@勝海舟の生き様、正に「功なし、また名無し」を格言としていたが、最後まで主人を立て一心に守り抜いた志があった。明治初期の政治の中心に勝失くして事が成り立たなかったこともなんとなくこの小説で解る。それは異国の事情に詳しく、それぞれの藩と家臣・志士の動きを視、民衆の心を読み、今何が足らないのか、次は何が必要で、どんな事になるのかを予測、洞察力と先見の明にあったと思う。それには場所と時、それに位(役職)を気にせず誰とでも会い、相談できる意気込みがあればこそ実現した勝の人柄であり信念だと思った。現代は机上(ネット上の情報含め)で物事を云々言う人々が多くなったが、やはり「実体験・実体感」はそれを数倍にして人々を信頼、信用させる事が可能である。説得力が全く違う。文末にある政治家の武器は言葉だけかもしれないが、政治界の決まり文句・言葉、「誠心誠意」だけでは人は信用しなくなる。
- 1853年ペリー来航、一介の小請負・勝海舟の海防愚存書
- 蘭和辞典・3千ページ、語数9万、58巻=長崎通辞11人23年、1833年に作り上げた「御用紅毛辞典」
- 勝麟太郎は諸外国、アメリカ、フランス、イギリス、オランダの鉄砲、大砲、戦艦どれをとっても日本は戦には勝てないと悟っていた
- 幕府老中・公家等は世界を知らず鎖国で長い安泰を図るが、長州、薩摩等は世界の動き、特に中国とイギリスとのアヘン戦争後の条約を知り早々に富国強兵にすべきだと進言するがなかなか理解してもらえない
- ペリー来航等続々と開国、開港を望む諸外国に対し、井伊直弼はアメリカに対し勅許なしで開港するが、攘夷派等から次々と老中が暗殺される
- 長崎等が主な諸外国との貿易出先口となったが、薩摩、佐賀、長州等も密貿易を開始、武装を強化していく
- 当時最初の戦艦は主にオランダから購入、その後イギリス、フランス、アメリカ等から購入するが、幕府の持つ大砲、銃などは飛距離が短く、陸の砲台にある大砲距離が最新戦艦の大砲と比べると10分の1にも満たず、生麦事件の衝突後の薩摩は イギリスからの一方的敗戦となり諸外国の武器への近代化を悟った。その後一気に薩摩・イギリスが手を結び最新鋭の武器購入、兵を集め尊王攘夷、公武合体へと始動する
- 若い将軍家茂は先見の明もあり海防策、人材教育への強化を命令したが途中病気で亡くなり、決断力の乏しく煮え切らない慶喜の動きと責任逃ればかりの家臣等で中止、幕府側の体制が崩れ始める。やもなく大政奉還を余儀なくされ、江戸城無血開城へと刻は流れる。
- 熊本藩にいた佐久間小楠が越前藩松平春嶽に仕えた始めた時、幕府改革を提唱した「国是7条」は一部慶喜が実現する
- 将軍は上洛しこれまでの非礼を朝廷に詫びる
- 大名の参観をやめ述職とする(諸事情の意見を述べる権利)
- 大名の妻を国許に返す
- 外様・譜代の別なく有能な人材を登用する
- 言論の道を広げ、公共の政を行う
- 海軍を興起する
- 相対の貿易をやめ官の貿易にする
- 1864年「蛤御門の変」(禁門の変)
- 幕府側3200名(会津藩、福井藩、薩摩藩、大垣藩、桑名藩、新撰組VS長州藩 戦死者400名
- 洛中での火災で家屋2万7517軒、神社253箇所、神社境内建物155軒、諸侯屋敷40箇所、堂上方18箇所、東本願寺、仏光寺、雲華院を消失した
- 幕末に幕府が所有した軍艦
- 観光丸・朝陽丸・蟠龍丸・富士山丸・翔鶴丸・回天丸・開陽丸
- 幕府はイギリス・フランス・オランダ等と同等の条約をする、だがイギリスは小国オランダの参入を抗議
- 勝海舟の交渉の秘訣は「明鏡止水」何ももくろんだりしない正直姿勢
- イギリス・米国・フランスに許可した兵庫開港では幕府の財政難から豪商などの組合組織(兵庫商社)で金札を発行、湾岸建築をした
- 坂本龍馬の「船中八策」(天下の政権を朝廷に奉還し、朝廷が政令を敷く)は立憲国家を作ることだった
- 土佐藩山内容堂は大政奉還兼白書を提出、慶喜はこれを了承した
- 上院・下院性で選挙、上院議長は慶喜とした
- あくまで慶喜が中枢にて国政に尽力をすることが条件
- 岩倉具視は討幕の為の玉松操の錦旗を作った(官軍<>賊軍)
- 慶喜の参謀・行動派の原市之進はフランスからの謝金で軍艦を購入、薩摩を潰す計画を立てたが、暗殺された
- 岩倉具視は討幕の為の密勅を発行、慶喜の殄戮を仕組む
- この密勅は摂政、関白も知らず岩倉具視が薩摩を動かすものだった
