星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

ガングリオン

2008-02-29 | NO SMOKING
「ガングリオン」
…まるで、「ハリー・ポッター」か「ライラの冒険」に出てきそうな怪獣の名前だわ。

痛みがなかったから、左手首の突起物に気付いたのは1週間前のこと。
A整形外科は、村上春樹さんの小説に出てくるおさるの公園の近くにある。
4年前、私が転ぶまいと踏ん張ったために右膝靱帯を損傷した時に行って以来である。
無愛想だけど、聞いたことにはごまかさず答えてくれる、不思議と信頼感のわくA先生だった。
あの時は医院を出てくる時、私の右足は白い石膏ギブスに覆われていた。

今度も不安だった。
しかし今日、ドクターAはマジシャンAに変身したのだ。

「では今から、これを消して見せます。1・2・3-」
とA先生が言ったわけではないが、
「どーれ、押しますよ」~ムギュー~
この一押しで、怪物ガングリオンは、消えたのだった。

「どこへいったのですか?」と聞くと「散りました」の答。
私の脳裏に、宇宙の彼方で火花と共に、
飛び散るガングリオンという怪獣の姿が浮かんだ。

帰り道、思わず、歌ってしまった。
♪ガンガン グリグリゴンゴン ガングリオン
 ガンゴン グリグリガンゴン ガングリオン♪(メロディはチキチキバンバン)

医者に行って、こんなに幸せな気分で帰ることができたのは初めてだった。
A先生、ありがとうございます。
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明日の自分を支えているのは…

2008-02-05 | NO SMOKING
自分が見ているのは、世界の一部分だ。
 でも、それは常に世界の全体につながっている。

芦屋市立美術博物館で、福岡伸一氏の講演を聴いてきた。
開催中の展覧会「ゆっくり生きる」の関連講座である。

おー、あのオタクっっぽいお方は、
秋頃、NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」に出ていた先生ではありませんか。
あれは、~「地球上の分子は、刻々と姿を変えていく。
食べたものは人間の体内で身体の一部の分子になり、一年も経てば、人間は全く違う身体になる。」
といった話、であった。
永遠について語る意欲を持った光さんと、方法を持った福岡先生の出会い。

あの番組で、先生の名前は忘れていたが、おさるさんがつぶやいた言葉は、覚えている。

明日のあなたを支えているのはあの雲の一部かもしれない
大いなる循環の中で一瞬限りの存在
  …ではなぜ、私は私でいられるの?


今回の講演テーマは、「もう牛を食べても安心か:〈流れ〉の中にある命のふしぎ」

美術館での催しということで、「見るということ」についての話から始まった。

①「21_21」の意味は?
…英語で「20_20」というのは、20フィート離れた場所から、C(ランドルト環)の隙間の20度離れた2点を識別できるという意味で、とても視力のいい人を示すらしい。それを上回る目で何が見えるか、というコンセプトでつくられた東京ミッドタウンの美術館・デザインスタジオの名称なのだった。生物学から見て、人間の視力はいい方らしい。ただし、<良すぎて、自然に向かった時人工的にみてしまうという難点がある>

ヴィットーレ・カルバッチョ「二人のヴェネツィア夫人」の謎
…このイタリアのコレル美術館にある16世紀の絵は、何もない空間をぼーっと見てたりする虚無的な態度から、長くコルティジャーネ(高級娼婦)を描いた絵だと言われていた。ところがこの絵の花瓶に挿した花が見つかったのだ。その時、彼女達は、上流階級のご婦人方へと、身分が変わったのだった。つまり、この絵の上半分は、アメリカのゲティ美術館所蔵の「ラグーナでの狩猟」絵であり、元は一枚の絵が分割されて市場に出ていたわけである。さらに元々は扉のように対になった絵であり、夫人は何かをおそらく誰かを見ているというのだ。<人間は全体の一部を切り取って見ている>
(ある日、二つの絵の繋がりを発見した人がいたんだ。つながったその幸せな瞬間に乾杯!)

③モザイク消しの秘密
名画を6×6分割してモザイクをかけたパネル…何の絵か?(手を挙げなかったけど、モナリザだと判ったわ)人のパターン認識能力は素晴らしい。<でもそうじゃないものにも、パターンを当てはめて見てしまうことがある>

④幼児が描く頭足人と、フェルメールの青いターバンの女。
人の身体から、嗅覚を掌る器官のみ切り取ることはできない。鼻は個別臓器としてはめ込まれているのではなく全体に繋がるものとして存在している。<私達より17世紀のフェルメールの方が鼻のあり様をよく知っているのではないか?>

と、ここまで35分。
「狂牛病」BSEというおぞましく切実な問題に取り組む第一線の科学者が、人間とは?と常に考えながら歩む、芸術愛好家であること。分子生物学という、細かなものの研究は、この世界の全体像を作り替える力を持つ学問であることが伝わってきた。さぁ、本題はこれからです。
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ついに完成!

2008-01-10 | NO SMOKING
できた~!!      
             

