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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(9)

2014-11-16 10:28:31 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(9)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「罪」のあと、日射しの美しい木の写真(森の出口を撮った写真?)をはさんで「うたたね」という詩。

カラダがくたびれてココロも
くたびれてきて
タマシヒを見失う

垣根の外を子どもらが笑いながら歩く
日差しがゆるやかに影を回す
死んだ誰彼に無言で声をかけられる

タマシヒは眠ることがあるのだろうか

 「カラダ」「ココロ」「タマシヒ」が出てくる。人間は、その三つでできている?
 いちばん外側がカラダ、つぎがココロ、その奥にタマシヒがある、という感じなのかな? 外側からだんだん内部へと「くたびれる」が広がってくる。
 タマシヒがくたびれて、ココロがくたびれて、カラダを見失う、ということは、ありうるのか。
 ない、と思って、谷川はこの詩を書いていると思う。
 でも、タマシヒを見失ったと思ったら、それは「外」から急にやってくる。
 「垣根の外を子どもらが笑いながら歩く」のを見ると、それがタマシヒのように感じられる。カラダもココロもくたびれていなくて、元気に笑っている。あれがタマシイの理想の姿だな、と思い出してしまう。思い出すとき、タマシヒが外から肉体(眼)を通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる感じだ。
 「日差しがゆるやかに影を回す」も同じ。その美しい光と影の揺らぎがタマシヒになって、カラダを通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる。ココロのなかに、タマシヒが甦り、それが外にあるタマシヒとつながって、子どもたちのように笑い声(よろこびの声)をあげる。光と影をかろやかに動かす。カラダの内と外が共鳴し、音楽が鳴り響く感じ。
 そういうときは、「死んだ誰彼」が「無言で声をかけ」てくる。これは、友人と楽しく過ごした時間を思い出すという具合に私は読む。何も言わなくても、考えていることが通じ合ったようなよろこび。
 タマシヒは人間を甦らせる。いつでも人間を元気づけるために存在する。タマシヒを見失ったと思ったときにさえ、それは外からやってきて、カラダの内と外との関係をととのえてくれる。
 くたびれたら「うたたね」でもして、少し休んで、それから「外」を眺めてみればいい。子どもがいる。光がある。影がある。死んだ人のなつかしい思い出もある。
 詩の裏には、かめが光を浴びながら泳いでいる写真。鯉も泳いでいる。その左となりのページには不思議な双六。まるで曼陀羅のよう。さらに、オタマジャクシ、たてかけられた自転車と写真がつづくのだが、そうか、生きているものも、そこで動かずにただあるだけのものも、どこかとつながって、何かが共鳴している(音楽を響かせあっている)のだな、と思う。
 壁の落書きの写真がある。顔は向き合っているのか、左の男(少年?)は知らん顔をしているが、右の女(少女?)は何か呼びかけているように見える。その左となりの猫の写真がおもしろい。電子レンジの棚(?)の下にいて、電子レンジを見上げている。電子レンジのタイマーのスイッチがふたつ並んで目のように見える。猫とは関係のないところを見ている。その無関心な電子レンジの目を猫が見ている--というのは、いま見たばかりの壁の男と女の落書きの視線の関係に似ている。
 そういう無関心と関心の視線の交錯のなかにもタマシヒはあるんだろうなあ。
 何かが、私の肉体のなかに入ってきて、こうなふうにことばが動くのだから。

 最後の一行は不思議。誰のタマシヒだろう。死んだ人の? それともこの詩の主人公の? 私には「個別のタマシヒ」のようには感じられない。タマシヒはいつでも「個別」のものではなく「ひとつ」なんだろうなあ。あるときは子どもになり、あるときは笑いになり、あるときは日差しや影になり、あるときは死んだ誰彼の声になる。そうして呼吸のように「肉体」を出たり入ったりするんだろうなあ。

おやすみ神たち
クリエーター情報なし
ナナロク社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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思潮社

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(8)

2014-11-15 10:13:26 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(8)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「罪」という作品は、何枚かの写真がつづいたあとに「絶坊と希坊」と同じ紙質の紙に印刷されている。詩は左側のページに印刷されているのだが、その詩よりも、右側のページの詩が向き合っている灰色と黄色の模様が気になる。灰色の部分は「土」の灰色のよう。土色が混じっている感じ。美しく響きあっている。それが一点透視の道路のように描かれている。
 しかし、これは何だろう。
 黄色はタクシーの色。黄色は電信柱に描かれた模様の色。灰色はコンクリートの色、アスファルトの色。黄色は少年のシャツの襟の部分の色。灰色は、日陰になった部分の家の壁の部分の色……。
 私は答えのようなものを探して空を飛ぶ鳥と、その裏側の青のように、何か「答え」のようなものがあるかもしれない。前のページをめくってみる。あれこれ思ってみるが、ことばにして確かめたいという強い気持ちにまではなれない。
 そして、詩を読むと

ミンナ探シテイルノダト思ウ
何ヲ探シテイルノカモ分カラズニ
ドウシテ探シテイルノカモ分カラズニ
盗ミ
犯シ
妬ミ
騙シ
戦イ
殺シ
探シカタヲ探シテ
生キテ
死ヌ

 そこに「探す」ということばが出てきている。詩に書かれている「探す」というとことばは、私が灰色と黄色の組み合わせにつながる何かを写真の中に探していたことを思い出させる。
 これは詩を書いた谷川の意図とは関係がない。
 たぶん。
 そして、無関係なのだけれど、私の何かを引きずってしまう。
 「探す」ということは「盗ミ/犯シ/妬ミ/騙シ/戦イ/殺シ」ということと同じなのか。私は写真を見ながら何かを盗み、何かを犯し、何かを妬み、何かを騙し、何かと戦い、何かを殺しているのか。--そうかもしれないと思う。川島の写した「美」を盗み、奇妙な言いがかりで犯す。そこには私の妬みが入っているかもしれない。感動しているのに、感動していないふりをしたり、ほんとうに感動している部分とは違った部分について語ることで騙したり、そうなふうに写真と戦い、写真を殺しているかもしれない。
 動詞は、たいていの場合、誰かとの接触をもつ。他人に働きかけ、自分にそのはねかえりがある。そこには何かしら他人を否定してしまうようなものがあるかもしれない。知らず知らずに罪を犯しているのかもしれない。
 こうやって詩の感想を書いていることもそうかもしれない。
 私は谷川の書いていること(書こうとしたこと)を台無しにしているかもしれない。この本をつくった人の行為をすべて壊しているかもしれない。
 しかし、どうすることもできない。私が書いていることが、谷川のことばを殺し、川島の写真を殺し、本をつくった人のすべてを殺してしまっているのだとしても、何か言いたい。言わないと、この本を読んだ気持ちになれない。

地球トイウ星ガ
哀シミニ彩ラレテイルノヲ
神モドウスルコトモ出来ナイ

 人間はどうしたって罪を生きるしかない。そうであるなら、楽しく罪を生きたい。つまり、言いたいことは全部言ってしまいたい。

おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(7)

2014-11-14 10:27:49 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(7)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「おやすみ神たち」の裏側に透けて見えていた円と放射状のものは観覧車だった。皇帝ダリアの花びらのような尖端に観覧車の箱がついている。次のページには紙の皿(プラスチックの皿?)にのった花びら。さらに汚れた窓から見える風景、葉っぱに止まっている蝶(名前は知らない)、猫の肉球、母親に抱かれた不機嫌そうな赤ん坊とつづき、そのあと「空白」をはさんで「絶坊と希坊」。
 これは「絶望」と「希望」を人格化(?)して描いた詩?

