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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(76)

2009-09-04 07:19:45 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「キャサリン」のつづき。
 「恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源」という直列のことばのあと、「のために涙が出そうに淋しく思うだろう。」というセンチメンタルなことばで、そのあとは、ことばはいっきに動く。行方を定めずに、動き回る。集中が強かったために、反動として発散が大きくなるようだ。
 途中を省略するが、

リンボクに花が咲いて
また実がなっておつさんが来て
ジン酒を造つて行つた。
もう少し先へ行つて横を曲つて
谷へおりたら霜ばしらの中で
あざみの蕾が出ているのだが。
西へ真すぐに歩いて行く。

 句点「。」が象徴的だが、ここでは「直列」は起きない。ただ、並列の風景があるだけである。
 この並列、この発散・拡散の運動は、西脇の視線を自由にし、同時に、その自由の中に「他人」を呼び込む。集中している精神の中かに他人は入って来れないが、拡散している精神、隙間の多い精神には、他人は簡単に入ってくる。

アンティガの女王の首の切手を売る
店のとなりが花屋で
やどり木が枝を路ばたに積んでいた。
カスリの股引きに長靴をはいたポリネシアの
おかみさんはごそごそやつていた。
『アメリカの人にはクリスマスの時に
売つたんだべ。一枝百円で。
もう十円でいいですよ』
青黒いゴムのような枝に
透明な黄色な実が鮭の卵のように
ついていた。
『だんな知つていなさるかへへへへへへ』
おかみさんは西方の神話がいかに
植物的であるかということを喜んだ。
      (谷内注・「いいですよ」は西脇は、をどり字で書いている)

 「アメリカの人には……」はポリネシアのおかみさんが言ったことばなのかどうかは、よくわからさない。「売つただんべ」とは、まさかポリネシアのおかみさんは言わないだろう。ここでは「だんべ」というおもしろい音が、音そのものとして書かれている。西脇は、おかみさんのことばを「意味」というよりは「音」として把握しているのだ。
 「他人」のことば、それを「意味」というよりは「音」として把握する。音の中にこそ、「意味」がある。ことばにならない「意味」がある。ことば以前の意味というより、ことばを超えていく意味、ことばでは伝えられない意味がある。
 『だんな知つていなさるかへへへへへへ』の「へへへへへ」という音のなかには意味を超えたものがある。そういうことを、ひとは誰でもが知っている。

 そんなふうに、拡散されたあと、西脇のことばはふたたび「直列」へ向かう。ただし、今度の直列は、いままでの直列とは少し違う。1行の中に、ことばが直列するのではない。

午後も枯れたバラの葉のように
なつた頃古道具屋を発見した。
石油ストーヴと真鍮のベッドの間に
十八世紀の画家ウォールトンの絵が
額の中にはいつていたものだ。
釣りに行つて来た少年の肖像
リンドウの花のように青い羽
をつけたシルクハットをがぶつたあの
田舎の少年のあのあかはら
あのてぐすの糸あの浮きの
あなたの耳飾りのような軽さ。

 ウォールトンの絵の中の風景は、「おかみさん」のことばか、あるいは少年の肖像か。「額の中に」は「ガクのなかに」なのか、「ひたいの中に」なのか、どちらともとれるように結びつけて、そのあと。
 「リンドウ」からつづく行の「あの」の繰り返し。「あの」によって次々にことばが集められ、それは「並列」ではなく、「直列」につながる。それは、直列電池が必ずしも、電池のプラスとマイナスの部分を接触する形ではなく、「電線」でつなげば横に並んでいても(見かけは並列であっても)、直列配置が可能なのに似ている。
 見かけは並列しながら、「あの」ということばで直列にする。
 この「あの」が進化(?)すると、西脇が多用する「の」になる。「の」は西脇の直列の詩学の、自在なコード(電線)なのだ。