世界最小の1000ピースのジグソーパズル。
昨年の夏、退院した母のために買ってきたものだが、母は、目がついていかないと外枠のみで放棄。
その後1ヶ月くらい、夫が気が向いた時に、虫眼鏡片手にやっていて、時折「おー、入ったー」などと言ってたものの、どうやら石畳で挫折。
そのまま我が家のコーヒーテーブルの上で、数ヶ月、放置されていた。
クロネコチャンがいた時には到底できなかったことだ。

今年の新春TVは、何といっても、秋からずっと心待ちにしていた「のだめカンタービレ」ヨーロッパ篇。
第一夜、「千秋君痩せたね~」「プラハ行きたいねぇ」とみていたら、夫の様子がおかしい。毛布を抱えてきてくるまった。寒いという。熱を測ったら、38.9℃。
第二夜、「のだめちゃん、がんばれー」と私が涙してた時、夫は猛烈な下痢に苦しんでいた。

二日後、点滴をして、やっと食事ができるようになり、「のだめ」の録画再生3回めくらいから、夫は一ヶ月ぶりに「夜のカフェテラス」にかかった。ところが、どうしても一個足りない。製造元にFAXしたら、今日、とても丁寧な書状と指定した場所のピースが送られてきた。
~もし形が合わないなら、必要なピースの周囲のピースを一緒にお送り下さい。保管してある中からできる限り合う物を探します。お客様のジグソーパズルが無事に完成しますことを祈っております。(株式会社テンヨー)~

最後のピースは、なんとか初仕事を終えて帰宅した夫の手で、はめられ、数ヶ月かかったジグソーパズルが、やっと先程、完成した。
良かった、風邪が治って。テーブルの上が片づいて。
横のものが、縦になるって素晴らしい。

ゴッホのこの石畳も、昼間なら、こんな石畳なのかしら?

      

        ~ヴェルサイユ宮殿は、運動靴で行って正解だった。
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ジョーさんとお散歩

2007-12-04 | NO SMOKING
ちょうど今頃の晩秋の東京の街を歩いてきた。「転々」(監督:三木聡)と。
色づいた街路樹が、風が吹くたびに散っていく。
その風景は、映画館の外、神戸の風景ともつながっていて、オダギリ・ジョーさんと一緒にお散歩してきたような気分になる映画だった。
(動物園でコビトカバさんにも会えたわ)

            

街角では、三日月巡査が駐車違反の取り締まりをやっていた。頑張ってネー。
「時効警察Ⅰ」の中でも最高傑作の第6回♪もしも明日が晴れ~ならば♪の娘役をしていた可愛い女の子も、出かけに男達を待たせて何度も用事を思い出すキョンキョンも、自然な存在感があって、彼女達が変な友和オジサンを温かく容認してることで、観ている私も、だんだん変な友和オジサンに慣れていった。

ジョーさんは秋冬の季節がよく似合う。(妻夫木くんのように、オダギリ君ていえないんだなぁ。)
彼は、どれだけ変なもじゃもじゃ頭の薄汚い格好をしても、カッコイイ。
ジョーさんの軽いフットワーク(柴田恭兵さんを思い出す)に目的はない。
運動靴を履いてる変な友和オジサンの足は、彼の10倍くらい重いけど、目的に向かって歩いていく。ジョーさんは彼についていく。(その後を私がついていく)
      
              

う~ん、ずっとジョーさんの足ばかり観ていたような気がする。
ネコさんになって、彼がだるま並べる公園のベンチで、足元にスリスリしたかった。

友和オジサンは、きっと優しい視線でこの街を歩きたかったから、ジョーさんについてこいと言ったのね。
人生に区切りをつける散歩、私はどこを歩くのだろう。…いつかわかる。

映画を観た後、チャツネ入りのカレーライスが食べたくなった。
いや、つくりたくなった。(私的には、これ、すごい進歩です。)
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吉田山の三角点

2007-12-01 | NO SMOKING
ガリレオは京都大学にいるのか?
     

11月末、京都の街中には、もうイチョウの木の枝を切る作業車が出ていた。
まだもう少しの間残して欲しいと思うけど、落ち葉の処理に困ってると通報があったのだろうか。
前に住んでいた所で、ある日仕事から帰って来たら、私の部屋の窓の真前のイチョウの木が跡形もなく消えていた。いや、表面が真っ平の50㎝の根元だけ残っていた。大きく育ったイチョウの落ち葉が、隣接した材木置き場に降り積もり、そこの持ち主からの苦情で、県が、住人にそのことを知らせないまま、突然木を切ったのだった。昨日まで金色の光が入っていた私の部屋の窓からは、曇り空しか見えなくなった。いっぺんに冬がきたような気がした。
春になると、その木株から、たくさんの可愛い若草色の芽が出てきて、葉っぱをつけた枝が伸びてきた。イチョウは私が思っていたよりずっと、生命力の強い植物だった。

それもそのはず、生物に詳しい友人によると、イチョウ(銀杏・公孫樹)は、古生代末に出現し、ティラノサウルスら恐竜達が活躍した中生代ジュラ紀に世界各地で繁茂した裸子植物で、メタセコイアとともに「生きている化石」植物だという。生物界では特別に尊敬されている別格の植物らしい。
ジュラ紀に活躍したティラノサウルスは絶えたが、イチョウは生き延びて、今も日本の晩秋を金色に染めている。
でも、最近、茶色くなっているような気がする。10年位前、私の部屋の前のイチョウはもっと黄色い黄金色だった。

