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星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

♪美しき五月のパリ

2007-05-08 | 私の星々
ゴールデンウィークが終わった頃、いつも思い出す歌がある。
加藤登紀子さんが訳して歌った

「♪美しき五月のパリ

 1 赤い血を流し 泥にまみれながら
   この五月のパリに 人は生きてゆく
    オ ル ジュリ モァ ドゥ メ ア パリ(繰り返し)

2 風よ吹いておくれ もっと激しく吹け
  青空の彼方へ 我等を連れゆけ
    オ ル ジュリ モァ ドゥ メ ア パリ(繰り返し)
 
3 年老いた過去は いま醜くおびえ
  自由の叫びの中で 何かが始まる
    オ ル ジュリ モァ ドゥ メ ア パリ(繰り返し)

4 ほこりをかぶった 古い銃を取り
 パリの街は今 再び生まれる
   オ ル ジュリ モァ ドゥ メ ア パリ(繰り返し)

5 歌え自由の歌を 届け空の彼方へ
  この五月のパリに 人は生きてゆく
    オ ル ジュリ モァ ドゥ メ ア パリ(繰り返し)

1968年、ド・ゴール政権下進む大学改革に反対したパリの学生達が、カルチェラタンにバリケードを築いて、権力と戦った際に生まれた歌である。
この五月革命でド・ゴールは退陣した。
当時、アメリカでは反戦運動が、日本では学生運動が、というように、世界中の若者が、既成の権力に力で対抗しようとした。
学生達の犠牲は大きかったが、それを経過して今の世界がある。
少なくても、歌は残った。
歌が残るということは、思想が残るということ、
戦った彼らの記憶が薄れても、同じ歌を歌い聴くとき、
その時彼らの心に吹いた風が私の心の中に吹いてくる。

私は、勤めていた頃、遅くなって夜道を自転車で帰る時、この歌をよく歌った。2番が特に好き。
フランスでは、初めての女性大統領の可能性のあった選挙が終わった。
パリの若者は、この歌を歌ったのだろうか?
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万華鏡で世界を見る

2007-03-14 | 私の星々
これは何でしょう?



             正解は、我が家のベランダに干した洗濯物でーす。
             
今回の山代温泉のお土産は、九谷美陶園で出会った万華鏡。
万華鏡作家の寺前みつ子さんが作った九谷焼工芸品で、
水晶みたいなガラス玉に映るものが、万華となる。
そう、これを通してみると、どんなものでも、美しい花と化す。



万華鏡は、スコットランドの物理学者デヴィット・ブリュースターによって1816年に考案されたもの。
それから200年近く経って、私の宝物になりました。
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ジェイムズ・イングラム

2007-03-01 | 私の星々
ここ2年間で、私が一番よく聴いたCDは、
ジェイムズ・イングラム(JAMES INGRAM)の「フォー・エヴァー・モア(FOREVER MORE)」というアルバム。

「サンドゥ学校へ行こう」で、ツバメのサンドゥ(ピ=RAIN)が、ジェイムズ・イングラムを好きなマダムの前で ♪JUST ONCE を弾き語りをするシーンがあった。とてもいい曲だった。

黒人ソウル系という未知の領域であったけど、amazonで注文した。
結果は、完全にピ君の負け。
ピ君が時々歌ってる♪I BELIEVE I CAN FLY も入ってた。
何ていうか、ピ君のが飛びたい飛びたいだとしたら、J・Iのは、いつのまにか心が飛んでいる感じなのだ。
ピ君のアメリカ進出はやはり正直難しいなぁと思った。
ただ、この曲が好きという、彼のスタンスは応援したい。
 
J・Iの声は、なんていうんだろう。
悲しい夜でも、心にすーっと入ってくる。
15曲中、一番悲しい曲は ♪FVERYTHING MUST CHANGE 

Everything must change 
Nothing stays the same
Everyone will change
No one stays the same  
The young becomes the old
And mysteries do unfold 
… Winter turns to spring  
A wounded heart will heal 
But never much too soon
Yes everything and everyone will change

今日は悲しくはないけれど、生きるていくのには、やはり覚悟がいるような気がする夜なので、この曲をかけてみた。
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ルーマニアのクレオパトラ