絶坊というこの青臭いやつも
嗄(しゃが)れた声で歌うのだ
仔犬に鼻先で馬鹿にされながら
俺だって死にたくないと歌うのだ

林の日だまりに居心地悪く座り込んで
希坊は絶坊の嘲笑に耐えながら
ひそかに思っている
僕と君とは一卵性のふたごなのに

老いた名無しの女王は仏頂面だ
立派な名前の餓鬼どもだが
私は産んだ覚えはないよ
鰐(わに)の卵からでも孵(かえ)ったんだろ

 これを読みながら、私は、この夏に池井昌樹、秋亜綺羅と現代詩手帖で鼎談したときのことを思い出した。谷川俊太郎の『こころ』のなかにある「悲しみについて」。その三連目に「悲しげに犬が遠吠えをするとき/犬は決して悲しんでいない」という行があり、池井昌樹はこの「犬は詩のことだ」と言った。さらに朔太郎の「月に吠える」まで出してきた。秋亜綺羅も「そう思う」と言ったので、私は、思わず「ほんとうにそう思った?」と秋亜綺羅に問い返したりもした。
 私は、どうもそういう「読み方」ができない。
 詩に書かれていることは、「現実」ではなく、ほんとうは何か別のこと、という「読み方」がどうも苦手である。「絶坊」「希坊」は人間のことではなく「絶望/希望」という精神を象徴的(比喩的?)に書いている。そこに書かれている「表面的」なことばをそのままつかまえるのではなく、ことばの奥に動いている「精神」をつかみとり、明らかにする--というのが批評なのかもしれないけれど。批評とは、一般的にそこに書かれていることばから、まだことばになっていない「意味」を引き出すもの、鋭い分析で作者の思想(意味)を引き出すのが優れた批評であると言われているように思うのだが……。
 しかし、私は、そんなふうに読みたくない。「意味」を読み取りたくない。そこに書いてあるのは「意味」ではなく、「ほんとう」だと思いたい。
 「絶坊と希坊」に戻って言えば、そこには二人の子どもが書かれている。それは「絶望」や「希望」と似ているかもしれないけれど、そういう抽象的なもの、精神的なもの、感情的なもの、「意味」ではなく、ただの子ども。そう読みたい。子どもが、わかっているか、わからないのか、好き勝手なことを言っている。きっと「聞きかじった」ことばを真似して、こんなことも言えるんだぞ、と自慢している。互いに、自分の言っていることを心底信じているわけではない。反発しながら、それでも「ふたご」なので、いっしょにいてしまう。「ふたご」なので、違ったことをしていても、その「違い」がどこかでいっしょになっている。その、どこかでいっしょになる、一つになってしまう、ということが知らないことを言っているうちに知らず知らずにその「意味」を肉体で覚えることにつながる。「意味」が「肉体」のなかで生まれてくる感じ。
 そういう「ふたご」のふたりが「見える」ところが、私は好きだ。「意味」なんかつけくわえず、ただ「ふたご」を見ている感じが好き。谷川が「犬」と書いたら「犬」が見える。「ふたご」と書けば「ふたご」が見える。その感じのままで、私はなんだかうれしくなる。
 その「ふたご」に対して女王(母親)は「私は産んだ覚えはないよ/鰐の卵からでも孵ったんだろ」と突き放しているのもいいなあ。こういう乱暴なことはほんとうの母親でないと言えない。愛している実感の方が強いから、ことばでは適当な暴力もふるってしまう。大好きだからこそ「餓鬼ども」と呼んでも平気なのだ。
 「意味」を超えて、感情が生きている。
 「意味」を超えて、「生きている」という、その「生きる」が動いている。「いのち」が動いている。生きるよろこびがそこにある。「希望」とか「絶望」なんて「意味」はどうでもいい。「絶望」と「希望」の「関係」なんて、どうでもいい。「ふたご」が見える、その声が聞こえる、それを見ている母親が見える--三人がいっしょに生きているは、とてもうれしい。それだけだ。
 最後に、唐突に「鰐」が出てくるのもいいなあ。このふたご、そして母親の女王は鰐のいる世界にいるんだ。狂暴な自然。その狂暴さと向き合う肉体。「絶坊」「希坊」の「坊」は、やんちゃな感じがする。それと鰐が似合っていると思う。「希望」「絶望」だったら、まったく違うものになる。

おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(6)

2014-11-13 09:59:33 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(6)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「おやすみ神たち」も裏側が透けて見える紙に印刷されている。「今朝」と同じように「ざらざら」の面にことばが印刷されている。詩の裏側は写真で、その写真がかなりくっきり見える。
 詩は見開きの長い作品。その右側のページには、「今朝」を読んだときに透けて見えた滝を裏側からもう一度透かしてみる感じで見える。滝のある世界の裏側、あるいは奥から滝を見ている感じ。空を飛んでいる鳥の写真を見たあとの、裏側から真っ青な「空」そのものを見た感じと共通するといえばいいのか。空(鳥)の写真の場合、そこには青しかなかったが、今度はことばが書かれている。世界の内側で、ことばが動いている。そして、その動きは「今朝」の側からは見えない。「今朝」から見える世界(現象)の裏側(深奥)からだけ見える。しかも、それは「ことば」として見える……。
 詩の半分(後半)の裏側には何やら幾何学模様。円と放射線が組み合わさった抽象的な図柄が透けて見える。滝の裏側に入って見つめなおした世界を抽象化して図形にすると、世界はそういう見取り図になる? そういうことを考えてみたい衝動にかられる。
 ことばを読みながら、そのことばが何か違ったものになりたがっているのが、ことばの裏の写真(それは現実の裏側?の写真、撮った写真ではなく、撮ることで必然的に抱え込んだ裏側なんだけれど……)から見えるような気がする。裏側から見てしまった(?)わたしが、かってにことばの欲望を感じているだけなのかもしれない。私の欲望をことばの欲望と言いかえているだけなのかもしれない。
 --こういうこと(いま書いたこと)は、妄想の類の、想像力の暴走に過ぎないのだけれど、本を読むというのは、そういう暴走を抱えながら、そこにとどまり、書かれたことばと向き合うことなんだろうなあ。自分の中に生まれてくる暴走を、そこに書かれていることばで整理するということもしれないなあ。
 あ、何を書いているか、わからなくなりそう。

