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【安心!ビョーク日本公演/もっと堂々とする】

2008-02-28 | ・nTinDEEP


これも同じだもしもブルーマンよりつまらなかったらどーしよ。
と心配で心配でビョぉ~~~ーク!日本公演。

特に今回は、前回のポリスと違い、「現役バリバリ」の、
今や景気の悪さそして自分的にはおなじもんばっかでつまらないもんばっかだぁの
現在の「音楽ギョーカイ世界」において、
今やその世界における代表的存在=メジャーアーティストとなりつつも、
おもしろい!と私を安心させ、いまだその王道とんがりつっぱり走り続けては、
その「魂」護り踊り唄い続ける、私の中での貴重な選手でもある、
(要するに大ファンでもありそそる女)でもあるビョークという事で、
それはそれよりつまらなかったら、ホント、世界中の「音楽ギョーカイ世界」は、
もうこれからビオンビオンバンバン他のジャンルのアーティストたちから、
ガマン汁もらしてしまうほどに恥ずかしいほどになめられまくられていき、
その地位と伝統は、人気視聴率低迷ゆえにその優勝決勝戦のナイターさえ見れずだった、
オヤジ悲しき現在の読売ジャイアンツのように、その衰退は、北極の氷やツバルの海岸侵食級、
最早、その上部管理責任者たちによる人災きわまりなし。への怒りと混乱で、
いまだしっかり確実に準備完了活動再開させられぬジレンマにある私の歌手魂も、
恋する篤姫を突然島津斉彬の殿様に強引に略奪され混乱ショックぼんぼん男泣きに見舞われ、
後に幕末は明治維新で活躍する事になるもまだまだ当時ただの人のいー良家の若侍だった、
ガキ尚五郎時代の小松帯刀なほどの、すまん無念!なる思いで、
そんなこれでもまだまだとーくも我が家系にたかが大道芸人ヨソもんたちによって
突然攻め込まれ起きたお家の危機なる屈辱プレーに、何も力ならずばかりか、
そんなプレーを偵察しつつ不覚にも「おもしろい!」とボッキしてしまうほどに、
何も出来ずの自分の無力に対して、
その帰路の車中で思わずばかやろうるせーほらどうだどうだへへへへ
とそそる女でもあり大ファンでもあったアイスランドのもーいー歳でもある女の歌手を、
乱暴に裸にしては抱きつきその恥棒で強引にその女の恥穴に狂い溶けるほどに
突っ込みまくるバカ野郎の俺になるんじゃないかと、もー、
こわくてこわくて心配で心配でびくびくぴくぴくちんこりろりろしながら観に行ったら、
そんな私の心配ぴくぴくなど蹴飛ばすようにして、予想以上!
それは、見事な柔の美空なほどに、いまだその王道とんがりつっぱり走り続ける歌熟姫ぶり。
やっぱ。この低迷する世界の代表として現役バリバリ過激に元気にとんがり踊り唄い続ける、
ロックなこの女性歌手の音楽世界は素晴しい!やはり現役の音楽もがんばってる!
そこにちゃんと現役でのロックは存在してる。



というほどのこれまた予想以上のハッピー元気さで、帰路の車中での私は、
突っ込みまくるバカ野郎の恥棒君になることもおまわりさんの顔近づかれて
はーと息吐かされる不快な検問に会う事もなく、無事に帰宅すると、
私はすぐに大好きなあの可愛い踊りを私に見せそそらせ唄っていたビョークに感謝するべく、
マックに保存してあるビョークのDVD映像を起動させると、映り出したそれに向って、
心をこめて何か美しいお礼のコトバを囁き唄おうとする前からもうまぁた
恥棒が反り立っていて、やっぱコイツのLiveはやばいわ。
ほんとあの声に加えLiveでないと見れないほんと大好きな、
その女のその踊る動きがものすげ恥棒をぴくぴくぐいっ!と
そっちの方から先に元気にさせてもらっちゃって。まそこらへんからして、
そこらへんの同業もんたちなど、眼中にないほどになめまくるほど、
それは俺決して嫌いじゃないあのマドンナもかすむほどに生意気女歌手そーな
うれしく過激爽快なるその女の「魂」ぶり。妻にしたくは絶対ないけど、
女の歌手としてのあの歌声と、Liveでの決して振り付けではないショーではない、
その動き(踊り)そのステージ・パフォーマンス。ロックだ。ロックってやっぱ良いべ。

とにかくやっぱ。エロかっきいかった。



そーいればじゃないそーいえば、
日本でもエロかっこいいと言われてるらしい歌手の娘が、
ラジオ暴言事件とかでバッシングを受け、テレビで、その反省を現すように、
いつもの派手さおさえた地味な格好で意外に可愛いじゃんのすっぴん顔を
若い娘な純粋な涙で浄化するようにして、その自分の発言の無礼さに対して、
一生懸命誠実に泣きながらこたえている姿を観たけど、
うん、それもえれーそそったよ。
しかしそれは同業者としてではなく、単なるS系えろジジーとしてな。

なんだかんだいっても、まだまだ若いただ子供なその今の大物歌手娘?が、
そのぴちぴちしたすっぴんまる裸にされ、大衆のペット玩具となって、
同じシステムの住人社会人として、屈辱的に服従し、テレビの画面で、
全国の大衆から輪姦レイプ奴隷プレーされているその光景に恥棒ぼっきそそったぞ。という、
それは煩悩そそるなもんであって、その娘の作り出す「音楽世界」に関しては、
まったくつまらなそうなので知らないのでそそることもない。
だからって決してその人格が悪い娘とは言ってないし思わないし、
きっとふつーのまだまだ可愛いいー娘だと思うししかしジジーそそるしつまらなくはないおもしろいと。
まったくつまらないのはその娘の音楽世界なだけだと。
おもしろいったらエリカさまのがおもしろいかな、けどヤツは女優だ世界違う。おっとくやしい。
ブルーマンではなくエリカさまに負けてるぞ。ロックさで。音楽屋の娘よ!



話によると、その暴言娘は我が国の音楽ギョーカイを代表する
エロかっきー女性歌手らしいんで、だったら暴言いーじゃん別に。
しかしその音楽世界でのエロさ加減は、感じたとおりのジジーそのまま
かっきーつけないでエロだけでじじー十分いーからの、かっきーければ良いもんでもないしの、
煩悩そそるなかげんなソレもんほどののエロくてよいよいひひひひこの娘。

って、あ。決してバカにしてるんじゃないっすよ。あららら
あーなんだかやな野郎だーとか誤解されそーだぁ、ますます人気なくしそーだぁ、
まじーか、が、うぉっと!そーだった!

