@「犠牲による変化」、社会変動にはなんらかの犠牲が伴い、新たな社会がこれまで成立してきた。それは特に幕末から明治維新にかけて多くの事例を見ることができる。幕末の志士の思いは「尊皇攘夷」「王政復古」等いろいろな言い方と考え方があったが皆、現状への不満が「脱」として最終的には欧米風の近代社会を夢見て奮闘、戦ってきた。現代でも「現状不満」は数多くあれど「脱」に合う動きは、犠牲無くしてできるだろうか。明治維新の犠牲は廃藩と領地返納による上部武士階級も犠牲となったがやはり多くは庶民にあったと思う。 その時代の「脱」は正に「脱身分化」が大きく寄与していた。
現代、この「脱」は何を訴えたら変化・変革が起こるだろうか。さまざまな格差問題から超高齢化社会、さらに進んでAIにおける社会管理環境等、「脱」を掲げるテーマ・変革が政治・経済でも欲しいところだ。それに「脱」後の社会がどうあるべきかも提案することは必須である。
話が変わるが、日本ビジネスの非常識。日本の交渉術には超が付くほど時間がかかるが、それ以上に「犠牲を最小限にする役割もある」。だが何事にも余裕のない世代に今後この術は通じないだろう。「時間の犠牲」は何事にも時短を望むネット社会では当たり前だ。
『維新史再考』三谷博
- 広義•王政から集権・脱身分化へ
- 明治維新での政治的死者は約3万人、フランス革命より2桁少ない
- 明治で大きく変貌したのは「世襲身分制の解体」とその犠牲の少なさ
- 江戸時代武士の55%が一度も階層移動の経験をしていない
- 家格と政治の決定権の分離
- 禄あるものに権を与えず、権あるものに禄を与えず
- 家門=徳川の親族・親藩
- 譜代=関ヶ原以前の家臣
- 外様=関ヶ原以降の家臣
- 禁裏
- 廷臣の領地は総石高10万石
- 137家の公家
- 3位以上を公卿、頂点には5つの摂家
- 4・5位を殿上人
- 昇殿しない地下(じげ)官人が実務をしていた
- 僧侶は「世外」で下級武士や庶民より修行次第で地位上昇できた
- 盲人の男は「座頭」女は「瞽女」、年貢が免除、技芸・按摩、金融業
- 地下(庶民)は逃散(他領へ逃げる)、愁訴(減免を訴える)強訴(百姓一揆)に正統な行為として訴えることができた
- 中国は朱子学、日本はさまざまな学派・学問を選び生ぶことができた
- 最初に本居宣長が伊勢松坂に立てた鈴屋は学問の塾
- 広瀬淡窓が九州日田の咸宜園は最盛期2百人以上の学生
- 緒方洪庵の蘭学塾・大阪の適々斎塾
- 林大学頭の公儀学問所
- 水戸の藤田東湖・熊本の横井小楠・萩の吉田松陰等
- 西洋学の導入で公儀は江戸に「蕃書調所」外交文書を翻訳・通訳させ世界の情勢を把握できるようにした
- 尊王攘夷
- 会沢正志斎の「新論」は水戸から尊王攘夷運動を導いた
- 「攘夷」は「鎖国」ではないという軍事強化運動だった
- 攘夷論者と開国論者との闘争(藤田東湖・橋本左内)
- 一橋擁立で橋本左内は外交・内政改革案を将軍に出した
- 長期展望から同盟国を作り領土を開拓する必要性
- イギリス・ロシアとの提携(最終的にはロシア推奨)
- 国内改革では一橋慶喜擁立
- 天下有名・達識の士の登用・陪臣・処士の採用登用
- 水戸徳川斉昭・越前松平春嶽・薩摩島津斉彬・肥前鍋島直正を推挙(海防論)
- アヘン戦争と鎖国
- 1842年イギリス・清とのアヘン戦争(銀の流出阻止)
- 清政府は領事裁判権、協定関税、最恵国待遇など不平等条約となり中国の南部、香港に軍事拠点、上海などに経済拠点を余儀なくされた
- 1853年ペリー来航以降の幕府の動き
- 阿部正弘=鎖国・海防
- 海防掛=避戦
- 浦賀奉行=海防(鎖国をやめる)
- 1853年日米通称条約提携(朝廷勅書ないまま)
- ロシア条約は千島・国後・択捉は日本領、ウルップ以北はロシア領とし、樺太は国境を決めず雑居地とした
- 1855年フランス・1859年オランダと条約、琉球は清の藩属国、および島津家の領分となった。
- 吉田松陰等の門下が開国前攘夷論を唱えた
- 長州の周布政之助「攘うとは排するなり。拝するとは開くなり。攘うて後は、国開くべし」とし、井上馨、伊藤博文5名イギリス留学
- 1865年連合艦隊の威圧により徳川家茂が一旦政権返上、天皇は条約を勅許した。翌年海外渡航許可が出ている「鎖国解体」
- 水戸陰謀論がきっかけで
- 一橋派の処分
- 王政復興の運動家逮捕
- 公家の処分
- 最終的な断獄
- 幕末の立場
- 幕府=強兵
- 薩摩・長州・越前=公儀
- 志士(+長州)=公儀+攘夷
