ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

首里城の思い出

2019-11-10 19:19:56 | 日記

 15年ほど前に沖縄へ行ったことがあります。その時首里城へも立ち寄ったので、あの朱色を基調とした建造物は今でもはっきり覚えています。今回、正殿等概ね焼失してしまったことは本当に残念でなりません。一日も早く復興されることを願うばかりです。

 首里城は沖縄戦で焼失し、1992年に復元されたといいますから、私たちが行った頃はまだ12年しか経っていませんでした。朱の色も鮮やかだった筈です。正殿までの道のりとして、まずは第一の正門である歓会門(かんかいもん)を抜け、次に瑞泉門(ずいせんもん)、漏刻門(ろうこくもん)、そして広福門(こうふくもん)へ出ます。今は券売所となっていますが、昔はこの門の東側は士族の財産争いを調停する大与座があり、西側は社寺を管理する寺社座があったそうです。ここを抜けると奉神門(ほうしんもん)はすぐ目の前。この門の前だったか、琉球舞踊が行われていましたね。奉神門には3つの出入り口があり、中央の出入り口は国王や冊封使(さっぽうし)、両側は家臣や役人が出入りしたそうです。この門を抜けると、いよいよ首里城正殿が見えてきます。

    首里城正殿

 唐破風(からはふ)の妻壁の両脇に金龍と瑞雲の彫刻が施されている正殿の前には、御庭(うなー)と呼ばれる広場があります。磚(せん)というタイル状のものを敷き詰めた縞模様の敷石は、儀式の際に諸官が立ち並ぶ目印のためのものとか。正殿の前には二本の大龍柱があり、正殿中央の柱にも龍が描かれています。龍は国王の象徴で、この木像建築物には33体の龍が棲んでいるそうです。

 順路としては南殿から入り、正殿、北殿へと抜けます。南殿は日本式の儀式が行われたところで、薩摩藩の役人の接待が行われました。反対に北殿では中国からの冊封使(さっぽうし)を歓待しました。冊封使とは、琉球で新国王が誕生した時、その就任を認めるために中国皇帝が遣わした使節のことです。中国と日本(薩摩藩)の狭間にあって、苦慮した沖縄(琉球)の歴史を垣間見たような気がしました。

正殿二階の御差床

 正殿は2層3階建てになっており、一階を下庫理(しちゃぐい)、二階を大庫理(うふぐい)といいます。いずれも御差床(うさすか)と呼ばれる玉座があり、大庫理の御差床には「中山世土(ちゅうざんせいど)」の扁額(へんがく)が掛けられていました。これは清朝の康熙帝(こうきてい)から尚貞王(しょうていおう)に贈られた書を書き写して扁額にしたもので、「中山は代々、琉球国王の国である」という意味だそうです。これもみんな焼けてしまったんですね。

守礼門

 当時北殿には展示コーナーや売店があってお土産も買えました。帰りは御内原(おうちばら)への通用門として使われていた右掖門(うえきもん)から出ます。そして歓会門の手前の久慶門(きゅうけいもん)から外へ出、帰途につくのですが、守礼門(しゅれいもん)を見ていなかったのでそちらへ寄りました。この門は首里城の坊門(飾りの門)のひとつで、「守禮之邦」と掲げられた扁額の意味は「琉球は礼節を重んずる国である」だそうです。このあたりで民族衣装を着て写真を撮っている人たちがいましたが、復興なって再び訪れることがあれば、私も是非着てみたいと思っています。

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