@「無私無欲」で生き抜くことは人間にできるだろうか。幕末の山岡鉄舟は、「江戸城無血開城」として、その実現に動いた陰の英傑だ。その後明治天皇の侍従職を全うし、後の半世紀は今でいう地域開発支援と人材支援育成である。多くの人々の心を掴み(年少の頃の貧乏生活が心と体を鍛え、生活苦のどん底を経験した)金銭的にも多くの人を支援し、「無私無欲」を貫いた。文中にある噺家円朝の桃太郎話に対して鉄舟は「お前の話は口から話すから肝心の桃太郎が生きてこない」と言う。これは、人に伝えることへの執念さが足らないから聞いた者が感動しないとでも訳したらいいのか、「心」を込めることが必要だと言っているようでもある。商売の気合の悟り「思いを極めること」だとも言っている。要するに、何事も自分で考え、工夫し、作り出すことは、自分の言葉・姿・形として相手に伝わり感動をもたらしてくれる。 現代風の「カット&ペースト」の他人の言葉では、相手に感動が生まれてこないという事だ。
- 山岡鉄舟(鐵太郎)剣、禅、書に通じた幕末・維新の英傑
- 1836年旗本小野家の5男に生まれ、槍術・山岡静山の家を継ぐ
- 尊王攘夷運動にめり込むが戊辰戦争時には将軍慶喜の意を受け官軍の陣地を突破し西郷隆盛と直談判「命も、名も、金も要らぬ、始末に困る人」(勝海舟)に言わせる人物で西郷・勝会談に先立ち江戸無血開城させた。維新後は明治天皇の侍従職を10年、明治政府の勲章調査では自らの偉業を主張せず、生涯、無私無欲を貫き1887年53歳にて没
- 江戸の4大道場
- 玄武館=千葉周作の北辰一刀流
- 練兵館=斎藤弥九郎の神道無念流
- 士学館=桃井春蔵の鏡新明智流
- 伊庭道場=伊庭軍兵衛の心形刀流
- 幕末3舟
- 山岡鉄舟=鉄舟の力・情の人(剣と禅を修行)
- 作事奉行、静岡にて遠州茶の基礎、茨城県参事、伊万里県令、明治天皇の侍従、子爵、従3位、勲2等
- 勝海舟=海舟の神・智の人
- 海軍卿、伯爵、枢密顧問官
- 高橋泥舟=泥舟の気・槍一筋の武士・義理の人
- 慶喜に付き義理をたて終身、世にでなかった
- 西郷隆盛は山岡のことを「誠忠、剛直、彼こそは側近に奉侍せしむる資格のある男」
- 諸流の荘士と試合すること数千万回=剣を鍛錬した
- 山岡静山は2尺(60・6cm)の木刀を差していたが、そこには「人の短所を言うなかれ、己の長所を説くなかれ」「人に施す慎みを念うなかれ、施しを受くるに、慎みを忘れなかれ」と書いていた
- 竹刀の長さは3尺8寸(115cm)が高校生で最大
- 試合の剣士達は3尺5寸を使用していた
- 大学生・一般は3尺9寸(118cm)となっている
- 昔の武士は7尺(212cm)ものもあった
- 鉄舟19歳、飛騨高山から江戸に戻ったのは黒船来航時であった
- 桂小五郎が長州から江戸の練兵館に入門
- 坂本龍馬が千葉周作の弟の門弟になった
- 勝麟太郎は蘭学者・兵学者
- 盟友となる清河八郎は江戸にて儒学者東條や千葉周作に学ぶ
- ペリーの開国で阿部老中は諸国の大名に意見を聞く、その数大名250、幕臣や一般から450もの答申あり
- 清河八郎は幕末尊王攘夷運動の一役を担った志士である、山師であり、策士であり出世主義者という呼び名まであったが、昌平黌に入り勉学、経学・文章指南として塾を開く、桜田門の変から国家革新に目覚め虎尾の会という秘密結社を作り、尊王攘夷運動に動く、山岡と「功名を立てて栄華を極めうことができれば思う存分行動して罪を受けてしむことが本望である」と誓った。清河八郎は将軍家茂を警護するべく浪士組みを立てたが、尊王として幕府の浪士により暗殺1863年没。
- 鳥羽伏見の変後慶喜は身辺に高橋泥舟を置き警備させた、その後山岡等70名が警護に当たった
