高橋睦郎『百枕』(10)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)
「春枕--四月」。
「ありけり」と「ありにけり」は、どれくらい違うのだろう。「ありけり」の方が少しやわらかい感じがする。「ありにけり」だとそこにあるものが絶対的な無、空白と対峙している感じがするが、「ありけり」は、向き合うものがある。ここでは、金屏風と向き合っている。そのあいだ、向き合った「枕」と「金屏風」のあいだに「春のくれ」が入り込んできた感じがする。「時間」が入り込んできた感じがする。
ここに書かれているのは、「もの」(存在)なのか、「時間」なのか、ということを考えてみたくなる。
私の癖で、こういうことを考えはじめると、どうしても「時間」の方へ動いて行ってしまう。「時間」。枕がそこにある--それは、きのうの枕、けさの枕、そしてこれからはじまる時間のための枕。ついつい、「物語」を想像してしまう。「もの」も「物語」を持っているだろうけれど、そういう「物語」も「時間」でときほぐしていくと、そこいくつもの感情が動くので、ついついそうしてしまう。その枕は男のもの? 女のもの? 朝別れるとき、また夜の契りを約束したのだろうか。その約束のことばを、女は(男は)どう感じたか……。「くれ」の時間、揺れ動く時間。「くれて」と動きを意識したことば。あ、ひとのこころは変わるもの--という不安も、そして期待も、それから祈りもそこにはいってくる。
「ありにけり」だと、こんな面倒なことは考えないだろうなあ。
これはかわいらしいなあ。笑いたくなるなあ。ひな人形は眠らない。でも、ひとの見ていないときには眠るかもしれない。眠ってほしい。夢を見てほしい。そのための枕。
人間は、ありえないことを考える。
ありえないことを考えるのに、ことばがつかわれる。ありえないことも、ことばのなかでは、ありうることとして動いてしまう。
おかしいねえ。
ことばが、絶対にあることしか考えられないとしたら、世界から間違いはなくなる。なぜ、間違えるように、ありえないことを考えるように、ことばは動くのだろうか。
そして、ことばがそんなふうに間違えたことばかりを考えて動くのだとしたら、その間違いを「許せる範囲」で遊ばせるにはどうしたらいいんだろう。ことばが人間を(世界を)破壊するために動かないようにするにはどうすればいいんだろう。
あ、これは、考えるべきことじゃないね。
ただ、ことばがどんなふうにして遊べるか、それを単純に楽しめばいいのだろう。
こういう句も好きだなあ。西行がどんな枕をつかっていたか、好んでいたか。そんなことは西行の「業績」とは関係がない。けれども、その人間をかたちづくるのは「業績」だけじゃないね。硬い枕が好き、やわらかい枕が好き、高い枕がいい、低い枕でないと夢見が悪い。そういう「肉体」(感性)からひとは他人に近づいていくということもある。そして、不思議なことに、「肉体」の方が裏切らないという印象もある。「硬い枕が好きな奴なか信じられない」という理不尽な理由の方が、ある判断にとっては間違えないための基準だったりする。そんな理不尽なことが理由になってはいけないのだけれど、それがなってしまうとういことがある。
「肉体」もまたことばと同じように、理不尽に、間違えるために動くことがある。そして、その間違える、余分なところへ逸脱していく--その「逸脱」のなかに、なにか他者と接する契機のようなものがあるのだと思う。
間違えて、自分から逸脱していく。自分が自分ではなくなる。そういう自分ではなくなったもの同士が触れ合って、いままでそこに存在しなかったものを生み出す。そういうことをするために、ことばはあるのかもしれない。詩はあるのかもしれない。
いろっぽくて、いいねえ。この句がちらりと左目の片隅に見えたから、「金屏風」「雛の具」の句を読んだとき、セックスまで想像してしまったのかなあ。
目は、一瞬の内に見えないものを見てしまうから、面倒だね。
この句はいいなあ。大好きだなあ。何もすることがなくて、横になる。ひじ枕という手もあるけれど、手がしびれる。座布団を折って高さを調節して、枕にする。この一連の動きのなかにある、人間の「時間」。自分の肉体にあった枕の高さをつかみ取るまでの時間--そういうくだらない(?)もののなかに、人間のゆるがない確かさを感じる。「俗」の確かさ、絶対に間違えない人間の生きる力というものを感じる。
私は、なにかを間違えてどんどん暴走するものが大好きだが、そういう暴走のときも、どこかにここに書かれているような、全体に間違えない人間の力がないと信じられない。逆に言えば、こういうぜったいに間違えない人間の力を出発点としての暴走なら、どこまでいっても大丈夫と安心してついて行ける。
*
反句は、
「枕」は「季語」ではないという。そして、もし季語にするなら、その季節は? 春がいい、と高橋はいう。
「座布団」の句を読むと、そうだなあ、と思う。納得する。

「春枕--四月」。
春くれて枕ありけり金屏風