2007-02-19 | 私の星々
ここにはまるとなかなか抜け出せないyoutubeの世界。
今日は、こんなものに出会いました。

ルーマニアの3才デビューの歌姫、クレオパトラちゃんが歌います。
             Cleopatra Stratan
 「♪Ghita」←Click

大きな赤いスーツケースを引きずりながら、
「大好きなギータ(ジータ?)おじさん、私をおいてどこにいったの?」
と、歌っています。彼女はいったいどこへ行こうとしているのでしょう。

4月に彼女は、日本デビューするそうです。もう大きくなってたりして…。

*ブログのリンク機能というのを初めて使ってみました。
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CLINT EASTWOOD

2007-02-18 | 私の星々
アナグラムで、CLINT EASTWOOD=OLD WEST ACTION。

昨年、「硫黄島からの手紙」を観た後、自分の高校時代3年間の担任のF先生が、クリント・イーストウッドに、似ていたことを、誰かに自慢したくなった。
卒業後の同窓会で、顎の線のキレを失った先生を見て、どうしてそんな錯覚を抱いたのかと、自分を疑ってはみたものの、やはり今でも、「高校時代には似ていたんだ。白いマツダのロータリーエンジン車に乗る彼はダーティー・ハリーだった。」と思い込もうとした。

NHKBSで、「走り続ける76歳」というクリント・イーストウッド監督へのインタビュー番組を観た。彼自身が「硫黄島からの手紙」に至るまでを語っていた。
1930年恐慌まっただ中に生まれた彼は、幼き頃より人間は働くものだという、健全な精神をもつ。兵役後、映画に出演したが、ほとんど無名の下積みを5年間、これは自由に街中の人間ドラマを観察できた貴重な時代だと彼はいう。

♪ローレン ローレンの ローハイドで、TVに登場したのは、29歳~35歳。
(ルパン3世と同じ声のあの日本語の吹き替えは彼に全くあってないと私は思う)
そして、♪荒野の用心棒♪夕陽のガンマン に出演(マカロニ・ウェスタンは主題歌だけいい)。黒沢の「用心棒」に憧れ出演をきめたらしい。この時、言葉の違う様々な国の人と仕事をし、演出にも関わり始めた。

大作よりも、中身の濃い映画に出たいと、自ら映画制作会社「マルパソ」=(いばらの道の意味)を作ったのは、38歳の時。

41歳の時、初めて監督をした作品が「恐怖のメロディー」。ハリー・キャラハン刑事もこの頃。
…それから21年後、62歳で監督した映画「許されざる者」では、銃を撃っても当たらず、馬にもまともに乗れず、死の恐怖におびえる年老いたガンマンの主人公を彼自身が演じた。この映画は西部劇を終わらせたアカデミー賞受賞作品だ。

彼はジャズを愛し、即興性・新鮮さを重視する(カーネギーホールでジャズピアノ弾く彼、ステキ!)。ジャズのフィーリングで、監督するのだ。俳優はその役を演じるとき、一番始めのが最高だと信じる彼の初めてのラブストーりー「マディソン郡の橋」ではほとんど撮影は本番一回(ワンテイク)のみだったらしい。

映画を撮るたびに、奥深くなっていく、澄んでいく彼の瞳。

「父親たちの星条旗」を撮ってるうちに、次第にふくれあがった日本軍司令官に対する興味から、日本側から描いた映画を撮りたくなった。そうしてできた「硫黄島からの手紙」。この二つの映画について「彼らについての記憶は捨て去るべきではない」とクリント・イーストウッドは言う。彼の映画を見た私達は、確かに彼らのことを記憶した。

先日私はディートリヒ号に乗っていて、駅前自転車置き場の段差を乗り損なって転んでしまい、膝腰を打撲、あちこちアザができた。何より、6歳で大人の自転車に2時間で乗れた自分が、初めてあんな段差で転んだことが情けなく、すっかり自信をなくして、「痛いんだもん」とここ数日ふてくされて引きこもっていた。(過去の栄光を追う?)最悪の年の重ね方である。

年老いて日々進化するクリント・イーストウッドの瞳と笑いしわをみてたら、とても恥ずかしくなった。
「学ぶことをやめたら、人生は終わりだ」と彼はいう。

…やはり、私の妄想の中の担任に彼は似ている。
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ヤコフォームの靴

2007-01-17 | 私の星々
かつて北海道にグリュック王国というのが存在した。帯広原野に突如現れた中世ドイツ風メルヘンの国。石畳のマルクト広場で、初めて、外人のジャグラーをみた。グリムの本屋さんや売店では、昨年の夏本当にドイツに行った時より、たくさんの土産物を買ったような気がする。風船を配るピエロさんもいて、広場には笑顔があふれていた。

