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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「憲法」を持ち出すよりも

2021-08-31 08:51:19 |  自民党改憲草案再読

 8月31日の読売新聞(西部版・14版)。アフガニスタンからの邦人救出が遅れたこと(失敗したこと)に関して、3面の「スキャナー」で「解説」している。
 そのなかに、政治部・前田毅郎の「作文」が載っている。
↓↓↓↓
(見出し)自衛隊機派遣 憲法上の制約も
(記事)自衛隊法が自衛隊輸送機の海外派遣に厳しい制約を設けている背景には、自衛権の発動の場合を除いて武力行使を禁止している憲法9条がある。
 今回の派遣は、外国で災害や騒乱などの緊急事態があった場合について、邦人らの輸送を定めた自衛隊法84条の4の規定に基づく。同条項は外国人の同乗も認め、「安全に実施することができる」ことが要件として定められている。
↑↑↑↑
 「憲法」を持ち出した後、すぐに論理が破綻している。自衛隊法84条の4の規定を適用すれば、救出ができるではないか。憲法の制約などない。
 実際は、何が起きたのか。
↓↓↓↓
 タリバンが全土制圧を宣言した15日以降、首都カブールの国際空港では、離陸する米軍輸送機に国外脱出を図るアフガン人らがしがみつく姿も報じられ、大混乱に陥った。外務省は「安全な輸送」はその時点では不可能だと判断した。
↑↑↑↑
 簡単に言えば、判断が遅れたのだ。韓国は、「憲法」の問題がどうなっているか知らないが、ちゃんと救出している。日本にそれができなかったのは、単なる判断ミスだろう。 それなのに、前田毅郎は問題を「野党」に押しつけている。
↓↓↓↓
 防衛省によると、邦人輸送の準備行為として、ひとまず近隣国まで輸送機を飛ばすことは法的に可能だ。だが、自衛隊派遣には一部野党などからの反発も出かねないだけに、外務・防衛両省は慎重に検討を重ねるのが通例だ。
↑↑↑↑
 しかも、記事に書いてあるように、「自衛隊派遣には一部野党などからの反発も出かねない」という「予測」があるだけで、実際に野党が反発したわけではない。
 問題は。
 野党が反発するかどうかではなく、政府が方針を示し、それを国会で論議するかどうかなのである。政府は国会で論議しようとしていない。
 緊急事態なのだから、国会を開けばいいではないか。
 国会で「日本人を救出するために自衛隊機を派遣したい。そのためには臨時立法が必要だ。時間が差し迫っているから、緊急に議論してほしい」と言えばいいではないか。
 国会の場で、たとえば野党が「自衛隊機の派遣はだめだ」と言えば、その野党に対して国民がどう反応するか。国民に判断を任せればいい。議論をしないで、「自衛隊派遣には一部野党などからの反発も出かねない」と野党に責任を押しつける。
↓↓↓↓
 自民党内からは、「現行法では今回のような事案に対応が難しいことが明らかになった」として、関連法を見直す必要性を指摘する声も出始めている。
↑↑↑↑
 出始めている、というのんきなことを「指摘」するのではなく、国会を開いて議論しろ、となぜ書かないのか。
 国会を開けば、「自衛隊機派遣の賛否」だけではなく、菅の姿勢、救出へ向けての動きが遅かったことへの批判が必ず出る。総裁選、衆院選を気にして、今何が起きているかを見ていない。それが日本人救出に失敗した原因であると追及される。菅は(安倍もそうだったが)、自分が追及されなければそれでいいと考えている。それだけを考えている。
 そして、「自分が追及されない」という「保証」の先に「憲法改正」がある。
 憲法を改正し「独裁政権」を確立すれば、あらゆる批判(追及)は拒否できる。自民党の改憲草案(2012年)を読めばわかる。「独裁政治」を確立するための改正草案である。国民が権力を縛るという憲法の基本を逆転させ、権力が国民を縛るというのが改正草案の狙いである。
 その片棒担ぎのひとりが読売新聞の政治部・前田毅郎である。

 アフガン問題だけではなく、コロナ問題も終わっていない。国会を開いて議論しろ、と読売新聞はなぜ書かないのか。
 国会を開いて議論すれば、菅が正しいのか、野党が正しいのか、それを国民が判断する。菅が正しいのなら、衆院選で自民党は圧勝するだろう。そういう「圧勝するための機会」を菅は、自分の手で葬っている。菅を支持するのなら、菅に「国会で議論しろ。必ず国民の支持が得られる。衆院選に圧勝できる」と助言すればいい。
 議論を促す提言をせずに、「憲法上の制約」と菅の(自民党の)言い分だけを代弁するのはジャーナリストとして失格だろう。

 

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自民党憲法改正草案再読(22)

2021-08-24 10:04:15 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第36条
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
(改正草案)
第36条(拷問及び残虐な刑罰の禁止)
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する。

 改憲草案では、現行憲法の「絶対に」が削除されている。もしかすると、「拷問及び残虐な刑罰」が行われるかもしれない。「絶対に」がなくなったのだから、可能、と判断することがあるかもしれない。ことばは常に何かと対比することで「意味」が確定する。「絶対に」が削除されたのだから、してもいいのだ、と判断するおそれがある。
 憲法は権力を拘束するものである。「絶対に」が削除されたのだから、「禁止は絶対ではない」と主張する根拠を、権力に与えてはいけない。
 しかし、どういう条件のときに「公務員による拷問及び残虐な刑罰」が許されるのか。「公務員」という主語を手がかりにすれば、「公益及び公の秩序に反する」と「公務員」が判断したときだろう。「公」が判断したときだろう。そして、このとき「公」とは「公共」ではない。あくまでも「権力が考える公」、言いなおすと「権力」である。既に菅は、政府方針に異議のある人(公務員)は移動(左遷)させると明言している。権力の「いいなり」になっている「公務員」が「権力の意向に反する(=公益及び公の秩序に反する)」と判断すれば「拷問及び残虐な刑罰」は許されるのである。
 これはいま「犯罪者」以外に対して行われていることに当てはまるかもしれない。「拷問/刑罰」ではないが、機動隊がデモを必要以上に規制したり、選挙演説へのヤジを力ずくで排除するということが行われているのをみると、「絶対に」の削除は大きな影響を与えると思う。
 また、「これを」というテーマの提示は、ここでも変更されている。テーマ隠しが改憲草案の大きな狙いである。「このテーマについて考えよう」という姿勢がないのだ。

(現行憲法)
第37条
1 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
3 刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
(改憲草案)
第37条(刑事被告人の権利)
1 全て刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2 被告人は、全ての証人に対して審問する機会を十分に与えられる権利及び公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
3 被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを付する。

 この条項では、「及び」のつかい方が奇妙である。これまでみてきたように、改憲草案の「及び」は「イコール」である。「公益及び公の秩序」は「公益=公の秩序」であり、それはともに権力にとっての利益、権力が考える秩序である。権力の考える秩序そのものが、権力の利益である。権力の考える秩序にしたがって国民が行動する限り、権力批判、権力否定(革命)は起きないからである。
 現行憲法が「又、」と別のものであと定義していることを「ひとつ」のこと、イコールで結ばれたものというところから逆に見ていくと、前の方に出てくる「全ての証人」は「公費で求めた証人」に言い換えられるかもしれない。「公費(権力)が認めた証人」に対して審問する権利するは認めるが、権力が認めない証人(被告人、弁護人が探し出してきた証人)は認めないということが起きるかもしれない。
 こういうことは「刑事事件の裁判」ではないが、実際に、何度も起きている。野党が国会で、ある人の「証人喚問」を求める。しかし、政府、自民党がそれを認めない。そのために、国民の多くの知りたいと思っていることが不明のままになる。森友学園問題の佐川がその代表例である。政府の考える「公益及び公の秩序」に反することが明らかになると判断した場合、「証人」は採用されないのだ。採用される証人は、政府が認定した人間だけなのだ。前川、鴻池が国会に証人喚問されても、佐川、安倍安恵が証人喚問されない例を見ると、そう考えてしまう。裁判と国会は別のものではあるけれど。権力にとって「都合のいい」証人だけが、きっと集められることになる。
 「刑事事件」ではなく、民事事件、国の姿勢が問われる裁判では、特にそうなるだろう。「刑事事件」の被告に関する条項だから(自分は刑事事件の被告になる可能性はないから)という理由で見逃してはいけないものがあるように思う。前回(5年前)、改憲草案について考えたとき、私は「刑事事件か、犯罪さえ犯さなければ自分には関係ないなあ」と思い、読みとばしていた。
 憲法はあらゆる法律の大本である。その変化は、形を変えながら現実に反映されていくし、改憲草案を先取りする形で権力が動いていることに注目すべきだと思う。

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自民党憲法改正草案再読(21)

2021-08-10 12:31:58 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第33条
 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
(改正草案)
第33条(逮捕に関する手続の保障)
 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、裁判官が発し、かつ、理由となっている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。

 「権限を有する司法官憲」が「裁判官」に変更されている。「司法官憲」は裁判官や検察官を指すと思う。なぜ検察官が除外されたのかわからない。
 思い出すのは、安倍の「お友だち」が強姦事件を起こした。裁判所から逮捕状は出たが、逮捕寸前に差し止められた。逮捕に向かっていた警官の上層部が差し止めた、と言われている。
 第33条は、令状がなければ、そのひとがだれであろうが逮捕されない(権力は逮捕してはいけない)ということを意味していると思う。これは被害者の側から言えば、逮捕状が出たなら加害者(容疑者)は「逮捕される」を意味すると思う。逮捕→裁判と進み、判決によって加害者が罰せられる。そのことによって、被害者の人権が守られると考えることができる。手続きを踏んでいるにもかかわらず、被害者救済の道を閉ざし、加害者(容疑者)を逮捕しないというのは、被害者にとっては二重の苦痛である。
 第32条の「裁判を受ける権利」は、被害者にとっては「裁判を受けさせる権利」でもあるだろう。それを、逮捕する主体(警察側)によって封じられたというのが、安倍のお友だちの強姦事件である。
 裁判所の「令状」よりも、警察上部の「命令」の方が、現実の中で大きな力として働いた。「検察側」を令状の発行主体から除外したのは、もしかすると、そういうことと関係があるかもしれない。
 もし、裁判所が逮捕状を出しても、権力側が「逮捕したくない」ときは逮捕せずにすませるために、あえて発行の主体を「裁判官」に限定したのかもしれない。捜査機関である検察が逮捕状を出したのに、捜査の実行者である警官が逮捕を遂行しないのでは組織が成り立たない。しかし、裁判所の出した令状ならば、捜査機関がそれを無視することもできるだろう。それが、安倍のお友だちの強姦事件ではなかったか、と思う。
 そう考えると、この事件の動きもまた、改憲草案を先取り実施していることになる。

(現行憲法)
第34条
 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
(改憲草案)
第34条(抑留及び拘禁に関する手続の保障)
1 何人も、正当な理由がなく、若しくは理由を直ちに告げられることなく、又は直ちに弁護人に依頼する権利を与えられることなく、抑留され、又は拘禁されない。
2 拘禁された者は、拘禁の理由を直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示すことを求める権利を有する。

