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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(74)

2019-08-01 08:00:50 | 嵯峨信之/動詞
* (近づけば)

なぜその幻は消えるのか
高層ビルの窓ガラスを染める千の夕日

 「幻は消える」を書きたかったのか、「高層ビルの窓ガラスを染める千の夕日」を書きたかったのか。たぶん、後者である。「幻は消える」は言い古されたことばだろう。それを「高層ビルの窓ガラスを染める千の夕日」という一行で洗い直す。
 「千(せん)」という漢語の響きが強烈だ。
 「高層ビル」は「一つ」、「夕日(太陽)」も「一つ」なのに、窓ガラスのなかで「千」になる。しかし、近づくと「千」は消える。「千」は具体的な数ではなく「抽象」である。だから、書かれていない「一つ(抽象)」も「千」のなかにある。
 それは嵯峨がまた「一つ(ひとり)」であることをも語っている。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(73)

2019-07-31 08:53:50 | 嵯峨信之/動詞
* (文字に時を託したことがある)

 抽象的にはじまる詩は尻取りのように「時を人間に託したことがある/人間に愛を託したことがある」とことばを入れ替えた後、転換する。

生と死との間に架かる透明な橋
ぼくは風に吹かれながらその橋を渡つて行つた

 なぜ「渡つて行つた」と過去形なのだろうか。それは「託したことがある」が過去形だからである。「託した」が過去、「ある」は現在。いま、「過去」を思い出している。
 それが「渡つて行つた」になる。つまり、渡つて行つたのあとには「ことがある」が省略されている。
 「愛」は尻取りの力を借りて「生と死」のあいだへ大きく飛翔している。愛をことばにし、愛の時間を生きることで人間は人間になる。人間は「生と死」の間にかかった橋である。そういうことを思ったのだろう。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(72)

2019-07-30 06:47:08 | 嵯峨信之/動詞
* (川底の渦巻きに光りが射してくると)

黄金の砂の舞いまでよく見える

 ほんものの「黄金」ではなく「黄金」に輝く反射である。こういう「舞い」を私もこどものころの川遊びで見たことがある。
 どこにでも「渦巻き」がある。
 流れ去るものあるだろうから、同じ砂が舞っているわけではないが、渦巻くという動きが同じなので同じに見える。
 --というところまで、こども時代に見ていたかどうかはわからない。歳をとると、ことばはこどもとは別の「小賢しさ」を身につけてしまうものらしい。
 これは、私自身へのことば、反省であって、嵯峨の詩への感想ではない。


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(71)

2019-07-29 09:23:08 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくは記憶する前に記憶を失つた)

 論理からはじまる抒情。論理というよりも「思考する」かもしれない。あるいは「精神」と言い換えることもできるかもしれない。

その記憶の蘇生を待つぼく自身を 水を 砂を
生きるためにぼくは空のなかに路を探した

 「失う」は「探す」と対になっている。しかし「探す」という動詞にたどりつく前に「待つ」という動詞がはさまれている。「生きる」も経由しており、これは「蘇生(する)」という形でも隠れている。しかし、「待つ」の方が興味深い。
 「待つ」とき、ひとは何もしない。ただ「待つ」。「待つぼく自身を」「探す」とは、「ぼく」を探すというよりも「待つ」という行為を探すことだ。
 ひとは「待つ」ことができないのかもしれない。思考してしまう。そういう人間の「本質」があらわれている。


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(70)

2019-07-28 10:51:34 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくは帰る場処がない)

ぼくは果樹園にそつた夜道をひたすら急いでいる

 「帰る場処がない」が「行く場処がある」というわけではないだろう。「帰る」と「行く」は対になっているから、「帰る場処がない」ぼくには「行く場処もない」だろう。
 では、どこへ「急いでいる」のか。
 「そつた」(沿う)を修飾語ではなく「動詞」そのものとして読んでみる。
 「帰る」か「行く」か、わからない。けれど「沿う」ことができるものがある。「果樹園」も「夜」も具体的な場所ではなく「比喩」かもしれない。
 「急いでいる」のは「肉体」ではなく「ことば」かもしれない。
 思想が動くときの、一つのあり方が描き出されている。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(69)