 印刷の「見かけ」ではなく、谷川のことばを読んでみる。

神はどこにでもいるが
葉っぱや空や土塊(つちくれ)や赤んぼにひそんでいるから
私はわざと名前を呼んでやらない
名づけると神も人間そっくりになって
すぐ互いに争いを始めるから

 これは何かなあ。どの行にも、知らないことばはない。けれど、わかったようでわからない。「名づけると神も人間そっくりになって/すぐ互いに争いを始める」というのは、そのわかったようでわからないことのチャンピオンのようなものだ。人間はたしかにひっきりなしに争い(喧嘩/自己主張)をするからなあ。でも、それと「神」との関係は?
 うーん。
 次の連で、谷川は一連目を言いかえている。(と、思う)

コトバとコトバの隙間が神の隠れ家
人々の自分勝手な祈りの喧騒をよそに
名無しの神たちはまどろんでいる
彼ないし彼女らの創造すべきものはもう何も無い
人間が後から後からあれこれ製造し続けるから

 一連目を言いかえているというより、「人間と神との関係」を別の角度からとらえなおしているといった方がいいのかもしれない。人間が、ことばにしろ、なんにしろ、あまりにも何かをつくりすぎる。(こうやって、私も、ことばを書きつづけているが。)でも、神はそのつくったもののなかにはいない。神がつくったのではないのだから。いるとしたら「コトバとコトバの隙間」、あるいは「創造物と創造物の隙間」にいて、それらをそっとつなぎあわせているのかもしれない。つなぎあわせということで、「コトバ」や「創造物」を支えているのかもしれない。--と谷川は書いているわけではないが、私は勝手に考えた。
 でも、それは神がしたいことなのかな? 神がしなければならないことと感じてやっているだけのことなのかな? しなければならない、そうやって人間を支えなければならないと神は責任感を感じているのだろうか。そういう生き方が神の「必然」なのだろうか。私のことばはどんどん暴走してしまうなあ。「論理」にならない。

おやすみ神たち
貴方がたったの一人でも八百万(やおろず)でも
はるか昔のビッグバンでお役御免だったのだ
後は自然が引き受けてそのまた後を任されて
人間は貴方の猿真似をしようとしたが

いつまでも世界をいじくり回しても
なぞなぞの答えが見つかる訳もなく
創ったつもりで壊してばかり
空間はどこまでも限りなく
時間はスタートもゴールも永遠のかなた--

私は神たちに子守唄でも歌ってやろう

 神たちに呼びかけながら、人間の行為を反省している。
 「意味」が非常に強い。言いかえると、谷川が言いたいと思っていることが、ここには非常にたくさんつまっている。どの詩も同じようなことを言っているのかもしれないが「非常にたくさん」という印象がする。それは、この詩が「論理的」だからである。「論理」を感じさせるからである。二連目の「彼ないし彼女ら」という言い回しが象徴的である。「神」が「彼」であるか「彼女」であるか、単数であるか複数であるかは、どうでもいいことである。だから三連目でも「たったの一人でも八百万でも」と言いなおされているのだが、こういう「言い直し」は批判への自己防禦のようなものである。神には「彼」だけではなく「女神」もいるというようなことを誰かが言い出すと、それに対してもう一度答えなければならない。そういう「めんどう」をあらかじめ「彼ないし彼女ら」ということばで封じておく。それは「論理」ではなく「論法のひとつ」という見方もあるかもしれないが、文体のなかに「論法」(他人の批判を想定し、準備をする)があるということが「論理」を優先しているという証拠である。誤解されてもかまわない。ほうりだしてしまえ、というのが詩であるとすれば、ここに書かれているのは「論理」である。正確にことばをたどり、「意味」をつかみ取ることを求める文体である。「論理」をたどりやすくするためにことば飛躍を抑える、そしてことばとことばの「隙間」をさらにことばで埋めていっているというような感じが「長い」という印象を与えるのだと思う。
 で、この本でおもしろいなあ、と思うのは……。
 そんなふうに谷川が一生懸命「論理」を動かして、自分の言いたいことを書いているのに、その詩の印刷の仕方が、これまで読んできた詩のなかでいちばん読みにくいということである。論理をたどろうとする意識を印刷が邪魔する。白い紙に黒いインクでくっきりと印刷するのではなく、写真を印刷した紙の裏側に印刷している。しかも、その紙を通して写真の「裏側」が見える。真白な紙、裏の透けない紙に印刷された文字を読むようには読めない。
 ことばと写真を向き合わせるというのなら、もっとほかの方法があるはずである。わざわざ、裏側が透けて見える紙に印刷する必要はない。
 でも、これは「わざと」しているのだと思う。
 わざと「読みにくく」している。読みにくいと、どうしても立ち止まる。読者を立ち止まらせようとしている。立ち止まって何をするか、何を考えるか--それは、別問題。そんなことまでは谷川も写真を撮った川島も、本をつくったデザイナーも「強制」はしない。ただ、ちょっと読むスピード、感じるスピード、それから何かを思うスピードにブレーキをかけたがっているように感じる。
 谷川自身もそう思っているかもしれない。
 ストレートに論理(意味)を追わずに、立ち止まって、脱線して、よそ見して、と歳目かけているように感じる。--だから、私は脱線したと書くと、「誤読」の「自己弁護」になるのだが。

 それはそれとして。
 私は、こういう長い詩(論理的に「意味」を語る詩)よりも、ことばをぱっぱっとまきちらした感じの「隙間」の多い詩の方が好きなので、
 そうか、この詩が詩集のタイトルになっているのか、これがいちばん谷川の言いたいことだったのかなあ、これが谷川のこの詩集のなかではいちばん好きな詩なのかなあ、ほんとうかなあ、とちょっと考えた。
 そして、唐突に、また別なことを思った。
 谷川はこの本のなかでは繰り返し「タマシヒ」のことを書いている。繰り返すことで、何かが「生み出されている」。いや、何かが「生まれている」。谷川が詩を作っているのではなく、どこかで、詩の方が「生まれてきている」と言えばいいのだろうか。
 繰り返し、繰り返し、繰り返し、書く。そうすると、「同じ」であるはずのものが、少しずつ違った形で、ことば自身の力で「生まれてくる」という感じ。ひとつの詩では書き切れなかったものが、「生まれたがっている」。そして、「生まれてくる」。
 そんなふうにして動いていくことばがある、と思う。

おやすみ神たち
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(5)

2014-11-12 10:39:48 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(5)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「今朝」は「タマシヒ」と対になっているのかもしれない。この詩も裏側が少し透けて見える紙に印刷されている。ただし、印刷の「表/裏」が違う。「タマシヒ」は活字が印刷されている表面がつるつるしている。一般的に紙の表という場合、こちらが表だと思う。「今朝」は「裏側」、手触りがざらざらしている。紙質の違う本を読んでいると、そういうことも気になってくる。そして、その触覚(肉体)の感じが、ことばを読むときの感覚にも跳ね返ってくる。
 「今朝」は「タマシイ」に比べて「ざらざら」している、と思う。でも、その「ざらざら」って何だろう。