 この変更もよくわからない。私自身を、この条文の中で動かしてみるということができないからである。逮捕されるような犯罪を犯した自覚がないから、その後のことも想像できない。
 「正当な理由がなく、もしくは」が挿入され、「且つ、」が「又は」に言いなおされている。
 どういうことなのだろうか。
 挿入された「正当な理由がなく」から考えてみる。
 「逮捕されるような犯罪を犯した自覚がない」と書いたが、逮捕寸前までいったことがある。横断歩道を自転車に乗って渡っていたとき、歩行者に危険を与えたというので警官に呼び止められた。だれかが、怪我をしたとか、悲鳴を上げたとか、危ないと怒ったとかというのではない。警官によると私の自転車といちばん近い歩行者は「1メートル」くらい離れていたそうである。1メートルと言うのは人の感覚によって違うだろうが、福岡市の歩道ではもっと近い距離を自転車が通り抜ける。それこそ接触寸前。それに比べると、かなり離れていると思う。で、そのあと。私は、福岡地検にまで呼び出された。「次は逮捕する」という忠告であった。
 そこから、強引に(?)考えるのであるが。
 「正当な理由がなく」は、逮捕する側から(警察側から)みて、「正当な理由」と判断すれば、逮捕できるということにならないか。横断歩道を自転車に乗ったまま走行することは道交法違反である、といえばそうなのだろうが、福岡市では横行している。でも、逮捕されたという話は、私は聞いたことがない。私が自転車事故の被害者になったとき、実況検分の現場の交差点では、警官の目の前を自転車がすいすい走っていく。途中から車道を逆走して路地へはいる自転車もある。でも、注意すらしない。そういう状況がある一方、走行するとき「1メートル」まで接近すると危険である。歩行者に危険を与えたと、警官が判断し、それを「正当な理由」と考えれば、「逮捕できる」。そういうことをするための改正ではないのか。(ちょっと脇道にそれるが、私が警官に注意され、地検まで呼び出されたのは、松井久子監督の「不思議なクニの憲法」の上映会を企画していたころである。安倍批判をブログに書き続けていたころである。ある友人が「地検まで呼び出されるというのは、そのせいじゃない?」と言った。)
 第31条の「適正な」という文言の挿入に似ている。だれが「適正」「正当」と考えるか。そのことが問題になってくる。「正当な理由」とは第33条との関係で言えば、「裁判官の逮捕状」が「正当な理由」になるだろうから、わざわざ第34条で「正当な理由」を挿入する必要はない。しかし、挿入する。そこには、裁判官以外のだれかが判断した「正当」というものがあるということだ。
 それは逆に言えば、逮捕状がでいているときでも、だれかがそれを「正当な理由」と判断しないときは逮捕しないということが起きうることを意味するだろう。安倍のお友だちの強姦事件のように。
 「且つ」から「又は」への変更は大問題である。「且つ」は同時である。つまり弁護人の存在は必須である。しかし、「又は」では弁護人が不在でも「抑留、拘禁」が可能なのだ。私もそうだが、多くの人は法律のことなど知らない。何が犯罪か、ということも知らないことが多い。人を殺したり傷つけたり、ものを盗んだりすれば犯罪だとわかるが、それ以外のことはあまり知らないだろう。それは何かをしたときの自分の「権利」について知らないことに通じる。だから、自分の変わりに弁護をしてくれる専門家が必要なのだ。その専門家が不在のまま、抑留、拘禁されるということは、それにつづく取り調べでも、何もわからないまま取り調べを受けることになる。自分は逮捕されるようなことはない、と思い込んでいてはいけない。逮捕(抑留、拘禁)のの「正当な理由」は、私が考える「正当な理由」ではなく、警察の考える「正当な理由」なのだから。
 「適切」とか「正当」ということばは、まっとうにみえる。なんの問題もないようにみえる。だからこそ、危険。だれが「適切」「正当」と考えるか。「主語」が必要な、「主観的」なことばである。
 分割された第二項。ここでは「公開の法廷で示されなければならない」が、「公開の法廷で示すことを求める権利を有する」に書き換えられている。何回も書くが、「権利を有する」としても、「権利を侵害される」ということがある。憲法で大事なのは、国(権力)が国民の権利を侵害してはいけない、と「禁止」をつきつけることである。「権利を有する」と規定するだけでは、国(権力)の暴走は防げない。憲法は国への禁止時効でなければならない。

(現行憲法)
第35条
1 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
2 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。
(改憲草案)
第35条(住居等の不可侵)
1 何人も、正当な理由に基づいて発せられ、かつ、捜索する場所及び押収する物を明示する令状によらなければ、住居その他の場所、書類及び所持品について、侵入、捜索又は押収を受けない。ただし、第33条の規定により逮捕される場合は、この限りでない。
2 前項本文の規定による捜索又は押収は、裁判官が発する各別の令状によって行う。

 ここでは「侵されない」(権力は、侵してはならない)が、「受けない」と書き直されている。「受けない」では、「住居、書類及び所持品」が個人の自由(権利)であることがわかりにくい。どこに住むか、何を持つかというのは個人の自由であり、個人の権利である。それは、「侵されない(侵してはいけない)」というのが現行憲法。改憲草案は、個人の権利、自由を尊重するのではなく、国民を憲法で縛ろうとしているのは、こういう細部からもわかる。いちばん大事なのは国民の権利、自由である。それを国は「侵してはならない」。その意識がない。だから、国に対する「禁止条項」をなくすのである。

 

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自民党憲法改正草案再読(21)

2021-08-09 08:23:33 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(21)

 憲法第31条から第40条までは、私はじっくりと読んでみたことがない。犯罪を犯さなければ関係なあ、くらいの意識しかなかった。なぜ、「犯罪者」の権利について、こんなにたくさんの条項を書かなければならないのか。それが、最初に憲法を読んだとき(たぶん小学六年か中学三年の社会の時間)理解できなかった。
 いまは少し理解できる。どんな犯罪者であっても更生できる。人間の可能性を信じるなら、更生の権利は保障されなければならない。あらゆる人間は、排除されてはならないのだ。こうした考えに基づいているが第31条以降の条文だろう。
 また「犯罪」にはさまざまな種類がある。人が人に対するもの、人が組織に対するもの、あるいは組織が人に対するもの。そして、その組織には「国」もあてはまる。もし、ある行為が「国に対する犯罪」だと指摘されたとき、指摘された人はどうなるのか。「国」からある行為が禁止されたとき、その行為をしたらどうなるのか。その視点から、憲法第31条から第40条までを読まないといけないのではないか。
 なぜなら。
 憲法は国(権力)を拘束するのものであって、国民を拘束するものではないからだ。第31条から第40条までも、「国に対する禁止行為」であるはずなのだ。そう思って読んでみる。

(現行憲法)
第31条
 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
(改正草案)
第31条(適正手続の保障)
 何人も、法律の定める適正な手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない。

 「自由」について考えるとき、私が思い出すのは、憲法第12条、13条である。

第12条
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第13条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 現行憲法は「公共の福祉に反しない限り」、国民は何をしてもいい、と規定している。つまり「公共の福祉に反する」ことはしてはいけない。「公共の福祉に反する」と犯罪と認定されることがある、ということだろう。
 何が「公共の福祉に反する」のか。第31条だけではわからない。「法律に定める手続き」とあるから「法律」が「公共の福祉に反する」ことを定めているのだろう。たとえば、「殺人」がなぜ「公共の福祉に反する」か。人は助け合って生きる、という基本的な理念に反するからだろう。
 この認識は、改憲草案も共有しているのだろうか。
 共有していると仮定して、私が気になるのは、改憲草案が「適正な」ということばを挿入していることと、この第31条に「適正手続の保障」というタイトルをつけていることである。
 「適正」であるかどうか、だれが判断する? 私は「国が」という主語を補って読んでしまうのである。改憲草案の理念は、国が国民を支配する(独裁を確立する)ことである。国が「適正」かどうかを判断し、手続きを進める可能性があるのだ。現行憲法は、何があろうが法律にしたがって手続きを進める。手続きは法律で決まっているということだろう。その「決まっている手続き」を変更するということが、「改憲草案」では可能なのではないのか。
 このことは、第31条だけではよくわからないが、つづく第32条を読むと、恐ろしくなる。

(現行憲法)
第32条
 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
(改憲草案)
第32条(裁判を受ける権利)
 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を有する。

 「裁判を受ける権利を奪はれない」は「国は裁判を受ける権利を奪ってはいけない」という国に対する「禁止条項」である。しかし、この「禁止」につながる文言を消し去って、改憲草案は「裁判を受ける権利を有する」と書き直している。「権利を持っている」からといって「権利が侵害されない」わけではない。権利はいつでも「侵害される」おそれがある。それを「保障する」ためには、「〇〇してはいけない」という「禁止条項」が必要なのだ。「禁止」を削除するということは、「禁止条項」を破る意図があると読むべきだろう。
 そこまで考えて、最初に戻る。
 もしだれかが国の姿勢を厳しく批判する。大げさに言えば、「革命」を指導する。そのとき、その動きを「国」がどう判断するか。「国を批判すること/革命を起こすこと」は「公共の福祉に反する」わけではない。それは多くの「革命」が証明している。「国への批判/革命」は「国」の考える「公益及び公の秩序」とは違うだろうが、けっして「公共の福祉に反する」ことではない。
 けれども、菅や、その前任の安倍は、それを国家に対する犯罪と考えるだろう。管は実際、政府方針に反するもの(批判するもの)は左遷させると言っている。そして、それを「適正」な処分と主張している。これは、国を批判する自由を侵害するものである。管が更迭(左遷)した官僚と、一般国民では行政へのかかわり方が違うが、官僚にしたことは国民に対してもおこなわれるだろうと考えるべきである。第31条にある「自由」の定義を確かめるべきである。管は(安倍は)、それを無視するだろう。
 無視するための「根拠」が「適正」ということばであり、その「適正」は、管(安倍)の判断であって、「法律」にもとづく「裁判」の判断ではない。そういう「適正」が横行する危険性がある、と私は思う。

 


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自民党憲法改正草案再読(20)

2021-08-06 21:33:41 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(20)

(現行憲法)
第29条
1 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
(改正草案)
第29条(財産権)
1 財産権は、保障する。
2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。
3 私有財産は、正当な補償の下に、公共のために用いることができる。

