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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(48)

2009-08-05 07:41:37 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

八五
よもぎの藪に
こひるがほの咲く夜明
あさめしに招かれて
そばを喰べに急ぐ
露の旅は無情の天地
日天月天の間にすだく
生命の時間今日も過ぎ行く

 1行目と2行目には不思議な音がある。濁音の響きの中から、何か透明な音がある。「咲く」の「さ」。この音がとても美しい。
 そして、そのあと次々に「さ行」の音が出てくる。「あさめし」「そば」「無情」(「さ行」でありながら、濁音という微妙な音の変化)「すだく」「せいめい」「時間」(ここにも濁音)「過ぎ行く」。
 この音の登場する間合い、リズムがとても気持ちがいい。こういう音の操作は、きっと意識ではできないことだと思う。肉体が無意識に選んでしまう音なのだと思う。

八七
古木のうつろに
黄色い菫の咲く
うつつ
春の朝

 ここでは「うつろ」と「うつつ」が美しい。「春の朝」は、私の感じでは、かなりうるさい。

八六
腐つた橋のまがりに
あかのまんま傾くあの
細長い風景をまがつて
歩いた

 「まがる」(まがった)に対する強い嗜好が西脇にはある。何度も何度も「まがる」ということばが西脇の詩には登場する。

 この詩には不思議なリズムがある。2行目。「あかのまんま傾くあの」。なぜ「あかまんまの傾くあの」ではないのか。「あかまんま」を「あかのまんま」というのは、それとも西脇の育った新潟の言い方なのだろうか。
 「わざと」、西脇は「あかのまんま」と書いていると判断して、読んでみる。(詩は、いつでも「わざと」のなかにある。)
 「あかのまんま傾くあの」という行であっても、私は無意識に「あかまんまの傾くあの」と読んでしまう。そして、読んでしまったあと、あ、何かが違うと感じ、その行を読み直す。そして「の」の位置が、ふつうのことばの感覚とは違うことに気づく。
 その瞬間。
 「あかのまんま傾くあの」という行の「あの」という終わり方にも意識が動いていく。「まがって」いるのは橋の曲がり角、その曲がり角にしたがって風景を曲がるという行動だけではない。音も「まがっている」。西脇は風景にあわせて、音も「まげた」のである。
 まがって、まがって、まがる。すると、なんだか、まっすぐになった感じがする。最終行の「歩いた」から、なぜか「まがる」という印象が、私の場合、消える。曲がっているにもかかわらず、まっすぐに歩いている肉体が目の前に浮かんでくる。
 この不思議さ。



詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(47)

2009-08-04 10:43:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

八三
雲の水に映る頃
影向寺の坂をのぼる
薬師の巻毛を数える秋
すすきの中で菓子をたべる
帰りに或る寺から
安産のお札を買つて
美術史の大学院生にやつた
なにのたたりかかぜをひいた

 前半と後半ががらりとかわる。かわるのだけれど、何かが重なる。ことばの動くスピード、リズムを、後半でそのままくりかえしている印象がある。音の数(?)を数えてみると、きちんとは重ならないのだが、なんとなく似ている。
 1行目に「雲の水に映る頃」とあるから、3行目の「秋」はなくてもわかると思うが、わざわざ書いている。これは、7行目の音の動きと重ねあわせるための操作としか私には思えない。

やくしのまきげをかぞえるあき
びじゅつしのだいがくいんせいにやつた

 音の数はたしかに違う。けれどそれは文字でみた場合のこと。7行目は「じゅ」は1音、「いん」も1音、「せい」は(せー)で1音、「やつた」の「やっ」(あるいは「った」」か)で1音。そう数えなおすと、ともに14音になる。3行目の「秋」をリズムをあわせるための操作と見るのは、そういうことが起きているからである。
 微妙に違うのだけれど、微妙に似ている。この、微妙な感じが、どこかで音楽とユーモアを感じさせる。
 そして、その微妙な感じが、聖と俗との出会いを楽しくさせている。
 最終行の「なにのたたりか」は、もちろん「安産のお札(お守り)なんて失礼しちゃうわね」という大学院生の「たたり」である。「たたり」などというものは、非現実的だけれど、そういう非現実が「俗」として働くとき、その「俗」がユーモアにかわる。あたたかい笑いになる。

