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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

進一男『美しい人 その他』

2008-03-15 10:13:22 | 詩集
 進一男『美しい人 その他』(詩画工房、2007年12月12日発行)
 進一男の詩は悪くはない。--悪くはない、という感想が最初に出てきてしまう。ことばがきちんとしている。何も悪くはない。でも、それでは進の詩を好きになるか、というとなかなか好きにはなれない。嫌いでもないが、好きにはなれない。そのことばにおぼれることができない。
 なぜだろうか。

 「夢の中の風景」という美しい詩がある。その前半。

私の夢のなかに何時ものように現われてくる道がある
美しい垣根の間の 懐かしい道である
その夢の中でのような 美しい道は
現実には何処にも見当たらないであろうと思われる
夢の中のその道を歩くと 風が流れる
道の向こうには 海がある
私はその道を 自分勝手ながら
私がそこから来たところの道なのかも知れないと考える
その道は きっと 私が生まれてきた道に違いない
だから 夢の中のその道を歩くと 何時も
私は優しく抱かれる

 ことばにさそわれて、私自身の「夢の中の風景」を歩いている気持ちになる。「美しい」「懐かしい」という2行目に登場する「詩語」から遠いことばも、この静かな調子にはあっていると思う。悪くはない。

夢の中のその道を歩くと 風が流れる
道の向こうには 海がある

 と、ことばがスピードアップしていくところは、「悪くはない」ではなく、「とてもいい」。引き込まれてしまう。このリズムをいかすために、2行目(そして3行目)の「美しい」「懐かしい」ということばがあったのだとさえ感じる。
 ところが、私は、その次の行につまずいてしまう。

私はその道を 自分勝手ながら

 「自分勝手ながら」に完全につまずいてしまう。
 進の詩がいまひとつおもしろくないのは、このことばに起因している。「自分勝手ながら」と書いてしまう「控えめ」の部分、「おことわり」の部分が作品をだめにしている。詩は自分勝手でなくてはならない。他人のことばなど無視して自分の、自分にしかわからないことば、自分にさえもわからないことばでないと、詩にはならないのである。
 「自分勝手ながら」を省いてみよう。

夢の中のその道を歩くと 風が流れる
道の向こうには 海がある
私はその道を
私がそこから来たところの道なのかも知れないと考える

 ことばの動きが速くなり、「私がそこから来たところの道なのかも知れない」という下手くそな(?)翻訳口調さえ、あ、正しい日本語(?)、流通している日本語では言えないこと、進のほんとうに感じていること--まだ、だれも言っていないことを書こうとしていることが、ぐいっ、と近づいてくる。
 こんな美しい部分を「自分勝手ながら」ということばで傷つける必要はない。

 進はもっともっと「自分勝手」を出すべきなのである。「自分勝手」をどんどん書いて、それに対して「自分勝手ながら」と「おとこわり」を挿入しない。そうすれば、悪くはない」ではなく、「おもしろい」詩が生まれるのだと思う。