生け垣に沿って老人が歩いてゆく
それを見ている私がいる

言葉を恃(たの)まずにこの世の質感に触れる
タマシヒというもの

老人と私を点景とする情景を見ている
もうひとりの私もいる

限りなく沈黙に近づきながら
未生の言葉を孕(はら)む静謐(せいひつ)はタマシヒのもの

 「質感に触れる」ということばが出てくるが、「ざらざら」は質感だね。「タマシイ」がざらざら? 違うだろうなあ。
 「今朝」と「タマシヒ」の詩のいちばんの違いは、そこに「私」が登場するか登場しないかである。「今朝」には「私」が書かれている。「タマシヒ」には「私」ということばは書かれていなかった。
 そのため「タマシヒ」では、「タマシヒ」と「私」の区別がつかなかった。知らず知らずに「タマシヒ」を「私の肉体の奥(深部)」という具合に置き換えて読んでしまっていた。「タマシヒ」と「私」を一体のものとして読んでいた。
 けれど、「今朝」ではそういう混同は起きない。「私」が「タマシヒ」について考えている。主語と目的語が分離している。この「分離感」が「ざらざら」の一歩(?)である。
 で、「考える」ので、そのとき、ことばもかなり変化する。「恃まず」という「意味」を説明しようとすると、すっとは出て来ないようなことばがある。「質感」「未生」「静謐」という漢字熟語もある。「タマシヒ」は読んで書き取りをやらせたら中学生なら書き取れるだろう。でも「今朝」はきっと無理。「恃まず」で躓き、「未生」でも戸惑い、「静謐」になると「読んだことはあるけれど」と怒るかもしれないなあ。
 ここには、ふつうに暮らしているときにつかわないことばがつかわれている。ふつうには話さないことばがつかわれている。その「違和感」が「ざらざら」かもしれない。
 で、そのふつうにはつかわないことばで、何かを考える。--ちょっと「精神的」だね。ふつうから離れ、孤立、孤独な感じ。この「孤」が「ざらざら」かな。
 紙の「ざらざら」も紙の分子(?)の突起が孤立している、べったりとつながっていないから「ざらざら」なんだろうな。
 この「孤立/孤独」は、何かを考えるときには必要なことなのかもしれない。人といっしょにいて考えるのではなく、ひとりになって考える。そして、その「ひとりになる」というのは、自分自身からも離れて「もうひとりの私」になることかもしれない。「私」について、「もうひとりの私」になって、考える、見つめなおす。
 「私」自身が分離して、「ざらざら」になっている。
 で、「ざらざら」になって、その「ざらざら」をさらに見つめると、「ざらざら」の隙間(私ともうひとりの私の隙間)から、何かが見えるような感じがする。「ざらざら」は「亀裂」、「亀裂」からはそれまで見えなかったものが「見える」。
 ことばにならないことば(未生のことば)が、その沈黙の、さらに向こうの静謐のなかに「ある」ような感じ。それが「タマシヒ」かもしれない。「タマシヒ」が「雑音の中から/澄んだ声が聞こえる」といった、その「澄んだ」が「静謐」なのかもしれない。

ヒトが耳を通して
タマシヒで聞こうとすると
雑音の中から
静謐が聞こえてくる

 こんなふうにして、「タマシヒ」の最終連を書き換えると、「今朝」と「タマシヒ」がぴったり重なるように思える。
 ふたつの詩は、ひとつの世界の表と裏という感じがする。表裏一体。それが印刷してある紙面の「紙質」と重なって、「肉体」の感触(ざらざら)といっしょになって動く。

 表裏一体について、もう少し考えてみる。「ざらざら」から離れて考えてみる。
 「今朝」の二連目、四連目に「タマシヒ」ということばが出てくる。この「タマシヒ」はだれの「タマシヒ」だろう。
 「タマシヒ」という詩には「私」ということばがなかったけれど、私は何となく「私のタマシヒ」と思って読んでしまった。「私」と「タマシヒ」を区別しなかった。
 けれど、「今朝」に書かれている「タマシヒ」は「私」ということばがあるにもかかわらず「私のタマシヒ」という感じがしない。二連めの「タマシヒ」には「私の」ということばをつけても違和感がないが、最後の「タマシヒ」を「私のタマシヒ」と読んでしまう気持ちになれない。

限りなく沈黙に近づきながら
未生の言葉を孕む静謐は私のタマシヒのもの

 こんな具合にすると、なんといえばいいのか、谷川が、自分は他人とは違うんだぞ、と言っているような感じになる。「はい、そうですか」と思わず言い返したくなる感じなのだが、そこに「私の」がないので、すっと読める。
 固有の(私の)タマシヒではなく、「タマシヒ」というものを一般的に(抽象的に?)考えようとしている。「私の」ではなく、人が「タマシヒ」と呼んでいるものは何か、ということを「純粋に」考えようとしていると感じる。
 このとき、私も「もうひとりの私」になっているのかもしれない。私から「もうひとりの私」が分離するのを体験しているのかもしれない。
 あ、そうすると、これもやっぱり「ざらざら」か。

 この詩の紙からかすかに透けて見えるもの。白いのは川かな、山の中を流れる川の写真かな……と思ってページをめくると、不思議な滝。私の予想は半分当たって、半分外れたのかな? 山の右側は太陽のせいで(逆光のせいで)輪郭(稜線)がはっきりしないが、それはそのまま「今朝」の詩の裏側の白いページにつながっていて、あ、この白いページは逆光か。逆光では、そこに何かがあるのはわかるけれど、そのものを明確に見ることができない。「タマシヒ」と、そんなふうにして逆光のなかで感じる「存在感」のようなもの?
 写真の逆光(白い部分)には、その次の詩の文字が裏返しになって動いているのが見える。それについては、またあした(あるいは後日に)、書こう。
おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(4)

2014-11-11 10:21:58 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(4)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「タマシヒ」というタイトルの詩は不思議な紙に印刷されている。すこし透けて見える。詩は左側のページに印刷されている。裏側には何も印刷されていない。その次のページが、なんとなく透けて見える。
 で、その詩は、

