谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(9)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「罪」のあと、日射しの美しい木の写真(森の出口を撮った写真?)をはさんで「うたたね」という詩。
「カラダ」「ココロ」「タマシヒ」が出てくる。人間は、その三つでできている?
いちばん外側がカラダ、つぎがココロ、その奥にタマシヒがある、という感じなのかな? 外側からだんだん内部へと「くたびれる」が広がってくる。
タマシヒがくたびれて、ココロがくたびれて、カラダを見失う、ということは、ありうるのか。
ない、と思って、谷川はこの詩を書いていると思う。
でも、タマシヒを見失ったと思ったら、それは「外」から急にやってくる。
「垣根の外を子どもらが笑いながら歩く」のを見ると、それがタマシヒのように感じられる。カラダもココロもくたびれていなくて、元気に笑っている。あれがタマシイの理想の姿だな、と思い出してしまう。思い出すとき、タマシヒが外から肉体(眼)を通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる感じだ。
「日差しがゆるやかに影を回す」も同じ。その美しい光と影の揺らぎがタマシヒになって、カラダを通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる。ココロのなかに、タマシヒが甦り、それが外にあるタマシヒとつながって、子どもたちのように笑い声(よろこびの声)をあげる。光と影をかろやかに動かす。カラダの内と外が共鳴し、音楽が鳴り響く感じ。
そういうときは、「死んだ誰彼」が「無言で声をかけ」てくる。これは、友人と楽しく過ごした時間を思い出すという具合に私は読む。何も言わなくても、考えていることが通じ合ったようなよろこび。
タマシヒは人間を甦らせる。いつでも人間を元気づけるために存在する。タマシヒを見失ったと思ったときにさえ、それは外からやってきて、カラダの内と外との関係をととのえてくれる。
くたびれたら「うたたね」でもして、少し休んで、それから「外」を眺めてみればいい。子どもがいる。光がある。影がある。死んだ人のなつかしい思い出もある。
詩の裏には、かめが光を浴びながら泳いでいる写真。鯉も泳いでいる。その左となりのページには不思議な双六。まるで曼陀羅のよう。さらに、オタマジャクシ、たてかけられた自転車と写真がつづくのだが、そうか、生きているものも、そこで動かずにただあるだけのものも、どこかとつながって、何かが共鳴している(音楽を響かせあっている)のだな、と思う。
壁の落書きの写真がある。顔は向き合っているのか、左の男(少年?)は知らん顔をしているが、右の女(少女?)は何か呼びかけているように見える。その左となりの猫の写真がおもしろい。電子レンジの棚(?)の下にいて、電子レンジを見上げている。電子レンジのタイマーのスイッチがふたつ並んで目のように見える。猫とは関係のないところを見ている。その無関心な電子レンジの目を猫が見ている--というのは、いま見たばかりの壁の男と女の落書きの視線の関係に似ている。
そういう無関心と関心の視線の交錯のなかにもタマシヒはあるんだろうなあ。
何かが、私の肉体のなかに入ってきて、こうなふうにことばが動くのだから。
最後の一行は不思議。誰のタマシヒだろう。死んだ人の? それともこの詩の主人公の? 私には「個別のタマシヒ」のようには感じられない。タマシヒはいつでも「個別」のものではなく「ひとつ」なんだろうなあ。あるときは子どもになり、あるときは笑いになり、あるときは日差しや影になり、あるときは死んだ誰彼の声になる。そうして呼吸のように「肉体」を出たり入ったりするんだろうなあ。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「罪」のあと、日射しの美しい木の写真(森の出口を撮った写真?)をはさんで「うたたね」という詩。
カラダがくたびれてココロも
くたびれてきて
タマシヒを見失う
垣根の外を子どもらが笑いながら歩く
日差しがゆるやかに影を回す
死んだ誰彼に無言で声をかけられる
タマシヒは眠ることがあるのだろうか
「カラダ」「ココロ」「タマシヒ」が出てくる。人間は、その三つでできている?
いちばん外側がカラダ、つぎがココロ、その奥にタマシヒがある、という感じなのかな? 外側からだんだん内部へと「くたびれる」が広がってくる。
タマシヒがくたびれて、ココロがくたびれて、カラダを見失う、ということは、ありうるのか。
ない、と思って、谷川はこの詩を書いていると思う。
でも、タマシヒを見失ったと思ったら、それは「外」から急にやってくる。
「垣根の外を子どもらが笑いながら歩く」のを見ると、それがタマシヒのように感じられる。カラダもココロもくたびれていなくて、元気に笑っている。あれがタマシイの理想の姿だな、と思い出してしまう。思い出すとき、タマシヒが外から肉体(眼)を通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる感じだ。
「日差しがゆるやかに影を回す」も同じ。その美しい光と影の揺らぎがタマシヒになって、カラダを通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる。ココロのなかに、タマシヒが甦り、それが外にあるタマシヒとつながって、子どもたちのように笑い声(よろこびの声)をあげる。光と影をかろやかに動かす。カラダの内と外が共鳴し、音楽が鳴り響く感じ。
そういうときは、「死んだ誰彼」が「無言で声をかけ」てくる。これは、友人と楽しく過ごした時間を思い出すという具合に私は読む。何も言わなくても、考えていることが通じ合ったようなよろこび。
タマシヒは人間を甦らせる。いつでも人間を元気づけるために存在する。タマシヒを見失ったと思ったときにさえ、それは外からやってきて、カラダの内と外との関係をととのえてくれる。
くたびれたら「うたたね」でもして、少し休んで、それから「外」を眺めてみればいい。子どもがいる。光がある。影がある。死んだ人のなつかしい思い出もある。
詩の裏には、かめが光を浴びながら泳いでいる写真。鯉も泳いでいる。その左となりのページには不思議な双六。まるで曼陀羅のよう。さらに、オタマジャクシ、たてかけられた自転車と写真がつづくのだが、そうか、生きているものも、そこで動かずにただあるだけのものも、どこかとつながって、何かが共鳴している(音楽を響かせあっている)のだな、と思う。
壁の落書きの写真がある。顔は向き合っているのか、左の男(少年?)は知らん顔をしているが、右の女(少女?)は何か呼びかけているように見える。その左となりの猫の写真がおもしろい。電子レンジの棚(?)の下にいて、電子レンジを見上げている。電子レンジのタイマーのスイッチがふたつ並んで目のように見える。猫とは関係のないところを見ている。その無関心な電子レンジの目を猫が見ている--というのは、いま見たばかりの壁の男と女の落書きの視線の関係に似ている。
そういう無関心と関心の視線の交錯のなかにもタマシヒはあるんだろうなあ。
何かが、私の肉体のなかに入ってきて、こうなふうにことばが動くのだから。
最後の一行は不思議。誰のタマシヒだろう。死んだ人の? それともこの詩の主人公の? 私には「個別のタマシヒ」のようには感じられない。タマシヒはいつでも「個別」のものではなく「ひとつ」なんだろうなあ。あるときは子どもになり、あるときは笑いになり、あるときは日差しや影になり、あるときは死んだ誰彼の声になる。そうして呼吸のように「肉体」を出たり入ったりするんだろうなあ。
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