もっと堂々とする。だ!     よしわかった!



じゃーその私のエロかっきーアイスランドの女歌手が同じような事件をおこし、
同じようにあのテレビでのインタビューにこたえるとしたら、どうするか?


まず大か小かはわからないけど、しっかりご不浄(ベンジョで)で便出して、
まず顔と手とかを洗ってこう唄うよ。
そのギャーギャー毒声快く頼もしくもしっかり世間をなめきって。


これが私のつまらなくはないエロかっきーくてぜんぜんおもしろい音楽世界。

下の青い石は、それの男版。ファンだス。こいつはきっと俺だス。
偉大なるアホなる世界。そこに潜在された愛の怒り。感じてほっしっす。
その堂々たるまでのエログロさに秘める、堂々たる自分を含めての人間の愚かさへの、
せつないまでの純粋さ。まるで大日本人の松本だス。しかしこれはそれより昔の作品。
さすがだス。負けていません。このサウンドのエロかっきーさ。
そこにこの音楽がなければまったく危険な世界、ゆえに音楽ビデオ作品の名作。
見事なまでに「音楽家」としての男のロックだス。しかも踊ってやす。マイケルジャクソンやってます。
その堂々たる映像そのパフォーマンスぶり、そののユーモアに、世の中なめてる男の優しき愛がある。
すべて一級の男のロックの偉大な名作だス。王道作品だス。

しかも、よく見たら、ぱくられてるじゃん。上の画像紅石の女版に。
すごいなやっぱこの下の青石野郎。先にもーやってる。ハリウッド製アホ傘踊り。
うれしい。同じ男として。同じ音楽屋として。

柔の美空ひばりしかり女ばっかだ最近はと思ってたら、いたいたちゃんと男も。
忘れてたいたの。このビョークよりも大日本人よりも先駆けてた、
この感じ。その純粋さこの子供さそのせつなさそしてこの侠気(おとこぎ-ロック)さを、
どうか理解してほっしロックを愛する仲間たちよ。これこそが、最近ではめったに見れない、
貴重な男の純粋そのものほんもんの「ロック+音楽+ビデオ」作品だから。




とにかく世界的に今の音楽ギョーカイ世界の発する音楽は、
私には、ほとんどつまらない。エロかっきーくない。でも、
きっとそーじゃないのもあるのはあると思う。
俺の知らないしかしおめーの知ってるその好きなやつとか。それに、
リベンジLiveやったババーのピンク・レディもかっきーかった感動もんだったし。だからに、
こんなこと書いてるけど、
決して偏ってはいないぞせまーい目でいってもいねー俺わー!
しかし今の音楽ギョーカイ世界はほとんどつまらないもんばっかでおもしろくねーなー!

ごめんなさい。関係者のみなさま。

はい。私もこうして暴言してるんでよかったら俺にもバッシングしてみて下さい。
テレビだろうとなんだろうとどんな質問にも堂々とおこたえします。
要請されたら、堂々とおこたえします。
いくらいおーとお前たちほど暴言は言えてないことなどを。
とかこれでいて、いつも親身になってその世界を応援してる事も言いたいです。
これでも私は同じその世界の者だから、その世界をこれ以上つまらないものにさせぬよう。

ゆえに大衆のペットとしての役目は果たせませんし視聴率はとーてー稼げませんが、
それでも良いというなら、それは敬意をもってよろこんで受けてたちますちんこと共に。

その世界の者としてはごくごくマイナーちんこの微力な自分ではありますが、
これでもその世界に乗り込み貢献しよう唄おうと、イー歳こいても
こーして出来る限りボッキしバイアグラなしで頑張り準備してる最中だし。
そしてまた、こんなこと書いてますが、もちろん、私はひょーろんかじゃありません。
そういう役目にありません。そういうつもりで書いてはいません。
しかし自分の役割は決して怠ってないですたいにおいどんに。

だからココでこーやって一生懸命生意気にも言わせていただいてるんだス。
だって。俺。ロック歌手だもん。そこんとこよろしくぅ。

しかしほんと。ポリスもビョークも、ブルーマンよりつまらなくなくて良かったぁ。
読みにくいか俺の作文。
次はついに歌舞伎に進出、大マークの中村勘三郎だ。
手強いぞぉこいつもぉ。おもしろいぞぉこいつもぉ。負けねーぞぉ俺もぉ。
って俺はいま実に音楽屋。やる気だぞ。やってなくないぞ。
バンド(音楽)やろーとしてる「魂」ぞ。だからよろこべこのやろ。
数すくなぁ====いけど確実に存在してる愛すべきかわえー俺のファン。

おめーだ。

あてめ。にげんな。このやろぉ~~~~~~~~!

とかどだこんな俺。

もっと堂々とするとこんなもんだぞ。こんなにもだぞ。どんだけなの俺。
でもぜったいそんだけ言うだけのことあんだけあんぞどんだけなんだの俺。
だってぜったいおもしろいもん俺ぜったいつまらなくはないあてめもにげるなこのやろどんだけだ俺。
って。まったくわからんぞ俺。

いーから平気でいっちゃおやっちゃお俺もおんがく。



キヨシロさんの復活Liveすごい良かったんだってにも安心の魂。


【エネルギーの源泉2/たましいつーほんしつ】

2008-02-18 | 「 S 戸 S 」


もしもブルーマンよりつまらなかったらどーしよ。と心配で心配で。
しかも、解散してからもーいージジーになってまたやるにおいて、
あの完璧な不屈のシンクロニシティ・Liveをやってしまったポリスが、
それを超えるLiveなどあり得るわけがないあのまんまでいーじゃんそいでとめといて
というのもあって心配で心配で。こわくてこわくてびくびくちんこぴくぴくしながら観に行ったら、
そんな私の心配ぴくぴくなど蹴飛ばすようにして、予想以上。
シンクロニシティ・Liveとかなもん
関係させる事もない蹴り飛ばすほどの施しよーで、すんごとても良かった、うわー感心した!
ので、すんごいやっぱポリスは私の大好きなロック・バンドであると思う自分は、
同じ仕事仲間として、誇りを持った良い気分だしぃ。

なにしろそれまでロックバンドの王道として、
ジミヘン、クリームといった「三人バンド」というかっきー形があって、
それは不動のかっきーものの殿堂ものでもあった中で、
しかし殿堂つーだけにスタンダードになりつつあったそんな時期に私は、
渋谷公会堂でポリスの日本初公演を観て、それまで王道だった
「3人バンド」の基盤をぶち壊すほどの斬新さで私に迫って来る
その新しい3人-ロック-バンドのサウンドその「Live-演奏力」を観て、
その俺たちだけさオリジンさそのレゲきかした新鮮ロックなビートの気持ち良さに
どれだけかっきー!と衝撃を走らせた事か。

