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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「インビクタス/負けざる者たち」「抱擁のかけら」(補足)

2010-02-08 13:12:47 | 映画

 いい映画というのは、書いても書いても書き切れない。私は目の調子が悪いので1回に書ける量(文字数、というか時間)が限られているので、書きたいこともついつい省略してしまう。
 前の「日記」では書き漏らした美しいシーン。どうしても書いておきたい美しいシーンがある。

 「インビクタス/負けざる者たち」ではマット・デイモンがマンデラ大統領が投獄されていた独房を訪問するシーン。ラグビーの仲間、そしてガールフレンドたちと島を訪問する。ラグビー仲間たちは、最初は早朝練習か、いやだなあ、くらいの気持ちでいるが、船着き場でガールフレンドと合流するとクルージング気分で晴れやかになる。しかし、ついた先がマンデラの独房のある島とわかると、ふーん、という感じに変わる。ソンナナカデ、マット・デイモンだけが、マンデラの姿を思い浮かべる。独房の広さを両手を広げ、独房からみえる石切り場(?)をながめる。無意味な労働をしているマンデラをみる。
 このときの、マット・デイモンと他の若者の対比がすばらしい。無関心と関心がすばやくすれ違う。
 マット・デイモン以外の若者は、こんなものを見て何がおもしろいのか、というような顔で通りすぎる。お寺なんか知ったもんか、というような中学生が法隆寺を修学旅行で見て回る感じ。連れられてきたから、ただ見て回っているだけ。これ、いったい、どんな価値があるの? そんな感じで歩いている。
 マット・デイモンは誰にも彼の感動(というか、こころが感じた震えのようなもの)を語らない。誰にも感動を強要しない。よく見ろよ、とも言わない。そんなことを言っている余裕がないほど感動したのか。いや、自分の感動を語っても、それはまだ彼らには届かない、わからなければわからないでいい、ただ、わからなくても、ここを訪問する(訪問した)ということを、きっといつか思い出す。そう知っているからだ。
 イーストウッドの映画は、どの映画でも非常に抑制がきいているが、それは、たぶん、いま描いていることの「感動」を強要しないという姿勢にある。わからなくていい。いつか、ふっと思い出せればそれでいい。それにだれかが気がつくまで、ただ映画を撮るだけ--というような感じがする。仲間をマンデラの独房へ案内したマット・デイモンのような姿勢だ。

 「抱擁のかけら」では、ルイス・オマールとペネロペ・クルスが逃避行した海岸がすばらしい。崖の上からみつめた黒い砂浜と白い波の対比。そして、その秘密の隠れ家のようながけ下で抱擁するふたりを崖の上から撮ったシーン。
 他のシーンでは(都会、マドリードでは)、赤が随所に出てくる。 ペネロペ・クルスはもちろんだが、ルイス・オマールも赤いシャツを着る。赤は、彼らの(スペイン人の)肉体を流れる血の色。その濃密な色。--それとは対照的な、黒い砂浜と白い波。いったん黒と白にかえり、もういちど赤へよみがえるための場所なのかもしれない。
 ルイス・オマールとペネロペ・クルスのセックスシーンも非常に美しい。はじめてセックスをするロミオとジュリエットのように、若さに満ちあふれている。肌を突き破っていのちがこぼれてくる。これは、ペネロペ・クルスとパトロンとのセックスシーンと比較するとより鮮明になる。ペネロペ・クルスとパトロンのセックスは一夜で6回という激しいものだが(パトロンの主張)、ふたりは肌をさらさない。シーツにくるまったまま、いわば目隠ししてセックスしている。セックスは他人にみせるためのものではないから、他人から見えない(観客に見えない)ということは重要ではない--というのは、嘘。他人にみせないものだからこそ、あからさまにさらけだし、むさぼりあう。他人がいくら見てても、けっして見えないのがセックスのときの二人の充実なのだ。だから、それは明るいひかりのなかで、何も隠さずにやってこそ意味がある。
 ルイス・オマールとペネロペ・クルスのセックスシーンの美しさは、私の記憶でいうかぎりは、「帰郷」のジェーン・フォンダとジョン・ボイドのセックスシーン以来のものだ。「帰郷」ではジェーン・フォンダがとてつもなく美しいのだが、「抱擁のかけら」ではペネロペ・クルスだけではなく、ルイス・オマールも輝いている。まるで、まるで……演技ではなく、ほんとうにセックスしちゃったよ、どきどき、わくわく、と「青年」になってしまっている。おかしくて、楽しい。

 キスシーンやセックスシーンが美しい映画は、私は大好きだ。


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誰も書かなかった西脇順三郎(104 )

