詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

仲山清「雪送り」ほか

2008-01-24 10:43:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 仲山清「雪送り」ほか(「鰐組」226 、2008年02月01日発行)
 リズムがとても美しい。そのリズムは演歌のリズムである。美空ひばりに読ませてみたい、歌わせてみたいというリズムである。

見送られて
雨となった
見送るひとの無口が
季節はずれにひらきかけた
雨がみぞれにかわり
みぞれがあらくれの
雪となった
川岸のもやい舟も
雪を太くかぶって
ゆるい流れの島となった
むこう岸へ
こいでくれないか
亡霊のような船頭へ
最後のたのみごとをした
墨絵の墨もかすれるへさきに
見送られて
島は劫火につつまれ
見送るひとの手ゆびも
風をさそった
いそぎ
桜のにおいをさせていた

 改行がとてもいい感じなのである。呼吸を整え、ことばを誘う。特に

むこう岸へ
こいでくれないか

 この2行の、改行、改行が作り出すリズムがいい。此岸から彼岸へ。そのとき、ふっきらなければならないものがある。それはことばにはならない。「呼吸」にしかならない。「呼吸」をこそ、船頭に伝えるのである。船頭はその「呼吸」から何事かを理解して舟をこぎはじめるのである。
 ひばりなら、この「呼吸」をどんな間合いで表現するだろうか、声のトーンをどうかえるだろうか、と深く深く思った。
 この一種の古くさい(?)情景、「呼吸」の色と、その前の「雪を太くかぶって」の「太く」が深いところで響き合うのもいい。「太い」ということばはこんな具合につかうのだと、しみじみと思った。日本の風景の美しさと、それを伝える日本語の美しさを思った。私は外国語を話せないからわからないが、この「太く」をたとえば英語やフランス語、ロシア語でどういうんだろうか。水分を含んだ雪の降る国ならば、「太く」に通じることばがあるかもしれないが……。

見送るひとの手ゆびも
風をさそった
いそぎ
桜のにおいをさせていた

 の4行のリズムにもうっとりしてしまう。特に「いそぎ」、ことばとは逆のゆったりしたリズムに「未練」を感じ、ぞくぞくしてしまう。(それぞれの1行を、おなじ時間で読むと、「いそぎの」に込められた情感がくっきりと浮かび上がるはずである。)

 リズムをほめたあとで申し訳ないが、注文が2か所。「島は劫火につつまれ」の「劫火」が「雪を太くかぶって」の「太く」のリズムとは相いれない。「太く」につながるいくつものことばのリズムとは相いれない。
 また、「雨がみぞれにかわり」の「かわり」がとてもうるさい。

雨がみぞれに
みぞれがあらくれの
雪となった

 と「にかわり」を省略するほうが、つやっぽいスピードが出る。
 「にかわり」があった方が散文的な意味の通りはよくなるが、そういう散文のリズムはこの詩にはそぐわない。散文は「呼吸」では読まない。「呼吸」で読む「演歌」に「散文」が侵入してくると興ざめである。
 仲山は散文も書いているので、そのリズムがどうしても紛れ込むのかもしれないけれど、そのリズムを洗い落とすと、ことばが魅力的になると思う。



 おなじ号に載っている「からまれて」は、逆に散文で追っていくと明確になる世界を、わざと改行のある詩にしたてたもので、その「雑」というか「俗」の取り込み方かおもしろい。

やまぶどうのつるがからまって
身うごきならない
つめを立てたり
ツノを出したりするが
らちがあかない
すっかりみくびられて
黒いのや白いのが
またぐらを
平気な顔をしてくぐっていく
ときには魚くさいのや
冷たいものをかついだやつが
とおりすぎる

 「黒いのや白いのが」の「の」。その口語のつかい方が、つぎの「またぐら」の「俗」とぴったり響きあって楽しい。ただし

またぐらを
平気な顔をしてくぐっていく

 というリズムは、私には、あまりおもしろいものには感じられない。

またぐらを平気な顔をして
くぐっていく

 の方が、つぎの「とおりすぎる」とリズムがいっしょになり、楽しく読むことができる。西脇順三郎なら、

またぐらを平気な
顔をしてくぐっていく

にしただろうか。あるいは

またぐらを平気な顔を
してくぐっていく

にしただろうか。というようなことも考えた。リズム、音楽は、詩のことばを独立させる。独立してこないことばは詩としてはおもしろくない。

コメント (2)
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