとても美しい。ここでいったん世界が完結する、という印象がする。「無限」「永遠」「存在」に呼応する漢字塾語の動詞では、野蛮は見えてこない。「さがした」という日常のことばだからこそ、それは美しい。

 野蛮がいったん成立すると、むきだしになる「いのち」、汚くよごれたものが「俗」から「聖」にかわる。

神聖なものはこのとうもろこしと
この乞食のつぶれた帽子だけになつた
野ばらのとげに破れ
やぶじらみがついた
この冠だこの夕暮の冠だ

 「乞食」「やぶれた(帽子)」「とげ」「破れ」「やぶじらみ」。破れ目からのぞくのは、しぶとい「いのち」である。「いのち」があざやかに見えてくる。
 それは、真っ白な肌に流れる血のように赤い。鮮烈だ。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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つる見忠良「黒仁田の風」

2010-10-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
つる見忠良「黒仁田の風」(「歴程」571 、2010年09月01日発行)
               (つる見の「つる」は「雨」冠に、「金」と「鳥」)

 つる見忠良「黒仁田の風」は「想像する」という「過程」がない。「現実」があって、それをはっきり見るために「仮説」を導入するとか、「現実」のなかに感じる違和感がことばを「ここにないもの」へと突き動かしていく、という運動がない。
 ことばが動くのではなく、いきなり「もの」が動く。

くろにたの ほそみち わすれみち
かぜが はかりしれぬ へびに なって
うずを まきながら わたって ゆく
あちらで あちらの たにが よんで いる
かぞえきれない きぎや くさやぶが
おおきな おおきな へびの てに なって
うれしげに どうどうと
なにもかもが ゆさぶられている
やまの そこが こきざみに ゆれている
もう ちょいとで
ぼくも とべる

 「へび」。この「へび」は「なって」ということばを出発点に考えるなら、「かぜ」が「へび」に「なる」わけだから、現実には存在しないもの、「比喩」としての「へび」であるはずなのだが--私の「頭」はそう理解しろというのだが……。
 なんといえばいいのだろう。
 「比喩」という「構造」、「比喩」という「精神運動」とは違ったものとして私には感じられる。私の「肉体」はそれを「比喩」の運動として受け入れることをいやがっている。言い換えると、「比喩」として理解する前に、私の「肉体」は「へび」そのものを見てしまう。
 「理解する」のではなく「見る」。見てしまう。詩のタイトルが「黒仁田の風」であるにもかわらず、私は「風」ではなく、「へび」を見てしまう。
 「はかりしれぬ」というのは「無数」ということかもしれないが、私には「はかることのできない・巨大な」という大きさで迫ってくる。数ではなく、一匹の巨大さ。長い長い、太い太い「へび」。それが見える。
 どれくらい大きいかというと、黒仁田の谷だけではなく、「あちらの」谷間でつないでしまうくらいの巨大な長さである。そこまで大きくなると、それは「想像」の産物でしかない。「空想」でしかないはずなのに、「想像・空想」ではなく、ほんとうに巨大な「へび」が見えてしまう。目が、その存在を要求している。
 そんな巨大な「へび」などいるはずがないから、その「へび」はまたありえない「世界」を呼び込んでしまう。「きぎや くさやぶが」「へびの てに なって」しまう。蛇に手などありはしないから、「頭」で考えるとこれは奇妙なことばの世界だが、私にはまったく奇妙には感じられない。とても不思議である。私の目は「へびの て」を見てしまうのだ。

 2行目の「へび」、そして6行目の「へびの て」は、きのう読んだ小島の詩と重ね合わせるようにすると、「その音の中に」と「たとえその音の中から」の関係に似ているかもしれない。
 「へび」という「世界」へいったん入ってしまったことばは、それを土台にして「へびの て」という世界へ突き進んでいく。そういう関係に似ているかもしれない。
 けれども、どこかが違う。
 小島のことばの世界はあくまで「比喩」という論理を動いている。構造を動いている。ところが、つる見のことばは「比喩」として動いていないのだ。