遊園地で遊ぶ同行者達と別れ、可憐な秋の草花の咲く小道を一人歩いていくと、ドイツ展示館があった。テーマは「ベルリンの壁」。ちょうど、ベルリンの壁が崩壊し東西ドイツの統一があった翌年だったと思う。館内には私以外一人しかいなかった。
冷戦時代、東側から西側に壁を越えた成功者は5043人、当然もっと多くの失敗した人がいる。展示品の中に、色あせた大きな靴があった。元は黒い革靴であったのだろう。壁を越えようとして、ドーベルマンに追われ、射殺された239人のうちの誰かの遺品である。ちゃんと残している。アウシュビッツの遺品を連想してしまうが、これがドイツだ、という気がした。
楽しいメルヘンランドに、こんなものが展示してある対比。教会前広場の賑わい、その教会の床下には遺体を埋めている…そんなドイツの都市文化に、昨年の夏触れたばかりだけど、その意味でグリュック王国は、ドイツを正確に伝えようとしていたのかもしれない。

とにかく、それ以来、私はずっと考えていた。自分なら壁を越えようと決意したら、どの靴を履いて逃げるだろうと。または、街を追われ、難民となり、行く先のわからぬ行軍をしなければならない時、私はどの靴を履けば、いいんだろうと。

まもなく「通販生活」でヤコフォームの靴を注文した。指を広げたまま履けるドイツの靴だ。27000円という、私にとって破格の投資をしたにもかかわらず、普段の通勤着にはヒールのないこの靴はなかなか合わなくて、長く下駄箱の隅に潜んでいた。

やがて、12年前の阪神大震災が起こり、このヤコフォームの靴はその真価を発揮した。これは私の所有する靴の中で、最も「安全」で信頼できる靴だった。私は1年間くらい、毎日ずっとこの靴を履き、リュックを背負って、埃っぽい神戸の街の東西移動を繰り返した。

この靴で、瓦礫を片づけ、校庭の給水車の列、バスを待つ長い列に並んだ。長時間はき続けても、実に楽な靴だった。
三宮から5時間、2号線を東に向かって歩いて帰ったこともある。その時、手に持つ懐中電灯は足元を照らす為のものではなく、向こうから歩道を直進してくるバイクに向かって自分がここにいることを示す安全灯の役割をした。

あれから12年も経ったが、変形したこのヤコフォームの靴を捨てられずにいる。
またこれを履かなければならないようなことがないように、祈りながら、
1月17日になるとつい、磨いてしまう。
…黙祷。
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冬ソナ体験

2007-01-13 | 私の星々
地上波TVでまたあのドラマが始まった。
どれくらいの人がこのドラマを見たのだろう。
そして、私のような「冬ソナ体験」をした人がどれくらいいるのだろう。

3年前、2004年の春の終わり頃のこと。
3日間かかって、ネットで冬ソナを一気視聴した翌日の朝、
勤めに出かける寝不足の私の頭の中では、「ユジナ~」という音がまだ響いていた。
駅のプラットホームで、
ふと、自分が朝の光の中にいて、空気がやさしく私を包んでいることに気付いた。

その頃、自分が周囲と違和感を感じ、
自分を取り巻く世界からひたすら逃げ出すことばかり考えていた私だけど、
その朝、世界が再び自分を受け入れてくれるような気がした。
もう一度、自分が、自分を、自分の周りの人を、愛せるような気がしたのだ。
これからは、背筋を伸ばし、顔をあげて、生きていこうと思った。
窓を開けて光を浴びて輝くミニョンシーの微笑みに、自分が同化した瞬間だった。
これが私の「冬ソナ体験」である。

思えば、その数年TVドラマをゆっくり見る習慣を失っていた。
トヨエツの「愛しているといってくれ」に夢中になってから随分時間がたっていた。
映画を見るように、集中して20時間近くドラマの世界にひたる、
小さなパソコンの画面を見つめながら、涙をダーダー流す、体内浄化。
このパソコンによるドラマ視聴という新しい体験に、はまったような気がする。
世間でいう○○様ブームのようなものは自分の中で起こらなかったが、
未知の分野に対する強烈な興味が、自分をネットサーフィンに向かわせた。
不思議な文字をした異国のサイトにさまよい混んだ。
それまで仕事の文書作りとメール以外、ほとんど使ったことのなかったパソコンが、
それまで全く知らない世界への窓口として、大きな意味を持つようになった。