八四
耳に銀貨をはさみ
耳にまた吸ひかけのバットをはさむ
かすりの股引に長靴をはく
とたんの箱をもつ
人々の昔の都に
桜の咲く頃

 5行目の「昔の」がとても楽しい。「昔の」がなければ、単なる花見のスケッチだ。「昔の」をはさむことで、過去と現代の時間が出会う。
 昔の花見の雅と現代の俗。
 「昔の」というたったひとことで、「花見」を反復している。現代と過去を出会わせている。「銀貨」も「バット」も「とたん」も音そのもののなかに「俗」がある。「雅」にしばられぬ自由がある。


雑談の夜明け (講談社学術文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(46)

2009-08-03 09:21:52 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

八〇
秋の日ひとり
むさし野に立つ
ぬるでの下に

八一
昔の日の悲しき
埃(ほこり)のかかる虎杖(いたどり)
木の橋の上でふかすバット
茶屋に残るリリー

 「ぬるで」「虎杖」。植物の名前の中に隠れている音は美しい。この美しさは、西脇はここでは書いていないが、やはり「淋しい」美しさだ。それは、そのことばのなかで完結する美しさと言い換えることができるかもしれない。
 虎杖は埃を被っていて、完結していない、孤独ではないという見方もあるけれど、逆に埃をかぶることでより一層完結したものになるともいえる。完結することで「昔の日」に「なる」。だから「悲しき」。このことばも「淋しき」につながる。

八二
鬼百合の咲く
古庭の
忘らるる
こはれた如露のころがる

 「こわれた如露」。こわれなくても完結するかもしれない(いまの時代にあっては)。だが、「こわれた」ということばによってさらに如露が完結する。そこに「淋しい」美しさがある。
 「こわれた」「ころがる」、「じょろ」「ころがる」。その音の響きあいも、私はとても気に入っている。音の繰り返しが人工的に(作為的に)なる寸前で踏みとどまっている。素朴である。西脇の音楽は、とても素朴で、それゆえに力強い。




西脇順三郎全詩引喩集成 (1982年)
新倉 俊一
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誰も書かなかった西脇順三郎(46)

2009-08-02 07:38:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

四七
むさし野を行く旅者(たびもの)よ
青いくるみのなる国を
知らないか

 西脇はときどき奇妙なことばをつかう。たとえばこの詩の「旅者」。なぜ、「旅人(たびびと)」ではないのか。
 私は、どうしても「旅物」ということばを思い出してしまう。旅から送られてくるもの。「いま」「ここ」にあるのではなく、違った場所、違った時間から送り届けられるものを思ってしまう。
 「旅人」は「いま」「ここ」(むさし野)を行きながら、実は、違う場所、違う時間を歩いている--そう考えると、この詩はおもしろくならないだろうか。そして、「むさし野」を歩きながら、「いま」「ここ」にないものを、「いま」「ここ」に呼び出すのである。「旅からの贈り物」のように。
 それが「青いくるみ」。「青いくるみのなる国」。
 この「青いくるみ」ということばも、私は非常に好きだ。
 木になっているくるみ。夏の間は、まだ緑(青い)である。やわらかな緑の皮となまなましい肉に包まれて、その実は固い殻のなかにある。そして、その殻をたたきわって、熟していないくるみをすすると牛乳のような味がするのだ。--これは、私の子ども時代の夏の記憶だが、西脇も、そういう体験をしているのではないだろうかと思う。
 私は「むさし野を行く」旅人ではないが、「青いくるみのなる国」を知っている。だからこそ、思うのだ。西脇は「むさし野」を歩きながら、遠い新潟の野を歩き、青いくるみを割ってかじっているのだ。

七九
九月になると
長いしなやかな枝を
藪の中からさしのばす
野栗の淋しさ
その実のわびしさ
白い柔い皮をむいて
黄色い水の多い実を生でたべる
山栗の中にひそむその哀愁を