 言いなおすと……。

 この「かぞえきれない」から「ゆさぶられている」までの4行は、「学校教科書」の「文法」では、少し奇妙である。
 数えきれない木々や草藪が蛇の手になって、何かを「揺さぶっている」ではなく、「揺さぶられている」。「論理」が破綻している。「比喩」ではない、というのは、たぶん、この「論理」の破綻と関係があるのだ。
 「比喩」というのは、もともと「いま」「ここ」にないものをつかって、「いま」「ここ」にあるもの語る「技法」である。「ない」という意識が明確にあり、それを「ある」にかえる。それが「比喩」である。
 きみの瞳はダイヤモンドであるというとき、ダイヤモンドは「ここ」にはない。「ここ」というのは「瞳」のことである。瞳はダイヤモンドではないからこそ、ダイヤモンドが瞳の「比喩」になる。存在しない(ない)ダイヤモンドを「ある」にかえ、あると仮定する力のなかへ聞き手を誘い込むのが「比喩」である。
 そして、「比喩」が成り立つとき、そこでは「論理」が一貫している。瞳とダイヤモンドは明確に区別されている。
 ところが、つの見のことばは、「比喩」のもっているはずの「区別」を失っている。「ある」と「ない」がどこかで結びつき、「一体」になり、区別がつかなくなっている。
 「へびに なって」「へびの てに なって」の「なる」は「比喩」ではないのである。
 いや、言いなおそう。
 それは「かぜ」が「へび」に「なる」のではなく、「かぜ」と「へび」が「一体」になるのだ。それは「へび」ではないのだ。「かぜ」と「へび」が一体になった、なづけられないもの、新しい存在そのものなのだ。「へび」は「比喩」ではなく、「かぜ」と「へび」が一体になりに、融合した、新しい「存在(もの)」なのだ。
 それは、「頭」では理解できないものだ。それは、ただ「見る」ことしかできないものなのだ。
 「へびの て」も同じだ。もともと「へび」に手などありはしない。したがって、それは「比喩」には最初からなりようがない。「て」は「比喩」ではなく、「存在(もの)」なのだ。
 「へび」と「きぎ」「くさやぶ」が「一体」になったもの、区別のつかないものが「へびの て」であり、「へび」が「かぜ」と「へび」が一体になったもの、なづけられないものであるとき、「へびの て」は、「かぜ」「へび」「きぎ」「くさやぶ」の区別がつかない「世界」そのものである。そこに「かぜ」と「へび」がすでに含まれているから、その「て」は「かぜ」と「へび」に「ゆさぶられる」のである。
 そして、この「一体」となった世界は「ゆさぶられる」と同時に、「ゆれている」ということそのものになる。

 つる見は、この作品では「比喩」など書いていない。「頭」で世界を整理しているのではないのだ。
 黒仁田という土地と風をそのまま「肉体」でつかみとり、「ことばの肉体」のなかで、まだ名づけられていない「もの」そのものとして再現しているのである。いや、生み出している、というべきか。
 「かぜ」と「へび」と「きぎ」と「くさやぶ」が一体になる。こちらの谷も、あちらのたちも一体になる。そこでは、つる見自身が、「黒仁田」という土地そのものとも一体になっている。何もかもをゆさぶる「て」、ゆれている「て」は、当然つる見の「肉体」そのものでもある。
 「いま」「ここ」が「つる見」そのものなのだから、そこでは何でも可能である。つの見は「かぜ」になって飛ぶことができる。どこまでも、へびのように地を這いながら、同時に飛翔するという「矛盾」を一気に実現できる。

うれしげに どうどうと

 いいなあ、この実感。それは、つる見の肉体そのものの感覚なのだ。世界との一体感なのだ。一体感のあるところ、矛盾はない。
 矛盾は「頭」のなかなにだけあるものだから。




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