 国は「侵してはならない」を、改憲草案は「保障する」と抽象的に言い換えている。
 第二項の「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と書き直している。そのうえで、「知的財産権」について追加している。「知的財産権」にはいろいろある。私がやっていることの関係で言えば「著作権」も知的財産権である。そして、その「著作」には、たとえば「政府批判の論文」とか「わいせつ小説」というようなものもある。しかし、改憲草案は、「政府批判の論文」や「わいせつ小説」を「知的財産権」とも「知的想像力」とも考えていないだろう。「政府批判の論文」や「わいせつ小説」は「公益」にも「(政府の考える)公の秩序」にも貢献しない。
 改憲草案は「国民の知的創造力の向上に資するよう」と書いているが、私には、自民党がほんとうに「国民の知的創造力の向上」を考えているとは思えない。どうしても「前文」のことばが思い浮かぶ。「教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる」。改憲草案のいう「知的財産権」とはたとえば「科学技術」であり、それは「国の経済活動に役立てるものでなければならない」、国はだれかが発明した技術(知的財産)を「国民のため」という名目で「利用し」、その結果として「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」ということをもくろんでいるのだろう。だからこそ、わざわざ「知的財産権」を特別視しているのだ。
 第三項の「公共」は現行憲法は「公共の福祉」の略であることは、いままでの「公共の福祉」のつかい方から定義できるだろう。
 改憲草案の「公共」は何を意味するか。「公共の福祉」ではないはずだ。これまで改憲草案は「公共の福祉」ということばをつかってきたことがない。ここは「公益及び公の秩序」と書き直すのを失念したのだろう。現行憲法が「公共の福祉」の「福祉」を省略しているために、その省略に気がつかなかったのだ。
 で、第三項では「私有財産」に触れるのだが、この「私有財産」とは何だろうか。何を具体的なもものとして改憲草案はイメージしているのか。私は、最近の動きから想像するのだが、「土地」を指していると思う。今国会で「重要土地利用規制法」が成立した。「安全保障にとって重要な施設周辺の土地取引に調査や規制できる」という内容だが、国が「政府の利益」「政府の望む秩序」を実現するためには、私有財産である「土地」の売買を規制できる。国が買い上げることを、国民は拒否できない、というもの。「安全保障」を名目に、国は金さえ払えば、国民の土地を自由にできる。
 何度でも書くが、自民党の政策は、改憲草案の先取り実施である。「重要土地利用規制法」は、第29条第三項の「先取り」なのである。憲法を改正しなくても、実質的に、改憲したのと同じことが「重要土地利用規制法」によってできるのである。
 「安全保障施設」というのは、「公共の福祉」とは関係がない。「公共」をつかったのは、ぼんやりしているとしか見えないが。

(現行憲法)
第30条
 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
(改憲草案)
第30条(納税の義務)
 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。

 これは改正のしようがなかったらしい。

 国民の義務は、①教育、②勤労、③納税の三つ。
 私はこの現行憲法の順序は非常に重要だと思う。(改憲草案がそれをそのまま踏襲しているのは、不思議だ。)
 なぜこの順序なのか。教育=学問がなくては、人間は何をすべきなのかわからない。何をすべきかを知るためには教育(学ぶ)ことが必要なのである。そして、学んだことを利用して「働く(勤労)」。働くためには、働くための「教育」が必要である。そして、その働いていることをただ単に「歯車」となって働くのではなく、働きながら労働をかえていく、つまり新しいものをつくりだしていくためにも「教育=批判」が必要なのである。社会をかえていくのは「批判=学問」である。社会が成長し、成熟するためには「教育」は不可欠なのだ。教育こそが「基盤」なのだ。
 改正草案第29条第二項に「知的財産権」が出てきたが、「知」こそが社会にとって必要なのだ。ただし、自民党が考えているように「公益及び公の秩序」のためではないし、「経済成長」のためでもない。時には「政権を否定する(革命する)」ためにも「知」は必要なのである。教育が重要なのである。
 納税は、所得を「公共の福祉」に還元するためのものである。所得の再配分によって「公共の福祉」が実現する。「みんなで助け合う」とは、あからさまに言えば「所得の再配分」によって「階級的差別」を解消するということである。
 しかし、この「所得の再配分=納税」という観点から見ると、改憲草案は、とてもずるい。何も変更をくわえていないが、その変更をくわえていないところに問題がある。いま現在起きているいちばんの「納税」問題は、法人税が低いということである。「消費税」が「法人税引き下げ(法人税の穴埋め)」につかわれているということである。法人税が低くおさえられているというのは、言い方を変えれば、「所得の再配分」が適正に行われていない、企業が優先されているということである。
 「第三章」は「国民」がテーマ。「国民」に「企業」を含めるかどうかはむずかしい。法律的には「企業」は「ひと」ではないから、「国民」に含めないということなのかもしれないが、いま起きている「公益及び公の秩序」からみると、「企業」を優遇するかわりに、企業から膨大な献金を受け取るという形で「公益及び公の秩序」が実現されていることになる。第三項に「企業」を書き込まない(含めない)ことによって、自民党は、国民からどんどん税金をしぼりとり、企業を優先しようとしている。そのために「納税の義務」という文言をそのまま利用していると考えてみるべきかもしれない。


 

 

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自民党憲法改正草案再読(19)

2021-08-02 09:11:32 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(19)

(現行憲法)
第27条
1 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。
(改正草案)
第27条(勤労の権利及び義務等)
1 全て国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律で定める。
3 何人も、児童を酷使してはならない。

 改憲草案は、第三項で、なぜ「何人も」ということばを挿入したのだろうか。
 私は現行憲法の「何人」を「人はだれでも」「どんな人でも」と読んでいる。「人はだれでも」というとき、そこに「児童」も含まれている。だから、改憲草案にそれをあてはめることはできない。「児童は、児童を酷使してはならない」という文章にもなるからだが、文章にしてみるとわかるように、これはとても奇妙である。
 ここから逆に、私は、自民党改憲草案の「何人」の定義は「人はだれでも」ではない、と考える。では、いったい何なのか。わからない。ほかの条文の「何人」と比較しないと、はっきりした定義はできないと思う。言えるのは、改憲草案は「何人」を「人はだれでも/どんな人でも」とは考えていないということだ。繰り返しになってしまったが、これは、大きな問題を含んでいるかもしれない。この条項では、よくわからないが。
 私の考えでは、現行憲法の第三項は、かつて児童が労働者として酷使された時代があったということを踏まえて書かれていると思う。「だれが」が問題ではなく、「児童の労働」がテーマであり、そのことに関しては「酷使してはならない」が現行憲法の意味だと思う。「これを」はテーマが何であるかを指し示す現行憲法が採用している重要な「文体」である。改憲草案は、テーマを隠そう隠そうとしている。
 「何人」というとき、自民党は「だれ」を想定しているのか。それが、とても気になる条項である。そして、これはテーマとも、密接な関係があるはずだ。

(現行憲法)
第28条
 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。(改憲草案)
第28条(勤労者の団結権等)
1 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、保障する。
2 公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項に規定する権利の全部又は一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない。

 ここでも改憲草案は「テーマ」を目立たないようにしている。そして、その改憲草案の第二項は新設されたもの。教員などの公務員の権利制限が「合憲」か「違憲」かをめぐって司法の判断がわかれたことを踏まえ、「違憲判決」が出ないようにするために設置したものだろう。
 問題は、「権利の全部又は一部を制限することができる」というときの「制限する行為者」、つまり「主語」はだれか、ということである。ここには「何人も」が出てこない。制限するのは、「何人」ではなく、権力者(政府)なのである。国民が、公務員の権利を制限しろと求めて、権利が制限されるのではなく、政府が公務員の権利を制限する。政府の意思通りに動かそうとする。それが「できる」と書いてあるのだ。
 そして、ここから第27条の三項にもどると、「何人も、児童を酷使してはならない」は「政府は、児童を酷使してもいい」という意味を含んでいるように見えてしまう。「政府(権力)」は「何人(ひとはだれでも、どんなひとでも)」の対極にある。憲法は権力に対して「〇〇してはいけない」という禁止条項をつきつけるものだが、第27条第三項からは、「政府は」という対象が完全に消えている。そこで「禁止」を言い渡されているのは「何人」であって「政府」ではない。たぶん「政府」の権力行使を許容することの裏返しとして、「何人も〇〇してはいけない」と国民に「禁止事項」を伝える、ということを改憲草案は狙っているのである。
 少し脱線した。そうではなく、問題点に踏み込ことができたのかもしれない。
 現行憲法は、国(政府)に対して「禁止事項」をつきつけているが、改憲草案は逆なのである。国は国民(公務員も国民)の権利を制限できる。すべての勤労者の権利を制限する前に、まず公務員の権利を制限する。たとえば国の方針に反対する公務員を許さない、という形で権利制限が始まる。たとえば、「君が代」斉唱のとき、歌わなかった教員を処分する(歌わないという権利の行使を許さない)というのは、その例だろう。
 「公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない」というのも、あたりまえのことを書いているように見えるが、では、「だれが」講じるのか。主語を補って考えると、いろいろな問題が見えてくる。さまざまな労使問題を解決するとき、一般の企業では「労使交渉」がある。労働者の代表と資本家の代表が話し合う。公務員の場合も、そうしたことが保障されるのか。きっと保障されないだろう。政府が一方的に公務員の権利を制限する、ということが起きるはずであり、そのときの「労働条件の改善(補償)」のようなものも、一方的に「講じられる」ことになるだろう。
 ここでも改憲草案は、権力をフリーハンドにしている。
 私は公務員として働いたことがないので「労使交渉」の実態がわからないが、この新設条項は非常に危険だと思う。私たち国民が実際に向き合うのは、菅や安倍ではなく、自治体の職員(公務員)である。その人たちの権利が制限されるとき、きっと国民にもその影響が出ると思う。何かの式典で教員が「君が代」斉唱を拒否する。そして、処分される。そういうことが「周知」されると、一般国民が「君が代」斉唱を拒否したとき、そういう国民は許すことができなという「風潮」を呼び起こすことになるだろう。「国のことを思うなら、君が代を歌え、歌わないのは反日だ」という批判を誘うことにもなるだろう。

 

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自民党憲法改正草案再読(18)

2021-07-27 10:45:01 |  自民党改憲草案再読

 第26条は、「教育権、教育の義務」。

(現行憲法)
第26条
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
(改正草案)
第26条(教育に関する権利及び義務等)
1 全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
2 全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、無償とする。
3 国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。

 第一項、第二項は表記と文言の改正。「子女」を「子」に改正しているのは「子女」ということばがいまでは「死語」に近いからかもしれない。男女平等の時代なのだから、この改正はいいと思う。
 問題は新設された第三項。
 「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできない」というのは、その通りだと思う。教育が「義務」であるのは、学び、新しいものをつくりだしていかない限り、どういう分野でも「発展」はありえないからである。国の未来にかぎらず、人間の未来を切り開くのに教育は不可欠である。
 しかし、私がいま書いたように、教育は「人間の(個人の)未来を切り開くのに不可欠」なのであり、「国の未来」は、その後の問題である。個人がどのような国を理想とするかによって国の形はかわってくる。国の形は国が決めるのではなく国民が決めるものである。それが国民主権ということだ。
 だから「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできない」というのは事実だが、そのことばを「国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない」という形でとりこんでしまうと、意味はずい分違ってくる。
 「国の未来を切り拓く」のに必要ではない「教育(学問)」はないがしろにする。「国の未来を切り拓く」のに必要な教育のための「環境整備に努める」ということになってしまう。
 自民党が掲げる「国の未来」とは何か。前文に、「教育」というこことばをつかい、こう書いていた。

