ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸時代の旅

2017-07-16 19:33:47 | 日記
 最近では海外旅行へ行く人も増えて、ゴールデンウイークや夏休みなどに空港の混み合う様子が報道されますけれど、私の親世代の新婚旅行といえば伊勢・志摩、熱海。戦争もありましたから、新婚旅行へ行ければ良い方でしたね。私世代から徐々に海外が増えていきましたけれど、まだまだ不便なことは多くありました。今は世界中の都市と名のつくところであれば、交通機関や宿泊施設が充実していて快適な旅を楽しめます。いい時代になりました。

 さて古代の旅(貴族編庶民編)にも書きましたけれど、昔は庶民が物見遊山で旅をすることはありませんでした。江戸時代になっても、芭蕉が旅した初期の頃は命懸けの旅だったんです(行く春や…)。街道が整備され、宿場が発達(宿場の発達)した18世紀になって、ようやく庶民の旅が始まります。

 由井   吉原(隷書東海道)

 江戸近郊では富士山、大山、江ノ島が多く、特に「庚申(かのえさる)の年」には女人禁制の富士山に女性が登ることも許されたので、登山口から頂上まで人の列が絶えなかったといいます。当時は新宿大城門(だいしょうもん)を出発して八王子→高尾山→大月→富士街道→吉田というルートで富士山の裏側に出ます。山中の「石室(いしむろ)」という山小屋で一泊し、山頂へ向かい、着いたらすぐに下山。今度は須走口(すばしりぐち)に出て足柄峠→伊勢原→藤沢→品川と東海道周りで帰るのが一般的でした。全行程約八日間の旅だったんですね。その間歩き詰めですから、現代人には少しきついかもしれません。それでも江戸っ子にとって富士山は一生に一度は行くべきところだったのですけれど、その大変さから「富士山に一度も行かぬ馬鹿。二度行く馬鹿」などといわれました。

 さて何といっても旅ブームに火をつけたのは、ご存じ歌川広重の『東海道五十三次』と十辺舎一九(じっぺんしゃいっく)の戯作『東海道中膝栗毛』です。お役人だった広重は幕府が朝廷に馬を献上する「八朔御馬献上」の行列に参加し、京へ上りました。その時スケッチした街道絵を翌年保永堂から出版したのが『東海道五十三次』だといわれています。リアリティがあり、ガイドブックの役割も果たしましたので、これによって東海道を行き来する庶民の旅もふえました。

 鳴海(隷書東海道) 大磯(隷書東海道)

 中でも大ブームになったのがお伊勢参りです。すごいと思うのは、一文もかけずに誰でもお伊勢参りができたこと。無銭旅行ですね。橋の下や寺社の縁の下で寝るためのゴザ、飲み水を汲んだりお金や食べ物をいただくための柄杓(ひしゃく)さえ持っていればいいのです。ゴザを筒状に丸めて背負い、その先に柄杓を差していれば「一文無しのお伊勢参り」であることがわかりますから、沿道の人たちや旅をする人たちが助けてくれました。

 もっとすごいのは犬もお伊勢参りをしたことです。犬の首に賽銭を結びつけて送り出してやると、お伊勢参りの人たちが面倒をみてくれるんですね。ちゃんと伊勢まで辿り着き、大抵は賽銭を何倍にもして帰ってきたといいます。勿論ちゃんとした旅籠に泊まり、二ヶ月くらいかけて物見遊山の旅を楽しむ人たちもいましたが、犬でもお伊勢参りができたという、「江戸の人情」が恋しい今日この頃です。

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