安水稔和『遠い声 若い歌』(2)(沖積社、2009年2009年11月17日発行)
自分の切実な感覚を、どうやって明晰にするか--という課題と安水は向き合っていた。私はきのうの「日記」の最後にそんなふうなことを書いた。
今回の詩集の冒頭の作品は、そのことを強く感じさせる。
「春 スケッチ 1」という作品。
最後の1行の中の異質なものの衝突。「鉄」は「孵化」などしない。けれどその鉄を孵化すると修飾する。あるいは、それは鉄ではなく「臭い」を修飾するかもしれない。いや、そうではなく、その両方を区別しないで修飾するかもしれない。
わからない。
そのわからなさこそが、実は、切実な明晰なのだと私は思う。どう区別していいかわからない。わからないものがあることを、切実に、明晰に書いていくと、どうしても、それは渾沌としたものになる。その渾沌、そこから、たとえばこの1行なら「鉄」が孵化してきてもいいし、「臭い」が孵化してきてもいい、「鉄の臭い」が孵化してきてもいい。
舞台裏の何かが異様に自分の肉体に迫ってくる--その感覚を、こんなふうに書いていいのだ。「孵化する」ということばをそんなふうにつかっていいとは辞書には書いてないし、学校教科書でも教えない。けれど、そういう、まだどこにも書かれていないことば、誰にも認定されず、「流通」していないことばを、自分の感覚のだけのために「従事」させる。自分のものにする。
このことばの特権。詩人の特権。
わからないまま、何かを、自分自身が何を感じることができるか、そしてそれをことばにできるかどうかを、ほんとうに、切実に探しているのだと思う。
ことばを探す。ことばを取り戻す。そのとき、自分も人間を取り戻すことができるのだ。そういう思いが凝縮されている。
一方に、「孵化する鉄の臭い」という硬質なものがあり、他方にまた、暮らしというか、「家」にしっかりと根ざした感覚もある。一方に工業(鉄、都会)があれば、他方に農業(村?)がある。そして、その「農」の描写が、とても「異質」である。
「農 スケッチ 4」
「畳の逆毛に疲労が固着し」という1行がとてもおもしろい。畳の逆毛という目で見るよりも肉体でさわったときに感じる微細なもの--そういう目に見えないものに触れながら、そこに感覚を結晶化させる。そして、そのときの「疲労」ということば。何でもないことばのようだけれど、この「疲労」ということばは実は「都会」のものだ。「農村」のことばではない。「農村」ではせいぜいが「疲れた」であり、「疲労した」とは言わない。「くたびれた」とは言っても「疲労した」とは言わない。
さらに、こういうとき「農村」のひとは、「固着(する)」ということばをつかわない。せいぜいが「こびりついている」である。
「疲労」にしろ「固着」にしろ、それは「農村」のことばではなく「都会」のことばである。「農村」の口語、話しことばではなく、「都会」の文語、書きことばである。
したがって、これは一種の「虚構」なのだ。「農村」を「農村」自身の目で内部から描写したものではなく、「外部」から「表面」をさらったもの、しかも「都会」の視点をすてることなく、そこにあるものをとらえ直した表面的なものである。「藁」「土間」「草履」を登場させても、それは虚構である。スケッチとあるが、虚構のスケッチである。生活とは密着していない。
それが悪いというのではない。
安水は、虚構を利用して自分の感覚をつくりだしているのだ。それがおもしろい。自分の暮らし(都会の書きことば)と、自分とは無関係の農の存在を結びつけることで、自分の感覚をつくりだしている。
詩は自分の感じていることを書く--というのはたしかにそうだが、それだけではない。感じていなくてもいい。感じたいことを書く。感覚をつくりだすために、ことばを動かす。ことばの創造、新しい運動つくりだすだけではなく、新しい感覚をことばでつくりだしてこそ詩なのである。
そういう運動をつくりだすために、農村の実際と、都会の書きことばが、そこで衝突しているのだ。わざと衝突させているのだ。
