「キャサリン」のつづき。
「恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源」という直列のことばのあと、「のために涙が出そうに淋しく思うだろう。」というセンチメンタルなことばで、そのあとは、ことばはいっきに動く。行方を定めずに、動き回る。集中が強かったために、反動として発散が大きくなるようだ。
途中を省略するが、
リンボクに花が咲いて
また実がなっておつさんが来て
ジン酒を造つて行つた。
もう少し先へ行つて横を曲つて
谷へおりたら霜ばしらの中で
あざみの蕾が出ているのだが。
西へ真すぐに歩いて行く。
句点「。」が象徴的だが、ここでは「直列」は起きない。ただ、並列の風景があるだけである。
この並列、この発散・拡散の運動は、西脇の視線を自由にし、同時に、その自由の中に「他人」を呼び込む。集中している精神の中かに他人は入って来れないが、拡散している精神、隙間の多い精神には、他人は簡単に入ってくる。
アンティガの女王の首の切手を売る
店のとなりが花屋で
やどり木が枝を路ばたに積んでいた。
カスリの股引きに長靴をはいたポリネシアの
おかみさんはごそごそやつていた。
『アメリカの人にはクリスマスの時に
売つたんだべ。一枝百円で。
もう十円でいいですよ』
青黒いゴムのような枝に
透明な黄色な実が鮭の卵のように
ついていた。
『だんな知つていなさるかへへへへへへ』
おかみさんは西方の神話がいかに
植物的であるかということを喜んだ。
(谷内注・「いいですよ」は西脇は、をどり字で書いている)
「アメリカの人には……」はポリネシアのおかみさんが言ったことばなのかどうかは、よくわからさない。「売つただんべ」とは、まさかポリネシアのおかみさんは言わないだろう。ここでは「だんべ」というおもしろい音が、音そのものとして書かれている。西脇は、おかみさんのことばを「意味」というよりは「音」として把握しているのだ。
「他人」のことば、それを「意味」というよりは「音」として把握する。音の中にこそ、「意味」がある。ことばにならない「意味」がある。ことば以前の意味というより、ことばを超えていく意味、ことばでは伝えられない意味がある。
『だんな知つていなさるかへへへへへへ』の「へへへへへ」という音のなかには意味を超えたものがある。そういうことを、ひとは誰でもが知っている。
そんなふうに、拡散されたあと、西脇のことばはふたたび「直列」へ向かう。ただし、今度の直列は、いままでの直列とは少し違う。1行の中に、ことばが直列するのではない。
午後も枯れたバラの葉のように
なつた頃古道具屋を発見した。
石油ストーヴと真鍮のベッドの間に
十八世紀の画家ウォールトンの絵が
額の中にはいつていたものだ。
釣りに行つて来た少年の肖像
リンドウの花のように青い羽
をつけたシルクハットをがぶつたあの
田舎の少年のあのあかはら
あのてぐすの糸あの浮きの
あなたの耳飾りのような軽さ。
ウォールトンの絵の中の風景は、「おかみさん」のことばか、あるいは少年の肖像か。「額の中に」は「ガクのなかに」なのか、「ひたいの中に」なのか、どちらともとれるように結びつけて、そのあと。
「リンドウ」からつづく行の「あの」の繰り返し。「あの」によって次々にことばが集められ、それは「並列」ではなく、「直列」につながる。それは、直列電池が必ずしも、電池のプラスとマイナスの部分を接触する形ではなく、「電線」でつなげば横に並んでいても(見かけは並列であっても)、直列配置が可能なのに似ている。
見かけは並列しながら、「あの」ということばで直列にする。
この「あの」が進化(?)すると、西脇が多用する「の」になる。「の」は西脇の直列の詩学の、自在なコード(電線)なのだ。
しかし、(というのは変な言い方だが)、この終わりの部分の美しさにはいつもびっくりする。直列のリズムがことばを美しくする。「あかはら」というのはイモリのような形の生き物で、とても貪欲というか節操がないというか、餌のついていない釣り針にでも食らいついてくる、腹が紅く(そして、黒い斑点もある)、ぞっとするようなものだが、ここでは「あの」の「あ」と響きあって、明るい「音楽」そのものになっている。「あからは」がこんな美しい「音楽」になるとは、池や川で、手製の釣り針で魚を釣っていた私にはまったくの驚きである。「あかはら」の気持ち悪さにぎょっとしていた私には、まるで夢のような、不思議な感じがする。なぜ、こんなに美しいのだろうと思ってしまう。
この変化は、ことばの直列と、その直列をつくりあげる「あの」ということば抜きにはありえない。
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