タマシヒは怖くない
怖がる心より深いところに
タマシヒはいる

タマシヒは静かだ
はしゃぐ体より深いところに
タマシヒはいる

ヒトが目を通して
タマシヒで見つめると
色んなものが
ふだんとは違って見えてくる

ヒトが耳を通して
タマシヒで聞こうとすると
雑音の中から
澄んだ声が聞こえてくる

 この詩も「タマシヒ」は「動かない」ものであるという印象につながる。「怖がる」というのはこころの動き。「はしゃぐ」というのは体の動き(こころの動きでもあるとおもうけれど)。けれど、タマシヒは「動かない」。そして、それは「こころ」よりも「体」よりも「深いところ」にいる。
 その「深いところ」から目や耳を通して見たり聞いたりする、「ふだんと違って」見える。「ふだんと違って」聞こえる。たとえば「雑音の中から/澄んだ音」が。ふつうは、そういうものは聞こえない。
 「タマシヒ」は自分が動かないだけではなく、ほかのものも「動かない」状態にするのかもしれない。このときの「動き」は「動揺」に近いかな? 動揺しているものを落ち着かせ、動揺をとめる。安定させる--それが「タマシヒ」。怖がったり、はしゃいだり、ざわめいたりという「動き」を静める。そうすると違ったものが見える、聞こえる。動き回る奥にある動かないものが見える、聞こえる。そういう状態に「世界」を変えるのが「タマシヒ」なのかもしれない。
 そしてたぶん、その「動かないタマシヒ」「動かないもの/音」は、それぞれ「人間の肉体の奥」「世界の現象の奥」にあるという「意味」で統一される。「奥(深部)」という意味で統一される。
 また、これは私の「誤読」の癖なのだが、

タマシヒはいる

 を私は「タマシヒ」は「いる(存在する)」という「意味」ではなく、「タマシヒ(が)入る」と感じてしまう。タマシヒが何かの奥に入ってく。そして、その奥にある何かをつかみ取る。あるいは共鳴する。(「肉体の奥(深部)」「現実の奥(深部)」に「入る」という動詞を誘う。
 「いる」という状態をあらわすことばよりも、「動詞(入る)」の方が、いろいろなものが違って見えてきたり、澄んだ音が聞こえてくるという動きにあうようにも感じる。
 あるいは「いる」は「ある」ではなくて、「生きている」という形が変化したもの(活用したのも)なのかもしれないなあ。「生きる」が動いているのかもしれないなあ。
 「いる」が「ある」ではなく「生きている」「生きる」だと、動くものしか存在しないという私の世界に対する考え方と合致して、なんだかうれしい気持ちになる。「生きる」だと「入る」という動詞ともつながる。動いていることが「生きる」、その「動き」のひとつに「入る」という動詞もある。
 タマシヒが生きて動いて、働きかけて、それで世界が違ってくる--そういうようなことを、この詩から言ってみたいなあ、とも思う。
 谷川はそういうことを書いているわけではないのかもしれないが、私はそう読みたがっている。
 いずれにしろ(?)、ことばが意味を誘い出す。とても「意味」の強い詩だと思う。

 この詩で最初に驚くのは、しかしその「意味」ではない。すでに書いたことだが、詩を印刷している紙の向こう側に、何かが見える、といことである。ことばと写真(本)が表面と奥との感じをそのまま具体化している感じなのである。
 で、ことばを印刷してある紙の向こう、ことばの向こうに見えるものが何かというと、ちょっと説明にむずかしい。そんなにくっきり見えるわけではないのだから。
 それはページをめくって直に写真を見たときも同じである。いや、写真はきちんと写っているのだが、見なれないものなので、何かなあと一瞬考えてしまう。
 水のようだな……。
 水(泥水)がどこかから落ちている。それが崖の下で水たまりをつくっている。崖の下の方をたたきながら水はたまっているようで、水の落ちているところは波立って(泡立って?)いる。その波(泡)に太陽があたり、周辺が白く光っている。激しい泡の部分は太陽を半分吸収して、半分その光を弾いている。抽象画を見る感じがする。緑の草があり、黒い岩がある。
 この奇妙な水の動きが「タマシヒ」? あるいは、その泥水の底にある透明な水? 濁った水というのは不純物を静めて上の方からだんだん透明になるのだが、もしかするとこの泥水の奥には全ての泥を受け入れる純粋で透明なほんものの水があるということ? 上からこぼれ落ちる泥水の音。その音の奥には音楽になるまえの純粋な音があるということ?
 このあと、本の方は写真がつづいていく。交差点を走る車、ケースにはいったオレンジ(みかん?)、だれもいないテラスにテーブルと椅子、だれもいない真昼の道路を山羊のようなものが二匹走っている。その切り詰められた影。何を煮ているのか、鍋のなかの料理。夜の道路の車の光の流れ。
 そういうものの「奥」にもタマシヒは「いる」のか。生きているのか。


おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(3)

2014-11-09 10:01:54 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(3)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 少年(「私は王様」の「王」)は「ここにいる」。そして、「ここ」ではないどこかを見つめている。「どこへでも行ける」と感じている。そのとき、少年が見つめているのは何か。
 詩は小説ではないのだけれど、私は、いま、そんな具合にこの詩集を読みはじめている。で、その三つめの作品。「向かう」。
 「向かう」は「むかう」と読む。でも、私は思わず「むこう」と読んでしまった。「タマシヒ」と谷川が「旧かな」で表記していた影響を受けている。「むこう」は「旧かな」では「むかふ」と書くと思う。「むかふ」と書いていないのだから「むこう」と読むのは間違いなのだけれど「か」の文字にひっぱられて、そう読んでしまったらしい。
 「いまここにいる私」は「むこうにはいない」という「意識」が動いている。詩のページの裏側、写真のページの裏側というときの裏側が「向こう側」という感じになっているのかもしれない。少年が家の入り口に座って、そこではない場所(むこう)を見ているという意識も動いているのだと思う。
 さらに「むこう側」と「むかう(向こう側へ行く)」が「むかふ」(旧かな)の場合は、より密接な感覚だなあということも思った。「むこうへ、むかう」が旧かなの方が「肉体」に迫ってくる。そういう無意識(?)があって、「向かう」を「むこう」と読んでしまったのかなあとも思った。

誰も立ち止まらなかった
路傍の野花を振り向きもせず
子どもらの泣き声に耳をかさず
歩き慣れない道に躓きながら
タマシヒを置き去りにして
ひとりも立ち止まらずに
果たすべき約束もなく
nowhere に向かっていた
潮騒のように行進曲が聞こえてくる

 詩は、進軍する兵士を書いているのかもしれない。「誰も」と始まるので、集団を思い浮かべてしまった。いままで見てきた少年とは違った人間が描かれているのだと思った。純粋に遠くを見つめる少年と兵士ではイメージの落差が大きすぎてとまどうけれど、少年の見つめている遠く(向こう側)ではなく、少年の背後の遠く(逆の向こう側)には兵士の進軍した時代があったということか。--と、考えると、少しめんどうになるかも。
 この詩で、私が、はっとしたのは、