韓国ドラマブームの持つ大きな意味は、
それまでの隣国に対する偏見や壁をすーっと越えさせたことと共に、
40代50代の女性というそれまでパソコンとは、ほとんど無縁だった世代が、
パソコンに向かい、情報発信をし始めたことにあるのではないかと思う。
情報の多くが、雑誌やTVのメディアより、ずっと早く深く、直接に、
個人がつくったサイトや、書き込みから得られることを知り、同好の士をそこにみつけた。
自分もそれに加われることにワクワクし、自分が発信する楽しみを覚えた。
40代、50代の女性達が、新たな居場所を得たのである。

このブログの、「サンドゥ」も「フルハウス」も「止まらぬ愛」も、
2004年~2006年、私に新たな居場所を与えてくれた、
おかみさんのサイトへの書き込みの下書きである。
パワフルなおかみさんに感謝!
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詩のボクシング

2006-12-30 | 私の星々
NHKの番組には、受信料を払ってて良かったと思うものが、時々、いやたまにある。
昨夜BSで観た「詩のボクシング」みたいに。

三人の女性…こんな人達がいると知っただけでも嬉しくなる。

「まあちゃん」
  …長野県代表、4人の子供のママ。子供達と枯れ葉に戯れ、山の坂道を駆け下りる子供の後ろ姿をなんて美しいんだと感じる彼女。開口一番の「くそばばぁ!」には驚いた。

「マハット・ラりット・マヤさん」
  …外国人枠代表。奈良県に住むネパール人、双子のママ。1回戦の「紛争のネパール、平和な日本。多摩川のアザラシに住民票はあるけど私にはない」、2回戦の「ハイですませる電話の会話で日本語の勉強はできない」3回戦の「日本語を話したかっただけなのに…」いずれもちゃんと関西人のオチがついてる。人を笑わせながら、希望を語り、伝えることができる人だ。

「木村恵美さん」
  …香川県代表。2人の子のママ。2回戦の「黄色いヌルヌルしたものが…」は素晴らしかった。これで、私は優勝を確信した。「言葉は水のように流れるもの、美味しい水を今日はありがとうございました」という優勝者の彼女の言葉で番組は終わった。

言葉が単なる伝達の記号ではなくなり、心に届く「詩」になったとき、
人を変える力を持つ。人を支える力を持つ。
心に届いたら、もうその詩人のものではなくなり、
届いた人の心に住み着いて、その人の次なる感性や行動の選択を左右するものになる。
そして詩はときに韻をふみ、素適な歌♪になる。

かつて「叫ぶ詩人の会」を結成して活動していたドリアン助川というロッカー詩人がいた。

彼の詩が、心に住み着いたことで、生き直した10代の若者を、私は知っている。
SMAPの「世界でたった一つの花」が出る6年前に、彼はこんな詩を、叫んでいた。

♪世界で一番長いコンブが 暗い海の底で揺れている
 ゆらゆらゆらとのんきに揺れている
 長いことすら知らないで 世界一だと知らないで
 
 世界で一番強いゴリラが 森の木陰でイモをかじっている
 背中かいたり頭かいたり夢見たり
 強いことすら知らないで 世界一だと知らないで
    
 世界で一番黒いカラスが 公園のゴミ箱の上を飛んだ
 どこかにおいしい物はおちてないかな
 黒い翼は知らないで 世界一だと知らないで
 
 世界で一番大きなクジラが 老衰を迎えおぼれて死んだ
 潮を吹き吹きあぶくを吐いて 大きい体を沈めて死んだ
 世界一だと知らないで 世界一だと知らないで

 誰もが世界一のはずで 誰もがそれを知らない
 誰もが世界一のはずで 誰もがそれを知らない
 
 世界で一番鮮やかな花が ヒマラヤの谷間に咲いていたよ
 でも誰も見つけてあげれなかったから 花はそのまま静かに散っていったよ
 世界一だと知らないで 

 世界で一番黄色い蝶々が サナギを割って飛び出した
 雨や風が邪魔をするけれど 高い空に向かって飛び出した
 世界一だと知らないで 世界一だと知らないで

 世界で一番種を付けるヒマワリが 腐葉土の中から双葉を出した
 ヒマワリに言葉はないけれど 土に埋もれた根っこはしぶとく生きる
 世界一だと知らないで

 世界で一番やさしい人が 恋した人に昨日ふられました
 あふれる涙はあふれ続けて やさしいことすら気がつかないで
 世界一だと知らないで 世界一だと知らないで

 世界で一番人に希望を与える男が 失意のどん底で死ぬことばかり考えている
 今のところ希望の文字はないけれど それでも死ぬまで生きていこうと思う
 世界一だと知らないで 世界一だと知らないで