 しかし、(というのは変な言い方だが)、この終わりの部分の美しさにはいつもびっくりする。直列のリズムがことばを美しくする。「あかはら」というのはイモリのような形の生き物で、とても貪欲というか節操がないというか、餌のついていない釣り針にでも食らいついてくる、腹が紅く(そして、黒い斑点もある)、ぞっとするようなものだが、ここでは「あの」の「あ」と響きあって、明るい「音楽」そのものになっている。「あからは」がこんな美しい「音楽」になるとは、池や川で、手製の釣り針で魚を釣っていた私にはまったくの驚きである。「あかはら」の気持ち悪さにぎょっとしていた私には、まるで夢のような、不思議な感じがする。なぜ、こんなに美しいのだろうと思ってしまう。
 この変化は、ことばの直列と、その直列をつくりあげる「あの」ということば抜きにはありえない。






西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
松柏社

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有働薫「月の魚」、松岡政則「みんなのカムイ」

2009-09-04 00:07:26 | 詩(雑誌・同人誌)
有働薫「月の魚」、松岡政則「みんなのカムイ」(「交野が原」67、2009年10月01日発行)

 有働薫「月の魚」は不思議な詩だ。何が書いてあるのか問われたら、書いてある通りのことが書いてあるとしかいいようがない。その全部が見えるわけではないので、私の感想はいいかげんなものだと思うのだが……。

月の砂漠の砂の流れを
月の裏側の真闇にすむ魚が
泳いできて
わたしの垂らす釣り糸の
とがった針を
可愛い口で
飲み込んで

魚は痛さに
痙攣し
わたしの糸が痙攣する
わたしの魂が
痙攣し

地球から来た
水の一滴
わたしは
未曽有の愛に
失神する

 「月の砂漠」とは月の出ている砂漠だと思ってきたけれど、有働は、月にある砂漠のようにして書いている。そして、そこで魚を釣っている。魚は、有働に「釣られる」ためにはるばると月の裏側から、砂漠の砂の流れをやってきたのである。
 「釣られるため」とわたしは書いたけれど、これは、私の「誤読」。そんなことは書いてはいないのだけれど、私は「釣られるために」やってきたように感じてしまう。たぶん2連目が、そう思わせるのである。
 魚が釣り針を飲み込み、痙攣するとき、釣り糸がその痙攣を伝えてくる。そして、それを見て、「わたしの魂」が痙攣する。そのとき「魚」と「魂」は一体になる。やってきたのは「魚」ではなく、有働の「魂」そのものなのである。魂は、有働に魂の悲しさを伝えるために、月の砂漠を、月の裏側からわざわざやってきたのである。
 有働は、ここでは、有働の「魂」を救済するために、「魚」という「比喩」を必要としている。そんなこころの動きを感じる。
 この関係を「愛」ということばで有働は書き留めようとしている。たしかに「愛」なのだろう。そしてその「愛」は相手があってもいいが、相手がなくてもいい。いや、ここでは、私は有働が自分自身をいとおしんでいると感じた。その「愛」を感じた。自分が自分を愛する--愛さずにはいられない。そのときの、透明な悲しみを感じた。



 松岡政則「みんなのカムイ」の2連目、その6行が、とても印象に残る。

なぜとはなしに
川竹のにおいを嗅いでみたくなる
どこか見知らぬ地名に糾されに行きたくなる
艸が吐き出している粒粒のまこと
田面(たのも)に映るうすい緑のまことに
躰ごとさらわれたくなる

 この行にも、私は、自分が自分を愛するしかない悲しみのようなものを感じる。私をつなぎとめるいろいろなもの(たとえば、この詩には「同居人」が描かれているが)から、自然のなかの不思議な力でさらわれてしまいたい、さらわれて「ひとり」になってしまいたいという思いを感じる。そして、そのとき「ひとり」とはいうものの、松岡はほんとうは「ひとり」ではない。「緑のまこと」、自然の真実と一緒にいる。それは、自分を自然の真実のような状態にしたい、そういう状態で愛したいということかもしれない。
 1連目に「複合マンション建設現場/大型くい打ち機の黄色いアームが見える」という行があるが、そういう都会の暴力とは別の暴力(さらっていくのだから、ね)のなかで、自分を自分だけで守ってみたいという哀しい欲望のようなものを、有働の透明な悲しみに通じるものを感じてしまう。




雪柳さん―有働薫詩集
有働 薫
ふらんす堂

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