教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる

 科学技術振興と経済活動を結びつけている。科学を発展させ、それを経済に結びつける。経済を発展させるためる科学にが育つように、人間を「教育」する。それが国の目的である。自民党の大好きなことばをつかって言えば「公益及び公共の秩序」のための教育を推進するということである。
 学問にはとうぜん「政権を批判する学問」もある。「科学」「経済」と直接結びつかない「学問」もある。そういう「学問(教育)」をどうするか。「公益(自民党の利益)及び公の秩序(自民党の理想とする社会体制)」に反するものは排除するという形で進むのが、改正草案の「教育環境の整備」ということになるだろう。
 いま進められようとしている「教育環境」で言えば、高校の「国語」からの文学の排除もそのひとつだろう。文学というのは基本的にまったくの「個人」のものである。そして、その完全に個人のものであるということは、裏返せば、作者が何を感じているかを無視して、自由に考えることが許されるということである。作者の思っていることとは無関係に、自分の考えを語ることができる。感想をいう、批判をすることができるというのが文学の特権である。ことばは「考える」ために必要なものであるけれど、そのことばによって何を、どう考えるかは誰からも規制されない。自分で「考える」。ことばをつかって考える。そうやってできあがったものが「文学」である。とうぜん、そこにはあらゆる「批判」が含まれる。
 自民党が進めようとしている「文学排除」は、ことばを「個人」が「個人の意思」でつかうことを拒絶することなのである。自民党が考えるように、ことばをつかって考えさせたい。ことばを自民党の意思通りに支配する。そのための「環境整備」のひとつが「文学」の廃止である。あるいは「論理国語」の創設である。「論理をいかに正確に読み取るか」とは、支配者が指示したことばをいかに忠実に、正確に理解し、行動するかということにつながる。学校のテストというのが「先生の求めている答え」を提出することで「いい成績」をおさめられるようになっている。自分で考えず先生の考えた通りに考え、それを答えにすると「いい成績」になる。「先生」ではなく「自民党(権力)」の求めている通りに理解し、実行する能力を育てることを「教育」と言っているにすぎない。
 「赤木ファイル」で問題になった森友学園について見てみればわかる。安倍の意図は、安倍が森友学園の土地取引にいっさい関与していないということを資料を通じて証明すること。その意図を正確に理解し、文言の削除、文書の廃棄を命じた佐川が優遇された。その操作に反対した職員は自殺に追い込まれた。「公益」「公の秩序」とは国民の税金を無駄遣いしない、私利私欲を肥やす権力者を許さないではなく、単に安倍の利益、安倍の支配体制を守るということである。そういう「権力に忠実な人間」を育てるための「環境整備」に努める、というのが改憲草案の狙いである。「努めなければなさらない」と、そういうことを国の「義務」にしている。
 私はたまたま「文学(ことば)」に関心があるから「文学」をテーマに私の考えを書いたが、音楽や美術、スポーツについても、きっと同じようなことが言えるはずである。「表現の不自由展」のような権力批判の視点を含んだものは「芸術ではない」という教育を進めれば、美術を通して現実を批判するという動きは消えてしまうだろう。折りッピック開催に反対するのは「反日」である(安倍)という教育が徹底すれば(なんといっても、学校では先生の求めている答えを書かないと、成績につながらない)、オリンピック反対という人間は「排除」されてしまうのである。
 「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできない」ということばは「美しい」。そして、こういう「美しいことば」には必ず「悪巧み」が隠されていると考えるべきである。憲法は何よりも、国民が、権力に対して「〇〇してはいけない」ということをつきつけるものである。「禁止事項」が憲法の本質である。
 その「禁止事項」に「国民の義務」として「教育」が含まれるのは、教育なしでは人間の、個人の未来が切り開けないからである。国の未来ではなく、あくまでも個人の未来なのだ。第22条で見てきたように、国民は外国に移住すること、国籍を離脱する自由を持っている。つまり、国民には「国の未来を切り開く」義務などないのだ。日本を見すてて、自分の可能性(未来)を切り開いていい、と憲法第22条は憲法26条に先立って言っている。憲法は先に書いてある条項の方が大切なのである。
 こういう読み方は、きっと「自民党の改憲草案の意図に反する」という形で排除されるだろう。異論を排除する、独裁を進めるというのが改憲草案の狙いであり、それを先取り実施するようにして現実の政策が進められている。
 繰り返し書いてしまうが、自民党の政策の多くは「改憲草案」の先取り実施である。憲法を改正しなくても独裁ができるように、着々と行動しているのが自民党なのである。

 


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自民党憲法改正草案再読(17)

2021-07-23 10:12:42 |  自民党改憲草案再読

 第25条は、「生存権」ということばで呼ばれることがある条項である。

(現行憲法)
第25条
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
(改正草案)
第25条(生存権等)
1 全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、国民生活のあらゆる側面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
第25条の2(環境保全の責務)
 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。
第25条の3(在外国民の保護)
 国は、国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない。
第25条の4(犯罪被害者等への配慮)
 国は、犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮しなければならない。

 現行憲法も改憲草案も「国民の権利」を書いた後に、国の「責務」について言及する。「公衆衛生」ということばが出てくるのは、「公衆衛生」が前項の「健康」と深く関与するからだろう。
 現行憲法が「すべての生活部面について」と書いている部分を、改憲草案は「国民生活のあらゆる側面において」と書き直している。なぜ「国民」ということばを挿入したのか、なぜ「部面」を「側面」と言いなおしたのか。たぶん「国民生活に限定した側面」という意図なのだろう。「国民生活」という限定外であると判断した場合は、国は努力しなくてもいいという余地を残していると思う。「すべて」の対極にあることばは「個」である。それをもとに、「すべての生活」ではなく「国民生活」というのは、きっと「個人の生活」ということになるだろう。そう思って読むと、次の新設条項の意図がわかる。繰り返しになるが、引用する。

(改正草案)
第25条の2(環境保全の責務)
 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。
 
 「国民と協力して」とは、「国民に協力させて」である。個人(一部の国民)の反対を許さない。一部の国民(個人)の権利を奪ってでも、多くの国民が良好な環境を享受することができるなら、その政策を遂行する、ということだろう。
 第24条が婚姻という個人の権利と自由の問題であるのに、それを「家」の問題にすりかえたように、「環境」という大きな問題で個人の権利を侵害することを許容する(要求する、押しつける)余地がある。国への禁止事項が見当たらないのが、憲法として不自然であり、不気味だ。
 「国民と協力して」というのは「協力」ということばが「美しい」(批判しにくい)だけに、とても危険なことばである。このことばはきっと「国民は協力しなければならない」という意味に解釈されるはずである。協力しない国民は「公益及び公の秩序に反する」と言われるだろう。俗に言う「反日」というレッテルが張られることになる。そういう危険を抱え込んでいることばである。

(改憲草案)
第25条の3(在外国民の保護)
 国は、国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない。

 もっともなことである。しかし、どうやって「保護」するのか、ここには明言されていない。拡大解釈ができる余地がある。たとえば救出のためにチャーター機を用意する、というのと、救出のために(あるいは保護するために)武力をつかって侵攻するというのでは、やることが違ってくる。ここにも国に対する禁止事項が書かれていない。

(改憲草案)
第25条の4(犯罪被害者等への配慮)
 国は、犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮しなければならない。

 とても大事なことだが、同時に「加害者及びその家族の人権」にも配慮しなければいけない。加害者の人権(権利)については、第31条以下に書いてあるが、その条項と比較すればわかるが、この新設条項にも国への「禁止事項」ではない。
 現行憲法は、まず国民の権利を明確にし、その権利保護のために国は「務めなければならない」と規定している。
 改憲草案は、そのスタイルを踏襲した上で国の責務を書いているように見えるが、保障される国民の権利が何かがよくわからない。つまり推測するしかない。たとえば、改憲草案第25条の2の場合なら、それに先立ち「国民が良好な環境を享受する権利を有する」という条項がないといけないはずである。第25条の1の2の「国民生活のあらゆる側面」のひとつが「環境権」であるというのかもしれないが、こういうあいまいな表現は、嘘っぽく私には感じられる。
 第25条4に戻って言えば、「犯罪被害者への配慮」が「加害者への配慮をやめる」ということになっては、条項新設の意味がない。人間は必ず更生する(更生し得る)という人間観とどう折り合いをつけるかが、とてもむずかしい。犯罪加害者を厳しく糾弾することで「被害者へ配慮する」ということになりかねない。
 憲法は何よりも国への「禁止事項」でなければならない。
 この問題は、こう考えてみればわかる。
 「犯罪被害者」で、いまいちばん注目を集めているのは「赤木ファイル」事件である。財務省の職員が文書の改竄を命じられ、それが引き金になり、苦悩の末に自殺した。自殺に追い込まれた。これは、私の目から見ればその職員は犯罪被害者である。そして、その職員には家族がいる。この被害者、遺族に対して、国はどんな「配慮」をしているか。
 どんな「加害」があったのか、それを防ごうとした人はいたのか、被害者を守ろうとした動きはあったのか。国は(菅は、安倍は、麻生は)口をつぐんでいる。情報公開を阻んでいる。そうすることで、新たな「加害」を働いている。しかし、そのことは問題にしない。
 「詩織さん事件」というものある。加害者は安倍の「お友だち」である。国は(安倍は)、犯罪被害者である詩織さんに配慮をしたか。何もしていない。「加害者」を守っているだけである。
 ここから見れば、改正草案第25条の4は、被害者が権力とは反対の側にある場合は、けっして実現されないと推測できる。
 自民党のやっていることは、自分にとって都合のいいことは改憲草案を先取り実施し、不都合なことは無視するという形をとっている。しかも、その無視するときに「美しいことば」を羅列している。「犯罪被害者等への配慮」と言われて、それに反対する人は誰もいない。だが、政権にとって不都合な被害者はいなかったことにする。こういうことができるは、条項に、国は「〇〇をしてはいけない」という「禁止」の文言がないからである。
 たとえば、「犯罪被害者から情報開示を求められたら、国はそれを拒止してはいけない」という条項があれば、赤木ファイル事件は、国の違憲行為に発展する。

 美しことば、見かけのいいことばにこそ、注意しないといけない。憲法は、国(権力)に対する「禁止事項」で成り立っているのだから、そのことばが「わかりにくい」とか、「自然な日本語ではない」としても何ら問題はない。国の「逃げ道」を封じるのが憲法なのだから、ふつうの日本語とは「文体」が違ってくるのは仕方のないことなのである。逆に言えば、ふつうの日本語(ふつうの感覚)に見えることばにこそ、「罠」が仕掛けられている、国民を縛る何かが隠れていると見るべきなのだ。
 「赤木ファイル」に戻って言えば、佐川はもっと出世できる人間だったのに、安倍を守って辞職した。「被害者」だ。佐川を守らなければ、さらに安倍が逮捕される、ということが起きる。安倍を「赤木ファイル」の被害者にするな。安倍を守るためなら、自殺した職員、遺族がどうなろうと関係ない、というのが今の政権の姿勢なのだ。国民を守るふりをして、権力と権力の「お友だち」を守ろうとしているにすぎないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

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自民党憲法改正草案再読(16)

2021-07-22 11:54:19 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(16)

