五月女素夫『月は金星を釣り』(ミッドナイト・プレス、2007年10月25日発行、星雲社発売)
「鳥のいない庭」の冒頭の2行は五月女のことばの動きを象徴している。
「暮れているのに/暮れてゆくことだけがある」。この論理矛盾のような繊細な動き。矛盾を承知であえてその矛盾の中へ入っていこうとする動き。強引にではなく、静かに、どちらかというと自分から入っていくというのではなく、向こうが自然に開いてくれるのをまっているような、ひっそりとした感じ。向こうが五月女に気がついて、そっと招き寄せてくれるのをまっているような密やかさ……。
「暮れている」のに「暮れていく」ということは、一種の矛盾のようだが、「暮れている」けれどもなお「暮れていく」余地があるということだろう。「暮れている」のに、それでもなお「暮れていく」ことができる余地がある--ということを識別できる強い視力(認識力)、あるいはそういうものを識別するための粘り強い精神力が五月女という存在をつくっているのかもしれない。
そして、この「暮れているのに/暮れてゆくことだけがある」の改行のあいだには、五月女は書いてはないが、私が補ったように「それでもなお」ということばがひそんでおり、その「それでもなお」を支えるのが、五月女の精神力、ことばの粘着力なのである。
五月女の詩には、いたるところに「それでもなお」が隠れている。
括弧に入った(それでもなお)は五月女の作品には存在しない。私が補ってみたものだ。
(それでもなお)を補ってつないだ別々の行のあいだには「論理的」なつながりはない。つながりがないからこそ、ただじっと待つ行為として(それでもなお)が存在するのである。つながるものがないからこそ、本来の連続性から逸脱して、(それでもなお)何かとつながろうとするのである。ここから五月女の粘着力がでてくる。
五月女の詩、そのことばが、とても粘着力のある動きをするにもかかわらず、粘着力が前面に出てこないのは、(それでもなお)が五月女の意識のなかで完結しているからである。五月女のなかで完結しているから、むりやり対象のなかに侵入し、対象を改変し、同時に五月女自身も変わる、という「劇」が存在しない。五月女の詩のなかにはストーリー(物語)があるにもかかわらず、「劇」が存在しないのは、そういう理由による。「劇」はそんざいしたとしても、詩という舞台ではなく、詩に書かれなかった(それでもなお)という五月女の精神のなかでのみ存在するのだ。
書き出しに、「暮れている」と書きながら、13行目に「暮れのこる若やいだあかるさ」と書いているように、その間に何行もことばを書きながらも、何も起きてはいない。「スクリーンのように変化する」という13行目のことばは、「暮れのこる若やいだあかるさ」の述語のようにも、14行目の「風」の修飾語のようにも受けとれるが、そういうあいまいさを利用して、五月女は、ただじっと動かずにいる。(それでもなお)という精神のなかの時間だけをとどまったまま深めてゆくのである。
もう一度、冒頭の2行。
その2行目の「ある」。「ある時間」の「ある」は「存在する」と書き換えることができる。五月女は詩のなかで、彼自身の「存在論」を書いているのである。(それでもなお)ということばとともにある精神の存在、それを浮かび上がらせるための、存在論としての詩。
五月女はそして「存在論」を「時間」と結びつけて考えている。2行目の「時間」は書かれていないくても「意味」は通じる。「意味」はかわらない。しかし、五月女は「時間」と書かずにはいられない。五月女は「存在」は「動く」、そして「運動」が「時間」を生み出しているという認識があり、それが詩のなかにストーリー(物語、登場するものたちが動くことで、「時間」が動いていく)を呼び込むのだ。
「存在論」をそのまま「時間論」へと重なり合わせる--それが五月女の究極の夢だろうと思う。五月女には男と女がでてきて、なにやら抒情的なことをしているが、センチメンタルに墜ちていないのは、その基本に「存在論」と「時間論」をめざした意識があるからだろう。
「鳥のいない庭」の冒頭の2行は五月女のことばの動きを象徴している。
陽はもうこの植物園の妄想のように暮れているのに
暮れてゆくことだけがある時間
「暮れているのに/暮れてゆくことだけがある」。この論理矛盾のような繊細な動き。矛盾を承知であえてその矛盾の中へ入っていこうとする動き。強引にではなく、静かに、どちらかというと自分から入っていくというのではなく、向こうが自然に開いてくれるのをまっているような、ひっそりとした感じ。向こうが五月女に気がついて、そっと招き寄せてくれるのをまっているような密やかさ……。