- 幕府=公武合体VS長州(禁門の変)→長州討伐
- 幕府の大政奉還(1867年)→王政復興→鳥羽伏見(1868年)
- 王政復興までは慶喜は政権の一元化の必要性とその後もその政権に慶喜の采配が必要だと考えていた(春嶽との約束)が1867年12月大久保利通・岩倉具視・西郷隆盛のクーデターにより慶喜排除が決定
- 鳥羽伏見後は薩長土肥・西国大名VS会津・桑名・旗本・東北大名
- 慶喜は急遽江戸に逃げたことで徳川権力が崩壊する方向に
- 土佐・越前・尾張・宇和島が徴士制度から体制を変える
- 五箇条の誓文(土佐の福岡孝悌と越前の三岡八郎作)
- 太政官=立法・行法・司法とする
- 人材登用(20%が庶民出身となる)
- 廃刀から武士身分の解体と平民統合へと動く
- 版籍奉還(1869年)→廃藩置県(1871年)へと新政治体制
- 岩倉・大久保・後藤・三条・広沢・木戸らが中心で決定
- 外交と戦争は中央政府による独占となった
- 対抗勢力
- 古谷作左衛門・新選組・大鳥圭介・彰義隊・榎本武揚
- 会津藩・庄内藩・奥羽列藩同盟
- 諸外国の戦争規模
- 南北戦争:5年間、戦死者は61万人
- ドイツ・フランス戦争:10ヶ月、18万5千人
- 戊辰戦争:半年、1万3千人
- 「知藩事」の設置と非世襲制を採用、公卿等「華族」の共有身分
- 反勢力として大村益次郎・横井小楠らの暗殺、雲井龍雄の捕縛
- 中央政府の政策
- 1871年散髪・脱刀の交付により身分標識が除去
- 帯刀禁止は5年後1876年
- 敬礼強要や無礼討ち禁止、婚姻の自由
- 脱身分化政策は渋沢栄一による(非身分解放令)
- 1872年学制、大学8、中学校256、小学校53760
- 教育の普及はフランスを基盤とした
- 読み書きそろばん+翻訳物、地理等
- 文科省の東京大学、工部省の工部大学、司法省の法学
- 札幌農学校、農商務省の東京農林学校
- 海軍・陸軍等の士官学校
- 卒業生の一部は官費で欧米留学した
- 徴兵制度・薩長土の「近衛兵」基盤とし、諸藩から士族公募
- 1871年戸籍法(人口と国土把握)
- 1872年郵便事業の国営化
- 新聞の普及(印刷技術+公文通達発展)
- 定期航路(蒸気機関船)横浜・神戸・長崎・上海
- 1871年海底ケーブル長崎上陸(上海—長崎—シベリア)
- 1871年日清修好条規を対等に交わす
- 朝鮮とは一旦摩擦を生じたが8年後ともに更新
- 1872年横浜—東京鉄道開通、74年には神戸—大坂開通
- 1872年県令・権県令とし藩は270→72県に編成された
- 1880年曽根俊虎の「興亜会」で日・清・韓の人的交流
- 政府収入と地租改正
- 廃藩後の1年間(1869年)は4倍に増えた
- 租税は45%から76%へ
- 戊辰内乱から借金への依存が和らいだ成果となる
- 藩の借財を政府が負ったが武力反乱の可能性を棒引きにした
- 藩の借金は8割が切り捨てられた(豪商での生き残りは34家のうち9家のみとなった)
- 士族の家禄は3分の2を削減、残りを禄券で発行し、国が買い取った
- 禄券の資金は外債にて募集(イギリス式を学んだ)
- 岩倉具視使節団の冒険
- 1871年半数の首脳の半数50名が欧米へ、大久保・木戸等
- 残留組は三条・西郷・板垣・大隈等、新規政策を禁ずとした
- 予算編成で江藤と井上の対立(佐賀藩の台頭となる)
- 征韓論問題浮上し西郷、板垣・後藤・江藤・副島が辞表、分裂
- 江藤は佐賀で征韓党や憂国党の反乱(佐賀の乱)に巻き込まれ政府により処刑されたが、伊藤博文により大久保・木戸・板垣は復帰
- 1877年西南の役
- 西郷と大久保の対立(近衛兵の行き場所を抑えた)が大久保の政変での裏切りと裏工作(政府による鹿児島の弾薬庫からの弾薬の回収、川路による警察派遣で西郷の暗殺を計る計画)約1万6千名で挙兵する。
- なぜ傭兵を東京に送らず熊本城で籠城したのか
- 海上ではなく陸上での決戦を選んだのはなぜか
- 欧州的国家
- 西洋文化導入・王政復古から主権国家・国民国家・民主国家
- 帝国主義(軍国主義)へと移行する
- 明治維新の近代化は西洋による侵略から防衛という課題意識による社会変化であった
- 国民—公論の主張により促進され、西洋の理想と制度を導入した
- 現代において、社会全体における飢餓の消滅、富裕化、長命化による構造変動が起こる
- 社会の公正・平等・安寧・自由、人類に普遍的に歓迎されるような秩序規範は果たしてどこに生まれるのであろうか。