 第24条は大きく改変される。

(現行憲法)
第24条
1 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
(改憲草案)
第24条(家族、婚姻等に関する基本原則)
1 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 現行憲法は、「婚姻」に関する規定である。「婚姻の自由」(婚姻の権利)について書いている。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とは、国が個人の婚姻の自由(権利)を侵してはならない、という意味である。「合意のみ」の「のみ」には、国の関与は排除する、国は権利を侵害してはならないという意味である。憲法は、あくまでも国(権力)を拘束するためのものである。
 改憲草案では、この「のみ」を削除した上で、さらに現行条項に先立つ条項を新設している。
 「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」と「家族」を「婚姻(個人の問題)」よりも先に書いている。「家族があって、個人がある」、つまり「家族優先」が改憲草案の理念である。第三章は国民の権利の条項(国が国民の権利を保障するための禁止事項の条項)であるはずなのに、ここでは国民の権利を明示されず、「家族」ということばが登場している。
 この「家族優先」の規定には、どこにも国(権力)に関する「禁止規定」が書かれていない。「家族」が大切だとして、その大切な家族に国(権力)は何をするのか。「家族は、互いに助け合わなければならない」と国の責任を放棄し、家族に「助け合い」を丸投げしている。国民の権利も、国の責務も書いていないこんな条項が憲法にあっていいはずがない。道徳の副読本ではないのだから。
 ここに改憲草案は「助け合い」ということばをつかっているが、私の感覚では、この「助け合い」が「公共の福祉」(みんなの助け合い)である。そして、「公共の福祉」であるかぎり、それを邪魔してはいけないが、邪魔をせず参加しないということは許されるはずである。しかし、改憲草案は、これを「互いに助け合わなければならない」と国民の義務にしている。
 現実問題とつきつめてみれば、これがいかに不自然であるかがわかる。世の中には「離婚」があたりまえのこととして存在している。離婚は、家族が「互いに助け合う」ということをやめてしまうことである。自分を助けるために、自分を「配偶者」から切り離し、自由になることである。「みんなの助け合い」に参加する必要はない。自分を自分で助けるためなら、配偶者とわかれてもいいというのが離婚の考え方であり、それはこの世の中では当然のこととして認められている。
 改憲草案は「互いに助け合わなければならない」と書いているが、これは私が「みんなの助け合い」と読んできた「公共の福祉」ではなく、「公益及び公の秩序」のことである。「公の秩序」とは、改憲草案では「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位」という定義にあらわれている。個人ではなく「家族」という集団。その中にある「秩序」。それを守らなければならない。「家族の秩序」を守ることが「家族の利益」である。「家族の利益」を守るために「家族の秩序」を守る必要がある。それを「家族は、互いに助け合わなければならない」と言い直し、ごまかしている。
 これは「離婚を認めない」ということにつながる。離婚すると、個人の経済的基盤は弱くなる。どうしても「公共の福祉(助け合い)」が必要になる。国は、経済的弱者を助けるために、所得の再配分(税金の活用)をしなくてはならない。その国の義務を放棄し、「家族」に責任を押しつけている。個人の困難を、家族の問題に押しつけ、個人の自由を奪おうとしている。個人の自由を拘束しようとしている。「家族は、互いに助け合わなければならない」は美しいことばだが、「美しいことば」のかげには、邪悪なごまかしがある。
 改憲草案に書かれている「家族」とは、「家族」というよりも「家制度」である。「家制度」であると考えると、ここにはつかわれていないが「公益及び公の秩序」こそが自民党改憲草案の狙いであることがよくわかる。「家の利益」「家制度という秩序」を守る。「家長制」の復活、父が全権を握り、他の家族を支配する。そうすることで成り立つ秩序と、そこから生まれてくる利益。これは「家督制」と言いなおせばもっとわかりやすくなる。財産問題(利益の問題)をからめると、「公益(家の利益)及び公(いえ)の秩序」がわかりやすくなる。
 改憲素案は「家族」をさらに「親族」へと広げていくのは、「家」には「財産」が関係してくるからである。だからこそ、「婚姻及び離婚」「相続」などに「親族」までが関与してくる(関与できる)ように憲法で言及するのである。「婚姻」とは簡単に言いなおすと「配偶者の選択」であり、あくまでも個人の問題だが、改憲草案はそこに「家族」「親族」を関与させている。「両性(ふたり)」の問題ではなく「両家」の問題にしようとしている。「両家」は「親類」になり、そこにまたあらたな「公益及び公の秩序」が生まれる。
 ところで、この条文では、ことばのつかい方が現行憲法と改憲草案では違うところがある。
 現行憲法では「離婚並びに婚姻及び家族」という言い方をしている。改憲草案では「婚姻及び離婚」、「相続並びに親族に関する云々」。「及び」と「並び」のつかい方が違う。「及び」はイコールである。現行憲法では、婚姻=家族。婚姻すれば家族が成立するからである。離婚でも家族が生まれるときもあるが、家族が生まれないときもある。「両性」がそれぞれの「個人」に戻るだけの場合がある。そういうことを想定して「離婚並びに婚姻及び家族」という表現をとっていると思う。「並びに」は並列、簡単なことばでいえば「と」、and になるだろう。
 改憲草案では「婚姻及び離婚」と書いている。「及び」は「及ぶ」という動詞と関係している。婚姻で生じた問題がやがて離婚に及ぶことがある。でも、「婚姻=離婚」というのは乱暴である。その乱暴をあえてここでおかしているのは、「婚姻」にしろ「離婚」にしろ、それが成立したとき、そこに「財産」が絡んできて、それは「両性」の問題ではなく「両家」の問題になるからだろう。だから「相続並びに親族」ということばがつかう。「婚姻→家族(両家の統合、統合される財産、あらたな秩序)→離婚→家族(両家の分断、新たな財産問題)」ということになるのか。
 「個人の尊厳」と改憲草案も、現行憲法と同じことばをつかっているが、改憲草案が「個人の尊厳」に配慮しているとは思えない。改憲草案は、あくまでも「家」のことを中心に考えている。「家」を支配する「家長」を中心に考えている。
 これは最近起きていることと結びつけると、「夫婦別姓問題」が思い浮かぶ。夫婦別姓のどこかいけないのか。「家長」があいまいになるからだろう。あるいは「家長」を重視していないという印象が生まれるからだろう。なんとしても「家長」が「家」を支配する。そういう「秩序」を維持したいということだろう。
 同性婚を認めないというのも同じだろう。いくつかの自治体で「パートナー制度」と呼ばれるものが誕生している。パートナーは、対等である。この「対等」という感覚が、たぶん自民党のいちばん嫌っている感覚なのだ。だれかが「長」になり、秩序をつくる。「秩序」とはピラミッド型の支配構造のことであり、それから逸脱するものは許さないというのが自民党の考え方である。
 国民を支配するための憲法をめざしていることが、ここからもわかる。「家族」ということばは美しい。「助け合う」ということばも美しい。しかし、夫婦が別姓だったら、家族がどうして「助け合う」ことにならないのか、夫婦が同姓だったらどうして「助け合う」ことにならないのか。その疑問から出発すれば、改憲草案のめざしているものが、「国民の権利」とは無関係なものであることがわかる。

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自民党憲法改正草案再読(15)

2021-07-21 11:17:30 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(15)

 第22条は、住居、移転、職業選択について書いている。

(現行憲法)
第22条
1 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
(改憲草案)
第22条(居住、移転及び職業選択等の自由等)
1 何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 全て国民は、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を有する。

 すでに書いたことだが、憲法の条文は大切なものを先に書き、それを後の条文で補足説明する。つまり補強する。
 「住居、移転、職業選択」は、第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と関係すると同時に、第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と結びつけて読み直す必要がある。
 どこに住むか(生まれ育った土地を離れて移転するか)、何を職業とするかが「自由」なのは、どこに住んでいるか、何を職業としているかによって「差別されない」ということである。どこに住んでいるか、どういう職業についているかによって「差別されない」ということが、「平等」ということであり、それを選ぶ「権利」を国民は持っている。
 「どこに住むか」は単に「国内」だけを意味しない。外国をも意味する。そして、そのときは「国籍」の問題が絡んでくるが、それを選択するのは国民であって、国ではない。現行憲法では、そのことが明確に「自由を侵されない」と書いているが、改正草案では国への「禁止事項」とは明言していない。「国民は(略)自由を有する」と書いてあるだけで、保障まではしていない。「侵されない」「侵してはならない」と「(権利を)有する」では「主語」が違う。
 改憲草案では「公共の福祉に反しない限り」を削除している。これまで読んできた条文では、改憲草案は現行憲法の「公共の福祉に反しない限り」を「公益及び公の秩序に反しない限り」という具合に言いなおしてきた。ここでは、それをしていない。なぜなんだろうか。なぜ「公益及び公の秩序に反しない限り」と言いなおさなかったのか。
 深読みすれば、「住居(移転を含む)」をいつでも制限する権利を、国は保留したいのではないのか。国民の、どこに住むかという権利(自由)を制限したいのではないか。もし、そこに「公益及び公の秩序に反しない限り」という文言があれば、制限するに際して、国には説明責任が伴う。ある人があるところに住んでいる。それが、なぜ「公益及び公の秩序」を維持することになるのか、あるいはに反するか。その説明は、むずかしい。特に、その人がその人だけではなく、先祖代々そこに住んでいたとするとき、そこから「立ち退かせる」ための説明はとてもむずかしくなる。いままで「公益及び公の秩序」に反するとは言えなかったのに、なぜ、突然そうなったのか。その説明をする「責任」を回避したい。その意図が隠されていると思う。説明が不十分なとき、国は、国民の「住居の自由」を侵したことになる。
 こんなことも考えてみなければならない。東京電力福島原発事故。被災者がどこに住むのか、かつて住んでいた街に帰るのか、別の場所に移転して暮らすのか。そのための環境整備はどうするのか。住む自由は、住まない自由(そこには住みたくない、と主張する自由)でもある。一人一人の「思想(考え方)」を尊重していくとき、いろいろな問題が出てくる。「公益及び公の秩序」という紋がんがあったとき、問題はさらに複雑になる。「公益」「公の秩序」とは何なのかが厳しく問われる。ある地区の住民をそろったまま帰還、あるいは移転させる方が「予算が少なくて住む」「コミュニティーが守られる」というような論理は、国、あるいは東電が出す金が少なくてすむという「利益」にすぎない。それが「公益」であるとは言えない。
 「職業の選択」も同じである。「職業選択の自由」には、ある職業を「選ばない自由」も含まれる。「国籍の選択」についても同じことが言える。国が押しつけてくる職業を選ばない。拒否する。日本という「国籍を選ばない自由」(離脱する自由)。「公益及び公の秩序に反しない限り」という文言があれば、国には、その説明責任が生じる。文言がなくても責任があると言えるかもしれないが、文言がなければ「文言がない」を根拠として説明責任を逃れることができる。
 「自由を侵されない」を「自由を有する」と書き換えたことと、この条項だけ「公益及び公の秩序に反しない限り」を用いなかったことについては、慎重に考えてみる必要があると思う。(ここから逆に、改憲草案が「公益及び公の秩序に反しない限り」を持ちだすとき、何をしたいか、国にどんな特権を与えたいのかを考えることもできると思う。)