 この詩に書かれている熟れていない山栗の実のうまさを私は知っている。茶色く熟れて、イガがはじけるまで待てない子ども時代。そういう栗を私は何度もたべた。「青いくるみ」同様、そこには不思議な「いのち」の味がする。「いのち」が形になりきる前の、やわらかな感じ。
 「淋しい」「わびしい」は形になりきれないもの--という意味でもある。そして、それこそが「美」である。その美を、西脇は「哀愁」と呼んでいる。






西脇順三郎研究 (1971年) (近代日本文学作家研究叢書)

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誰も書かなかった西脇順三郎(45)

2009-08-01 07:17:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

七四
秋の日も昔のこと
むさし野の或る村の街道を歩いてゐた
夕立が来て或る農家の戸口に
雨の宿りをした時に
家の生け垣に
かのこといふ菓子に似た赤い実
がなつてゐた
「我れ発見せり」と思つた
それは先祖の本によく出てくる
真葛(さねかづら)とか美男葛といふもの
その家の女にたのんで折り取つた
女は笑ふ「そんなつまらないもの」
をと だが
心は遠くまた近い

 「つまらないもの」は「淋しいもの」である。
 「つまらない」は別のことばで言えば、他のものと何かを共有していない、孤立しているということである。孤立しながら、「いのち」をつないでいる。その「いのち」は「永遠」とつながっている。「永遠」とつながっている「つまらないもの」が「淋しい」であり、「美」なのだ。
 この詩は、また、女の存在によっておもしろくなっている。きっと農家の男だったら「そんなつまらないもの」とは言わない。きっと西脇に配慮して、もっと違う言い方をする。「こういうものがめずらしいのですか」とか「こういうものが好きなのですか」とか。女は他人に配慮せずに、自分の思いをそのままことばにする。そのことが、また「淋しい」なのである。他のひとの「思い」とつながろうとは、強いて望みはしない。

 最終行の、

心は遠くまた近い

 の「遠い」「近い」の区別のない状態。それもまた「つまらない」「淋しい」と同じものである。遠近の区別がないというのは、ようするに他とつながっていないからである。孤立している。孤として存在する。それは他のものとはつながらず「永遠」と、つまり「いのち」とだけつながっている。



西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(44)

2009-07-31 06:54:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

六九
夕顔のうすみどりの
扇にかくされた顔の
眼(まなこ)は李(すもも)のさけめに
秋の日の波さざめく

 「さ行」の音が響きあっている。この詩でも最終行「波さざめく」には助詞がない。助詞がないことによって、ことばのスピードが速くなっている。

七〇
都の街を歩いてゐた朝
通りすがつた女の後(うしろ)に
ベラームのにほひがした
これは小説に出てゐたことだ
誰の書いた小説か忘れた
さほど昔のことならねど

 詩は体験を書くわけではない。ことばを書く。
 実際に女の匂いをかいだように書いて、それは実は小説のことである、と切り返す。その瞬間、頭のなかに浮かんだ光景が、ことばそのものになる。
 その軽さがとても楽しい。

七二
昔法師の書いた本に
桂の樹をほめてゐた
その樹がみたさに
むさし野をめぐり歩いたが
一本もなかつた
だが学校の便所のわきに
その貧しき一本がまがつてゐた
そのをかしさの淋しき

 この詩は西脇の嗜好をとてもよくあらわしている。「まがつてゐ」の木。そして、それが「便所」という俗なもののそばにあること。この場合「俗」はほとんど「永遠」とおなじである。「聖」よりも「俗」が永遠なのだ。そこには、人間の暮らしがあるからだ。
 「俗」のおかしみ。そしてそれを「淋しさ」と結びつけている。
 わび・さびというものが対象に属するとしたら、淋しさは対象ではなく、その対象にむけられた人間のいのちのなかにある。わび・さびは共有できるが「淋しさ」とその美しさは、たぶん、共有できない。共有できないからこそ、それを西脇は書く。書くことで、そこに成立させる。



西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(43)

