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【「追悼Live」は特別なLive】

2010-01-27 | ・nTinDEEP



本年2010年の「UDJコトバマ」の「捨てる」だけど。

「捨てる」という言葉はキツさがあるので、迷ったりもしたけど、
何しろ「コトバマ」なんで、それは感じたままじゃないとダメだろうというので、
そのまま発表したわけでもあんだけど、
ただ、それって、どうやら、「他」じゃなくて「我」ということみたい。
「他」ではなく、自分の中にある、ウンコを捨てる。みたいな。
それは自分の中にある無駄で不必要な粘着質な「執着」でもあるので、
「切り捨てる」くらいのキツさ強さ勇気がないと頑固な汚れはとれないよう。

ということで。話かわって。

「今年のTはLiveやり過ぎ」

と去年の年末、UBA=ココで、記した、去年1年のTのLive。
その中に、自分としては初めての体験ともなる「追悼Live」が在るのな。

そいつはしかも、4本もあったこと(クロコの2-Days Liveも追悼Liveなのだ=清志郎氏と川口厚氏の)、
さらに新年を迎えるとすぐに、大口ヒロシさんがまた1つ、Tに「追悼Live」をさせてくれて、
何しろ、そのこと自体が、
「今年のTはLiveやり過ぎ」であることを象徴しているもの。とも言えるんだけど、
初めて体験した「追悼Live」が4本もあることを象徴とするのは、
何か、不謹慎な感じかな。という細かいことはいーとして。

良かったなぁ、大口さんの追悼Live。
Tのメンバー4人にとって、ガキの時からいろーんな影響を受けて育ち今がある。
と言っても過言ではない、ゴールデン・カップスとウォッカ・コリンズと、
Tが一緒のステージに立てる、つーだけで何か意味あって面白いぞぅというのに、
その3つとも、Live良くて、特に、トリのムッシュ率いるウォッカ・コリンズは鳥肌実もんで、
曲がみんなかっこ良く、ぜんぜん古さを感じないむしろすんごい新鮮で、
かまやつさんは本当に「ロック」センスいーなぁ~かっきーなー、
その中に、マーちゃん(ベース)もいて、
俺の最もリスペクトする日本のロックアーティストの2人が一緒にいる事や、
ギターのタケやヒロシさんのかわりにドラムを叩くグリコの、
Tのメンバーもその中にいて、観ててうれしくなっちゃた。
だから、楽しいんで最後に出場者全員出てやるセッションに出るのも忘れて、
しっかり観客なっちゃってて客席で踊りながら盛り上がっちゃってて、
したら、おめーも観てないでステージ行けよと誰かに言われて、
あそーか、つーんで急いで客席から階段リて裏からまわってステージに行ったんだけど、
ステージ上でも観客気分でバックコーラスの一員なっちゃって盛り上がっちゃて俺、
これでショーケンいたら俺もーめちゃくちゃ完璧にうれしーのになんでいねぇ~んだぁ?!
とか、金も払わず、客席から舞台からまぁ~、一観客として、
ずいぶん贅沢な楽しみ方しちゃってるでないけ俺ったら。
それが、今年初めての俺のLiveである、大口ヒロシさんの「追悼Live」だった。

でその

去年、生まれて初めてなくせに「やり過ぎ」の去年のTのLiveの中で一気に4本、
そして、さらに新年迎えもう1本加え体験した「追悼Live」だけど。

それは不思議に、体験した全ていつも良くて、唄えちゃう。

そのことで、それは、自分にとって、意味深く価値あるように思える、
ちょっと特別なLive体験でもあるのだわ。

何が特別なんだろう。思い出してみる。

すると、そうそう。

そういうLiveでは必ず、唄うためにステージに出た時点で、
その追悼すべきその故人が、ソコに、目の前に、いる。こと強く感じるのな。

みんな涙で顔ぐじゃぐじゃにして号泣するほどに、感動し喜んでんのな。
今はもうあの世にいる自分のためにこの世で残る仲間たちが、
こうしてLiveをやってくれてる事に対して、もうわんわん泣いちゃって喜んでんの。

そう強く感じるわけ。そりゃ特別だ。

でもって、それだけではないの、そこからさらにはっきり感じんの、
「エネルギーもらっちゃったよおい。」という。何か、光を。
それは、感じれば感じるほど、自分が、どんどん良い状態になっていくの。
だから、良いLiveできちゃう。だから、毎回良かったんだ。そりゃ特別だ。