京都大学裏門前を、お散歩中の金色のワンちゃんが横切っていく。
 
演劇の立て看「隕石(ほし)降る聖夜(よる)に僕は愛を知る」…観にいこうかなぁ。

                


大学のそばの吉田山に登った。

山頂近くに明治36年(1903)から置かれている三角点には標高105.12㍍とある。北緯35度1分18秒168、東経135度47分19秒724。こうした確かなものに出会うと安心する。三等三角点は、日本中に32699個あるらしい。この数を知ると、日本が確かな国に思えてくるから不思議だ。近代日本政府のイメージ戦略成功。
小さな石柱の横看板に「三角点は地球上の正確な位置(緯度経度)を示し、地図や橋を建設する時の測量の基礎となる大切なものです。『三角点を大切にしましょう』と刻んである。どうか三角点のような確かさで橋やマンションを建てて欲しい。

                

三高(京大)逍遥歌「紅燃ゆる丘の花」の碑の上には美しい金色の雲がたなびいていた。


     おっ、大文字が見える。

京都はやはり不思議な街だ。横道に入れば、すぐそばのバス通りの喧噪からは、別世界の静謐な空間がそこかしこに存在する。吉田山もそんな場所である。



木漏れ日にそそのかされてどんぐりなど拾っていたら、前を歩いていた友人の姿が消えた。
一瞬、彼女が違う時代に行ってしまったような気がした。
いやこの場合は私かな?
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フリマ日和

2007-10-16 | NO SMOKING
パジャマが長袖に変わって秋を実感。
橙も実をつけて、ザクロの枝も秋空にぐんぐん伸びてる。

         

なぜか実をつんだ林檎の枝に、再び今頃、可愛い花が…実るのか?

          収穫終え再びの花何を待つ
         

そういえば、明石の柿本神社の御神木の筆柿もたわわに実をつけていた。

                       

隣の幼稚園から運動会の音楽が聞こえる芦屋市立美術博物館の庭では、アートフリーマーケットが開かれている。



日曜の朝日新聞阪神版で、紹介されていた、子供達のアートフリーペイント。
記事では参加費1000円なんて紹介されてたけど、本当は100円。えらい違いだ。
子ども達が、カラフルなビニル袋を被って、思いっきり壁に絵を描いている。
ハタキや箒なんて武器も使ってバシャバシャ絵の具を飛ばしてる子、
嬉しそうなその顔にも、しっかり絵の具つけてる。
古いポスターは、一瞬のオブジェになって秋風にはためく。



      一瞬の色の奇跡にはまる子ら
     
      
手作りの店が40軒ほど…和やかな空間。

寄せ植えのコーナーで
「私、必ず枯らすんですよねー」と告白してる若い女の子に、
「名前を付けて、話しかけながら、毎日水をやれば大丈夫よ」と、
お店の方が励ましている。フムフム、なるほど。バザーの収穫↓

                 
           
    水引草 都忘れに クフェアだと 仮の名を呼ぶ 朝の水やり
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虫を捕る少年

2007-10-15 | NO SMOKING
蝉の声で目覚めた夏休み、近くの緑道を通ると、虫捕り網を持った少年3人組を、ほぼ毎日のように見かけた。
いつか「君たち、そんなに捕って、その蝉どうするの?」と聞こうと思っていた。
ある日、その中の一人が、捕った蝉を放してるのを目撃した。

彼らがそこにいることで、うるさい蝉の声が、そこにあってしかるべき存在に、思えてくる。少年達のいるところには蝉の声はなくてはならない。彼らは青い空に白い雲と同じような組み合わせだ。

そして昨日、季節は10月の半ばなのに、あの蝉を放した少年は、まだ虫を捕っていた。

       

紫の種がいっぱいついたランタナの茂みが美しくて、カメラ向けてたら、
突然背後で、「あっ、カマキリの幼虫!」という少年の声がした。
スダチの木の枝を指さしてる。
「どこ?」「ここ」…指さした枝の中程にモコッとした塊がついている。
「写真撮っていい?」「うん、ええよ」
焦りながら、彼の指さす場所に向かってシャッターを押した。

       
(ピントしっかりずれてる)

すぐに「もういい?」と聞いて、私がうなずくと、少年はその枝を折って、今日も持っていた大きな虫かごに枝ごと、大切そうに、入れた。
幼虫(卵鞘=らんしょう)だけでなく、枝ごと持って行く彼は、きっと大切にカマキリを育てるのだろう。カマキリ○号なんて名付けて。

夜のベランダに出ると、いろんな虫たちの声が聞こえる。
今頃、今日の収穫に満足して眠ってる君の耳には聞こえてないだろうなぁ。
幼い頃に、虫と親しんだ君の世界観は、これからどんな風に広がっていくのだろう。
小さな虫博士、おやすみなさい…
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左手で草を抜く

2007-09-27 | NO SMOKING
阪神電車の全路線距離はとても短い。
そして、阪急やJRに比べると、駅と駅の間が、短い。
そのことにあらためて気づいたのは、30代でぎっくり腰になった時だ。