特にその致命傷としてあったのは、それまでジミヘン、クリームの三人バンドの花形だったギターが、
派手に目立つ事なく緻密にエフェクトされた音色で潔いほどにシンプル極まりないアンサンブルで、
堂々と全楽曲の大黒柱として「気持ち良く」光らせているそのバランス感。
まったくかっきーったらなく、私が重要視するキャラも不良いーでーエロく、
何しろそしてとにかく「三人バンド!」やっぱロックバンドは
「トリオ」だとかもーかっきーにもほどがあるもーなんだこいつら!?つー。

そんな衝撃的出会いから100万年。

心配ぴくぴく観に行ったポリスは、大きな東京ドームのステージで、まったくシンプルにポリス3人だけの演奏力で力む事なくちゃんとに素直にジジーさ出し、そのリスクをしぶーいしびれるような粋なアレンジで引きつけ聴かせるあのコナシは、最初に出会った衝撃と同じほどの驚きだった事はまったく予想だにしなかった事で、やった。奇跡みた。ラッキー!

つー感じだスどスでス。

奇跡。というのは、ラッキー!ということ。



ポリスだかモリスだか知らないが、
ロックだロックだ言ってていー歳して何。おま、バンドやんだって?

あ。俺のシュゴレーだ。嫌な時に現れやがったな。

何があらわれやがったなだえらそーに。俺はお前のシュゴレーなんだぞ。
あれ。あれ書けほれ、前から言ってるやつ。

今バンドをやろうとしてんでそういう話書いてんだからアレは今いいだろ。

いくないべ。そうゆう話だったら関係あんべ。バンドやんだろ?

やる。

どんなのやんだ?何。かっきーの。って?お前はガキか。
かっきーんじゃないだろ。いくつだお前は。え?お前は舟木一夫か?高校三年生か?
ニレの木陰に夕日を染めてか?何?そんな古すぎてかっきわりーもんじゃないって?
舟木一夫は昔はハイミナールでらりってばっかだったらしーじゃねーか、ええ?
それがロックとかゆーヤツなんだろ?セックスどらっぐろっけんろーるって。
キチガイかおめーら。なもん何がかっきーんだ。

ロックとかじゃなく「魂」だろ。それだけでいいんだ。それがあるもんやりんさい。
何?それがロックなの?せっくすどら.....ってのは、違うのか?えなに?
そんなのははるか昔のはなし?フナキカズオは歌謡界?
おーそーなのかよくわからんがすまんすまん。しかしだったらだから関係あんべってんだろ。

「魂」の話。「本質」の話。今回も書きなさい。

あ~~~~~~~~~~~~~~~~とぉ~~~~~めんどくせーけどぉ~~~~、

まず「魂」という言葉な。

それって、二千年前、二千五百年前の宗教や哲学なんかだと、幾らでも出てくるけど、
現代に近づけば近づくほど、霊的な色彩は薄れ、精神や心、あるいは、
脳の作用、神経の作用というような表現になって来てさ、でもって、
そのように考えることが、学問的な進歩・進化であるかのように思われがちだけどさ。

たとえば、哲学という学問は、現代では、数学的な考え方や記号論理学の考え方などが入ってきて、
えれー難解なものになってて、そのため、
「哲学書を読んで、魂が浄化されてきれいになり、悟りを得られる」
とかいうようなこと、誰からも聴かなくなってるべ。

哲学は、昔とは違った学問に転化してんの。

ただ、プラトンは、はっきりと魂の存在を知っていて、その存在を肯定してたんだって。
彼の一連の著作には、何度も何度も魂の話が出てくるの。

しかし、それを読んでいる近現代の哲学者の多くは、霊的な体験がないために、
魂の存在について触れていないことが多いし、デカルトやカントあたりから、
精神と肉体を分けて考える傾向性が強く出てきたので、その影響もあったりで、

精神と肉体を分けて考えることは、学問の細分化、専門化という意味では、
確かに諸学問を発達させた面があんだけど、逆に、
それによって物事の本質が見えなくなった面があんだね。

もともと、哲学はいろんな学問が統合されたもので、哲学者は、
「人間の本質とは何か。人生とは何か。この宇宙に人間が生きているということは、どういうことか」
という、本質的なことをマジメに求めていたはずなの。

だけど、機能がさまざまに分化し、学問が細分化した結果、
それぞれの専門家は生まれたけど、全体を見ることのできる人は少なくなってしまったのな。

哲学だけでなく宗教においても、同じようなことが言えるの。

キリストやブッダとかいった本物の宗祖といわれる人たちは、もちろん、魂の存在を理解していたはず、
でも、数百年、千年、二千年とたつうちに、霊的体験のない宗教家が出てきて、
経典を文字だけで学問的に学ぶことをもって宗教とする人、あるいは、
法具を用いてさまざまな宗教的儀式を執り行うことをもって宗教とする人が、
たくさん出てきて、宗教においても、本質が見失われて、文字になった部分や儀式などのかたちだけをなぞり、
みんなの知るところではあの悪霊の巣窟の象徴みたいなアサハラ?「オームしんり凶?」
とかいう教団だか凶団だかみたいのがいたっけね。何しろ、哲学でも宗教でも、音楽でも。

ちゃんと「魂」が入っていない状況が続いているの。

魂の存在を抜きにやってるもんなんて、つまらないもんばっかだろ。
どいつもこいつもこーなんつーんだろ心に付着したうんこを、浄化し
真っ赤に燃やしてくれるようなそんな魂に響く音楽ねーだろええ?