2009-07-30 07:37:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

六五
よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ

 2行目は「さがみがわにそふ(う)みちをくだる」と読むのだと思う。思うけれど、それにつづく行を読むとき、ふと「さがみがわにそふ(う)どうをくだる」と読みたくなる。3行目の「おもいにをせおふ(う)(しょう)どうじに」の「さ行」のゆらぎ、「どう」という音の重なりと響きあう。
 そうした響きあいのあとで、「道をきいた昔の土を憶ふ」を読むと「土」は「つち」なのだろうけれど、記憶をくすぐる感じ(憶ふ--というのは、そういう感じじゃないだろうか)で、「ど」の音が聞こえてくる。目は「つち」と読んでいるのだけれど、耳は「ど」とささやいている。
 だからこそ「土」を記憶からひっぱりだすのだと思う。
 「昔の土を憶ふ」ということばで西脇があらわしたかったのは、どこの「土」だろう。どういう土だろう。歩いている道の「土」だろうか。人々が踏み固めることでできた土の道のなかにある時間だろうか。
 もっと素朴に、童子の肉体や服に「土」、「土まみれの童子」を思い出したということではないだろうか。
 子どもは働く人間である。いまは違っているが、昔の子どもは働いた。子どもも働くというのが人間の暮らしである。いのちである。この詩には「淋しい」ということばはないが、そういう働く子どもに「淋しさ」がある。いのちの美しさがある。

 私は貧しい田舎の生まれなので、そんなことを思った。小学生のとき、私だけではなく、友達はみんな、おぼつかない手でくわを持ち畑を耕した。重い野菜や刈り取った稲を背負って家まで運んだ。肉体も服も泥まみれであった。

六八
岩の上に曲つてゐる樹に
もうつくつくぼふしはゐなく
古木の甘味を食ひだす啄木鳥(きつつき)たたく

 最後の行の「啄木鳥たたく」がとてもおもしろい。助詞がない。キツツキがたたく、だろう。西脇はこういうとき、しばしば「の」を使うけれど、ここでは省略されている。その結果、「か行」「た行」のおもしろいリズムが生きている。直前の「食ひだす」ということばも、最後のリズムに大きく影響している。修飾語がキツツキにぴったりくっついて「間」がない。その「間」のないリズムが「きつつきが(あるいは、の)たたく」とあるべきころろから、間延びする「が」(の)を奪いさったのだ。
 2行目の「ゐなく」「たたく」と脚韻になっているところも、リズムを強調している。



西脇順三郎全詩引喩集成 (1982年)
新倉 俊一
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誰も書かなかった西脇順三郎(42)

2009-07-29 09:16:56 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

六二
心は乱れ
山の中に
赤土の岸の上
松かさのころぶ

 「の」の連続。その音の響き。最終行は「松かさがころぶ」の方が現代的かもしれない。けれど、西脇は「の」をえらぶ。
 「松かさ」は「松毬」あるいは「松笠」。「松毬」の方が、転がるというイメージが視覚から直接的に脳を刺戟するかもしれない。しかし西脇は「松かさ」と書く。「かさ」の方が、転がるときの乾いた音、「かさかさ」を呼び起こし、耳を刺戟するからだろう。
 西脇の音には発声器官に快感を引き起こすものと、聴覚に快感を呼ぶものがある。
 ところで、「松かさ」には「松ふぐり」という言い方もある。西脇が「松ふぐり」ということばをつかっているかどうか、思い出せないが、「松ふぐり」ということばをつかったら、詩は、どんな展開をするだろう。
 そんなことを、ふと考えた。西脇の詩には、土俗的なというか、土にしっかり根ざしたことば、たとえば野生の草花の名前(音)がたくさん出てくるので、私の連想が土に向かったのかもしれない。