(現行憲法)
第23条
 学問の自由は、これを保障する。
(改憲草案)
第23条(学問の自由)
 学問の自由は、保障する。

 何回か指摘してきた「これを」というテーマの提示が、ここでも削除されている。
 「学問」は宗教、表現、職業などの「基礎」である。それは実際に働いてみたりすると、学校で勉強してきたことが実際の労働にはあまり役立たないなあという思いで跳ね返ってくることがある。学問は職業(労働)の基礎なのに、こんなに役立たないのなら(勉強したことと関係がないのなら)、勉強なんかしなくてもいいのじゃないのかな、という想いにつながったりする。でも、それは「学問の自由」が大切であるということとは別問題である。
 学問とは、まず、「批判」である。「学校で勉強してきたことは、実社会ではあまり役立たない」というのも「批判」かもしれないが、それは「批判」というよりも「反省」に組み入れるべきことである。自分は、実社会での労働のことを気にかけずに勉強してきたなあ、という反省として、自分の内に抱え込んで、自分をどうするかの問題である。「学問」の「批判」とは、違うものである。
 ある論理(理論)がある。それが正しいかどうか、それを発展させるとどういうことが考えられるか。つまりある対象にに対する「思考」が「学問」であり、それは常に、前に確立された「学問」の「批判」から始まる。「天動説」への批判が「地動説」である。「ニュートン物理学」への批判のひとつがアインシュタインの「相対性原理」である。
 そういうむずかしいことだけではなく、たとえば、政府の政策のここがおかしい、という「批判」もやはり「学問」なのである。「批判」するとき、その批判を論理づける「根拠」が必要である。「根拠(基礎)」から始まって、すでにあるものを「批判」していくのは「学問」なのである。あらゆる「思想」のことば、「表現」のことばも、「学問」がなければ発展していかない。十分な基礎が必要である。
 「学問の自由」は「批判の自由」である、と読み替えるとき、菅の学術会議委員候補6人の任命拒否の意味がはっきりする。「学術会議」は「学者の団体」「学問をする人たちの団体」、言いなおせば「批判する人たちの団体」なのである。批判するのがあたりまえというか、批判しなければ成立しないのが「学問」なのに、菅は「批判を許さない」を前面に出して6人の任命を拒否した。「批判を許さない」と言っていない(前面に出していない)と菅は言うかもしれないが、それ以外に「学問(学者)」を拒否する理由はない。もし、「学問(学説)」が間違っているというのなら、それを「批判」の形で「学問」にしないといけない。菅は、そういうことをしていない。「学問」そのもの、つまり学問が批判であるということを拒否している。
 「学問」を批判できるのは「学問」だけである。そして、「学問」の分野は限りなく広い。どこからでも「批判」ができるのが「学問」である。

 

 


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自民党憲法改正草案再読(14)

2021-07-16 17:55:46 |  自民党改憲草案再読

 信教(宗教)の問題は、「こころ」の問題。信教(宗教)は、かならずしも人には語らない。語らなければある宗教を信じていないというわけではない。「無言」でできる思想、良心の活動。語る人もいるが「無言」という表現もある。
 一方、思想には「無言」とは相いれないものもある。ことばであらわし、肉体であらわす「思想/良心」もある。生きている限り、人は必ずと言っていいほど、語り、行動する。第21条は「無言」ではなく、「有言」の「自由」について規定したものだ。

(現行憲法)
第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(改正草案)
第21条(表現の自由)
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。

 改正草案は、ここでも「これを」を削除している。テーマが何であるかを意識させないようにしている。しっかり読んでください。テーマはこれです、というのが「これを」の重要な意味であり、つかい方なのだ。「保障する」は「侵してはならない」であることは何度も書いた通り。
 改正草案の問題点は「第二項」と「第21条の2」の新設である。

前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

 「前項の規定にかかわらず」は非常に乱暴な規定である。第20条の「この限りでない」どころの騒ぎではない。
 そして、ここに「公益及び公の秩序」ということばがつかわれていることに注意しないといけない。改正草案は「公共の福祉(みんなの助け合い)」ではない、あくまでも「公益及び公の秩序」という。そして、それを「害する」という行為を禁じることで維持しようとする。
 「公の秩序」というのは、非常にあいまいなことばだが、いちばん大きくとらえれば「憲法がつくりだす秩序」というものがある。それから憲法の下の法のつくりだす秩序というものがある。
 それを「害する」活動とはなんだろうか。「改憲」というのは「害する」活動ではないと言えるだろうか。たとえば、改憲草案をつくるというのは「憲法を害する活動」ではないのか。たぶん、自民党は、「害するではなく、時代に合わせて改良する活動」というだろう。一方、改憲に反対している人は、自民党の改憲草案は「憲法を害する活動」と定義するだろう。「改良する/害する」は、立場によって、違ってくる。
 これが大事。
 つまり、菅政権は許せない、あるいは東京オリンピック開催に反対と国民が叫んだとき、それは許せない、反対と叫んだ人にとっては「国を改善する活動」であるけれど、菅から見れば「国を害する活動」になる。これを考えると、「公益及び公の秩序」とは、政府が考えている「利益、秩序」、つまり「政府の利益、政府の考える秩序」にすぎない。
 言い換えると、現行憲法は、革命の自由を認めていると読むことができる(そのための結社や言論の自由を認めていると読むことができる)が、改正草案は、そう読むことはできない。
 革命というおおげさなことばではなく、たとえば投票によって政権を交代させるという活動をこれにあてはめると、どうなるか。「自民党が過半数割れをした選挙結果は、公の秩序を乱すから認められない」ということになる。それ以前に、自民党を批判する選挙活動は公の秩序を害するから禁止する、ということも起きるだろう。
 これは、おおげさな「予測」だろうか。かもしれない。しかし、次の「検閲は、これをしてはならない」と、現実に起きていることを組み合わせると、私にはおおげさな予測には思えない。
 菅は学術会議委員の任命に当たって、六人を拒否した。それまで学術会議から提出された候補者を全員任命するという形だったものを、名簿を事前に調べ(検閲し)、そこに菅の意思を反映させた。「検閲ではない」と、もちろん菅は言うだろう。しかし、その六人が菅政権にとっての「利益、秩序」に反すると事前に判断するというのは、私から言わせれば検閲である。六人が学術会議でなんらかの活動をして、それが「国益、国の秩序を害する」ということなら、まだ六人を排除する(任命したけれど、辞任させる)ということはありうるだろうが、学術会議で活動する前に、その活動を、別の情報をもとに封じるというのは検閲に等しい行為だろう。
 改正草案に第四項目は書かれていないが、きっと、存在する。それは

前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした文書や通信については、この限りではない。(検閲してもいい、通信の秘密を侵してもいい)。

 である。書いていないけれど、前条項を適用する、ということが行われるだろう。
 これと密接に関係するのが、次の新設条項。

第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。

 この唐突な感じはなぜだろう。もし国が、ある活動を「公益及び公の秩序を害する」と判断し、その活動に規制を加えた場合、国は国民に説明する責任がある。だが、第21条は「表現の自由」に関するする条項である。これは、言論を弾圧したとき、あるいは結社の自由な活動を侵害したとき、国はその責任を負う、という意味だろう。もし、他の「表現の自由」に関すること以外のことをいうのだったら、この条項がここにある必要はない。
 この条項をわざわざ「国が表現の自由を国が侵害したとき」ということばを省略してまで、ここに挿入したのはなぜなのか。きっと、「表現の自由」に対して「規制をかけることがある」ということを前提にしているのだ。そして、そういうことをした場合、説明責任を負う。
 現実では、どういことが考えられるか。
 名古屋での「表現の不自由店」が妨害され、中止に追い込まれるということが起きた。こういうとき、ほんとうは国に説明責任がある。国は、展覧会を聞かした人の「表現の自由」を守ることができなかった、保障できなかったからである。
 きっと、国は(当時は、安倍が首相だった)、「表現の不自由店」に関して中止させたのは国ではなく、名古屋市長だから、国は関係ないというかもしれない。しかし、国には「表現の自由を保障する」義務がある。また、、そのとき問題になった「表現のテーマ」は、慰安婦問題であり、天皇制である。それは「名古屋市政」の問題ではなく、国が向き合うべき問題、国として解決しなければならない問題である。あのとき、国は「知らん顔」をしたのである。展覧会を企画した人の「表現の自由」「思想の自由」を保障しなかったのである。しかも、何の説明もしなかったのである。説明か何かわからないものを、名古屋市長に丸投げして、知らん顔をしたのである。
 もう一つ別な問題にも結びつけて考えてみたい。最近の事件に「赤木ファイル」がある。「赤木ファイル」は安倍政権時代の森友学園の土地買収に関係する一連の文書である。それは、ある意味で、赤木さんの「思想(公務員としての価値観)」「言論、表現」をまとめたものだ。「内部告発」は「思想の自由」であるはずだ。その公開を遺族が求めている。これに対して、国は公開を拒み続けた。公開したものも、黒塗りが多くて公開とは言えない。赤木さんの「表現の自由(思想の自由)」を保障したとは言えない。黒塗りにすることで、自由を侵害した。このことに対して、改正草案を当てはめると「国は説明責任を負う」のだが、実際は、説明していない。
 これについても、

前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした文書については、この限りではない。

 と主張するだろう。「赤木ファイル」の公開(表現の自由、まとめたものを公開すること)は、「公益及び公の秩序」を害することになるから、公開しない。そもそも財務省内の文書は、赤木さんの「表現」ではない、と言うだろう。「公文書」である、と。だから、「情報公開」には応じない。
 これは、言い換えれば、公益及び公の秩序に合致する場合に限り、国民に説明するということだ。そして、公務員による「内部告発」は、これを禁じる、ということになる。
 改憲草案は「国政上の行為に関する説明の責務」と定義しているが、私には「情報公開に関する国の説明の責務」とも読める。というよりも、「情報公開」と、全体に関係すると思う。「国政上の行為」は範囲が広すぎるし、なによりも、「国政上の行為」あまりにも唐突で、なぜ「思想及び良心の自由」と関係するかわからない。
 「結社の自由」と結びつけると、この「情報公開」を念頭に置いた条項だということが少しはわかりやすくなるかもしれない。「情報公開」を求めるのは、たいていの場合は政府の行為に関する疑問を持ったひとである。情報公開請求は個人でもできるが、多くの場合同じ疑問を持った人があつまり(結社の前身、ということもできる)、請求の準備を進める。そういうことを「封じ込めたい」のだ。「表現の自由」には自分で表現する自由と同時に、表現されたもの(たとえば情報)を自由に閲覧させろというものもある。「表現の自由」は同時に「閲覧の自由」なのである。
 ここからもう一度「表現の不自由展」に戻ってみる。あのとき「侵害」されたのは、制作者の「表現の自由」だけではなく、鑑賞者の「鑑賞の自由」も侵害されたのだ。だれでも、自分の好きなものを見る権利がある。それを多くの人が剥奪された。「見る権利の剥奪」というのは、あまり問題にならないが、もっと問題にすべきことがらである。
 「表現の不自由展」の問題が起きたとき、「表現すること自体を禁じたものではない、どこでも芸術はできる」というような意見がネットに飛び交っていたが、「表現」は制作者がいれば成り立つというものではない。鑑賞者との共同作業の一面がある。「表現の自由」は「表現をする自由」と同時に「表現を見る自由」でもある。(これは、あとで出てくる「学問の自由」についてもいえる。)
 この条項は「森友学園事件」が発覚する前に書かれたものだけれど、私は、そんなことを考えた。「内部告発の禁止」(内部告発も、思想の自由、である)、「見る権利の要求を弾圧する」(情報公開の禁止)につながっていく問題が隠されていると思う。

 

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自民党憲法改正草案再読(13)

2021-07-15 11:29:30 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(13)

 憲法の条文は、常に前に書いた条文を説明する形で展開する。

第19条
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 この規定だけでは「思想及び良心の自由」というものが具体的に何を指すか(どういうものを「思想」「良心」と定義しているかわからない。わかるのは「侵してはならない」と国に禁止を命じているということだけである。
 だから、こう言いなおす。