と俺のシュゴレーは言うだから。俺が言ってんじゃないからな。



なイーワケいーわけーモンでもねーんだから誰が言う言わぬじゃなく
いらない事書かずにいーから、ほら、私の言うことぼんぼん書きなさい。
えなに?もーこれにばっか時間使ってられない?
バンド結成Liveの用意始める?何言ってんだアホだねお前は、これもその用意だろ。その一環だろ。
大体、実は今年初めの書込みからして、もうその「バンド」のLiveその物語、
その「作品」は、すでココで始まってる。ココはすでにもう会場で、Live前に流れる「BGM」は、
ココで書込まれるコトバたちが、その響きを放っているわけでとかあっ!ばらしちゃったが、
まーいつものやり方でもあんからいいだろ、だからいいからいいから書くの。

と「俺のシュゴレー」は言う。俺じゃないから。じゃー書くが。

魂の存在そのものを、きちんと教える必要があるんだ。
そうしなければ、人間は、自分の本質や人生の本質を見失ってしまい、
何のために、この世に生まれ、この世を去っていくのか、その意味が分からなくなる。
人生の目的を知らなければ、正しい人生のあり方は分かるはずがないから。

魂の存在を抜きにして、正しい人生のあり方や人生の意味をいくら問うても、
根本的な解答を得ることはできないんだよ。

あのな、在るから在るとしか言えないが、私のシュゴレーが存在してるように、
死後の世界、あの世は、100%存在してるから。
わからないだろそんなのじゃなく、存在してるから。責任持って言えちゃうから。

だから、この世の部分だけを取り上げて人間の生き方をいろいろ議論しても、
決して本質に辿り着くことはできないの。

特に、19世紀後半から20世紀にかけて、実存主義哲学が流行ったが、
いろいろな人が説いているので一概に要約はできないけど、その背景にある思想は、

「人間は、自分が望んだわけでもないのに、偶然に、この世に投げ出され、
何をどうしたらよいかが分からない不安のなかを手探りで生きている存在である。
そういう盲目的な人生を生きているのが人間なのだ。」というもの。

この思想は、まったく的外れだから。断言するから。

実存主義の哲学者が説いていることは、たとえて言えば、子供が、
「ある日、気がつくと、私は小学1年生になっていて、ある山間部の小学校の教室で、
机に向かって座っていたのであった」と言っているような感じに近いの。

「自分は、なぜ、ここにいるのか。なぜ、このような勉強をしているのか。
私は誰なのか。それがさっぱり分からない」というのが、現代的哲学の一つの姿と思えるが、

現代的哲学が、生きていく恐怖や不安の概念、さまよえる人間の姿を描写している様は、
20世紀に大きな威力を発揮した、「唯物論」という物万能のものの考え方と似たものがあるんだ。

仏陀、仏教では、
「人間は、長い転生輪廻の過程を通して、繰り返しこの世に生まれて人生修行をしている」
と明快に説いてる。

とにかく今、本質が見失われて、文字になった部分や形だけをなぞり、
「魂」が入っていない状況が続いているの。

と、俺じゃないぞ俺のシュゴレーが言ってる話だから。あだがそれって俺でもあんのか。

だからってな。

俺がやろうとしているバンド、音楽は、シューキョーじゃねーからな。
そこんとこ頼むぜ。
別に当たり前の話してるだけだし今回だってな。
そこんとこマジ頼むぜ。俺に変なイメージつくるんじゃねーぞ。

いちいち女々しくせこいのなぁーマッことおめーわぁ、
間違った事言ってねーんだから、もっと堂々としてろや!

あこれも俺じゃないぞシュゴレーが言ってるから。あだからそれって俺か。

つーかおめーもだ!

関係ないような顔してんじゃねーぞ客だろうがファンだろーがうーたーだ何だろうがおめーな。
おめーらみんなのソイツらたちもそー言ってんだから。
俺はココにその代表で書いてるようなもんだから。

とかもうこれ以上書くとアブナいんではい今回おしまい!





【エネルギーの源泉/バンドはソロより強いが部屋に入れるとせまくるしい】

2008-02-12 | 「 S 戸 S 」

バンドは強しソロは弱い。その典型的なビートルズとエルビス。エルビスはビートルズをとても意識していたみたいでその気持ちは良くわかる。


えー。エネルギーとは、仕事をする力のことです。

そして仕事をする力とは、えー。他の言葉で置き換えるとするならば、
一定の質量のあるものを移動させる力、あるいは移動させうる力のことをいいます。

したがって、エネルギーとは
この世に存在するものを変化させる力というふうに言ってもよいでしょう。

私はそれを「運動」と言ってやす。今、まさにそれをやってやす。
ココでこうして書込みをしていやす。ですからココは「運動場」となりやす。
ブログ、というより、「運動場」なのです。うんどーじょーというのはちょっと、というのもあり、
「UBA」になりやす。うば。ですね。乳母ですか?

「運動場」はうんどうじょう。ならば、うん・どう・じょう。で
「UDJ」ゆー・でぃ・じぇー。そして、それがココ自分の運動場での俺のペンネームになりやす。
ま、ペンじゃなくてフィンガー・ネームだけど。

でもって、じゃー「UDJ=俺」というヤツが、「運動」するというんだから、
「UDJ+Artworx」となり、ソコに俺「UDJ」だけでなく、
「saybow」というヤツも入れてやろう本当は入れたくないのだがあうそうそ、で、
「UDJ+Artworx in saybow」になる。(スペルの大文字小文字は自由決めてない毎回いい加減)

でココは、俺のブログ。ということで、 Udj+Blog+Artworx。で「U+B+A 」

でわはい。もいっかい。

エネルギーとは、仕事をする力のことです。
仕事をする力とは、一定の質量のあるものを移動させる力、
あるいは移動させうる力のことをいいます。したがって、エネルギーとは、

この世に存在するものを変化させる力。

はい。それがココでの仕事であり、ココに来るみんなは、「来る」わけで、
その力そのものでもあるのだス。なんだかココはいつでも来れば、そんなもんが、
あよっしょこらしょはいちょっとごめんなすってまーちょっとおーいまーうっそーあははは
と、顕微鏡で観る細菌のように、みんながココ運動場で勝手にごちょごちょ運動してて、
あーなんかココはなんだか誰もいなそーで静かぁーで落ちつくなーナゴムなー、でも、
なんか誰もいなそーとうか誰もいそー?なんかうごいてるそんな活気あるしあ、
元気が出てきた!

ってこんなあほなヤツとかあんなアホなやつとかどんなアホなヤツとかが、
勝手に運動しに来ては何か変化して帰って行く、体育会系のブログですわ。
で、そんなんしてまたココにやって来てはそんなん心の唄を聴かせてくれる
りリピーターのみんなの事を「Uter」うーたー。と呼びます。
ってね、うまいもんだろ俺のこのフィンガーテクニック。


はい。次にいきやしょーか。



いくらビートルズのメンバーがエルビスを崇拝していると聞かされても、このイギリスから生まれた若く新しい世代の輝くオーラその斬新な音楽そして彼らの性格とジョークのセンスなどに、エルビスはきっと内心ただならぬ不安と恐怖を感じていたと思う。


あのね、前回はまー母べえとかいってねまージジーババーの話とかしちゃってね、
ココだけでしか味わえない何とも心あたたまる家族愛な話をしたんだがね、
今回はちょっとアブナい..くはぜんぜんないけど...なような「本質」の話してやす。