どんな感覚もすでに存在している。そして、それをあらわすことばがいままでなかったから、そのことばをつくりだす。その一方で、新しくみつかったことばの運動を利用して、感覚・感情・思想そのものをつくりだしていく。そこにも詩はあるのだ。
安水は、畳の逆毛に触れて、それをていねいに描写しているともとれるが、そうではなく、新しい感覚、疲労の、一種不思議な「郷愁」のようなものを浮かび上がらせるために、わざと「畳の逆毛」に触れる。そうとらえる方が、この詩はわかりやすい。ことばの運動としてすっきりする。安水は畳の逆毛というような、暮らしのなかで「消費」され、つかい捨てられこそすれ、利用されることのないものに目を向ける。そうすることで新しい感覚そのものをつくりだすのだ。
都会で感じる疲労、工業生産で感じる疲労、その孵化してくる鉄の臭いのようなもの--それは、畳の逆毛の感触、くらしのなかで静かに浮き上がってくるもの出会い、(実際に、鉄の臭いが出会うわけではなく、鉄の臭いを描写する「都会のことば」が出会うのだが……)、そのときふたつの存在のどこかが、ひそかに呼び合う。
「肉体」は「畳の逆毛」のように荒らされ、疲れているのか。鉄ではなく、畳のやわらかさに体を押しつけたい、畳がなつかしい--そんな気持ちが、渾沌と入り乱れる。なつかしく、かなしい「郷愁」。
ここにあるのは、新しい抒情だ。
抒情は、いつでも「切実」で「明晰」だ。自分のこころの中にある「抒情」ほど切実で、明晰なものはない。だから「切実に」「明晰に」書く。
戦後の詩は、そういうところからはじまっている。そこに「時代」が見える。安水は過激な(?)現代詩の主流にいる(いた)詩人という印象はないけれど、その安水も、こんなふうに「時代」を呼吸している。「時代」が安水のことばに反映している。
自分の切実な感覚を、どうやって明晰にするか--という課題と安水は向き合っていた。私はきのうの「日記」の最後にそんなふうなことを書いた。
今回の詩集の冒頭の作品は、そのことを強く感じさせる。
「春 スケッチ 1」という作品。
開幕!
緑色のライトに揺れて揚っていく
*
舞台裏に孵化する鉄の臭い
最後の1行の中の異質なものの衝突。「鉄」は「孵化」などしない。けれどその鉄を孵化すると修飾する。あるいは、それは鉄ではなく「臭い」を修飾するかもしれない。いや、そうではなく、その両方を区別しないで修飾するかもしれない。
わからない。
そのわからなさこそが、実は、切実な明晰なのだと私は思う。どう区別していいかわからない。わからないものがあることを、切実に、明晰に書いていくと、どうしても、それは渾沌としたものになる。その渾沌、そこから、たとえばこの1行なら「鉄」が孵化してきてもいいし、「臭い」が孵化してきてもいい、「鉄の臭い」が孵化してきてもいい。
舞台裏の何かが異様に自分の肉体に迫ってくる--その感覚を、こんなふうに書いていいのだ。「孵化する」ということばをそんなふうにつかっていいとは辞書には書いてないし、学校教科書でも教えない。けれど、そういう、まだどこにも書かれていないことば、誰にも認定されず、「流通」していないことばを、自分の感覚のだけのために「従事」させる。自分のものにする。
このことばの特権。詩人の特権。
わからないまま、何かを、自分自身が何を感じることができるか、そしてそれをことばにできるかどうかを、ほんとうに、切実に探しているのだと思う。
ことばを探す。ことばを取り戻す。そのとき、自分も人間を取り戻すことができるのだ。そういう思いが凝縮されている。
一方に、「孵化する鉄の臭い」という硬質なものがあり、他方にまた、暮らしというか、「家」にしっかりと根ざした感覚もある。一方に工業(鉄、都会)があれば、他方に農業(村?)がある。そして、その「農」の描写が、とても「異質」である。
「農 スケッチ 4」
かざした手の下でひっそりと炭火がさいなむ
畳の逆毛に疲労が固着し