「暮れている」のに「暮れていく」ということは、一種の矛盾のようだが、「暮れている」けれどもなお「暮れていく」余地があるということだろう。「暮れている」のに、それでもなお「暮れていく」ことができる余地がある--ということを識別できる強い視力(認識力)、あるいはそういうものを識別するための粘り強い精神力が五月女という存在をつくっているのかもしれない。
そして、この「暮れているのに/暮れてゆくことだけがある」の改行のあいだには、五月女は書いてはないが、私が補ったように「それでもなお」ということばがひそんでおり、その「それでもなお」を支えるのが、五月女の精神力、ことばの粘着力なのである。
五月女の詩には、いたるところに「それでもなお」が隠れている。
陽はもうこの植物園の妄想のように暮れているのに
(それでもなお)
暮れてゆくことだけがある時間
うすくあかるく
誰もいない
(それでもなお)
その微風になめらかに水草として揺られている樹木は
きめこまかいものを見ている
まっしろいけものが 剥製のしずけさの気体を吐き
なにも望まないと云う連れのおんなは
少し離れたところを あるいている
(それでもなお)
ひとけのない植物園の風は ますます威力をまして
無性に おわりという気がしてくる
(それでもなお)
頭上にかかる繁る枝が 揺れるたび
暮れのこる若やいだあかるさは スクリーンのように変化する
(それでもなお)
風のなかにいると
くり返しくり返し どこかへ誘われている思いがする
括弧に入った(それでもなお)は五月女の作品には存在しない。私が補ってみたものだ。
(それでもなお)を補ってつないだ別々の行のあいだには「論理的」なつながりはない。つながりがないからこそ、ただじっと待つ行為として(それでもなお)が存在するのである。つながるものがないからこそ、本来の連続性から逸脱して、(それでもなお)何かとつながろうとするのである。ここから五月女の粘着力がでてくる。
五月女の詩、そのことばが、とても粘着力のある動きをするにもかかわらず、粘着力が前面に出てこないのは、(それでもなお)が五月女の意識のなかで完結しているからである。五月女のなかで完結しているから、むりやり対象のなかに侵入し、対象を改変し、同時に五月女自身も変わる、という「劇」が存在しない。五月女の詩のなかにはストーリー(物語)があるにもかかわらず、「劇」が存在しないのは、そういう理由による。「劇」はそんざいしたとしても、詩という舞台ではなく、詩に書かれなかった(それでもなお)という五月女の精神のなかでのみ存在するのだ。
書き出しに、「暮れている」と書きながら、13行目に「暮れのこる若やいだあかるさ」と書いているように、その間に何行もことばを書きながらも、何も起きてはいない。「スクリーンのように変化する」という13行目のことばは、「暮れのこる若やいだあかるさ」の述語のようにも、14行目の「風」の修飾語のようにも受けとれるが、そういうあいまいさを利用して、五月女は、ただじっと動かずにいる。(それでもなお)という精神のなかの時間だけをとどまったまま深めてゆくのである。
もう一度、冒頭の2行。
陽はもうこの植物園の妄想のように暮れているのに
暮れてゆくことだけがある時間
その2行目の「ある」。「ある時間」の「ある」は「存在する」と書き換えることができる。五月女は詩のなかで、彼自身の「存在論」を書いているのである。(それでもなお)ということばとともにある精神の存在、それを浮かび上がらせるための、存在論としての詩。
五月女はそして「存在論」を「時間」と結びつけて考えている。2行目の「時間」は書かれていないくても「意味」は通じる。「意味」はかわらない。しかし、五月女は「時間」と書かずにはいられない。五月女は「存在」は「動く」、そして「運動」が「時間」を生み出しているという認識があり、それが詩のなかにストーリー(物語、登場するものたちが動くことで、「時間」が動いていく)を呼び込むのだ。
「存在論」をそのまま「時間論」へと重なり合わせる--それが五月女の究極の夢だろうと思う。五月女には男と女がでてきて、なにやら抒情的なことをしているが、センチメンタルに墜ちていないのは、その基本に「存在論」と「時間論」をめざした意識があるからだろう。