タマシヒを置き去りにして

 という1行。「タマシヒ」は置き去りにできるものか。「タマシヒ」を動かないものかもしれないと私は考えはじめているが、その「動かない」は徹底しているのかもしれない。人間が動いても、「タマシヒ」は最初のすみかから動かない。最初の場所を離れない、ということか。
 これは「こころを残してくる」と、どう違うだろう。出征する兵士、知らない土地を進む兵士は、歩きながら我が家のことを思う。それは「こころを残してきた」からなのだろう。
 「タマシヒ」も、そんなふうに「残る」のだろうか。
 「残る」と「置き去り」はどう違うだろう。「残る」は自動的。主語が、こころ、あるいは「タマシヒ」。「置き去り」は「置き去りにされる」。主語は「私」。こころや「タマシヒ」を「置き去りにする」。
 そうであるなら、「タマシヒ」は動かないというよりも、人間が「タマシヒ」を動かないものにしているとも言える。動かさないことで「タマシヒ」に何かの意味や価値をつけくわえているようにも思える。
 少なくとも、この詩では、谷川は「置き去りにする」ことで「タマシヒ」を人間がどう取り扱っているかに触れていると思う。
 こんなことを考えると詩の全体を無視したことになってしまうのか。谷川の書こうとしていることを無視したことになってしまうのか。そうかもしれないが、私はこの1行が気になって、こんなふうに書いてしまうのだ。

 さて、この詩の主人公は「タマシヒ」をどこに置き去りにしてきたのか。本に、写真にもどろうか。
 家の入り口で遠くを見つめる少年、その座っている場所だろうか。そこから「タマシヒ」は何を見つめているのだろう。舗道(道)か、壁か、いや、そこに見えるものを見ているのは歩いている人間が見るものであって、「タマシヒ」はまったく違ったもの、私が想像できないものを見ているかもしれない。
 たとえば、「向かう」の詩の裏側にあるピンクのバケツやザル。(詩の「向こう側/裏側」ということは、少年が見ている壁(道?)の「向こう側/反対側」、少年のこころの奥底にあるものかもしれない。)バケツやザルは、少年の家の一部かもしれない。あるいは緑のなかを流れる灰色の、泥に汚れた川。その川にかかる橋。少年の家の近くの風景かもしれない。
 で、その裏側。緑と橋の裏側には。
 緑とピンク。1ページが対角線で切られ、右上が緑、左下がピンク。これは何? 写真? それともデザインされた印刷?
 ことばと写真に「裏側(向こう側?)」があるという感じで見てきたつづきで書くと、これはピンクのバケツと山の緑の純粋な姿。詩の裏の空白の白、鳥が飛んでいる空の無の青のように、何か少年の暮らしの「本質」のようなものかもしれない。形を超えて、光といっしょにある色。形になる前のただの色。
 「タマシヒ」のひとつのとらえ方。それを詩と写真以外のものでも表現しようとしているのかもしれない。そんなことを思って、奥付をみると……。

ブックデザイン 寄藤文平+鈴木千佳子(文平銀座)
プリンティングディレクター 谷口倍夫(サンエムカラー)

 という文字が「著者 谷川俊太郎 川島小鳥」と並んで印刷してある。
 あ、これは詩と写真の本を超えたものだね。詩と写真だけを見て、何かを語ってもそれでは半分しかこの本に触れていないことになる。
 わああ、たいへんだ。
 私はことばには関心があるけれど、本にはあまり関心がない。写真にも関心がないし、装丁にも関心がない。本と向き合いつづけられるかなあ。
 このまま読んでいくと「誤読」というよりも、とんでもない「逸脱」ということになるかも。



おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(2)

2014-11-08 10:16:36 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(2)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 私はしつこい性格かもしれない。詩の感想を書くときも、その一篇だけを読んでというよりも、前に読んだ作品と結びつけて読んでしまう。「私は王様」

いまここにいる私
はほかのどこにもいない私
がいまここにいる
ここがどこかも知らずに
雲の帽子をかぶって
泥のスリッパをはいて

 読んだ瞬間に、きのう「タマシヒ」について感じたことを思い出す。私は魂は存在しないと考えているけれど、「無(ない)」という形で存在するなら、それは存在するのかもしれないと感じた。これは私の「直観の意見」なので、論理的には説明できないのだけれど。で、そのときの「無(ない)」と「ある」の関係が、ここでは「いる」「いない」ということばで語られている、と読んでしまう。
 「ある」「ない」、「いる」「いない」と「タマシヒ」は関係があるのかもしれない、と考えを引きずりながら読んでしまう。

 「いる」と「いない」が交錯している。「いまここにいる私」が「ほかのどこにもいない私」というのは論理的にはまったく正しい。正しいのだけれど、そういうことを考えながら「いまここにいる」と再確認するとき、何か奇妙な感じがある。
 なぜ、谷川はこんなことを考えたのか。そして、私たちはなぜこんなことを考えることができるのか。こういう「考え(ことばの運動)」を支えているのは何だろう。何が、ことばをこんな具合に動かしているのだろう。
 だいたい「ない(いない)」が「ある」と考えるのはなぜなんだろう。私がここにいる(ある)とき、別の場所に私はいない(ない)。そのことばをつないでいるのは何なのだろう。
 2行目の行頭の「は」、3行目の行頭の「が」。こういうことばで行が始まるのは、詩ではよく見かけるけれど、ふつうはこういう書き方をしない。助詞はことばとことばをつなぐので、先行することばにくっついている。次にことばをくっつけますよ、という合図のようなものである。それが先頭にあると、いままでのことばは宙ぶらりんになる。つながってきたものの方が印象が強くなる。ことばの「下克上」のように、あとからでてきたものが先にあるものをひっくりかえす感じ。
 これが2回つづく。「再下克上」というのか、もとにもどったというのか……。
 「いる」「いない」よりも「循環」する運動の方に意識がいってしまう。
 また、その「下克上」の「運動」に、きのうページをめくって、またもどってという具合に本を読んだことも重なる。「は」「が」の行頭の驚きは、鳥が飛んでいる空の写真を見て、次にその裏側が「青」一色であるのを知って、「あ、空の裏側」と思ったときの感覚に似ている。「いまここにいる私」を裏側から見ると「ほかにどこにもいない私」になる。「いない」を見ている。鳥の写ってる空よりもはるかに広い青一色、ここにいる私よりもはるかに広い(?)私が、表と裏の間でショートして光っている感じ。その光が、「あっ」という驚き。
 さらに、その驚きのあとに「ここがどこかも知らずに/雲の帽子をかぶって/泥のスリッパをはいて」ということばがつづくとき、その「帽子」が、ふいに、最初のページの少年のポートレートを思い出させる。少年はピンクの飾りを頭にのせている。あれは、帽子? それとも少年が「王様」である印の王冠?
 少年の顔には左側から光があたり、右半分(私から見て)の顔はぼんやりした影の中にある。光と影が顔の中央で出会って、分かれている。これも「いる」「いない」、「ある」「ない」とつながっている?
 あの少年は「いまここにいる私/はほかのどこにもいない私/がいまここにいる」と考えているのだろうか。違うことを考えているのかもしれないが、谷川の詩を読むと、私はそう感じたくなる。それまで「感じたい」と思ってもいなかったことが、かってに動いてきて、「感じたい」と言っている。

 詩の2連目。

いまここにいる私
の隣にいるあなた
はここよりあそこがいい
と言うけれど
あそこにはここにあるものが
ないではないか

 ここでも「ある」と「ない」が交錯する。「ここ」にあって「あそこ」に絶対に「ない」もの、「もの」というよりも、「ここ」という「場」なのだけれど、……そういうことを谷川は書いているわけではないのだが、単に「もの」以上のことが書かれていると私は感じてしまう。感じたがっている。
 「あなた」は「私」とは別人の「あなた」ではなく、「私」のもうひとつの呼称かもしれない。「私の矛盾」が「あなた」かもしれない。「私のなかにある矛盾」。「矛盾のない私」と「私のなかの矛盾」が出会って、会話している。
 それは、「こころ」の会話? 「頭」の会話? 「タマシヒ」の会話? 「肉体」の会話だろうか?