座るのと、立ったままの方が楽か、迷った末、バーに力入れてそっと座席に座る。
発車…「ウオっとー」腰に振動が伝わらないようにぐっと腕に力を入れる。
やっとスムーズに走り始めたと思ったら、すぐに次の駅に着く。
ブレーキの「カックン」…これが腰にどんなに響くかは、魔女の一撃を経験した人にしかわからない。
運転手の中には、まるで急発進、急ブレーキを楽しんでいるかのような○○がいて、朝から呪いをかけるに近い気分になる。でも運転手に呪いがかかったら迷惑を被るのは乗客なので、目尻に涙したお願いに変える。
それだけでも、カァーっとなるのに、乗っている間中、腰への打撃を少しでも少なくするために、両腕に力を込めるから、35分後勤め先の最寄り駅で下車する時には、大汗をかいて、肩がガチガチになった。

(えーっと、腰の話じゃないわ。)

右足膝を負傷して2ヶ月ギブスをして、電車に乗って通ったことがある。
その時、駅の自動改札というのは、健康な成人男子に合わせてつくられた機械であることがわかった。切符や定期券を入れた人が1秒後にサッと取り出すことでスムースな人の流れが生まれる。一人でもそこに到達するのが遅れると、後ろにいる何名かの人を朝から不機嫌にさせる。結局通勤で混み合う時間を避けて、私はいつもより半時間以上早く家を出ることにした。おかげでそれまで見たことのないような素晴らしい朝焼けを見ることができた。

(えーっと、足の膝の話でもないの。)

左手の話。この間、思いがけずガラスで右手を切った。右手の親指、傷はかなり深い。夜中だったから、指の付け根をジッと押さえて止血。なぜか、引き出しいっぱいある滅菌ガーゼで押さえて1時間。やっと、止まった。
親指なので、1週間くらい右手が使えなくなった。
こうなって初めて、自分がほとんどのことを右手でやってきたことに気づく。今までずっとサボっていた私の左手よ、頑張るんだ。君にもできる。

そう、この際積極的に左手を鍛えよう。使ってなかった身体の部分を使うんだ。
足の指で素晴らしい絵を描く人がいる。すごいなぁと毎年絵はがきに感心しても、それを描くまでに、どんな努力があったのかは知らない。絶望を経験した後の希望の絵筆に、ひれ伏し絵葉書を買う。

これから、どんどん衰えに向かう自身の身体、いつか自分も障害者になる。使ってちびていくなら諦めがつくけど、使わなかったから駄目になってしまったというのは、悲しい悔いが残る。というわけで、左手を使おう。

…左手で歯磨きが上手くできるようになった頃、右手の絆創膏もとれた。

今日は秋のわが町クリーン作戦だった。左手で草を抜いた。案外上手に抜けた。草の根っこの当たりから、蟻がわらわらと、飛び出してきて右往左往する。彼らに声があったら「なんだ、なんだ、何するんだ!」と叫んでいるに違いない。

本国ではあまり知られていないのに、日本の子ども達はみんな知ってるお話、というのに、「フランダースの犬」と、「ファーブル昆虫記」がある。なぜだろう?翻訳が良かった、挿絵が良かった、編集者に力があった?いやー、きっと「一寸の虫にも5分の魂」っていう諺のおかげかもしれない。などと思いながら、歩道のコンクリートの上に風で運ばれた僅かな土にもたくましく根を張った草を抜いていた。

というわけで、腰がいたーい。(↓の草は決して抜かないように)
                 
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水車のまわる音

2007-09-23 | NO SMOKING
いつのまにか臨港線の林檎園のリンゴが枯れそうな葉っぱだけになっていた。
調べたらなんと、9月3日に収穫行事があったという。
8月の末には、まだ青かったのに…。リンゴってわずか3日で色づくものだったの?暑い暑いといってる私の一歩先で季節は変わっていた。
 
そういえば、汗かいて、見上げる彼岸の空は、少しだけ秋の風情。
夏の間にぐんぐん育ちすぎたユリノキの葉っぱも黄色くなり始めている。

               

でも、まだ日中、外出の際には、小さなうちわと、水が欠かせない。
あ、それとレジ袋用のマイバックを忘れないようにしなくちゃ。

さぁ、行くぞー。ディートリヒ号でお出かけだい。目指すは、芦屋市立美術博物館の
「六甲山系の水車」という涼しそうな、シンポジウム。
私の頭の中のイメージは、小川のほとりの水車小屋。
きれいな水の流れに、コットンコットン回る水車。そばにはトンボが舞っている。
…おー、蜻蛉洲(あきつしま)、のどかな日本。

ところが、…そうではなかった。
六甲山の水車というのは、水車小屋ではない。水を動力源とした工場だった。
地域経済の最先端をいく、活力あふれる産業の場であった。そこでは、菜種・綿実から油を絞り、灘の酒用の精米が行われた。大きな柱で屋根のある建造物であった。



六甲山の山あいに木を切って空き地を造成し、水車場を造る。
石垣で固めた幅90㎝くらいの滝壺という溝を掘って、直径5㍍の大水車を設置する。
川からそこへ、水路をつくって水を流し、とうとうと流れくる水に、水車がゴットンゴットンと回る。それと同時に、半地下状につくられた作業所では、何十台もの石臼が一斉にグヮーングヮーンと回る。汗流し忙しく働く男達の世界。