六三
地獄の業をなす男の
黒き毛のふさふさと額に垂れ
夢みる雨にあびしく待つ
古の荒神の春は茗荷の畑に

 「の」の連続。1行目の「業をなす男の」の「の」は「が」だろうけれど、西脇は「の」にこだわる。
 最終行の「茗荷」の「みょうが(みょーが)」という音の泥臭さが刺戟的である。
 ふと、何気なく、「泥臭い」と書いてしまったが、濁音や長音、促音、音便というのは、泥臭いものかもしれない。どの音も、歴史的仮名遣い(ひらがな)のではつかわれない。(あ、「ん」はつかわれるか……。)
 西脇は、ひとの「肉体」から出てくる音としてのことばが好きなのだろうと思う。肉体から出て、肉体へ還っていく音としてのことば。濁音や長音、促音、音--その変化のなかに音楽がある。


西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(41)

2009-07-28 10:52:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

五八
土の幻影
去るにしのびず
橋のらんかんによる

 「幻影」とは何か。土はいつでも存在する。人間は土の上に立っている。土の上で暮らしている。土が「幻影」であっては、こまる。この「幻影」はふつう辞書に載っている「幻影」とは違う。--どう違うか。それは、この詩だけではわからない。だが、わからなくてもかまわない。わからないものが、そこにことばとしてある。わからないものを、ことばにする。そこに詩があるからだ。
 この作品では、その意味のあいまいな幻影と「らんかん」という音の響きあいがおもしろい。
 「らんかん」は「欄干」である。けれど、西脇はそれを「音」にしてしまって「らんかん」と書く。そのとき、「幻影」もまた「げんえい」という「音」にかわる。「げんえー」にかわる。「らんかん」のなかには「ん」という声にならない音がふたつ。「げんえい(げんえー)」のなかには「ん」と、音をひきのばす「ー(音引き)」が交錯する。
 漢字で書こうがひらがなで書こうが「音」そのものにかわりはないはずだが、なぜか、ひらがなの方が「音」がよく伝わってくる。感じだと視覚が解放されないのかもしれない。

六一
九月の一日
心はさまよふ
タイフーンの吹いた翌朝
ふらふらと出てみた
一晩で秋が来た
夕方千歳村にたどりつく
枝も葉も実も落ちた
或る古庭をめぐつてみた
茶亭に客あり

 「タイフーン」という音が魅力的である。「台風」ではなく「タイフーン」。なぜ、英語なのか。英語でありながら、日本語の音に重なる。そして、その音のなかに「幻影」と「らんかん」でみた音がゆらいでいる。「ん」と「ー(音引き)」が。
 意味ではなく、西脇は、「タイフーン」という音そのものが書きたかった。それをことばとして、書きたかったのだと思う。
 最後の「茶亭に客あり」はちょっとかわった音である。「ちゃてい(ちゃてー)」、「きゃく」。通い合う音があるのだが、私の耳には、それは「日本語」に聴こえない。「タイフーン」が日本語として響いてくるのに、「ちゃてい(ちゃてー)」「きゃく」は何か異質なものとして響いている。「茶亭に客あり」という「文語文体(?)」が影響しているのかもしれない。それまでのことばの音の距離感と、最終行の音の距離感が違っている、と感じる。
 台風のあと、さまよって、知らずに「異質」な世界にたどりついた、という感じがする。台風のあとのいつもとは違う風景のなかを歩き、異次元に迷い込んだ--そういうことが、音そのものとして描かれている。



西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(40)

2009-07-27 07:21:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

五四
女郎花の咲く晩
秋の夜の宿
あんどんの明りに坐わる
虫の声はたかまり
手紙を読む
野辺の淋しき

 この作品は1行目が印象的だ。なぜ「晩」なのだろう。いつも気にかかる。私自身を納得させることばがみつからない。

五五

くもの巣のはる藪をのぞく

 なぜ「藪」か。蜘蛛の巣がはっているから、といえばそれまでだが、「やぶ」という音も重要だろう。ここにも西脇の濁音好みがあらわれているとわたしは思う。

五六

楢の木の青いどんぐりの淋しさ

 「の」の連続。そして、「青いどんぐり」。完成したもの(完熟したもの)よりも、これから完成へ向かうもの。その「淋しさ」は「美しさ」とおなじである。「いのち」の、これから広がっていく力。そこにあるのは、力の充実かもしれない。




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誰も書かなかった西脇順三郎(39)