このエネルギーね。その源泉ですが、

まず、地上的エネルギーというものに限定して考えていくとするならば、
地上的エネルギーは、熱エネルギーとも関連するものが多いと言えましょう。
電気のエネルギー、ガソリンのエネルギー、石炭のエネルギー、
またこうした熱エネルギーと関係がない領域においては、
バネの力であるとか、物の伸び縮みする力、あるいは水圧、空気圧、そうした圧力、
また生物体の持つ力、あるいは潮の満ち干、風の力、こうしたものがあげられるでしょうか。

大きく分けて考えるとするならば、
人工的なエネルギー源と自然そのものに備わっているエネルギーというように、
二つに分けて考えてもよいかもしれません。

たとえば石油は、なにゆえに火をつけることによって燃えるのか。
なにゆえに燃えて、熱を放出するのか。これについて的確な説明ができているでしょうか。

化学式はもちろんできているでありましょうし、現象は現象として認めざるをえないのだと思いますが、
なにゆえに石油が、あの水のごときものが、あれだけのエネルギー量を放出するのか。
あの液体状のなかにいったい、どうしてそれだけの力が蓄えられているのか。
これを突き詰めて考えた方はいらっしゃるでしょうか。
おめーらみたいなアホたちには、ま、ないだろーなー。
だから、俺がいる。悦べ。みたいな感じでフィンガープレーする俺。

エネルギーとしての変化の姿が、石油という液体から炎を発して気体に変わる。
この形態を変えるときに、莫大なエネルギーが放出される。
これがさまざまな仕事の基となる。このようになっていますね。

このプロセスを逆に考えたとするならば、では、どうしてそうした熱エネルギーを固形化して、
あるいは液体化して封じ込めることができるのだろうか。

石油が燃えれば、水と二酸化炭素、それとエネルギーだけにほとんど変わってしまいます。
熱エネルギー、カロリーとも言われるものに変わってしまいます。
では逆に、カロリーと水と二酸化炭素があれば石油がつくれるのだろうか。
この逆の過程がありえるのだろうか。そうして考えてみると、
実はこれは石油創成の原点に帰ることになりましょう。

石油の原点はいったいどこにあるかというと、プランクトン状のもの、
これの油が海底において積もったものというふうに言われることが多いでしょう。

そういう微生物の死骸、それから油が残り、それが石油になった。
そしてそれが何百万年、何千万年、何億年という歴史の間で、あれだけの埋蔵量のものになった。

そのように言われることが多いと思います。
また、これと同じ吉に石炭は何億年か前の樹木が、
地層のなかに埋められて炭化したもの、こういうふうに言われています。

こうしてみると、微生物にしても、植物にしても、その原材料となったものは何であるかというと、
水分があったことは事実だし、あるいは蛋白質の部分、繊維質のもの、いろいろあったでしょうが、
それがエネルギー源として蓄えられるプロセスがあった。
そのプロセスにあったものは、圧力であったと言えましょう。

圧力と、それと長い年数、時間というものが加わって変化がされている。
こういうことが言えるのではないかと思います。



特にジョン・レノンに対してエルビスはかなり苦手だったみたいで、当時のジョンの感じを知る私にはそれもよくわかる。きっとエルビスは酷く怖がっていたんだと思う。

そこで微生物の原点はいったい何であるかというと、まず、
微生物が動きまわるためには、何らかの栄養源があったということ。
それを吸収して活動していたということ。
この時点において、活動エネルギーを持っていた。

この活動エネルギーは何から得てい川たかということですが、微生物を発生させるためには、
ある程度の養分が必要であったことは事実。水分が必要であったことも事実。
また、太陽エネルギーがあったことも事実と思われます。

そうしたものがあることによって、それらは生命のエネルギーを得ていたはずです。

また、植物にしても同じで、地中からの養分および酸素や二酸化炭素といった気体、
また熱エネルギー、こうしたものがあったに違いないわけです。

こうしてみると、原点を探っていくと、太陽エネルギーというものが一つにはあり、
もう一つには地球という環境下における栄養分があったということ、これが一つです。

そして、この両者をして、さらに生命エネルギーに転化させていったものは何であるかというと、

ここに霊的作用があったと思えるわけなのです。

木を木としてスクスクと伸ばしていくためには、霊的エネルギーが必要であった。
この霊的エネルギーは何であるかというと、木としての理念、
この木としての理念が活動する姿であるとも言えると思います。

あるいは、微生物なら微生物をつくり動かそうとする理念、こういう理念というものがあって、
これが一つのコンピューターのソフトウェアのように内蔵されて、
それでもって動いているのだというふうに言えましょう。

こう考えてみると、もともとあったものは何であるかというと、
霊的エネルギー体が、この世的なエネルギーのかかわりを受けて生命エネルギーとして発現し、
その生命エネルギーが圧力と時間のなかで変化され、
そして次は熱エネルギーのもとへと転化した。

熱エネルギーのの元なるものは、生命エネルギーであり、生命エネルギーの原材料は、
実は霊的エネルギーでもあるわけだス。
霊的エネルギー環境という媒介あるいは材料という名の媒介を経て、生命エネルギーを発現していた。

すなわち、生命エネルギーは、霊的エネルギーが排出するところの排気ガス、
あるいは二酸化炭素、酸素、こうした霊的エネルギーの燃焼後の排出物が、
実は生命エネルギーなのだというふうに言い換えることも可能だと思います。

そこで、私は次なる理念形を提示したいと考えるのです。

それが何であるかと言えば、まず霊的エネルギー源があって、
これから生命活動のエネルギー源が出て、生命活動のエネルギー源が熱エネルギー源となる。
こういうプロセスです。

ま。今回はここらへんにしといてやるか。うんそー俺はだからこんなこともやってたり
バンドの支度なんかもしたり明日はポリスのヤツらに会いに東京ドームにも行かなきゃいけねーし、
ぜんぜん運動しててさ、そんでも、やってない。やんなきゃだめだ!とか言われて叱られたりして、
ありがたいんだ。言ってくれるヤツがいて俺わ。こんな俺なのに。

だから、いっしょけんめできるかぎり俺はみんなにおかえししてぇんだ、

この幸福な人生の。みんなも一緒でずーっといててほしいからな。じゃな。



ジョンのあのリバプールなまりのジョンの声を聞いただけで落ち着けなかったんでは。リンゴスターが、僕たちは「バンド」で4人だけど、エルビスは「ソロ」でいつも一人で可哀想だった。と言ってる。

【年寄りは一番パワフル!/ジジーババーたち連れて「母べえ」みる】

2008-02-09 | ・nTinDEEP


ウチのジジーババー(父と母)そして付き添いの次女の姉。
きっとあえてこのメンツで行くのがこの映画観るのには、最も面白いと思い、
俺が集合をかけて、このメンバー引き連れ、なんだか期待しわくわくしながら、ソコに着き、
俺が代表でチケット買ってみんなにはいはいほれこれと渡し、
もう暗くなってる館内入り口に入って客席よく見ると、

そこらじゅうずらーーーーーっとみーんなじじーにばばーで
若いのは俺----あっ! 俺もじじーだ!------誰もいない!