 誰もが世界一のはずで 誰もがそれを知らない
 誰もが世界一のはずで 誰もがそれを知らない
 世界一とはそんなものさ だけどすべてが生きて輝いて 
 誰もが世界一のはずで 誰もがそれを知らない
 世界一とはそんなものさ だけどすべてが生きて輝いて 

 花は花として一番鮮やかになる
 鳥は鳥として一番空を飛べる
 人は人として一番人を恋する
 誰も気付かない 誰も気付かない
 静かに生まれ静かに朽ち果てていく 静かに生まれ静かに朽ち果てていく
 そして生まれる そして生まれる
 世界で一番 世界で一番 世界で一番 世界で一番♪
      ~「世界で一番」はアルバム「青」に収録

このロッカー詩人は、今は明川哲也として、新聞で若者の人生相談をしている。
「ボクら人間の正体は、肉をまとった想像力です。…寂しい時は、時を飛び越えてしまいましょう。想像力でみんなが生き返ります。…星の王子様が砂漠でまっていますよ。」(12月29日朝日新聞朝刊)

私は彼がとても好きだ。
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梅梅にカンパーイ!

2006-12-24 | 私の星々
今日はクリスマス・イヴ。
パンダにカンパーイ!小林選手にカンパーイ!ディープにカンパーイ!

白浜のアドベンチャーワールドの、梅梅(メイメイ)が、またまた双子の赤ちゃんパンダを出産した。
すごい!すごいよ!梅梅!
これでパンダ・ファミリーはお父さんの永明(エイメイ)、お母さんの梅梅(メイメイ)、お姉ちゃんの良浜(ラウヒン)、双子の男の子隆浜(リュウヒン)、秋浜(シュウヒン)、末っ子の幸浜(コウヒン)に赤ちゃん2頭の8頭になった。中国に養子にいった雄浜(ユウヒン)を入れたら、梅梅は5回目の出産、しかも世界で冬季出産した飼育パンダは梅梅母さんだけ。
しかもしかも自然交配、ということは永明父さんもエライのだ。1年に1度のチャンスをのがさない。梅梅の思いをしっかり受け止めて頑張るダーリンなのだ。
昨年の秋、開園前にやっているバックヤードツアーに参加した時、間近で見た永明父さんは、思ったよりずっときつい目をしたたくましい雄パンダだった。

今日は、いい日だわ。
午前中行われた全国高校女子駅伝では、1区23位の須磨学園高校が、2区の小林選手で20人抜きして3位、3区、4区で1位にたって優勝という、劇的な素晴らしい駅伝レースを展開した。おめでとう!

午後は、ディープインパクトの有馬記念での、見事な引退レース。飛ぶ馬、天翔る馬を人が想像したのは、こんな馬を見た時だったんだろうなぁ。武さんもオグリキャップ以来の有馬記念優勝。あの時は、「ドォー」という10万人の声がTV画面から聞こえて伝わってきた。今回は私の中であの時ほどの興奮はなかったけど、午前中の小林選手の走りと重なって、身体全体が軽くなった気分。

パンダ・ファミリー、バンザーイ! Merry Christmas!
とにかく、元気に育ってね。
…来年もゴールデンウィークは、白浜温泉行き決定!
うーん、その前に名前を考えなくちゃ…○浜、○浜…。
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11月のあおい空

2006-11-09 | 私の星々
こんなに晴れた秋の日にS君は灰になった。
1985年6月23日に生まれた彼は、
2006年11月6日「翔けていってしまいました」(お父さんの言葉)

21歳、クロネコチャンより短い人生。
その内の16~18歳の彼と、私は1週間に3度くらい顔を合わせていた。
袖口のボタンを自分で止められない、シャイな、言葉を選ぶ高校生だった。
会わなかったこの3年間で彼に何があったのか?

