『旅人かへらず』のつづき。
八五
よもぎの藪に
こひるがほの咲く夜明
あさめしに招かれて
そばを喰べに急ぐ
露の旅は無情の天地
日天月天の間にすだく
生命の時間今日も過ぎ行く
1行目と2行目には不思議な音がある。濁音の響きの中から、何か透明な音がある。「咲く」の「さ」。この音がとても美しい。
そして、そのあと次々に「さ行」の音が出てくる。「あさめし」「そば」「無情」(「さ行」でありながら、濁音という微妙な音の変化)「すだく」「せいめい」「時間」(ここにも濁音)「過ぎ行く」。
この音の登場する間合い、リズムがとても気持ちがいい。こういう音の操作は、きっと意識ではできないことだと思う。肉体が無意識に選んでしまう音なのだと思う。
八七
古木のうつろに
黄色い菫の咲く
うつつ
春の朝
ここでは「うつろ」と「うつつ」が美しい。「春の朝」は、私の感じでは、かなりうるさい。
八六
腐つた橋のまがりに
あかのまんま傾くあの
細長い風景をまがつて
歩いた
「まがる」(まがった)に対する強い嗜好が西脇にはある。何度も何度も「まがる」ということばが西脇の詩には登場する。
この詩には不思議なリズムがある。2行目。「あかのまんま傾くあの」。なぜ「あかまんまの傾くあの」ではないのか。「あかまんま」を「あかのまんま」というのは、それとも西脇の育った新潟の言い方なのだろうか。
「わざと」、西脇は「あかのまんま」と書いていると判断して、読んでみる。(詩は、いつでも「わざと」のなかにある。)
「あかのまんま傾くあの」という行であっても、私は無意識に「あかまんまの傾くあの」と読んでしまう。そして、読んでしまったあと、あ、何かが違うと感じ、その行を読み直す。そして「の」の位置が、ふつうのことばの感覚とは違うことに気づく。
その瞬間。
「あかのまんま傾くあの」という行の「あの」という終わり方にも意識が動いていく。「まがって」いるのは橋の曲がり角、その曲がり角にしたがって風景を曲がるという行動だけではない。音も「まがっている」。西脇は風景にあわせて、音も「まげた」のである。
まがって、まがって、まがる。すると、なんだか、まっすぐになった感じがする。最終行の「歩いた」から、なぜか「まがる」という印象が、私の場合、消える。曲がっているにもかかわらず、まっすぐに歩いている肉体が目の前に浮かんでくる。
この不思議さ。
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