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宗派

2008年09月06日 | Weblog
今日は死んだおじいちゃんの3回忌だった。

お墓のある浄土真宗のお寺でいつも通りの法要を済ませた。
ここのお寺の檀家だからいつもここでやっている。

うちは親戚が少ないので、お堂の椅子も空席状態だ。
いつも通りのお経、いつも通りのお焼香などを済ませている時に思った。

そもそも宗教の宗派などあまり関係がないのではないか?と。

たまたまその家系に生まれてきて、先祖代々が○○宗だったからそのまま
それを引き継いでいる形を取っているだけで、その宗派の内容、仏典までを
掘り下げてはいないと思うのだ。

ちなみに浄土真宗の3本柱は、
「他力本願」
「悪人正機」
「往生浄土」
ということが、お堂のホワイトボードに書いてあった。

最後にいつもお坊さんが説法をしてくれるのだが、常々言っているのが、
「他力本願」だ。
そもそもこの意味は、別に他人の力を借りて生きていきましょうということでは
ない。

まぁ、宗教に興味のない人にとって、そんなことはどうでもいいことなのだ。

では、宗教に興味を持って、自分なりの思想なり、哲学が先祖からの宗派と
一致しない場合はどうなるのか?

この場合はもはや改宗しかない。

その昔、僕のライブに来てくれていた人がいて、その彼はキリスト教徒になった
ことを聞いたことがあった。
だから親と一緒のお墓には入ることはないという。
ミドルネームもあると言っていた。

僕も彼の通う教会が主催する文化祭のようなものがあって、それに行ったことが
ある。彼は僕を誘いたいようだった。
学園祭のような感じだったが、そんな長居しないですぐに帰ったと思う。
そもそも僕がキリスト教徒になるわけがないのだ。

僕は何故か宗教を呼ぶ。
ありとあらゆる勧誘を受けてきた。
果ては、あのオウム真理教からも誘いを受けたことがある。
けれども、その都度その都度断ってきた。

自分教(ここでは“shobun教”とかつて書いたことがあった)を暗中模索しながら
探していたからかも知れない。
それと僕を信者にさせるだけの説得力も無かった。

家族で何度か京都を観光したり、死んだおじいちゃんは写経をしたり、自分の袈裟
を持ってお経を唱えたりしていたので、身近に仏教があった。
そういうところから、仏教というものに興味を持ち、本を読んだりしていろいろと雑学
としての知識が知らず知らずのうちに入っていったのは事実である。

比叡山(天台宗)に行ったり、高野山(真言宗)に行ったりするとその魅力に触れる
ことが出来る。
それはそれは神秘的なことで歴史の重さも感じることが出来るのだ。

僕のおじいちゃんは浄土真宗ということは書いた。
その浄土真宗だって、そもそもは比叡山の天台宗からの流れになるのだ。
仏教の総本山に行くとそういう歴史が分かる。

だから僕自身は、天台宗だろうが真言宗だろうが浄土宗だろうが日蓮宗だろうが、
臨済宗だろうが曹洞宗だろうが、まぁ、挙げればキリが無いのだけれども、仏教
をミックスさせて、更に自分自身の想いみたいなものを取り混ぜて“shobun教”で
いいと思っているのだ。

たまたま僕は仏教に興味があったからこんなことを思ったけれど、それでも別に先祖
からの宗派を変えるつもりはない。
浄土真宗は仏壇に安置する位牌を作らないらしいのだが、僕はおじいちゃんのを作っ
た。別にとらわれる必要は無いと思ったからだ。

別に仏教が合わないなら、イスラム教でもいいし、ヒンズー教でも構わない。
自分とマッチするものを選べばいいだけの話である。
ライブに来てくれてた彼がキリスト教を選んだように。
まったく興味がなければそもそも関係の無い話で、無神論者でいいと思う。

今日、南無阿弥陀仏を聞きながらふと思っただけの話だ。