六甲山系に水車が設置されたのは、文書では、1704年。僅か300年前である。菜種・綿実を粉に挽き、油を絞ることから始まり、やがて18世紀中頃から台頭した灘の酒造りのための、精米用水車が多く建造された。(ちなみに、宮水が酒造に用いられ始めたのは1840年、意外に最近のことだった。)明治の頃になると、素麺用の粉も碾いている。

小学生がダイヤル電話を使えないように、もはや使わなくなった道具の使い方や使う理由、使用感は、私達には謎である。私達が使っているものも、未来人にとっては謎になるのだ。

シンポジウムは、六甲芦屋の水車場発掘状況の報告が中心であったが、水車がどんな風に回り、どのような人達がそこで働いていたのか、過ぎ去った庶民の暮らしは、廃墟の跡からだけでは、正確にわからない。
もはや民俗学の対象となりつつある、江戸明治大正の庶民の暮らし。六甲の谷合で水車がどんな音をたてて回っていたのだろう。人々はどんな思いでその音を聞いていたのだろう。

竹中靖一著「六甲」(朋文堂1933刊)という昭和の初めに民間伝承を聞き取りまとめた本の中に出てくる、芦屋川の「金兵衛車」の話が紹介された。

江戸時代、お上に献上する清酒の米を精米する水車には、特別の格式があり、そこで働く男達は、水車場に入る前には川で身を清め、全部仕事を終えるまで一歩も外に出てはならぬこと、その間誰とも会うことはならないこと、などの掟があった。この季節労働には、丹波の村から人を集めた。その年丹波の村で出仕を命ぜられた男には恋人がいた。恋人の彼女には、彼のいない間に他の男との縁談が持ち上がり、彼を恋しい彼女は、山を越え、彼が入ってる金兵衛車にやって来て必死で彼の名を呼んだ。しかし、会うことは許されない。ついに彼女は炎となって水車場を焼き尽くした。という話である。
そして、この話の最後は、焼けた水車の跡にはまた新しい水車が作られ、それは今日も芦屋の谷合で、ごとんごとんと音を立てながら回っている。というものだった。
…そう、昭和の初めまで回っている水車はあった。昭和13年の阪神大水害を機にその多くが失われたのだ。

恋いこがれた彼女は炎になったが、水瓶座の私は、違う恋の物語を想像する。
…彼女は、小さな小さな人になった。水車の輪に飛び込んで、水の中から一目彼を見たかった。その後流されてもいい。一目あの人を見ることさえできたら…。ゴトンゴトンと水車は、私の鼓動に似た音をたて、その音はこれからもずっと彼の耳に届くはず。

…水車ではないけど、大阪のビルの狭間に、カタンカタンと赤い観覧車が回っている。私はあれをみるたびに、雄大な景色がみれるわけでもないあの観覧車には、大都会の中に住む誰かを、一目みたいと思って乗る人がいるような気がする。遠くても、上から見たら隔てるものがない、というかすかな希望を持って、誰かを捜し求めている、苦しい恋をしている人が、カタンカタンと音立てる自分の胸の鼓動を聴きながら乗っているような気がするのだ。
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アスリートのゴール

2007-09-01 | NO SMOKING
朝から「50㎞競歩」という過酷なレースを、アイロンをかけながら見ていた。
エアコンつけた部屋のTVの前でアクビをしながら寝ているネコと、炎天下をひたすら歩いてる人間達。なんとなくアイロン台など出してきたのは、彼らと自分との距離感を調整するためなのかもしれない。でもやはり自分がどちらに近いかといわれれば…

大阪の炎天下、走りたい本能を押さえて、選手がひたすら歩いている。
早さは、時速15.6㎞(20㎞世界記録)というから、通常歩く速さの4倍、自転車を漕ぐ速度くらいだ。
厳しいルールが二つ、①両方の足が同時に地面を離れてはならない②着地から身体の真下に来るまで膝を伸ばしておかなければならない。
これをチェックするため、ひたすら同じルートをぐるぐるまわる。マラソンのように、沿道の風景が変わるわけでもない。
まるで、最初から、罰ゲームのような、なんだか見ていて胸が痛くなる競技だ。

100Mのゲイ選手の走ってる時の顔のゆがみは、スロー映像で見ると凄かった。
瞬間もの凄い風圧を自ら作り出しているのだ。でも、たかが10秒のこと。
競歩の選手の苦痛は長い。4時間に及ぶ。

次々と選手が倒れていく。もどしてもまた歩く。熱中症の実況中継みたいだ。
40㎞を越えて倒れる選手、こんなことなら2㎞くらいで足がつった方が良かったかもしれない、なんて思う人は観戦者失格ね。限界状況に挑戦するのがアスリートなんだから。
「より早く、より高く」を目指して、今の自分の限界を越えようとする選手の姿に私は感動する。だけど、競歩は、なぜ無理して歩かなければならないの?と、つい思ってしまう。禁止事項の上に成り立つ、故意に作り出した過酷なスポーツのような気がする。
とにかくもう、ゴール目指してがんばれーっていうしかない。