- 「山岡鉄舟の動き」
- 慶喜は官軍に対する恭順を山岡に頼り大総督宮熾仁親王に伝えることになる
- 山岡はまず勝海舟と面談、勝の旧同士薩摩藩益満を同行する
- 山岡は「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鐵太郎、大総督府へ通る」
- 決死の行動を敵の中突進していった
- 静岡にて西郷との面談となる「江戸無血開城」へ
- 一つの条件だけは承諾できないと交渉し妥協する。それは慶喜を一人備前に預けることだったが、西郷が責任もって果たすと約束。
- 西郷の約束は山岡の勇気(無我無欲)に惚れたからだ
- 勝は「山岡しかできないことだった」という
- 寛永寺に構えた彰義隊への攻撃中止交渉にも伝達者となる
- 脱走兵に対しても御殿場まで出かけ中止を説いた
- 「清水次郎長の粋な行い」
- 富士丸と咸臨丸との戦闘で20数名の戦死者を海に捨てた
- 次郎長は敵味方関係なく屍体を放置せず葬った
- 「賊軍か官軍か知りませんが、それは生きている間のことで、死んで仕舞えば同じ仏様。仏に敵味方はありません」と答えた
- 「鉄舟の武士道とは」
- 仏教の理=忠・仁・義・礼・知・信さらに節義・勇武・廉恥
- 剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲、それ以上に必ず大道を履行すること。ゆえにその道の淵源を理解すること、無我の無我であることを悟ること。そうすれば三法の恩(父母の恩、衆生の恩、国王の恩、仏法僧の恩)の鴻徳を奉謝することに躊躇しない。至誠をもって一貫とすること。武士道には形もあるが心もある。形は心の発動だ、その精神さえ一定不変であれば形は臨機応変なものだ。
- 心を練り鍛えることなり、心は元来無限絶対のものであるから局限がない、従ってその心をもって相手に対しその心を働かして技を行うことで疲労、衰弱する道理はないと説いた
- 「鉄舟の功績」
- 殖産工業として静岡(牧之原や三方原)の茶開拓
- 明治天皇との忠誠関係(天皇との相撲で天皇の無謀な角力と禁酒を避けさせた逸話がある)
- 西郷隆盛との交友関係で征韓論においては戦争をすることをお互い避けたいと願っていた
- 大隈事件後の天皇護衛(平服そのままで駆けつけた)
- 商売の気合を悟る(何事を企画する時も、まず自分の心が明らかな時に、しっかり思いを極めておき、そうして仕事に着手したら決して是非に執着せず、ズンズンやること。(天龍寺禅師:滴水和尚)
- 「鉄舟の地場」
- 噺家の円朝に桃太郎の話を依頼した時「お前の話は口から話すから肝心の桃太郎が生きてこない」と言った。
- 様々な人々が救いを求めるとそれに応じて支援した
- 政府からのさまざまな勲章を拒否しており、井上馨直々に持ってきた叙勲も持って帰ってもらった「お前さんなんか褌かつぎじゃないか、褌かつぎのくせに自分よりも下の勲章を俺のところへ持ってくるなんてとんでもね間違いだ」
- 鉄舟の最後は座禅のままの姿でこの世を去った享年53歳
- 鉄舟の葬儀には雨にも関わらず会葬者が5千名を超えた
- 病気のお見舞いには200数名の集まり、明治天皇始め勝海舟門下生その他多くが訪れた
- 鉄舟死後も門下生等がお供として墓の前で亡くなっていた
- 鉄舟の最後の筆(司馬温公の家訓を書いた)
- 「金を積みて、もって子孫に遺すも、子孫未だ必ずしも守らず。書を積みて、もって子孫に遺すも、子孫未だ必ずしても読まず。しかず陰徳を冥々の中に積みて、もって子孫長久の計をなさんには。これ先賢の格言にして、すなわち後人の亀鑑なり」