 3連目。

いまここにいる私
を誰も動かせない
いまここにいることで
私は王様
行こうと思えば
ここからどこへでも行ける

 「いる(いない)」「ある(ない)」の問題が、ここでは「動く」という動詞に関係づけて語られている。「動かせない(動かない)」存在は、ここに「ある(有)」。そして「動く」存在は、動いてしまうとここには「ない」。しかし、「動く」という動詞といっしょに、その存在は「ある」。
 「ある」には二つの種類が「ある」。「不動」の「ある」と「運動」の「ある」。そうであるなら「ない」にも二つの種類があるかもしれない。「不動」の「ない」(私はそこにはいない)と、「運動」の「ない」(動かずに、私はここにいる)。
 でも、「私は王様/行こうと思えば/ここからどこへでも行ける」。このとき、「不動」と「運動」をつないでいるものはなんだろう。何が「私は王様」という根拠になるのだろう。「不動」から「運動」にかわるとき、何かが「持続」されていないといけない。
 その「持続」が「タマシヒ」かもしれない。
 私は「持続」の根拠を「肉体」においているけれど、谷川は「肉体」とはいわずに「タマシヒ」というのだと思う。「タマシヒ」をかかえて(「タマシヒ」といっしょに)、どこへでも行く。行ける。「タマシヒ」がいっしょだから、「私は王様」と。

 というのは、きょうの便宜上の「答え」。
 あしたはあしたで、違ったことを言うかもしれないが、「いる」「いない」「ある」「ない」「動かない」「動く」という「矛盾」したことばのつながりのなかに何か大事なものがあるぞ、と感じたとういことは変わらない。

 この詩の裏側は「空白」。そして、その左のページには最初のページの少年(だろうと思う)が家の入り口に座っている。洗濯物が干してあり、開いた入り口から見える家の中は雑然としている。暮らしがそこにある。このとき少年は何をみているのかな? 「私は王様」ということばを裏側から見て、「空白(無)」を見ているのかな?
 そのとき「無」とは何かな?
 少年の「裏側」はどうなっているのかな?
 そう思って、少年の「裏側」(裏ページ)を見ると……。
 舗道? それとも壁? 光と影が揺れている。星のように鋭く光る小さな光の粒も散らばっている。
                     (つづきは、あした書く、つもり……)
おやすみ神たち
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』

2014-11-07 10:34:38 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』はいろんな仕掛け(?)のようなものがあり、そういうものに出会うたびに、私のことばは驚いてぱっと動くのだが、同時にことばが散らばってしまう感じにもなる。さっき思ったことと、今思ったことは関係があるのか、ないのか……。それを整えようとすると、私の肉体のなかにある何かが嫌がる。
 これは、きっと整えてしまってはいけないのだ。ことばが動いたまま、それを書いていくしかないのだ、と思った。

 私が最初に思ったのは、写真の数が詩の数より多いということ。次に本の紙質が統一されていないこと。つるつるとざらざら、さらには裏側が透けて見えるものもある。手触りが違う。眼で見ているのに、写真の手触りが違うと感じてしまう。手で実際に触ってもいるのだけれど、そのときの感触が視覚を不統一にする。
 なぜ、こんな仕掛け(?)になっているのかな。
 わからないまま、本の中を進んで行くのだが、その仕掛けのなかで私がいちばん驚いたのは、表紙のカバーをとると詩があらわれたこと。えっ、ここにも詩が(ことばが)隠されていたのか。そして、その詩は灰色の紙の上に銀色で印刷されている。灰色と銀色って、同じ色じゃない? 読みづらい。読むのを拒絶しているような、意地悪な印刷だなあ。ほんとうに読みたい人だけ読めばいい、と言っているみたい。
 そうか、詩も写真も、ほんとうにそれに触れたい人が触れればそれでいいのかもしれない。--でも、そんなふうに考えるのはさびしい。ことばはもっと読まれたいと思っているかもしれない。写真ももっと見られたいと思っているかもしれない。作者の思いとは関係なく。
 ことばから聞こえたもの、写真から見えたもの、本からつたわってきたものを書いてみる。表紙にある詩は最後になって、そこに詩があるとわかったので、読んだ順序にしたがって感想を書いていく。
 「空」という作品。

空という言葉を忘れて
空を見られますか?
生まれたての赤ん坊のように

初めて空を見たとき
赤ん坊は泣かなかった
笑いもしなかった

とても真剣だった
宇宙と顔つき合わせて
それがタマシヒの顔

空が欲しい
言葉の空じゃなく
写真の空でもなく
本物の空を自分の心に

 知らないことば、意味のわからないことばはない。だから、すっと読むことができる。すっと読みながら、同時にそのすっと読んでしまって、そのことにとまどってしまう。書いてあることは、考えはじめると、何とも不思議なことばかり。
 最初の2行の質問に私は答えられない。谷川は、しかし、答えを必要としていないのかもしれない。すぐに3行目で「生まれたての赤ん坊のように」ということばで、生まれたての赤ん坊ならことばを知らないので空ということばをつかわずに空をみることができるよ、と谷川自身で「答え」のようなものを出してしまう。
 その「答え」は、またまたわからないことへとつづいていくのだが、谷川のことばに触れている瞬間は、何か「答え」に触れている気持ちになる。「言葉を忘れて」と「空という言葉を知らずに」に違うのだけれど、生まれたての赤ん坊は「空」ということばをつかわずに、たしかに空を見るのだろう。
 でも、それは空? 私たちにとっては空だけれど、赤ん坊にとっても空? それはわからない。
 だいたい、私は初めて空を見たのがいつか思い出せない。それが空と呼ばれるものだと知ったのがいつかも思い出せない。
 谷川だって、そんなことを覚えているはずがないと私は思う。覚えていないけれど、まるで覚えているかのように谷川は書いている。自分の体験ではなくて、赤ん坊に初めて空を見せたときの反応を書いていると言えるかもしれないけれど、その「初めて」もあいまいだ。病院の窓から知らずに知らずに空を見ていたかもしれない。いつが「初めて」かなんて、わからない。
 わからなのに、そうだなあ、と思う。谷川の書いていることばどおりだなあ、と何かが納得してしまう。「頭」ではない。「頭」は、いま、私が書いたように、あれこれと難癖をつけるのだが、「頭」が難癖をつけるまえに何かが納得してしまう。
 3連目。そうなのか、思う。赤ん坊が「真剣」かどうかなんて、わからないのに、「真剣」ということばを受け入れてしまう。それだけではなく、あ、ここに「真実」というか「永遠」が書かれていると思ってしまう。ことばが自分で動いていって、必然的にたどりつく「真実」が書かれていると感じる。
 ことばの運動、ことばにすることで初めてつかみとれる「真実」が、ここに書かれていると感じ、あ、谷川はすごいと思う。初めて空を見る赤ん坊の顔を、もう一度見てみたいと思う。赤ん坊が空を初めて見たときの顔を見たことがないのに、それを見たような気持ちになり、さらにもう一度見てみたいという気持ちになる。
 とても不思議だ。
 その不思議を不思議のままおいておいて、4連目。
 突然、生まれて初めて空を見た赤ん坊になった気持ちになる。初めて空を見た赤ん坊になって、「いま」空を見たい。「おとな」でありながら、「赤ん坊」の体験がしたい。赤ん坊は「自分の心に」空が欲しいなんて思わないだろう。「自分の心」というものを知るのは、空が空であると知るよりももっとあとだろう。