2010-02-08 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 乱調による破壊の音楽。それとは別に、加速する旋律の音楽というものもある。たとえば「野の会話」の3の部分。

ルソーの絵をみると
陰板の写真をみるようだ
光線の裏(うら)を発見した。
すべて樹も犬も
煙突も人間も
虎も花も皆
人形の家だ
新しい生物学を発見した。
また人間や動物の表情の中に
新しい表情を発見し
樹にも煙突にも初めて
表情を与えた。
ルソーは画家としてよりも
絵画によつて表現する新しい生物学者
として新しいサカイアの町人の詩人として
彼のパレットに菫の束を飾るのだ。
ここに家具屋の仕事がある。

 「発見した」ということばが次々にいろいろなものを集めてくる。「陰板の写真」「光線の裏」と「樹も犬も/煙突も人間も/虎も花も」というのは、私には違った「音楽」に聞こえる。「旋律」が違って聞こえる。「人形の家だ」は「不協和音」のようにさえ聞こえる。けれど、それが「新しい生物学」ということばへ飛躍するとき、それは、私には「陰板の写真」や「光線の裏」を調をかえて繰り返された旋律のように感じられる。そして、同時に、テンポが、音楽の速度がかわったような感じがする。音楽のテンポが加速したような感じがする。
 それは「生物学」から「表情」へと加速し、「絵画によつて表現する新しい生物学者」と繰り返されながら、さらに加速していく。スピードにのって「絵画による生物学者」から「(絵画による)詩人」に飛躍する。さらに「家具屋」に。
 ここには、乱調はない。

西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社

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谷川俊太郎「夕景」

2010-02-08 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「夕景」(「朝日新聞」2010年02月06日夕刊)

 谷川俊太郎の詩には、いつもはっとさせられることばの動きがある。「夕景」の全行。

たたなづく雲の柔肌の下
味気ないビルの素顔が
夕暮れの淡い日差しに化粧され
見慣れたここが
知らないどこかになる
知らないのに懐かしいどこか
美しく物悲しいそこ
そこがここ

いま心が何を感じているのか
心にも分からない

やがて街はセピアに色あせ
正邪美醜愛憎虚実を
闇がおおらかにかきまぜる

 1連目の「そこがここ」。この行が好きだ。
 この「そこ」は、家人やだれか親しいひとに「それ、とって」というときの「それ」に似ている。「それ」が何であるか、はっきりとわかる。けれど、ふいに、ことばがきえて、それが出てこない。ことばにならないけれど、はっきりとわかるもの。
 「そこがここ」とは、「そこ」と「ここ」が一体になってしまっている、融合してしまっているということだが、ね、ほら「それ、とって」というとき、その「それ」は「私」のなかではぴったり「私」にくっついてしまっている。だからこそ、ことばにならずに「それ」になってしまうのだ。
 ことばにならないものには、そういうものもある。「知らない」というのは「知らない」のではなく、「知りすぎて」、私から切り離せない。分離できないから、「名前」で呼ぶことができないのだ。
 「懐かしい」とは「私」の「からだ(肉体)」にしっかりからみついて分離できないもののことである。分離できないのに、それが肉体のなかでめざめて、肉体をゆさぶる。

知らないのに懐かしいどこか

 それは、たしかに「そこ」としか呼びようがない。この「そこ」は英語の定冠詞「the 」のように、「私」の意識に深くしみついている何かをあらわすのだ。定冠詞「the 」とともにあるような意識--それが「そこ」だ。

いま心が何を感じているのか
心にも分からない

 ああ、そうなのだ。「懐かしい」というのは、かりそめの「感情」。ほんとうは、それをなんと呼んでいいかわからない。「それ」としか言えない。そして、それは前に書いたことの繰り返しになるのだが、「肉体」と一体になっているから、それが何であるか分からないのだ。
 「心にも分からない」の「分かる」というときの文字「分」は「分節」の「分」でもある。「分節」できないもの。だから「分からない」というしかないのだ。「分節」はできないけれど、その存在があることは分かる。
 「分からない」のに「分かる」。
 この矛盾。

 矛盾だけが美しい思想だ、と私は思う。

 最後の行の「闇がおおらかにかきまぜる」は未分節の存在をかきまぜ、そこにいっそう深い渾沌を生じさせる動きのように感じられる。未分節は渾沌。そこにはどんな区別もない。そして、そこから一瞬一瞬、新しい存在が生まれてくる。夕暮れは闇をくぐり、生まれ変わる。--そんなことも考えた。

 


これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
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