進一男詩集
進 一男
土曜美術社出版販売

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マノエル・ド・オリベイラ監督「夜顔」

2008-03-15 00:08:39 | 映画
監督 マノエル・ド・オリベイラ 出演 ミシェル・ピコリ、ビュル・オジエ、レオノール・バルダック

 オリベイラ監督の作品を見るのは3本目である。「アブラハム渓谷」「クレーブの奥方」、そして今回の「夜顔」。「アブラハム渓谷」「クレーブの奥方」は東京で見た。自分の住んでいる街でオリベイラ監督の作品を見ることができるとは夢にも思わなかった。
 オリベイラ監督の映像は非常に特徴がある。剛直である。剛直すぎるくらい剛直である。
 映画はドヴォルザーク「交響曲 8番」ではじまるが、この映像に剛直さが特徴的に出ている。カメラは指揮者を中央において、まったく動かない。接近もしなければ、別の角度からとらえることもない。そして、省略もしない。そこに存在するものの、いちばん美しい姿を、ただ正面からとらえる。その映像が美しくない、あるいは退屈と感じる人がいるかもしれないが、そういう観客をオリベイラ監督は気にしていない。彼の感じる美を美と感じる人だけに向けて映像を構築している。正面から存在と向き合えない観客を気にしていないのである。
 パリの町並み、バー、ホテル、レストラン。どれも揺るぎがない。動かない。人物されも動かない。人々は、せりふをしゃべるが、動いてはいない。(唯一例外は、ミシェル・ピコリとビュル・オジエが街角であらそうシーンである。)動かないことによって、彼の(彼女の)内面を観客が想像するのにまかせている。登場人物の「正面」に立つことを要求し、そこから登場人物を直視するように要求しているといった方がいいかもしれない。
 それはたとえていえば絵の鑑賞方法に似ている。たとえば1枚の絵がある。そこには美しい人物がいるだけであって、ほかの情報はなにもない。そういうとき、人は絵の正面にたち目を凝らす。そして目に入ってくるすべてを直視し、その絵のなかの要素を組み立てて、あれこれ思いを膨らませる。それはある意味では、絵を見るというより、自分自身を世界をのぞくということになるかもしれない。
 そのとき、絵は、鑑賞者のあれこれの思いを受け止めて、なお、そこに揺るぎなく存在している何かである。
 そういうものをオリベイラ監督はスクリーンに定着させる。存在のニュアンスというものを、正面から直視することで排除する。そうして、正面から観客の視線を存在の奥へと引き込む。正面こそが、オリベイラ監督のキーワードである。横顔をとらえたとしても、それは横顔という正面なのである。はっきりした横顔なのである。視線が動いて、たまたま目に入ってきた横顔ではなく、横から見るとどうなっているか、それをはっきり把握するための横顔である。
 こうした態度は、映像よりも「せりふ」に耳を傾けるとき、いっそうきわだつ。人間の会話にはひそひそ話や、言いよどみ、わざと嘘を含んだものもある。オリベイラ監督は、そうした声のニュアンスというようなものを排除する。ことばを、まるで「書かれた絵」のようにくっきりと輪郭をもったまま映画のなかに閉じ込める。肉体をとおった「声」ではなく、肉体と拮抗することばを、ことばのまま、そこに定着させる。観客は俳優の肉体をくぐりぬけてきたニュアンスではなく、自分の肉体で、そこに剛直に存在していることばを受けとはめなければならない。
 映像とことばで(そして音楽で)、こういうことを要求してくる監督を私は知らない。とてもびっくりする。

 こうした真っ正面の映像、真っ正面のことばに、スクリーンをとおして向き合っていると、では俳優の仕事は? という疑問が生じるかもしれない。生じるはずである。なぜ、そこに実際に動く人間が必要なのか、という疑問が生じるはずである。「絵」と「音」を組み合わせればいいではないか。そういう批判が出てくるはずである。--論理的には。
 ところが映画を見ていると、そうい疑問は生まれない。なぜか、そういう疑問は生まれない。オリベイラ監督は、俳優にも正面を要求している。正面でいることを要求している。こういう要求に答えられる肉体というのは、実は、数少ない俳優だけである。だれでもが、正面でいられつづけるわけではない。ずらし、ぶれる。そういう差異のなかに「個性」(あるいは人間性というニュアンス)を浮かび上がらせる。オリベイラ監督は、そういうことを拒絶する。むき出しの、正面を要求する。「存在感」のない役者ではだめなのである。正面からの直視に耐えられる存在感が必要なのである。演技ではなく、存在感が要求される。かっちりした正面からの映像。剛直なせりふまわし。それを超越する存在感を要求されている。そして、俳優陣は、その存在感の要求に十分にこたえているからである。
 特に、ラストのレストランでの食事シーンなど、ぎょっとするほどの存在感である。二人が何を感じているか、何を思っているかなど具体的には何も語られない。ただ黙って食べている。それなのに、二人が無言の会話のなかで相手の思いを感じあっているということだけが生々しく伝わってくる。「わからなさ」が「わからないまま」、直に伝わってくる。
 これはすごいことである。

 そしてこれは、ルイス・ブニュエルへのオマージュとして登場する鶏にもいえる。なぜそこに鶏が? そういう疑問を拒絶して、鶏を足をあげて歩く。そのときの不思議な存在感。ユーモア。
 オリベイラ監督は、あらゆるものを正面から直視し、その存在感を引き出し、スクリーンに定着させる監督である。



マノエル・デ・オリヴェイラ傑作選 「世界の始まりへの旅」「アブラハム渓谷」「階段通りの人々」

紀伊國屋書店

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