2019-07-27 09:32:01 | 嵯峨信之/動詞
* (昼はどこにもない)

あるのは夜ばかり
ぼくの顔から 手足から 全身から昼がぬけ落ちてしまつたのだろう

 「ぼくの」顔から、手足から、全身から昼が抜け落ちても、それは「ぼくの」ことであって、「ぼく」以外のところに昼は存在しているかもしれない。むしろ、「ぼく以外」のところに昼が存在するから「ぼくから」昼が抜け落ちたと感じるのではないだろうか。もし、「ぼくの周囲」に昼が存在しないのなら、「ぼくから」昼が抜け落ちるとは意識しないかもしれない。
 というのは、理屈。
 夜になって、「ぼく」も夜を生きている。昼は昼の時間を生きている。「時間」と「ぼく」という存在が融合していたときがあった。それが理想の「時間」と「人間」とのありようだと言っているのかもしれない。
 「ぬけ落ちる」という生々しい肉体を刺戟する感覚が「一体感」があったことを語る。





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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(68)

2019-07-26 11:03:13 | 嵯峨信之/動詞
* (魂しいを語の中に沈めてみた)

語はしずかにゆれ動き
日は暮れがたから雨になつた

 何という語、あるいはどんな語だろうか。手がかりは「しずかに」と「ゆれ動く」。「魂しい」を沈める前は、揺れ動いてはいなかった。不動だった。そして、そのゆれ動きが「しずかに」というのだが、これは「ゆれ動く」という動詞よりも重要かもしれない。「しずかに」のなかに動詞の本質が隠されている。
 この「しずかに」が次の行で「暮れがたから」に言いなおされていると思う。「沈めた」そのときから暮方までの、長い時間。あるいは「ゆれ動き」はじめたときから暮方までの、長い時間。それが「しずかに」の「意味」である。変化する時間は、変化の「様態」でもある。「雨」は「しずかに」がこらえきれずにあふれた「魂しい」の別の形である。「魂しい」は「しずかな雨」に「なつた」。 







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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(67)

2019-07-25 10:59:13 | 嵯峨信之/動詞
* (強い力でさえ)(追加)

夢のなかで
彫られた水の上を
一羽の水鳥が泳いでいる

 「強い力でさえ」からはじまる詩は全集の349ページから350ページへとつづいていた。そして、350ページにあるのが引用した行。

 「彫られた水」という表現は「耕された精神」という表現に似たところがある。「彫る」という動詞の主語がすぐにわかるわけではない。隠されている。「一羽の水鳥」によって「彫られた水の上」、つまり水鳥が「泳ぐ」ことによって水を「彫る」、その波の形が水面に模様を「彫る」ということが、イメージが交錯する形で書かれている。
 詩は、イメージの混乱と再統合の運動である。







*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(66)

2019-07-24 09:19:03 | 嵯峨信之/動詞
* (強い力でさえ)

耕やされた精神の所産である

 「耕やされた」は「精神」を修飾する。しかし精神を耕すのは、誰(何)なのか。精神はみずからを耕すのではないだろう。
 「耕やされた精神」ではなく「耕す精神」が何かを生み出す。「精神」ではなく、「強い力」を。
 修飾語と修飾されることばを入れ換え、動詞を動かしてみると、「力」が見えてくる。力はいつも動詞の中にある。










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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(65)

2019-07-23 09:01:55 | 嵯峨信之/動詞
* (生きているときも)

蟻は
せいいつぱい太陽を浴びて這つている

 「這う」。確かに蟻は人間の目の高さから見ると「這う」ように動いている。けれど蟻に「這う」という自覚はないだろう。
 嵯峨は「這う」という動詞のなかで蟻になっている。いや、「這う」という動詞になるために蟻を利用している。蟻を描くのではなく「這う」を突き詰めたいのだ。
 「這う」という動きは「困難」「つらさ」といっしょにある。

糸のような時の上をたどりながら
それでもあるかないかの死の影を落している

 「這う」は「たどる」と言いなおされている。「死の影」が蟻の「同行者」になる。








*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(64)