2009-07-26 07:36:32 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

五一
青銅がほしい
海原の滴りに濡れ光る
ネプチュンの五寸の青銅が
水平に腕をひろげ
少しまたをひらいて立つ
何ものか投げんとする

 2行目の「ら行」の揺らぎが楽しい。3行目の「ネプチュン」と「五寸」の出会いもおもしろい。そして、5行目の「少しまたをひらいて立つ」という具体的な描写がおもしろいが、この1行も不思議に音が響きあう。「を」の音を軸にして、音が回転する印象がある。音の中に動きがあるので、次の「何ものか投げんとする」がほんとうにものを投げるような、投げられたものがこれから見える--という印象を呼び覚ます。

五二
炎天に花咲く
さるすべり
裸の幹
まがり傾く心
紅の髪差(かみざし)
行く路の
くらがりに迷ふ
旅の笠の中

 この詩の中にも西脇の濁音嗜好が読みとれる。また「まがり」と「くらがり」の、音の響きあいと、イメージもおもしろい。
 「まがる」。直線ではないこと。「くらがり」。明るくはないこと。どちらも否定的なニュアンスがある。それは、濁音と清音の関係にも似ている。
 西脇は、「まがる」「くらがり」「濁音」に一種の共通のものを感じている。それは、直線、明るい、清音というものがもたない「充実感」である。「豊かさ」である。

 濁音が口蓋に響くときの、不思議な充実感が、私はとても好きである。そういう性向が私にあるから、西脇の濁音に目がとまるのかもしれないが……。



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誰も書かなかった西脇順三郎(38)

2009-07-25 07:12:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

四八
あの頃のこと
むさし境から調布へぬける道
細長い顔
いぬたで
えのころ草

 最後の2行。これは道ばたに生えていた草の名前だが、こうした草の名前(野生の名前)のなかにある「音」を西脇は大事にしている。そこに音楽を、「淋しさ」を感じている。
 実際に、その草そのものについて書きたいときは、きっと、具体的に書く。ここは、ただその草の名前、その「音」が気に入って、それを楽しんでいる。
 私は西脇の声を知らないし、西脇がどんな発音をしたか知らないが、最後の2行は、奇妙に私のこころをくすぐる。
 新潟(西脇の故郷)では、「い」と「え」の音があいまいである。田中角栄は確か「色鉛筆」を「いろいんぴつ」という風に発音していた。(かすかな、かすかな、かすかな記憶なので、「えろえんぴつ」だったかもしれないが、ようするに、東京弁の「し」と「ひ」のように似ている。)
 西脇がやはり新潟訛りを残していた、あるいは新潟の人が「いぬだて」「えのころ草」と呼ぶのを実際に聞いて、はっと気がつくことがあったとしたらなのだけれど、「いぬ」と「えの」の音はとても似ている。
 また、「いぬころ草」がなまって(?、転嫁して?)「えのころ草」になってともきくけれど、もともと、「いぬ」と「えの」は音が近い。新潟県人にとっては、区別がつきにくいかもしれない。
 そうしたことも、この2行が、風景の描写としてではなく、「音楽」として書かれたものであることを証明すると思う。
西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(37)

2009-07-24 07:21:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

四四
小平村を横ぎる街道
白く真すぐにたんたんと走つてゐる
天気のよい日ただひとり
洋服に下駄をはいて黒いかうもりを
もつた印度の人が歩いてゐる
路ばたの一軒家で時々
バツトを買つてゐる

 「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」の「行わたり」がとても印象に残る。学校文法では「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」になる。どこが違うのか。「意味」は同じである。「音楽」が違う。
 私が特に感じるのは「黒いかうもり」という「音」の美しさである。この音の美しさは「黒いかうもりをもつた」と続いてしまうと死んでしまう。「も」という音が近すぎるからである。
 「も」が改行されて、行の冒頭にくるとき、そこに強いアクセントがくる。(これは、私の場合であって、ほかのひとは違うかもしれない。)そして、「もつた」の「も」に強いアクセントがくると、それに引きずられるようにして「黒いかうもり」の「も」の音が記憶のなかでよみがえり、ふつたの「も」が「和音」となって響く。
 「白いかうもり」や「赤いかうもり」ではなく「黒いかうもり」であることも重要だ。「黒いかうもり」は、私にはとても美しい音に聞こえる。そして、その音は「もつた」と切り離されながら、同時に呼び掛け合うときに、さらに美しく響く。