いなくはないだろうけど非常に少数で影薄く、
こんな若者な場所(横浜みなとみらいワールドポーター)に
こぉーんなに大勢老人がよくも集結したものだと驚き、老人は偉い!
と瞬間無意識に思わず唸ってしまった。

そして、映画は始まり予想以上にまったくだれる事なく、終了した。

良かった。もちろん。俺はね。泣けるところは素直に泣けたし。

隣の俺のジジーなんか、まだ今の俺より全然元気で若かった頃の数々の記憶がこみ上げて来て、
号泣しっぱなしで、しょっちゅう鼻かむ(しかもハンカチで何度も)音が
館内に快く木霊するようで心地良かったけど、ややボケ気味のババーはどーって事ないような顔で
なにお父さん泣いてばっかいてぇーあははははーといじめっ子のような口調で夫をからかい、
横浜不良黄金時代に青春を送り、ぎんぎんな下町育ちの生粋のハマッコおばさんな
気取ったもんとかクサイ物語にまったくダメな姉などは、吉永小百合がクサクて
ちっとも演技上手くなかった眠ってしまったとかケチばっかつけてて、俺は呆れてしまった。

女ってかわいくねーっ!
それにつけて男ってかわいーもんじゃねーか。
かわいーじゃねーかじじーの鼻かみ音。でも、だから、
女は逞しく強いんだろー。

ってウチだけかな?

母べえはアタイだ!くらいなつもりでこの映画見てたフザケた女たちわ。

しかしなんでこんなに俺の家族たちって俺以外みんなその感性どうしょうもなく恥ずかしくなるくらいに
真っ下町真っ庶民なんだろー!
なんでこんな家族の中で一人異物な純アーティストな俺が生まれて来たんだろーか
すんごくわからないとにかくこの家族の中で恥ずかしいくらいバカみたいなくらいに俺だけ
メチャクチャ浮いてる。

冗談ではない。吉永小百合は良かった!
あんな美人で出来過ぎた聖母のような母べえなど当時いるわけないとかに関係なく、
海で山ちゃんを助けるシーンでの、あの60代とは思えぬあの泳ぎっぷりだけでも、
決して否定出来ぬほどにすごいもんだった。


この映画はそういう古き良き日本人の心の元気さ逞しさ優しさせつなさに、
敬意と感動を呼ぶ、ヨソの国では決して創れぬ、素晴しい日本映画だもんよ。

やっぱ。山田洋次の新作というだけで、それは価値があって、
寅さんが鶴瓶に化けて出て来たところや、この映画に込められた「笑い」は、
近代日本の喜劇映画の名作を数多く手がけて来たその分野においての巨匠でもある
この日本人の心を描き続けて来たジジーの、魂込めて創った晩年=ジジー作品は、
最後の日本映画の「巨匠」の手がけた新作映画でもあんだから、それだけで、つまらないわけがないし、
何よりも、この映画における、その魂込めた年輪なる素晴しいほどのジジーのニュートラル感には、
脱帽だもん。

年寄りは、偉い!

年寄りは、それだけで価値があるし、死なずに長く生きてるだけで、
年寄りは、若者より、本当はパワーがある元気な存在なんだから。

だから、年寄りだからというだけで暗く元気のない年寄りを観てると、
そんなんだったら無駄で意味ないから早く死んで欲しいと思うし、コトバきついかもしんないけど、
年寄りとしての仕事してないんだから、昔はいたんだから、他人のガキだろーと
悪さすんと平気で叱りつけ怒鳴りまくるわセッキョータレる、ガキにはマジ鬼みてーなこっえー
うるせークソジジーとかババーが。
だから細木数子みたいなババーは貴重だっつーの。あれでいて料理も上手いし、
ババーの知恵は宝庫のようにしっかり持ってるし、躾事に対して教える事も出来る、
日本の誇るクソババーをもっと大事にしなきゃ。
嫌われようと平気で憎まれ口言ってくれるのがクソババーなんだもん、
そこに悪意はないのに、バッシングする人のほとんどは、よくその人物の大きさを観るでもなく、
その言動や外見だけで、ただむかつくみたいなほとんど子供的な悪意だらけで、
大きな人物見るとマスコミは平気で簡単に叩くけど、自分たちの弱さを暴露してる事に気づかない。
叱られて傷つくのが恐いだけの小物がそういう事するんだけど、
バッシングされ責任を追究されれば当人は責任を負わなきゃいけないけど、
だからって平気でその人を愚弄罵倒するような「嘘」を書いても、マスコミはほとんど責任を負わないし、
こんなアンフェアな世界ってあるのかい?それで許されるのかい?
みんなで責任負えない小物ばかりにしてしまおうとしてるから。
世の中つまらないものばっかになってくる。堀江だって小泉だって細木だって朝青龍だって亀田だって、
世の中を問うたり面白くしてる人物に対して、あまりにも小物的でアンフェアに消そうとする動きって、
どっかの陰謀なのか?とも思ってしまうけどそんなことより。

年寄りというのは本来年寄りというだけで、大物なんだから。
その質の問題はあるけど、えらそーえばってそーでも年寄りだったら自然なんだから。
だからってもう世間を動かす場から身を引いてたりするんだから、はいはいって、
元気でいてくれて有難いと思うべきだし、なんだかんだ活気があって楽しいはず。
くそジジーくそばばーがいてくれることは。
年寄りが元気だから若いもんは安心出来、その大きな知恵で、向上心が湧くんだから。

元気のある年寄り、それも今だんだん絶滅してる。
元気がないのが年寄りだと世間は常識はいってるから。

つまらなくなってるだろー人間って。その想像力その感性。だから、頼むぜ。



しかし。

この映画を体験出来たおかげで、日本のじじーばばーたち日本の老人たちは、
まだまだ元気で逞しく、どこの国より平和で可愛い!とちょっと安心でき、
それを含めて母べえという映画の価値は、最近の若い奴らの感覚でのさばる邦画たちに比べ、
とてもとても年寄りチックで大きく崇高な日本映画で、それこそ最後の巨匠の「新作」。
だったんだよ。