と、レース終盤…持っていたアイロンを、落としそうになった。
なんと、日本人トップの山崎選手を、係員が間違って誘導してしまったのだ。
頭から水をかぶって、苦悶の表情をうかべ、時々よろめきながらもひたすらゴール目指して歩いていた山崎選手。
その彼を、なんと、係員が、間違って誘導してしまった。
1周はやく、スタジアムに入ってしまう山崎選手。
本人は、自分が間違っているなんて思っていない。
あと少しでゴール、あと少し…と、一歩一歩、足を進める。
このままいったら失格になってしまう。今までの4時間近くの努力が…。
関係者、何してるの。早く、早く、つたえてよー。
だれか彼に伝えて、つたえてよー。TVに向かって叫んだわ。
…(日本国中から発せられたはずの)その声は届かない。
何分か後、意識朦朧として幻のゴールに入って倒れ込む山崎選手。

もう、涙が出て止まらない。なんて、なんて、かわいそうなんだ。
係員もわざと間違えたんじゃない。わかってる。
でもね、この大会に向けて毎日練習してきた成果を出そうと、全力振り絞る選手を支えるんだっていう自覚持った仕事をしてあげてほしい。もしかしたらマラソンに比べて注目度の低い競歩だから、係員の数が少ないのかな?こんなに選手が頑張る競技なのに。

ええ、私は、1964年の東京オリンピックの開会式で、世界の国旗を覚えた世代です。だから、子供の私から見て、立派な大人達が立派な仕事をした、という記憶で残っている大会なのかも知れない。でも、あの時アイロン持って見ていたら、よーし、私もいい仕事するぞーてきっと思ったにちがいない。でも、今日は、ストライキしたい気分。

山崎勇喜さん、あなたのゴールは、北京オリンピックよ。
本当のゴール目指して、頑張って~。
今日のあなたを見ながら、アイロンかけたハンカチ振って応援するから。
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花はどこへいった♪

2007-08-16 | NO SMOKING
このところ、ディートリヒ号で毎日、入院中の母のところに通っている。私がディートリヒという女優さんの名前を初めて聞いたのは、母からだった。炎天下のサイクリングには、つばのある帽子と、両手の中指にリングをひっかける、UVカットの白いボレロが欠かせない。
この自転車は、昨年の暮れ、「愛するアニタ~♪」を歌っていた頃の植田君(知らないって?)のそっくりさんが経営する小さなサイクルショップで購入した。
その時、私は、CATVでマレーネ・ディートリヒの生涯をつづったBBCのドキュメンタリー番組をみて、ドイツ語で「花はどこへいった♪」を歌う1963年のディートリヒに、感動した直後だった。
気がついたら、自転車の選択基準は、「ディートリヒが乗りそうな自転車」になっていた。私が乗るのに…。前にも後ろにもカゴつけるのに…。

先日NHKBSで、ディートリヒの歌をまた聴くことができた。(世紀を刻んだ歌 Where have all the flowers gone『花はどこへいった~静かなる祈りの反戦歌』2000.12.5の再放送)
  
♪ Where have all the flowers gone?  Long time passing.
  Where have all the flowers gone?   Long time ago.
  Where have all the flowers gone?
  Young girls picked them ev'ry one.
  Oh, when will you ever learn?  Oh, when will you ever learn?

 花はどこへ行った?娘たちが摘んでいった
 娘たちはどこへ行った?若者たちに嫁いでいった
 若者たちはどこへ行った?兵士になって戦場へ行った
 兵士たちはどこへ行った?みんな墓場へ行った
 墓場はどこにある?墓場は花に覆われた
 花はどこへ行った?娘たちが摘んでいった
 いつになったら、人はわかるのだろう?
                
この曲を作ったアメリカの良心、ピート・シーガー(公民権運動で歌われた ♪We shall overcomeも彼が作った)本人が、「花はどこへ行った♪」は、ショーロホフの「静かなるドン」に出てくるロシア民謡にヒントを得て生まれた曲だと語る。雨の中、2000年夏にワシントンで行われた「イラク経済制裁反対集会」でこの歌を歌う81歳の彼の映像が流れた。この歌は3番までは彼の歌詞だが、4番からは、集会でみんなで歌うために後に他の人が付け加えたという。
「花はどこへ行った?」というフレーズが、多くの人の心を経ていくたびに、より普遍性のある歌に進化していったのだ。

この進化の過程に、カタリナ・ヴィットさんのフィギュア演技も登場する。
彼女は1984年サラエボ、1988年カルガリー冬季五輪で優勝し、東ドイツの国家代表としてその任務を果たした80年代女子フィギュアの女王である。
1994年のリレハンメル冬季五輪の時には、すでにピークは過ぎていたが、統一ドイツの選手として参加した。当時はボスニア紛争(1992~95)が激化し、かつて彼女が金メダルをとったサラエボは戦火のまっただ中にあった。
赤いコスチュームの彼女が、平和への思いを込めて「花はどこへ行った♪」にのせて銀盤に舞う。素晴らしい演技だった。この時の彼女は国家代表ではない。自分が氷の上で表現できる限界に挑戦するアーティストだった。彼女の「花はどこへ行った♪」という曲にこめた思いが、この歌を知る多くの人の心をつないだ。その演技から、80年代から90年代というヨーロッパの歴史の転換の中で、彼女が体験したこと、考え続けたことが、伝わってきた。それはちょうどディートリヒの歌を聞いたときの感動と同じだった。