 この詩には、イメージ自体の美しさ、「バツト」(たばこだろう)を買う印度人、洋服に下駄という不釣り合いなものの出会いの驚き、その驚きのなかの詩もあるけれど、私には、そうした異質なものの出会いという要素は、「黒いかうもり」という音の美しさに比べると、とても小さな部分しか占めない。



西脇順三郎詩集 (世界の詩 50)
西脇 順三郎
彌生書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(36)

2009-07-23 08:36:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

四三
或る秋の午後
小平村の英語塾の廊下で
故郷のいとはしたなき女
「先生何か津田文学
に書いて下さいな」といつた
その後その女にあつた時
「先生あんなつまらないものを
下さつて ひどいわ」といはれて
がつかりした
その当時からつまらないものに
興味があつたのでやむを得なかつた
むさし野に秋が来ると
雑木林は恋人の幽霊の音がする
櫟(くぬぎ)がふしくれだつた枝をまげて
淋しい
古さびた黄金に色づき
あの大きなギザギザのある
長い葉がかさかさ音を出す

 前半と後半にわかれる。前半は女とのやりとり。女の口語のなかにある、やわらかな響き。「下さいな」の「な」、「ひどいわ」の「わ」。そこに口語であるけれど、一種の「きまり」のようなものがある。口語にも文体がある。文体には「音」がある。独立した「味」がある。
 その「音」の対極に「つまらないもの」がある。それは女の「口語」の「音」がとらえることのできない「音」の世界である。「淋しい」音である。
 「恋人の幽霊の音」と書いて、そのあと、西脇はその「音」を説明している。具体的に書いている。
 「ふしくれだつた」「まげて」。まっすぐではないもののなかにある「いのち」。「古さびた」もの。「ギザギザ」のもの。新しくはないもの、まっすぐではないもの。そのなかにつづいている「いのち」の音。--それを西脇は「淋しい」と呼ぶ。

 そして、それは、最初に書いたこととは矛盾するかもしれないが、女の口語の「な」とか「わ」という音に通じるものを持っている。「な」とか「わ」は、男のまっすぐな(?)口語から見ると、「つまらない音」であり、男のまっすぐさを逸脱した「音」である。ある意味で、曲がっている。ふしくれだっている。古さびている。「音」のなかに古いものをもっている。古い「いのち」をもっている。その「淋しさ」、その「美しさ」に西脇は共鳴している。
 だから、自然に、前半の女の口語の世界が、西脇のいう「つまらないもの」の世界と向き合う形でつながっていく。
 そして、そのふたつは向き合いながら「和音」をつくる。

 女の「淋しさ」と西脇の「淋しさ」が、共鳴して、和音となって、「美」になる。



定本西脇順三郎全詩集 (1981年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(35)

2009-07-22 07:51:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

四二
のぼりとから調布の方へ
多摩川をのぼる
十年の間学問をすてた
都の附近のむさしの野や
さがみの国を
欅の樹をみながら歩いた
冬も楽しみであつた
あの樹木のまがりや
枝ぶりの美しさにみとれて

 最後の2行に西脇の頻繁に用いることばが出てくる。「まがり」。これは「曲がり」。そしてそれと同時に「枝ぶりの美しさ」について書いている。この「美しさ」は私には「淋しい」に非常に近いものに感じる。ほんとうに「淋しい」ものは「まがり」である。そして、その「まがり」があるから、枝ぶりが「美しい」のである。そたに「淋しさ」が反映しているのである。

 この詩には、地名がたくさん出てくる。最初の「のぼりと」が象徴的だが、西脇は、地名を「音」として受け止めている。「意味」ではなく、「音」。「音」が西脇を「意味」から切り離す。そして、そのとき詩が生まれる。



斜塔の迷信―詩論集
西脇 順三郎
恒文社

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