それは「三丁目の夕日」みたいな計算されたノスタルジー映画でなく、
たとえ少々クサくジジー的でも、もうこういう純粋な日本の心そのものを描いた映画なんだもんよ。
そうゆうもんを、私たちに与え体感させてくれる日本人は、
もう誰もいなくなるんだろう。それはみんな年寄りばっかになってしまったから

とか、なんだかんだと批判ばっかしてる嫌な野郎だと思われそー。まいっか。

日本人にとって本当に大切なものは、それを識る者も護る者もじわじわ消滅していて、
そんなお国の事は知らずも、北極の氷に対しては誰もが知りあーだこーだ騒いでる世間の声が、
そのほとんどはただのファッションのようなだからって
影みたいに何も動かすことない軽いただの屁に聞こえてならないなー。

老人は本当は、長く生きて来た分、頭でなく体でわかってるし、
セッキョーたれるは怒鳴りわめき叱りちらすはしてこその老人で、
子供に再び戻って行くM+ILU(もとどうりアイラブユー)なもんなんだから、
どの世代より一番元気でなきゃ老人じゃないんだ。老人は一番元気なもんなんだ。

とにかく。

日本のジジーババーは、しっかりソコに足を運び、子供のようにその最後の偉い年寄り=巨匠の日本映画を、
鼻かむほど泣いたりオモロいつまらん言うてはカラダで感じ、だから、やっぱ、子供のように、
とても、元気だったよ!   な母べえ。



【BLUE MAN GROUPというジャンルのロックバンド】

2008-02-02 | ・nTinDEEP


さー、バンド名「Saybow&the Wipers」は決まったものの、
じゃーそのバンド・メンバーを発表しようかに。
という約束をココでしてから100万年。待てど暮らせど更新なく、
つーか俺が待てど暮らせどしている場合でもなく、更新するほうじゃん、
つーのも忘れているかのように、死んでしまったかのように
息もせずじーっと止まったままのココの動きのなさったらないったらなかった。

それでは、バンド「Saybow&the Wipers」のメンバーの発表さして頂きやす。

うんすまん。まだ決定してやせん。

しかし決して、それは止まったままでもなく、
いろいろあるのですが、準備を怠けているわけではなく、
むしろその逆で、準備を怠けるどころか、バンド名が決まった時点において、
自分の中で、実に良いネーミングをしたもんだ、さすが俺だ、すごいぞ俺!
と俺とゆー観衆から大受けに受け過ぎてしまい、気づけば、
その名は、ある意味、とても「真剣」であるがゆえに、
それはさらに深い意味では一体どうゆう「真剣」なバンドであるのか、
「真剣」なバンドとはどういう事なのか、まただったら「真剣」なバンドのメンバーは、
「真剣」なメンバーで構成されてなくてはいけないのか、手キトーではいけないのか、
大体、「真剣」なメンバーとは、どんなメンバーを言うのか、そんな「真剣」だらけな事を、

大事な事は「演奏力」なのか「やる気」なのかとか、そんなような事を、
毎日のように「真剣」に考えていたら、気づくと1月も終わってしまってて、
季節は、鬼は外。福は内。と、節分に突入していて、それはそれで
とても「真剣」なるシンクロニシティであって「真剣」なる意味があるのではないか、
だったら「真剣」なるものというのは、「エネルギー」なるものであって、
それは、一定の質量のあるものを移動させる力、あるいは移動させうる力であり、
この世に存在するものを変化させる力。であるからして、それは、
「運動場」で繰り広げられる、「運動」だ!とついに判明した時点で、
俺は何のために「真剣」に考えてたんだっけ?というが何だったか忘れてしまっていて、
あ。そーか。早くメンバー(運動場)決めて早くLive(Live)をやれ!
というエネルギーの真剣の出し方のためとかもーわけわからん何してんだおい。と、

「真剣」に考えるのも、てキトーほどほどにしないと、
「真剣」なバンドも「真剣」なメンバーも「真剣」に決まらない。
とわかったので、とりあえず、その先に進むと、もっと現実的な思いがその先にあった。

そうなると、メンバーに求められるものも、大したギャランティもないにもかかわらず、
それに費やして欲しい時間と集中力、気力的なものに対してのエネルギーは
そのやすーい報酬に対して不当にもたかーいほど必要だったりで、しかし!
有難くも、最近のハリウッドの脚本家のストライキじゃないけど、
考えつくやってくれそうなメンバー候補者には、ストライキを起して、
仕事をしよーとはしないヤツらはいないようで、
みんな良いヤツなので、出来る限りは協力惜しまずとは言ってくれるだろーけど、

ココだけの話、「出来る限りは協力惜しまず」なくらいでは、
このバンドのメンバーは勤まらないんだよ!何言ってんだてめ!
出来る限り以上のものを生むんだよ!それが「奇跡」なんだからあほこの!
奇跡の種になることで、それは意味を成すんだからってわからねーのか!
とか「真剣」に言ってくれたヤツをもっと「真剣」にどなり叱りつけアホ呼ばわりしたら、
俺が一番アホだということがバレてしまい、さすがに呆れて誰もいなくなり、
えれー騒ぎになって誰も彼もに迷惑をかけることにもなるし、

しかし、性格からして、どうしてもバンド名決まったところで、手を抜きたくない!
という、コッチ側の情熱があるので、コレもここだけの話ばらしたら殺すが
大袈裟に言うと、他の仕事はすべて辞めてもらってこのバンドだけに集中してやって。

とか全然めちゃくちゃトーゼンなのでがんがん言いたいけど、これも、さらに、
俺が一番アホだということがバレてしまい、さらに嫌われ誰もいなくなり、
えれー騒ぎになって誰も彼もに相手にされなくなるのは、
ぜんぜんその目的に反した事やってるだけなので意味ないので、
「真剣」でもないんじゃん。何「真剣」って。
「真剣にやる」。って。「真剣になる」。って。でも、
「真剣にやらない」でも「真剣にならない」でもいけないという以前に
そんなもん絶対つまらないのでどーすりゃいーんだどー進めりゃいーんだ。
としんけんしんけんとノイローゼになってしまい、昨日まで精神病院に入院していて
今日やっと退院したばかっか。つーのは嘘で、気づけば、
こんな事書いて楽しんでてもますます早くソレにたどり着けないので、
ホント俺はアホなんだなーとつくづく思うけど、
とにかくもう少し自分にそこらへんのバランスを考慮する必要があるので、
まだ少し時間がかかってしまっている。すこしじゃないけど。