2019-07-22 08:10:54 | 嵯峨信之/動詞
* (生でもなければ死でもない)

--ぼくの領地
詩とは
そこへ至る遠い道だ

 この詩の「遠い」は「長い」あるいは「困難な」の比喩である。
 「道」そのものが「遠い」ところにあるのではない。嵯峨はすでに「道」を歩んでいる。
 「歩く」は「至る」という動詞の中に隠れている。
 きのうの詩では「遠く(遠い)」は「遠ざかる」という動詞になった。「遠ざかる」は「去っていく」。「至る」は自分から近づいていく。
 揺れ動く青春のこころ(この詩を書いているとき、嵯峨は青春ではないが)が見える。







*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(63)

2019-07-21 09:19:56 | 嵯峨信之/動詞
* (たしかに)

ぼくはうわのそらで話を心の遠くに聞いている

 「うわのそら」と「心の遠くに」はおなじ。なぜ言いなおしたのだろう。「うわのそら」では「実感」ではないと思ったからだ。慣用句は「意味」をつたえるには便利だが、きもちをつたえることにはならない。
 「遠い」は、きのう読んだ詩にも登場した。

しかしぼくの心の一方から他の一方への間ほど遠いところはない

 きょうの詩は「遠い」(形容詞)ではなく「遠く」(副詞)。「動詞」をつかって言いなおすと「遠ざかる」になるか。

ぼくはうわのそらで話を聞き、こころは話から遠ざかっていく

 動詞にすると「肉体」が動いていく。







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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(62)

2019-07-20 09:58:39 | 嵯峨信之/動詞
* (遠いところはどこにもある)

しかしぼくの心の一方から他の一方への間ほど遠いところはない

 嵯峨の詩(ことば)は論理的である。論理という構造の中に詩がある。
 そう理解した上で、あえて書いておく。
 論理は危険だ。何かを言った気持ちにさせてしまう。読んだ気持ちにさせてしまう。論理にあわせて、ことばが動いてしまう。それが何かを「発見」させた気持ちにさせる。
 嵯峨の書いている一行はまったく別な風にも言い得る。

しかしぼくの心の一方から他の一方への間ほど近いところはない

 どんなに矛盾した思いも、こころのなかでは重なり合っている。あるいは、それはまじりあって一つになっている。だから、ことば(論理)にならない。意味にならない。喉を駆け抜けていく叫びにしかならない。そういう日を経験したことがありませんか?








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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(61)

2019-07-19 13:26:20 | 嵯峨信之/動詞
* (窓に凭れていると)

〈それでもあなたを信じる〉という結びの手紙を
 書き了えたばかりだ

 「結び」を「了えた」と言いなおす。そのとき何かが「完結」し、嵯峨の「肉体」から離れていく。
 主観が客観にかわる印象がある。
 これは最終行で、こう言いなおされる。

抵抗はこのようにいつも静かな敗北に終わる

 「結び(のことば)」は「抵抗」である。それは「敗北」にかわることで「完結」する。「結び」がなければ「敗北」ははじまらない。
 嵯峨の「かなしみ」はいつも論理を背負っている。









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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(60)

2019-07-18 11:52:47 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくはきみを知っている)

〈泣くことを覚える以前のきみを〉
きみはぼくを知らぬという

 泣く。ひとは泣き叫びながら生まれる。しかし、これは肉体の反応である。「覚え」てから泣くのではない。だから「泣くこと覚える以前」というのは悲しみを覚える以前ということになる。うれしくて泣くということもあるから、喜びを覚える以前ということでもある。
 悲しみや喜びによって、時に区切りができる。以前と以後がある。そして、人間はそれを「覚える」。
 「覚える」は「知る」につながる。しかし必ずしもそれは一致しない。
 人には知っていることと知らないことがある。覚えていることと覚えていないことがある。ふたりはいつ出会ったといえるのだろう。いつ出会うのだろう。いま出会っているのか。これから出会うのだろうか。きみはぼくを、いつ「覚える」のだろうか。









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