(現行憲法)
第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(改正草案)
第20条(信教の自由)
1 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 私は信仰心がないし、死んだら何もないと思っているので、この条項をしっかり受け止めることができないのだが。
 しかし、多くの人は生死の問題を心の平安の問題ととらえているように思える。生きているときもそうだが、死んだらどうなるのか。生きているときは生きる努力をするが、死んだら「努力」できるのか。「努力」で死後の世界を平穏に暮らしていけるのか。そういう不安から「宗教」に頼る。生死にかかわるからこそ(あるいは死にかかわるからこそ)、「思想」のいちばんの問題として「信教」を取り上げているのだろう。何を信じるか、それは各人の自由である。「何人」を私は「個人(ひとり)」ではなく、「複数の人間」(だれであっても)と私は読んでいる。「何人」を私は「各人」と読んでいる。「各人」に、その「自由を保障する」。「保障する」は、「(国はこれを)侵してはならない」(第19条)ということである。
 そして、宗教というのは、たいていの場合、「個人」のものであるけれども、「個人」だけでは「宗教」にならない。たいてい、寺とか教会とか、いわゆる「組織/団体」といっしょに存在する。「組織/団体」というのは「個人」に比べて「力」を持っている。言いなおすと、「個人(ひとり)」は「組織/団体」に対して、その「権利を侵す」ということはしにくい。しかし、「組織/団体」は「個人(ひとり)」に対しては「権利を侵す」ということがあり得る。寺や教会が「あなたの考え方は私達の信仰とはあわない。だから、この寺、教会から追放する」ということが起き得る。それはもちろん「組織/団体」と「個人」の問題なのだが。
 ここで、現行憲法は釘を刺す。宗教団体と個人の力関係を配慮してのことだと思う。
 宗教団体は常に個人の上位に立つ。だからこそ「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。国から特権を受けて、信者に対して政治的に働きかけてはいけない。
 これは「主語」が「宗教団体」だが、憲法は「国の行動を拘束するもの」という立場から読み直すと、「国は、いかなる宗教団体にも特権を与えてはならないし、または宗教団体を通じて政治上の権力を行使してはならない」ということ。つまり、政治団体を政治のためにつかってはならない、宗教団体を通じて、国民に「信教」を強制してはならないということである。
 この条項から見ると、たとえば靖国神社で戦没者慰霊は、靖国神社を通じての「ひとつの宗教」の強制であるから、違憲である。靖国神社で慰霊されたくないという遺族の「信教の自由」を「侵している」からである。
 改正草案は
①「何人に対してもこれを」を削除している。したがって、改正草案が成立すれば、第二次大戦での戦没者は例外的に全員を靖国神社で慰霊する、ということが可能になる。「だれに対しても」ではないからだ。例外の余地を残すことになる。(これを、を削除しているのは、20条のテーマが「信教の自由」であることを、あいまいにしている。憲法を読む人に対して、これがテーマであるということを意識させないようにしている。)
②は「政治上の特権を行使してはならない」を削除している。つまり、国は「政治上の特権を、ある宗教団体を通じて行使できる」という可能性を残している。靖国神社を通じて「戦没者慰霊祭」を開催し、そこに遺族を集め、慰霊させるということができるのである。
 「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」は、現行憲法と改正草案に共通する(改正草案は、変更をくわえていない)が、意味合いが違う。
 現行憲法は、あくまで第一項で「国に対する禁止事項」を明記し、次に「国民」の「信教の自由」を言いなおしたのものである。国は宗教団体を通じて政治活動をしてはならないのだから、「何人(国民各人)」は、そういう催しに参加しなくていい(参加を強制されない)自由を持っている。
 改正草案は、こういう「国に対する禁止」→「各人の自由(の保障)」がはっきりとはつたわらない。
 第三項は、国の宗教活動禁止。現行憲法は「宗教教育その他いかなる宗教的活動」と書いているが、改正草案は「特定の宗教のための」を挿入し、「いかなる」を削除している。つまり「特定の宗教のため」でなければ「なんらかの」宗教活動ができるのである。
 私は「組織/団体」を「寺、教会」と書いてきた。簡単に言いなおせば「仏教、キリスト教」だが、実際の「信仰(宗教)」というのは「仏教/キリスト教」というあいまいなくくりではない。いつでも「門徒」のような問題といっしょに動いている。きわめて個別的なものである。同じようであっても、各人にいわせればまったく違うものであり得る。そういうことを改正草案は無視している。
 そして、「信教」を個別的ではない存在にしてしまったあとで、「なんらかの」宗教活動を、「社会的儀礼又は習俗的行為」と言いなおす。靖国神社での慰霊の奉納、慰霊行事は「宗教行事」ではなく、戦没者を追悼するという「社会的儀礼」であると定義することで「信教の自由」を「侵害した」ということにはならない、と定義しようとするのである。
 死者を悼まないというのは、一般的には批判を受ける行為であるけれど、死者を悼まないからといって「公共の福祉」に反するわけではない。追悼式の会場に侵入し、そこで祝い歌を歌えば、「みんなで悲しみを共有している(悲しみを共有することで、生きる力を支えあっている)」ことを妨害する(公共の福祉)に反するだろうけれど、その会場に行かない、家で一人で個人を思っているということは「公共の福祉」に反しない。だから、個人の自由である。しかし、改正草案の「理念」から言えば、「みんなが参加する」という「公の秩序」に反するという理由で、一人で家で個人を忍んでいる、という行為は許されないことになるだろう。つまり、追悼行事への参加を強制されることも起き得るだろう。
 改正草案は、国への「禁止」が、あいまいであり、緩やかである。「この限りではない」という「例外」があることを、わざわざ憲法に書き込むのは「例外」を実行するということである。

 

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自民党憲法改正草案再読(12)

2021-07-13 17:15:06 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(12)

 第19条に触れる前に、少し復習。
 第10条は、国民の定義。
 第11条は、国民は基本的人権を持っている。それを国は侵すことができない。
 第12条は、国民は基本的人権を濫用できない。公共の福祉のために利用しなければならない。
 第13条は、しかし、「公共」(みんな)よりも「個人」が大事。「公共の福祉(みんなの助け合い)」の妨げにならないなら、何をするかは「個人の自由」。つまり「公共の福祉(みんなの助け合い)」に参加しなければならないというわけではない。
 第14条は、国民(個人)はみんな平等。差別されない。これは、ここには書いていないが「公共の福祉(みんなの助け合い)」に参加しなくても差別されない、ということ。「信条」によって差別されないとは、そういうことを指すと思う。
 そのあと、公務員、犯罪者のことが書かれ、第19条に移る。ここで、もう一度ふつうの、つまり公務員でもなく、犯罪者でもない「国民(個人)」のことが書かれる。「自由」が定義される。私は、国民(個人)は、「公共の福祉(みいんなの助け合い)」を妨害するのでなければ、何をしても個人の自由と、憲法のこれまでの条文から理解しているが、ここからはその「自由」について定義していると読む。

(現行憲法)
第19条
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改正草案)
第19条(思想及び良心の自由)
 思想及び良心の自由は、保障する。
第19条の2(個人情報の不当取得の禁止等)
 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。
 同じことを書いているように見えるが、私は違うと思う。

 現行憲法は「侵してはならない」と「禁止」を明確に書いている。「侵す」の「主語」は国民ではなく政府(国)である。国家権力は、国民(個人)の「思想及び良心の自由」を侵してはならない。まず、テーマが「(個人の)思想及び良心の自由」であり、国家権力は「これを侵してはならない」と「禁止」であることを明確にしている。
 「侵してはならない」と「保障する」は似ていて違う。「保障する」では「禁止事項」がわからない。その条項によって、だれの暴走を拘束しようとしているのかわからない。
 憲法は、国に対して「〇〇をしてはいけない」という「禁止条項」をまとめたものである。
 第9条では、国民を主語にして、「国権の発動たる戦争(国が指揮して行う戦争)」は、「これを放棄する」と書いているが、これは、国民は「国権の発動たる戦争」を国に対して「禁止する(認めない)」といっている。まず、国への「禁止事項」から語り始める。
 それは国民の基本的人権も同じ。

(現行憲法)
第11条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 まず「妨げられない」(妨げてはいけない)と書いた上で、こういうことを「保障する」と言いなおしている。「〇〇を守る」では「〇〇を侵してはならない(禁止)」が憲法で言う「保障する」なのである。
 改憲草案は、この「〇〇を侵してはならない」という「禁止」をあいまいにしたまま、「守る」(保障する)とすりかえている。「守る」ために何をするか。それは憲法の場合、国は国民(個人)の権利を侵さない(侵してはならない)、なのだが、それがあいまいにされている。
 「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と「思想及び良心の自由は、保障する」という文章を、文章的観点からだけでみると、改憲草案の方が自然な日本語に感じられる。現行憲法は「翻訳調」であり、なんとなくぎくしゃくしている。不自然な感じがする。しかし、これはテーマを明確にし、次に国に対してはこういうことを禁止すると明言するために、そうなっているのである。「ぎくしゃく」していると感じるならば、それは憲法が国に対する禁止事項を国民がつきつけているという「基本」を忘れているからだ。国には、絶対にこういうことをさせない(たとえば戦争をさせない)と要求するときは、その要求がより明確になるよう「文体」を整える必要がある。こういう「文体」を嫌うのは、自民党が「国民から〇〇してはいけないと言われるなんて、真っ平御免」と考えているからである。国民(個人)の視点ではなく、「独裁者」の視点からことばを考えているからである。
 このあと、憲法は「思想及び良心の自由」では抽象的すぎるので、「思想(=良心)」とは、具体的には何を指すかについて書いていくのだが、その個別の「思想自由」について触れる前に、改憲草案は、条項を追加している。重複するが、もう一度引用する。

(改憲草案)
第19条の2(個人情報の不当取得の禁止等)
 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。

 「個人情報」を「不当に取得する」「保有する」「利用する」を「禁止」するのは当然だが、「だれが」それをしてはいけないのか。
 改憲草案の「主語」は「何人」である。「何人」は「国民」と同じようにつかわれているが、「何人」は「個人(ひとり)」というよりも「複数(だれであっても)」を指しているように私には思える。一人のこと(個人のこと)を問題にするのではなく、複数の人間をテーマにするとき「何人」とつかいわけているようだ。(きちんと分析したわけではないのだが。)
 この条項がいちばん問題なのは、憲法が「国の禁止行為」を定義しているはずなのに、ここでは「何人(国民)」に対して「してはならない」と「禁止」していることである。これでは、国民は他人の個人情報を取得する、保有する、利用することはできないが、国はしてもいい(国に対する許可)のように読めてしまう。
 実際、いま「デジタル庁」の創設をはじめ、マイナンバーカードの所持強要なども、国が(自民党が)国民の個人情報を取得、保持、利用するためのものだろう。個人情報(なんと、小学校のときの成績さえマイナンバーカードに記録させるという案があった)を「管理/監視」し、国民を支配しようとしている。
 その一方、国民が政府に対して「情報の開示」を求めると、「個人情報があるから開示できない」と言っている。
 このことからも、改憲草案の「新設条項(第19条の2)」は、国が「個人情報」に限らず、あらゆる情報を一元管理、支配するための条項だといえるだろう。
 すでに何度か書いてきたが、自民党の政策は「改憲草案(2012年)」を「先取り実施」する形で展開されている。思いつきでやっているのではなく、「改憲草案」を踏まえてやっている。
 憲法改正ができなくても、憲法を改正したのと同じことができるように政策を展開している。