「ありけり」と「ありにけり」は、どれくらい違うのだろう。「ありけり」の方が少しやわらかい感じがする。「ありにけり」だとそこにあるものが絶対的な無、空白と対峙している感じがするが、「ありけり」は、向き合うものがある。ここでは、金屏風と向き合っている。そのあいだ、向き合った「枕」と「金屏風」のあいだに「春のくれ」が入り込んできた感じがする。「時間」が入り込んできた感じがする。
ここに書かれているのは、「もの」(存在)なのか、「時間」なのか、ということを考えてみたくなる。
私の癖で、こういうことを考えはじめると、どうしても「時間」の方へ動いて行ってしまう。「時間」。枕がそこにある--それは、きのうの枕、けさの枕、そしてこれからはじまる時間のための枕。ついつい、「物語」を想像してしまう。「もの」も「物語」を持っているだろうけれど、そういう「物語」も「時間」でときほぐしていくと、そこいくつもの感情が動くので、ついついそうしてしまう。その枕は男のもの? 女のもの? 朝別れるとき、また夜の契りを約束したのだろうか。その約束のことばを、女は(男は)どう感じたか……。「くれ」の時間、揺れ動く時間。「くれて」と動きを意識したことば。あ、ひとのこころは変わるもの--という不安も、そして期待も、それから祈りもそこにはいってくる。
「ありにけり」だと、こんな面倒なことは考えないだろうなあ。
雛の具に二タ小枕もありぬべし
これはかわいらしいなあ。笑いたくなるなあ。ひな人形は眠らない。でも、ひとの見ていないときには眠るかもしれない。眠ってほしい。夢を見てほしい。そのための枕。
人間は、ありえないことを考える。
ありえないことを考えるのに、ことばがつかわれる。ありえないことも、ことばのなかでは、ありうることとして動いてしまう。
おかしいねえ。
ことばが、絶対にあることしか考えられないとしたら、世界から間違いはなくなる。なぜ、間違えるように、ありえないことを考えるように、ことばは動くのだろうか。
そして、ことばがそんなふうに間違えたことばかりを考えて動くのだとしたら、その間違いを「許せる範囲」で遊ばせるにはどうしたらいいんだろう。ことばが人間を(世界を)破壊するために動かないようにするにはどうすればいいんだろう。
あ、これは、考えるべきことじゃないね。
ただ、ことばがどんなふうにして遊べるか、それを単純に楽しめばいいのだろう。
いかな枕好みたまひし西行忌
こういう句も好きだなあ。西行がどんな枕をつかっていたか、好んでいたか。そんなことは西行の「業績」とは関係がない。けれども、その人間をかたちづくるのは「業績」だけじゃないね。硬い枕が好き、やわらかい枕が好き、高い枕がいい、低い枕でないと夢見が悪い。そういう「肉体」(感性)からひとは他人に近づいていくということもある。そして、不思議なことに、「肉体」の方が裏切らないという印象もある。「硬い枕が好きな奴なか信じられない」という理不尽な理由の方が、ある判断にとっては間違えないための基準だったりする。そんな理不尽なことが理由になってはいけないのだけれど、それがなってしまうとういことがある。
「肉体」もまたことばと同じように、理不尽に、間違えるために動くことがある。そして、その間違える、余分なところへ逸脱していく--その「逸脱」のなかに、なにか他者と接する契機のようなものがあるのだと思う。
間違えて、自分から逸脱していく。自分が自分ではなくなる。そういう自分ではなくなったもの同士が触れ合って、いままでそこに存在しなかったものを生み出す。そういうことをするために、ことばはあるのかもしれない。詩はあるのかもしれない。
枕の香とは髪の香ぞ春の闇
いろっぽくて、いいねえ。この句がちらりと左目の片隅に見えたから、「金屏風」「雛の具」の句を読んだとき、セックスまで想像してしまったのかなあ。
目は、一瞬の内に見えないものを見てしまうから、面倒だね。
坐蒲団を折りて枕や春惜しむ
この句はいいなあ。大好きだなあ。何もすることがなくて、横になる。ひじ枕という手もあるけれど、手がしびれる。座布団を折って高さを調節して、枕にする。この一連の動きのなかにある、人間の「時間」。自分の肉体にあった枕の高さをつかみ取るまでの時間--そういうくだらない(?)もののなかに、人間のゆるがない確かさを感じる。「俗」の確かさ、絶対に間違えない人間の生きる力というものを感じる。
私は、なにかを間違えてどんどん暴走するものが大好きだが、そういう暴走のときも、どこかにここに書かれているような、全体に間違えない人間の力がないと信じられない。逆に言えば、こういうぜったいに間違えない人間の力を出発点としての暴走なら、どこまでいっても大丈夫と安心してついて行ける。
*
反句は、
枕もし季題とせんか春もくれ
「枕」は「季語」ではないという。そして、もし季語にするなら、その季節は? 春がいい、と高橋はいう。
「座布団」の句を読むと、そうだなあ、と思う。納得する。
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