藁と土と火と
湿った土間に草履が坐っている
「畳の逆毛に疲労が固着し」という1行がとてもおもしろい。畳の逆毛という目で見るよりも肉体でさわったときに感じる微細なもの--そういう目に見えないものに触れながら、そこに感覚を結晶化させる。そして、そのときの「疲労」ということば。何でもないことばのようだけれど、この「疲労」ということばは実は「都会」のものだ。「農村」のことばではない。「農村」ではせいぜいが「疲れた」であり、「疲労した」とは言わない。「くたびれた」とは言っても「疲労した」とは言わない。
さらに、こういうとき「農村」のひとは、「固着(する)」ということばをつかわない。せいぜいが「こびりついている」である。
「疲労」にしろ「固着」にしろ、それは「農村」のことばではなく「都会」のことばである。「農村」の口語、話しことばではなく、「都会」の文語、書きことばである。
したがって、これは一種の「虚構」なのだ。「農村」を「農村」自身の目で内部から描写したものではなく、「外部」から「表面」をさらったもの、しかも「都会」の視点をすてることなく、そこにあるものをとらえ直した表面的なものである。「藁」「土間」「草履」を登場させても、それは虚構である。スケッチとあるが、虚構のスケッチである。生活とは密着していない。
それが悪いというのではない。
安水は、虚構を利用して自分の感覚をつくりだしているのだ。それがおもしろい。自分の暮らし(都会の書きことば)と、自分とは無関係の農の存在を結びつけることで、自分の感覚をつくりだしている。
詩は自分の感じていることを書く--というのはたしかにそうだが、それだけではない。感じていなくてもいい。感じたいことを書く。感覚をつくりだすために、ことばを動かす。ことばの創造、新しい運動つくりだすだけではなく、新しい感覚をことばでつくりだしてこそ詩なのである。
そういう運動をつくりだすために、農村の実際と、都会の書きことばが、そこで衝突しているのだ。わざと衝突させているのだ。
どんな感覚もすでに存在している。そして、それをあらわすことばがいままでなかったから、そのことばをつくりだす。その一方で、新しくみつかったことばの運動を利用して、感覚・感情・思想そのものをつくりだしていく。そこにも詩はあるのだ。
安水は、畳の逆毛に触れて、それをていねいに描写しているともとれるが、そうではなく、新しい感覚、疲労の、一種不思議な「郷愁」のようなものを浮かび上がらせるために、わざと「畳の逆毛」に触れる。そうとらえる方が、この詩はわかりやすい。ことばの運動としてすっきりする。安水は畳の逆毛というような、暮らしのなかで「消費」され、つかい捨てられこそすれ、利用されることのないものに目を向ける。そうすることで新しい感覚そのものをつくりだすのだ。
都会で感じる疲労、工業生産で感じる疲労、その孵化してくる鉄の臭いのようなもの--それは、畳の逆毛の感触、くらしのなかで静かに浮き上がってくるもの出会い、(実際に、鉄の臭いが出会うわけではなく、鉄の臭いを描写する「都会のことば」が出会うのだが……)、そのときふたつの存在のどこかが、ひそかに呼び合う。
「肉体」は「畳の逆毛」のように荒らされ、疲れているのか。鉄ではなく、畳のやわらかさに体を押しつけたい、畳がなつかしい--そんな気持ちが、渾沌と入り乱れる。なつかしく、かなしい「郷愁」。
ここにあるのは、新しい抒情だ。
抒情は、いつでも「切実」で「明晰」だ。自分のこころの中にある「抒情」ほど切実で、明晰なものはない。だから「切実に」「明晰に」書く。
戦後の詩は、そういうところからはじまっている。そこに「時代」が見える。安水は過激な(?)現代詩の主流にいる(いた)詩人という印象はないけれど、その安水も、こんなふうに「時代」を呼吸している。「時代」が安水のことばに反映している。
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