 

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自民党憲法改正草案再読(11)

2021-07-11 09:55:56 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(11)

(現行憲法)
第16条
 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
(改正草案)
第16条(請願をする権利)
1 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願をする権利を有する。
2 請願をした者は、そのためにいかなる差別待遇も受けない。

 現行憲法は、一項目でおさめている。改憲草案は二項目に分けている。第18条でも同じスタイルをとっている。この「改正」の意図は何なのか。
 「請願」は別なことばで言えば「苦情/注文」だろう。「これでは困る。こうしてほしい」。「困る」という訴えが先にある。訴えられれば、どうしたって「反応」がある。反応は大きく分けて「受け入れる」「拒絶する」。そして、その「拒絶」にはときどき差別待遇が含まれる。それは、いわば「ひとつづき」のものである。そういう意識が現行憲法にあるのだろう。苦情、注文をつけられたからといって、苦情、注文をつけたひとを差別待遇してはいけない。
 改憲草案は、これをふたつにわけている。国民は請願する(苦情/注文を言う)権利を持っている。そして、補足として、請願者に対して差別待遇をしてはいけない、と苦情を受け付けた側に注意している。「請願をした者は」と「主語」が「請願者」になっているけれど、行為としては「請願を受けたもの」が主語だろう。差別待遇をしてはいけない。能動があって、はじめて受動が成り立つ。
 実質的な「主語」を切り離して、二項目にしている。
 これは第9条でも見られたことだが、かなり注意をしないといけない。何か問題があったとき、「第一項目」は適用するが、「第二項目」は適用しない、というときの「根拠」(よりどころ)にされてしまう危険性がある。
 この項目の分離は、たとえば「第7条解散」のように、実際に行われている。ひとつのことがらが何項目かにわけて規定されてるときは、それが「悪用」される危険性が高い。たぶん、悪用するために分離しているのだろう。
 この「差別待遇」では、菅のもとで、こういうことがあったはずだ。「ふるさと納税」という制度がある。その制度(特に返礼品)には問題がある、と官僚が菅に進言した。これは「請願」ではないが、「請願/注文/苦情」にいくらか似ている。そのとき菅はどうしたか。その官僚を異動(左遷)させた。これは「差別待遇」である。
 官僚とふつうの国民を同一視することはできないが、官僚に対しておこなわれたことは国民に対してもおこなわれるだろう。国民を直接異動(左遷)させるわけにはいかないから、別な「差別待遇」がとられることになるだろう。
 現実に起きていることと関係づけながら、私は、そんなことを思うのである。

(現行憲法)
第17条
 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
(改憲草案)
第17条(国等に対する賠償請求権)
 何人も、公務員の不法行為により損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は地方自治体その他の公共団体に、その賠償を求めることができる。

 改変点は二点。
①「公務員に不法行為により、損害を受けたとき」と「公務員の不法行為により損害を受けたとき」の違いは「読点」の有無。改正草案では「読点」がない。これはあまりにも微妙な改変である。なぜ、読点を削除したのか。
 たぶん改正草案は、公務員の不法行為により「直接」損害を受けたとき、に限定しているのだと思う。たとえば静岡県の盛り土の土石流。盛り土(土砂投棄?)処理を許可したの公務員がいる。そのとき何らかの規制ミス、管理ミスをしている。しかし実際に土砂を投棄をしたのは業者であり、施工ミスであるという場合。改正草案では公務員には(つまり、国には)賠償責任がない、ということになるのではないか。そういう結論を出したいがために「直接」ということばはつかってはいないが(つかうと目立ってしまうからね)、読点を削除することで「含み」を持たせたのではないか。
 疑り深いから、私は、そう考える。
②「国又は公共団体」に「地方自治体」と「その他の」が追加されて「国又は地方自治体その他の公共団体」になっている。これは、どういうことか。地方自治体の公務員の不法行為については、国は責任をとらない、ということにしたいのではないのか。「国家賠償」ではなく「地方賠償(?)」という形にしたい。「その他の」が追加されたのも、なるべく国ではなく他の「団体」に賠償責任を押しつけようとする意図があるように思える。国家公務員でない限り、国は賠償責任を持たないということにしたいのではないか。

(現行憲法)
第18条
 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
(改正草案)
第18条(身体の拘束及び苦役からの自由)
1 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
 この条項でも、条項の分割がおこなわれている。「奴隷的拘束」が「社会的又は経済的関係において身体を拘束」と言いなおされ、「その意に反すると否とにかかわらず」が追加されている。「奴隷的拘束」ということばが避けられているのは苛酷な印象を隠すためだろうか。しかし「奴隷」が「社会的又は経済的関係において身体を拘束」と言いなおされるとき、抜け落ちるものがある。「精神的拘束」が欠落する。「精神的」というのは「その意」の「意」のことだろう。「その精神に反すると否とにかかわらず」というとき「精神」とどうあつかわれているのだろうか。よくわからない。
 現実には、パワーハラスメント、モラルハラスメントが問題になっている。「身体的拘束」ではなく「ことば」による「精神的拘束」。これも一種の「奴隷状態」と言えるが、改正草案では、それは「身体的拘束」ではないから許される、ということになるのか。
 「ことば(精神)」による支配は、「空気を読む」という支配、「忖度を強要する」という支配につながりかねない。それは「身体的拘束」のようにはっきりとは目に見えないから、逆におそろしい問題を含んでいると思う。
 改憲草案は「犯罪者」を別項にし、強調することで、「奴隷的拘束」の「言い直し」から目をそらさせようとしているのかもしれない。

 

 

 

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自民党憲法改正草案再読(10)

2021-07-09 09:11:29 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(10)

(現行憲法)
第15条
1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
(改正草案)
第15条(公務員の選定及び罷免に関する権利等)
1 公務員を選定し、及び罷免することは、主権の存する国民の権利である。
2 全て公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選定を選挙により行う場合は、日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による。
4 選挙における投票の秘密は、侵されない。選挙人は、その選択に関し、公的にも私的にも責任を問われない。

 第15条は、国民と公務員との関係を定義している。公務員は国民に代わって「実務」を代行する。国民に共通する「実務」にたずさわる人間だろう。
 現行憲法が、公務員を選定し、及びこれを罷免することは、「国民固有の権利」であると定義しているのに対し、改憲草案は「国民固有の権利」を「主権の存する国民の権利」と変更している。「固有」を削除している。
 なぜなのだろう。
 これだけではわからない。
 「国民の権利」を定義した後、現行憲法も改正草案も、「公務員」を定義している。「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」。ここでいう「一部」とはなにか。思い出したいのは、憲法が「国民→国会(立法)→内閣(行政)」という順序であるということだ。国民よりも「国会(議員)」は数が少なく、「国民の一部」である。「内閣の構成員」はさらに数が少なく「国民、国会議員の一部」である。そう考えるならば、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」は「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、行政機関や国会議員への奉仕者ではない」ということになる。「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とは、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、内閣の権利ではない。内閣は自分のかってで公務員を選定し、これを罷免してはいけない」ということである。
 しかし、実際はどうか。
 安倍は森友学園事件では、財務省の職員に文書を改竄させている。安倍に奉仕させようとした。改竄を苦にして自殺した職員までいる。菅は学術会議の委員6人を排除した。(学術会議委員は、厳密には「公務員」とは言えるかどうか、私は判断しないが。)そこには「公務員」を「内閣」に奉仕させようとする「意図」が働いている。菅は政府方針に従わないものは異動させる(左遷する)と明言している。公務員を菅への奉仕者にしようとしている。菅に奉仕しない公務員を排除しようとしている。この菅に反対するものを排除するという方針は、国民すべてに向けられることになるだろう。その最初の「排除」は学術会議委員6人の任命拒否という形で実行された。学術会議委員が公務員であろうがなかろうが、排除された。それは、そういうことが国民全員に対して行われることの「前兆」なのである。実際、この学術会議6委員任命拒否問題では、そのことを問うたNHKの穴ウンサーが左遷(異動)させられるということが起きている。公務員だけではなく、国民全員が影響を受ける。そういうことが実際に起きている。
 「国民固有の権利」「一部の奉仕者ではない」は、政府の権利ではない、政府(行政の権力者)への奉仕者ではない、という意味であることを認識しておきたい。公務員が「行政への奉仕者」ではないからこそ、国民には選挙が保障されなければならない。
 現行憲法の「保障する」は「政府は、国民の選挙する権利を侵害してはいけない」という意味である。これを「普通選挙の方法による」と書き直すのはなぜなのか。「選挙」をすれば「選挙する権利」は保障されるのか。そうとは言えない。選挙にはいろいろなことが起こりうる。投票先を「権力者」に指定され、実際に指定通りに投票したかどうかが監視されるということがある。そして、その指示に従わなかったら、不利益を被るということが起きうる。だからこそ、選挙について、現行憲法は「投票の秘密は、これを侵してはならない」という。これは「投票の秘密」(テーマ)についていえば、「政府(権力者)は、侵してはならない」という政府(権力者)への「禁止行為」を定めているのである。
 憲法がこれを「保障する」は、常に「(権力者は)それを侵してはならない」という意味である。「保障する=侵してはならない」である。「保障する」と「侵してはならない」はいつでも交換可能な「文体」である。
 改正草案は「侵してはならない」という政府(権力者)への禁止条項を、行為の主語(政府)を省略して「侵されない」と書いている。動詞の形を「侵してはならない」から「侵されない」とすることで、行為の主語を隠す「文体」に変更している。この「主語隠し文体」へ変更については何度か書いたが、これはすべて「禁止を命じられている存在」(行為の主語)を隠すためのものである。「権力者は〇〇をしてはいけない」という禁止を隠すための文体である。
 憲法は政府(権力者)の行為を拘束するためのもの(ある行為をしてはいけないという禁止条項を書いたもの)であることを、改憲草案は隠し続けるのである。それはつまり、政府(権力者)には「禁止事項」がないということを意味する。もし禁止事項があるとすれば、それは国民がしてはいけないことを定めていると言いなおそうとしている。憲法を権力を拘束するためのよりどころではなく、国民を拘束するための手段にしようとしている。
 「公務員の選挙については」を「公務員の選定を選挙により行う場合は」と書いているのは、「緊急事態条項」と関連するからだろう。「緊急事態条項」では、緊急事態時には選挙が行われない場合があることを定めている。国民固有の権利である「選挙権(被選挙権)」を剥奪する場合があると書いている。その条項と整合性を持たせるために「選挙により行う場合は」と書いている。
 これは逆に見れば、もし改正草案の第15条が認められれば、「緊急事態条項」が認められなくても選挙の制限が可能であるという道を開くことになる。「第7条」を「国会の解散権は首相にある」と解釈するくらいだから、改正草案の第15条を「選挙をしなくてもいい」と解釈するくらいは、簡単にやってのけるだろう。
 「緊急事態条項」に目を奪われて、それ以外の「細部の変更」を見落としてはならない。「緊急事態条項」がなくても、それがあるのと同じことができるようにしようとしているのが改憲草案なのだ。


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