ピート・シーガーは、自分が作ったこの歌が、歌われなくなる日がくることを願っていると言っていた。この歌を忘れてしまうほど、平和な世界の訪れを願うと。

…When will they ever learn? いつになったら、人はわかるのだろう。
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コンビニ女王の行末

2007-07-22 | NO SMOKING
古い新聞の切り抜きを、古いと感じるのは、裏のCM写真を見た時だ。
雑誌を捨てようとパラパラめくったら、どうにも捨てがたいこんな兄妹に出会った。(MARUHAの焼津シリーズ)

       

富士山を壁に描いた銭湯に入る2匹のネコ。
1年前の「アメショッす!」の銀チャンと、ラムちゃんのようだ。
クロネコチャンが時々食べていた缶詰。

最近、ペットフードだけではない、自分が食べている物すべて大丈夫だろうか?といちいち疑問を持つ。原産地をチェックする。中国と記載されている食品…あるある、らっきょう・紅ショウガ・梅干し…大丈夫だろうか?あの時値段の安い方を選んでしまったから…と悔やむ。

かつて私が同僚から「コンビニの女王」と呼ばれていた頃にはこんなこと気にしなかった。6時半出動、21時帰宅、時々土日も出勤。というお勤め生活の頃は、夜遅くまで開いているコンビニに寄って帰宅していた。最寄りの駅から自宅まで3軒のコンビニがあるため、新製品は必ずチェックしていた。コンビニ弁当をつくる工場のバイト経験のある同僚から、「ご飯には消毒スプレーかけるんですよ」とか「チョコバナナなんて、バナナをドボーンと消毒液につけてからチョココーティングするんです」などと、真実の証言を得ても、私のコンビニ通いは変わらなかった。
コンビニだけじゃない、いかりスーパーや、ピーコックのお総菜など「できあい総菜=誰かの手作り」と断言し、夕食コーディネーターと自称。とにかく空腹を満たし、持ち帰り仕事をする時間、睡眠時間を確保するというのが、至上命題の日々だった。

子供がいたら、違っていただろう。自分が与えた物が、この子の骨となり肉となり脳を活かすと思ったら、コンビニ弁当食べて、本なんて読んでる場合じゃない。きっと産地直送無農薬野菜を買い、手作りしていたと思う。でも学生時代に知り合った大人二人は、学生時代の延長のような食生活を続けていた。

その間、自ら料理を一切しない夫は粗食に耐えた。自分がつくらないのだから文句は言わない、出されるまで待って、必ず完食する。これはある意味、すごいな~と思う。
「不機嫌なイライラ豪華料理と、機嫌のいいルンルン手抜き料理。どっちにする?」という究極の選択に、いつも後者を選んでいたのだ。
お昼は食堂で食べてると思っていたら、サンドイッチと牛乳が定番だったらしい。牛乳を毎日飲んでるというのは、危機感からの自己管理ね、きっと。25年間軽い風邪以外、健康。40を過ぎてもおなか出てないし、夏のYシャツ姿なんて、10代で出会った頃とほとんど変わらず、コムサが似合う40代だった。

粗食に耐えられなくなったのは私自身だ。
職場では、自分のやりたくないことを強要される。トドメは、自分が間違っていると思っていることを、人にも強要する立場になったことだ。結局このままだと、やりたくないことばかりに時間と体力を使い果たしてしまう。効率主義で人間性を否定する人が、偉そうに希望を語る矛盾と、毎日向き合わざるをえないストレスが、美しいものや、穏やかなものへの憧れを強く抱かせた。
20年間には、達成感も、かけがえのない経験も、じーんと胸の奥から何かがわき出るような瞬間も経験できた職場だったけど、このままでは自分が嫌いな自分にどんどん変化していく感じが、たまらなく嫌になった。

とにかくまずは自分の時間を欲しいと、仕事を辞めた。
晴れて無職=専業主婦になった私は、それまでの手抜きを補うかのように、家事も頑張ろうと思った。(←自転車に乗ってふらふらばかりしてるわけではないのよ。といいたいのね。)
世間の人ならみんなやってたことが、この年齢になるまで生活習慣としてなかったために、普通のことでも、頑張ってると、自己を過大評価する主婦一年生だ。

食生活の始まりは、朝5時半に起きて弁当をつくること。カエルコールで、準備を始め、ピンポーンという帰宅の頃には、夕食が並ぶという生活を心がけた。機嫌のいい豪華料理だ。その結果、夫の体型はみるみる変わっていったのである。この2年で洋服のサイズが完全に変わった。メタボなんて言葉が気になり始めた。

先日、大庭みなこさんを最後まで介護した旦那様の映像をTVでみた二人の感想は、「このまま太っていったら介護する方が、大変だわー」というものだった。

ここで軌道修正が必要である。粗食に戻ろう。わーい、女王復活ー!
と思ったら、女王には、低タンパク・高カロリー、減塩という新たな課題が加わったのだ。外食をできるだけ避けないといけない。1日のタンパク摂取量40g、塩分6g以内って、これはお寿司は食べられないということね。のだめに出てくるガリ寿司なんだわ…
長年、低カロリー志向で固められてた脳を、高カロリーに転換するのはとても難しい。なにより、痩せるという言葉が、私の未来計画から完全に消えた。