だけど、目標は、早くやる、やらねばならぬ、ことでもなく、
この今の時代において、意味のある価値のある良いものを生む。
方が、やるならとことんやる!やらないならやらない!主義の私にとっては、
何よりも「自分のバンド」にとって大事な事なので、
関係ねーや怠けているわけじゃーねーんだから。日々そのために俺は、
こんなアホだろーと、運動してるんだから。だからって、
去年のような運動の感じであっても、それは違うと思えるし、
なにしろそれが自由で拘束のない、目的はその本質にあり!
なるこの私の運動場、私の目的なんだから。

というのが、実情でもあるかも。

だから、それは着実にソコに向って進んでいるから、大きな気持ちで待ってて安心して。


そしてそんなアホな私にとっては、十分その運動の一環でもある
Blue Man Groupの日本公演を、そーしたアホな最中に、
ついに観る事が出来、今でもかなり興奮してる自分がいる。


自慢じゃないけど、Blue Man Groupを知ったのは、
おそらく日本でその存在をまだ誰も知らないだろーつーほどの昔のことで、
まさに好景気に湧いていたバブル真っ盛りの頃、その期に乗じて、新しい「事」をおこそうと企むと、
簡単にその時代に泡(バブル)持つ投資家から一気に資金を得て、
その金でアメリカに面白い手がかりを探しに視察に行ってたある友人から、
帰国ミアゲにもらったCDが、初めての出会いだった。
(その友人の面白い企ては惜しくもバブルと共に実らず終ってしまったけど)

そのCDひょんな事から紛失しちゃって今もうないんだけど、
CDのジャケット観ただけで、ヤツらのLiveが
どうしてもみたくてみたくて仕方がなかった。
それはすぐにそのCDを聞いてみると、音だけ聞くと何か物足りず、
だからといって興味がなく思うのでもなく、なにしろCDを聞くと、
Liveがみたいみたい必ずみたい!と思ってしまうからだった。

それは、CDジャケットをみた瞬間に、
ヤツらの本質が「Liveパフォーマンス」にあることを直感したし、
そして友人が言ったとうり、「きっとセーボーが気に入るはずだから」
のそのとーりな自分にとってコヤツらは「やる気」を持った、
新しい形のホンモノの「ロックバンド」だと確信したから。



って、なんかこれずいぶん前にどっかのサイトで書いたな。
コピーアンドペーストってばれるな。そんなの関係ねー。

それほど感じた「バンド」だったにもかかわらず、
奴らの日本での認知度、情報は、今までまったくないままだったので、
私の意識の中でも忘れかけてしまうようなそんな中での、不意をついたようなこの日本公演は、
待ちに待った!というヨロコビよりも、それは、なんともタイミング的に、
とても不思議な興奮だった。

なにしろ。そんな思いでやっとみる事のできたヤツらの「初Live」を、
自分のバンドの「初Live」の用意まっただ中のこのタイミングに体験出来た事は、
ある種の啓示のような気がする。

だって、ご存知のように?こう見えて出不精でもある自分は、
ヤツらに対してそこまでの要因がなければ、きっと、
この「バンドのLive」を体験出来なかったかもしれないと思えるから。

それは、ナニモノかによって「お前は絶対にこれをみなければいけない」という
仕組まれたものが自分にあったんじゃないかさえ思ってしまうほどに、
いろーんな意味で、自分が思う「ロック・バンド」に出会った事はひさしぶりだったから。

そして、それにはさらに伏線があって、
ヤツらを観る前に、テレビで偶然なる出会いをした「がーまるちょば」に強く興味を持ち、
去年のクリスマス・イブに横浜でその公演をやるというので、そうなるとやること早い私は、
電光石火でチケットをゲットすると、自分の中でほとんど情報持たない、
その「がーまるちょば」なる不思議なLiveを観て、それは知ってはいたけど、
それは「バンド・音楽」というジャンルとは少し違った世界、
「ストリート・パフォーマンス/大道芸」という世界、
その世界・運動場(バンド)での運動(Live)。
というものの存在を認識した初めての体験だったのな。



そして、「Blue Man Group」も、そういうジャンルから出た、
「ストリート・パフォーマンス/大道芸」の「グループ」だったんだけど、
その前に「がーまるちょば」を観てそういう「ジャンル・運動場」を認識していたので、
そのおかげで私は、自分たちの「ジャンル・音楽」とは少し違う種類分類に在る、
「Blue Man Group」を観て、その中に、
私たちのジャンルに欠けている何か大事なものを発見し、それが実は、
啓示的であるとも思えてしまった最もの原因でもあるんだけど、
残念ながら、それはとても感覚的な事でもあるので、
そのことを上手く書いて伝える事が出来ないけど、それは、
不景気でぱっとしない現在の私たちのジャンル(音楽・Live)の関係者にとって、
謙虚になり見習わなくてはいけないとてもとても大切な事で、
あえて言えば、その世界における謙虚さ匿名性の礼節さを持って、
ステージと客席その空間全体を自分たちの運動場にして、
客席で観ている私たちに向って攻めて来るあの刺激的で懐かしくも感じる興奮は、
まさに私の感性の中の「ロック」と符号するし、そのLive(パフォーマンス)の
2つの静と動の特性は、私たちの音楽のジャンルには決してないものであるか、
あるけど埋もれて見えないほどの価値として在るかのもので、そのことで、
少し違った私にとってこの新鮮なジャンルと比べ、いかに、
今の「音楽」(ギョーカイ)その「愛」が、ほとんど、
アート感覚から離れたキドリの世界に在ることを認識させられると、ここにもまた1つ、
そのギョーカイでの景気の低迷の因子を発見してしまい、音楽は負けてるなー、
つまらなさでは勝ってるけど。とか。とにかく、何書いてるのか自分でもわからないけど、
とにかく観に行けばいーじゃん。単純に面白いから。
まさに、この世界で活躍する「Blue Man 」という「Group」は、
「ロック・バンド」そのものでもあんじゃんもー。とか俺としては何とも
歯がゆいものを感じて、とりあえずこのジャンルで生まれた新しいスターたちによって、
それまで「大道芸」としてしか認識のなかった自分にとって、
その世界の中に敬意を持つべき「運動場」がしっかりと在る事を知り、
歯がゆくも安心をおぼえる私でもありやした。



この後、2月にポリスとビョーク、3月に待望の中村勘三郎の歌舞伎を観る事になってるけど、
おそらくそんな「Blue Man Group」を体験してしまった自分には、
その体験がこれから観るそれらの「Live」に対して強い影響をもたらし、
それを観てなければ決してわからなかったものを、これから観るそれらのLiveすべてに、
数々の発見をもたらすことになるんだろうなー。とゆー予感がひしひし。

さ。人のバンドはいーから自分のバンドだ。名前なんだったけ?.........ん?
..............................ん?................................................。

ま。........そんなもんだろ................早くLiveしよっかなぁ。