- 勝海舟は開陽丸の榎本武揚に手紙を残した
- 変動を静かに受けるか、戦闘になるのか
- 慶喜の右にでる人材がいない
- 薩摩・悪人どもが討伐に動いた時には天朝の為に動く
- 徳川方は会、桑、井伊、紀州、藤堂、大垣、加賀、1万8千名
- 反する薩摩、長州、土佐、芸州は6千名
- 勝海舟は幕閣に書簡を出す
- 「天下の大勢は声望と名分に帰せず、かならず正に帰すであろう。私に帰せずして、公に帰するに決まっている。天下の形勢が正に帰せざるのは、国政に携わる要人が無学であることと、鎖国の陋習が正しいと信じ込んでいるからである。世界の諸国は往来が容易で庶民は四方へ航行する。これは文明が日に盛んになり従前の比ではない。日本では下民が日々に世界の事情にあきらかではなく、上層部の者が世情に暗い。この為紛争が相次いで起こるのだ。硬化した頭脳では旧来の陋法を守っていては、天下は治められない。政府は全国を鎮撫し、下民を撫育し、全国を富ませ、奸者を抑え、賢者を登用し、国民にその向かうところを知らしめ、海外に信を失わず、民を水火の中に救うをもって真の政府と言えるだろう。」
- 鳥羽伏見の戦いの前夜、慶喜は風邪気味で寝込んでおり、「決してこちらから戦いを挑んではならない」としていた。その後江戸に単独で戻る。(大阪・京都に残された幕府軍は慶喜の不甲斐なさをこの時覚えた)
- 慶喜は朝敵の名を被ること、一戦して長期化すれば印度、支那と同等の運命に陥ると視ていた
- 大阪城内には米穀がおよそ5万俵、金銀銅など約120万両あった
- フランスシャノワン陸軍教師等、勝は戦略戦術の伝授を受けたが継続を断り、フランス公使等は帰国した(幕府側支援国が離脱)
- イギリス通訳師アーネスト・サトウ「外交官の見た明治維新」を主筆
- 朝廷側の金銭は金札を発行し豪商を脅かし軍費の融通を図ったが、明治維新後その借金は帳消しとなり無となった
- 新政府は有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、3道(東海道、東山道、北陸道)から軍兵5万人を立て江戸・徳川討伐を目指した
- 山岡鉄太郎は慶喜からの恭順書を西郷に届け、江戸の大火を防ぎ、最後江戸攻め1日前に西郷と勝との会談で「江戸無血開城」となった
- 勝海舟は官軍の江戸攻めを想定した準備もしており、官軍江戸侵入を止める為多くの侠客を雇い 江戸市中の放火を依頼(ナポレオンとロシアの戦い「焦土戦術」を真似た指示、30万人のフランス軍は極寒と食物と宿舎なしで結果2万人までに減りロシアは勝利へと繋がった)
- アメリカに発注していた甲鉄艦ストーンウヲール号は受渡しを拒否、幕府側、朝廷側(官軍)双方に渡されなかった
- 開城後勅使30余人ほどが城へ入場、全員決死の覚悟だった
- 勅使の徳川への勅命5条
- 慶喜はしばらくの間、水戸へ謹慎
- 城は尾州藩へ引き渡し
- 軍艦、鉄砲等の引き渡し
- 城内の住居家臣、すべてを城外へ退き謹慎
- 勝海舟は無血開城後の会見後、帰途で3度も狙われた
- 幕軍・輪王寺宮公現法親王の彰義隊(大鳥圭介)6百人、会津藩、桑名藩は総計2千人、大砲2門は上野から宇都宮、会津へ、その後蝦夷へ向かう(大村益次郎の決断で菩薩院・彰義隊を攻めた)
- 幕府海軍は開陽丸含め7隻(榎本武揚中心)は会津、最終的に蝦夷(新国家建設)へ向かったが、蝦夷の悪天候で座礁、沈没した(最大戦力艦を失くした)
- この混乱の中、福沢諭吉は塾の普請(400坪)を格安で行う(のち慶應義塾となる)福沢はアメリカ視察で多くの辞書、地理書、歴史書、法律書、経済書を買い込み塾生に勉強させた
- 江戸の旗本、御家人、家族約37万から38万人に達し飢渇、夜は盗賊となり強盗、罪もない老幼子が殺傷され路上に倒れた
- 勝は、東30余国の農夫たちは官軍、諸藩の人夫に駆り出され秋の収穫ができなくなっており、翌年の糧を心配した。また徳川領国も4百万石、360万俵であったが、それが最終的に70万石では5−6千名の徳川家臣を養えない嘆いた
- 慶喜は駿府に移動、蟄居。静岡に移った8万人の旧家臣等は解散
- その後旧譜代大名、寺院等から20万両を集め徳川慶喜は生かされた
- 「政治家の秘訣は、ただただ誠心誠意の4字を言い続けることだ」
- 勝海舟の好んだ言葉は「功なく、また名もなし」
- 勝を含め先人たちは何を糧に、どんな信念をもって生き抜いてきたのか