 ここには「頭」で考えると、矛盾というか、わかりにくいことがぎっしりつまっているのだけれど、「頭」で反論せずに、谷川のことばをただ聞いているときは、そのことばが触れているものに直に触れている感じがする。そして、そのいままでことばにならなかったものに直に触れている感じが気持ちよくて、あ、詩だなあ、と思う。
 そうだよなあ、生まれて初めて空を見るときの赤ん坊のこころを自分のこころに持ちたいよなあ……。あ、でも赤ん坊のこころではなく、谷川が書いているのは「本物の空」。うーん、でも、その「本物の空」というのは「赤ん坊の見た空」、そしてその「心」。それを見たときの「真剣」な何か。
 ことばが交錯する。「本物の空」と「赤ん坊の見た空」「心」が重なり合い、ずれている。ひとつのことばでは言えない何かになっている。
 それが「タマシヒ」?

 わからない。
 私は「魂」ということばを自分からつかったことがない。「魂」の存在を信じていない。「魂」が自分にあると考えたことも感じたこともない。
 「こころ(感情)」はどうか。あるいは「精神(理性)」はどうか。これは、ある、と感じている。何かを見て、どきどきしたり、はらはらしたりする。そのとき実際に心臓の動悸がはやくなったりする。怒りながら、何かほかのこと(たとえば数字の計算)をしようとすると、うまくいかない。いつもと違った「動き」が体のなかで起きる。その違った動きの中に「こころ」とか「精神」があると、私は考えている。自分で制御できない「反応」が自分のなかで起きる--その反応を動かしているのものが「こころ」「精神」と考えている。
 でも、「魂」は、私の肉体のなかで何かの動きをしているとは感じられない。それが肉体の動きになってあらわれているとは感じられない。だから、「存在していない」と私は考えているのだが、もちろん「動かない何か」(動きを静める何か)を「魂」と考えれば、それはあることになる。

 谷川は、どう考えているのだろうか。「タマシヒ」とわざわざ旧かな、しかもカタカナで書いている。そこに谷川の何か特別な思いがあるのだろうか。
 詩を読み返すと、

初めて空を見たとき
赤ん坊は泣かなかった
笑いもしなかった

 この3行が、かなり(?)不思議。
 赤ん坊は何をした?
 何もしていない。動かない。
 で、この「動かない」が、私が「魂」は何かを考えたとき感じることとどこか通じる。「こころ」のように騒がない。泣いたり、笑ったりしないで、「動かない」をつくりだすもの。
 そうか、ここから考えていけばいいのかもしれないなあ。
 この「動かない」を谷川は、

とても真剣だった
宇宙と顔つき合わせて
それがタマシヒの顔

 と言いなおしている。「真剣」なとき、たしかにひとはときどき「動かない」。真剣に何かを聞いているとき、体は動かない。真剣に何かをしているとき、「こころ」は動かない。無心、ということが起きる。
 「魂」は「動詞」とは反対(?)のところにあるのか。「動かない」もの、「無(ない)」という何かを感じさせるのが「魂」なのか。
 そして、そのとき「魂」は近くにあるものと向き合っているのではなく、はるか遠くにあるもの、手のとどかないところにあるものと、ただ向き合っている。手のとどかないものと接している。接続している。つながっている。
 その「つながった記憶」(宇宙とつながった記憶)を、

空が欲しい

 と谷川はもう一度、言いなおしている。「本物の空」というのは、赤ん坊の無心の(動かないこころ)がつながった「宇宙」。それが「自分の心」にほしい。それは、そこにあるだけで「動かない空」(動かない宇宙)と言えないだろうか。
 もし、「魂」が「動かないもの(無)」であるなら、それがあってもいいかなあ、と私は、この詩を読み返しながら考えた。
 「魂なんてない」という私の基本的な考え方と、「動かない(無)」は通じるからだ。--でも、これは私の「誤読」であって(勝手な読み方であって)、谷川が「タマシヒ」をどういうものと感じているのか、あるいは「定義」しているのか、この詩だけではわからないね。

 それからページをめくって、最初の写真。空を無数の、ではないが、たくさんの、数えるのが面倒なくらいの鳥が飛んでいる。翼がかなり大きいが、なんという鳥かわからない。影だけになって、横につながっている。
 ふーん、この空の向こう側に「宇宙」があるのかなあ、と私は詩のつづき、詩の印象をかかえたまま、思った。写真のことは、私はよくわからないので、そんなにじっくりとも見つめないのだが……。
 そして、さらにページをめくって。
 私は「あっ」と声を上げた。左のページに「私は王様」という谷川の詩があるのだが、右のページ、鳥と空の写真の裏側は、青一色。これって、地上からではなく、鳥の裏側、鳥のさらに上空(宇宙)から見た空の色? 私たちが空を見上げているときに見る空の裏側の色?
 雲も何もなく、ただ一色。青があるけれど、無。
 赤ん坊が見ていたのは、この青?
 真剣になって宇宙と向きあって、宇宙の視線で空を見る。見下ろす、かな? そうすると、そこには青だけ。赤ん坊は、見えない。いるはずなのに、見えない。
 見えているものの裏側(向こう側)に見えない無がある。無だから見えないのだけれど……。
 あわてて、前のページにもどる。
 空と鳥の写真が左側、右側は空白。詩の裏側のページは、白。空白。無。

 えっ。

 またページを逆戻り。
 そこには頭にピンクの飾り(これ、何?)を載せた少年がいる。じっと前を見ている。視線が動かない。写真だから動かないのはあたりまえなのだが、動かないということがわかる。何を見ているかわからないけれど、動か「ない」ということがわかる。そこにも「無」がある。
 その写真と空と鳥の写真の間に谷川の「空」がある。少年(写真)と空(写真)の間に「空(詩)」がある。そして、それは「無」でつながって、そこに「ある」。

 何か、私の知らないことが、ここから始まる。
 そういう感じが、うわーっと動いてくる。押し寄せてくる。


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