あ~ぁ、こんなこと気にするコープおばさんにならずに、ずっと一生コンビニの女王やっていたかったなぁ。
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稲妻が空を割る

2007-07-01 | NO SMOKING
臨港線の林檎園、リンゴの実は、すもも位の大きさに育っている。


春にピンクのアーチだった夙川沿いのサイクリングロードは、今はすっかり緑のアーチになって、陽射しから、私を守ってくれる。一昨日自転車でここを通った時、遠くで雷が鳴った。もし雷がここに落ちるなら、どの木に落ちるんだろうと、ふと辺りを見回した。
              

いつも梅雨明けには、雷が鳴る。
高校時代、私の至近距離に、雷が落ちたことがある。

夏休みの補習帰りだった。
暑く蒸れるゴム製の雨合羽を身につけ、一人自転車を漕いでいた。
周りは田んぼの広がる田舎道。
その日は朝から雨は、降ったり止んだりしていたが、学校を出た頃から、空が暗転し、雨足が激しくなった。
瞬間ピカっと空が光り、バシっと、稲妻が空を割る。

「早く家につきたいよー」と泣きそうになりながら、ペダルを必死で漕いだ。豪雨のため、なかなか進まない。タイヤの上に乗ってると雷は落ちてこないと、信じようとした。「ピカ=バシ!」と「ドーン!」の間隔がだんだん縮まってくる。そのうち、縮まるというより、私を包む天地全てが「ピカ=バシ、ドーン!ピカ=バシ、ドーン!」状態になった。
…稲妻が私を狙っている。怖かった。ひたすら祈った。

突然、「ドーン!」、~地響き~。

気がついたら私は自転車から転がり落ちて、田んぼのあぜ道に転がっていた。
雨の中、ぼやーっと周囲を見渡すと、近くの鎮守の森の木から、煙が上がっている。腰が抜けて、立てない。その後どうやって家にたどりついたのか、覚えていない。

今から思えば、鎮守の森は、やはり人々を守ってくれていたのだ。
避雷針の知識を知らない時代に、背の高い木々に雷は落ちた。

さぁ、今日からは、7月。
「もう夏なんだから、暑くったってしょうがないわ」と諦めて、
首振りパンダの氷かき機を出しましょう。
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恋するノウゼンカズラ

2007-06-30 | NO SMOKING
冬、まだ木枯らしの吹く頃、
ノウゼンカズラが、立ち姿の凛々しい松の木に恋をしました。
春になって、彼女が触れた松の木も、彼女に恋をしました。


長い間、誰もその恋に気づきませんでした。

                     

梅雨の曇り空の下、道行く人は、やっと恋人達に気がつきました。



そして、恋する女は美しい、と思いました。
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わが町クリーン作戦

2007-06-10 | NO SMOKING
晴天の日曜日の朝、日焼け止め完全装備で毎年恒例の自治会清掃運動に参加した。
近所の緑道と遊歩道の清掃・草抜きである。
今年は参加者が多い。熟年女性30人はすべて長袖、数人の若い子の半袖が眩しい。男性も10人くらい参加、みんな50代以上。
市から補助が出るらしく、軍手と白いタオル、終わった後は緑茶ボトルが配られる。
道具は金挟みと、箒と塵取り、熊手。私は青い金挟みと透明ゴミ袋を持って出発。

まずは一番簡単な、吸い殻拾いにかかる。昨年の半分くらいしか落ちてない。
6月1日から市で施行された「清潔で安全・快適な生活環境の確保に関する条例」(駅周辺の禁煙地区指定、歩き煙草の禁止、夜間花火の禁止など)のせいだろうか?…確かに路上喫煙者は見なくなった。

遊歩道と車道の間の緑地帯の隙間に、昨年は古いテレビと、新品の電気グリルが捨ててあった。今年も同じ場所に、ひもでくくった段ボール箱が2個捨ててある。う~ん、怪しい。「爆発しませんように」と、恐る恐る中を調べたら、大量のビデオテープだった。3年前友人の家でビデオテープに黴が来た。一個黴びると、機械に黴が付着して、次々と感染、レンタルビデオにもそれが移る。という話を聴いてから、ビデオは借りていない。我が家のDVD時代がこうしてやって来た。…しかし、この街では燃えるゴミで出せるのに…ということは、他市から来た車から投げ捨てていった物か?

昨日少し雨が降ったので、草が抜き易い。12年前の震災でヒビが入った場所には、確実に雑草が生えている。こうして抜いてもきっとすぐ生えるんだ。
「それでもヒビがこれ以上大きくならないようにしなきゃね。」
などと、滅多に会わないご近所さんと会話する。少し向こうで「年金あてにならないわー。」という声がする。


遊歩道を歩く人を傷つけないように、重しをつけられている松の木があった。この木は、震災の時も、斜面を支えてふんばっていたはず。なんだかとても頑張ってる木だ。

歩道下の溝をサクラちゃんが歩いている。元気そうだ。
今日は、急ぎの用があったのか、声かけても振り向いてくれなかった。あの溝も掃除しないと。
                  
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