お葬式の後、駐車場で、さっきまで涙を流していた彼の大学の同級生達が、
あおい空を見上げて笑っていた。彼らは生きてる。
S君は、彼らと何を話し、何を話さなかったのか?

…わからないまま、今日、彼を見送った。

韓国ドラマ「勝手にしやがれ」で、
脳腫瘍のできたボクスは、俺は生きたいという。

「死ぬってことは、世界を捨てるってことでしょ。
 生きるっていうのは、世界を変えることなんです。」


S君は短い人生で自分がやったことに絶望したのか
やれなかったことに絶望したのか
後者だとしたら、私は彼と過ごした時間に
何にも彼に伝えてなかったことになる。

11月の青い空に3年前の君の笑顔が吸い込まれていく…
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カザルス「鳥の歌」

2006-10-30 | 私の星々
Beeの演奏会で石川祐支さんのチェロを聴いてから
パブロ・カザルスのことを思い出している。
チェロという楽器に生命を与えた人、
反ファシズムを貫いた頑固なカタロニア生まれのグランパ。

中沢新一さんの「バルセロナ、秘数3」(中公文庫)を読んだら
その中で中沢さんが、カザルスの「鳥の歌」について書いている部分があった。


鳥たちは、歌う。鳥たちは歌うことで、自分の専有するテリトリーを宣言するのだ。チュッ、チュッ。私はここに生きてます。ポー、ポー。私のまわりのこのわずかの空間は、私が生きるために神様からあたえられたものなのよ。カッコー、カッコー。だいじなことは、おたがいのあいだに理想的な距離をつくることさ。近すぎるのもよくないし、遠すぎるのもさみしいな。ヒュル。ヒュル。生きてることには、意味なんてない。でも、ぼくがこうしてつかのまに、この小さな空間を専有しているということにだけは、なにかの意味がありそうだ。

現世に生きていることのよろこびは、生まれてから死ぬまでのわずかの時間に、自分のためにこの実在の世界のなかに、なにがしかの空間が用意されてあったことにたいする、驚きと感謝の気持ちに根ざしている。ましてや、その時間と空間が、限りある生命のつかのまの閃きのあいだに、優しく自分を抱擁してくれていたのだとしたら…ここは、私のテリトリーだ、と鳥たちが歌うとき、鳥たちはそのテリトリーのなかでひとりで生きることのきびしさや深さの感覚とともに、自分のために世界が時間と空間とを用意しておいてくれたことへのよろこびに、のどを震わせている。

音楽をとおして、人間は人間のための時間と空間をつくりだす。音楽が鳴っているあいだ、ひとつの特別な時間と空間が出現する。それは、人間の精妙なたましいが、実在の世界のなかに出現させた、音による不可視のテリトリーなのだ。歌うよろこび。人間はそれを鳥たちと共有している。実存の深みにおいて、音楽する肉体が味わっているよろこびは、まさに現世の時間と空間のなかに「じぶんがあること」にたいする驚きとむすびついている。


我が家のベランダに立つと、私から20Mくらい先の道路沿いに、鳥たちが夜ねぐらにしている樹木がある。
早朝、彼らは、近くの、川が海に注ぐ浜辺に向かって飛び立つ。
私は、彼らの朝の歌声を、少し厳粛な気分できく。
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僕の意見

2006-10-30 | 私の星々
「ドーン!」…こんな季節に花火?
っとベランダの外を見ると確かに打ち上げ花火の大輪が夜空に散っていく。
2秒ほど遅れて音が響くから、浜辺で何かイベントをやっているのかなぁ?

花火の後の夜空には美しい三日月が出ている。
 
1週間くらい前の、NHKの列島縦断俳句まつりで
神奈川県の小学校2年生早川狩君がよんだ句を思い出した。

『三日月は バナナときょうだい ぼくのいけん』

う~ん、君の意見にさんせーいで~す。
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水森亜土

2006-09-04 | 私の星々
ルーブル美術館で「モナリザ」を見てきた。素晴らしい絵だ。

でも、永遠ではなく、日常の、
「幸せ感」を表したら、「ウキウキ感」を絵にしたら、
ダ・ヴィンチだって、この人のイラストにかなわない。

私を幸せにしてくれる彼女のイラストが登場したのは1960年代。
今のブログの絵文字を、この頃すでにたくさん彼女は使っていた。

1939年生まれ、亜土たんはまだ元気にJAZZなど歌っているらしい。

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