その時、自分だけでなく人の感動や喜びすべてが、あきらかに、人間にとって、
非常に非常に非常に非常に有効な「エネルギー」だということ、
それは思ったり考えたりすることではなく、感じることで得られる特性を持ち、
それはまた、今の時代に生きる私たちにとって、ある意味、石油よりも重要な、
とてもとてもとても必要な「エネルギー」....なんだこれって要するに、
「光」じゃん。そりゃぁ石油じゃねーべさ。とかを、自分にわからせちゃう力。



自分のそんな感覚が自分に対してわからせちゃう感じ。

自分も他人も自力も他力もみんなもともとは自分の内に在る感覚。

すべては、私たちの内なる、心。魂。によって創造されていることを、
「実感」として「強く感じさせおせーてくれる力」がある。とかを。

そんな特別な「追悼Live」を、それまで1度の体験もなかったにもかかわらず
「やり過ぎ」の去年のTのLiveの中、4本もやった。

しかしそれは、それだけ知人仲間が逝ってしまった。
という淋しい悲しいことでもある。

しかしそれはまた、自分はそろそろ、年齢的に、「そういう時期」に入ってきてる。
ということを逝ったその人たちから教えてもらっちゃうもの。でもある。

それは、じわじわと「死」が自分に近づく感覚の時期。でもあり、
「死」をリアルに感じられるようになる時期。でもあって、
「死」は決して悲しむべきものではなく「死」することの本来の意味は、
「感動」なんだぁ。ということをその時自分の感覚は伝える。

これからどんどん、自分の知人仲間たちが、私たちのいるこの世から去り、
これからどんどん、自分の知人仲間たちが、あの世に逝ってしまい、
そして、その人たちに対して、あーやってLiveで唄うことも、
珍しいことではなくなってくるだろう。
それは、いつか自分もそろそろそー逝くという事でもあり、
だったらいー体験いー発見積んでるなぁ。と。

あきらかに自分は、そういう時期に入ってきてる。のか。

そこで。「あの世」の存在を確信する自分が久しぶりに登場。

私たちの今いる、縦+横+高さ、の3次元からなる「この世」と比べ、
縦+横+高さからさらにも1つ「意識」というものが加わった、
4次元からなる「あの世」の世界。

まさに、その1つ加わった次元、自分の「意識」が、
その空間、縦+横+高さを形成するという、それは、まさに、
自由なる創造的なる(思い)の世界。それがあの世。霊的なる実相世界。

私たち誰もがみる「夢」、あれが4次元なる世界。

その世界は、時間も空間も超越して、
自分の無意識も潜在意識も含めた「自己の意識」のままに自由自在に展開される。


と何故断言出来る。断言もなにも、そう感じるんだから仕方が無い。

何故「あの世=死後の世界」が在ると断言できるのか。証明してみろ。

「在るから在る」それが証明だ。

それは、自由と創造からなる世界。そりゃぁ自分としたらまさに「天国」

しかし。それは自由なる心=思いの世界だから、どんな思いも存在するので、
「天国」という「陽」の世界だけでなく、「地獄」という「陰」の世界も存在してる。

もちろん俺の行きたい「あの世」は、
「地獄」ではなく「天国」の方の「世の中」ゆえに、だったら、
死ぬまでに自分の心=魂を、その世界の波動=あいで磨き護り維持して、
出来るだけソイツを生長させておく必要あって面倒くさそーだけど、

そんなに難しいことじゃないべ。

でも人によっては、大変だという人もいる。大変つーか大半がそうか?
無駄なウンコな執着なもんばかり持っちゃってて中々捨てられずなヤツがか。

そんな粗い波動は、重くて飛翔出来ない。上にかえれない。
何重ものカタイ鎧をきて、がらがらうるさく音をたてて、
何かに怯えて窮屈に生きててもしょうがない。

そんなもんは「捨てる」もので、だから捨てれば良いだけ。

捨てればすっきりと身軽になって、気持ち良いほどに飛びまわり、
すーっとソコにかえれちゃう。ただいま=って。

自由になるということは、そういうこと。裸になること。
そのものだけになること。

そして本来の「自分の家」にかえりついたときの感動は、
どれだけのものかを想像すると、うわっ!それだけで力つく。

とにかく、感じるままに書いてるだけ。だから是も非も無い。
在るのか無いのか。在るのは、感じる自分と自分の感覚だけ。
それだけで十分。すべてを得る。

新年早々にまたも、体験させられることになった、
大口ひろしさんの「追悼Live」も、Live参加時間は18分ほどのものだったけど、
そんだけでも、そんな感覚を強く得られるほどに、
やっぱり自分には特別なLiveだったので、
そのことに、何か、感動してしまう。大口さん、有難うっす!

ショーボートのカウントダウンLiveについては、次回にでも?
けっこー記憶うすれてるなぁー。しかし。
これは「追悼Live」ではないので、こんな変なこと書かない安心しろ(笑)。





残念ながら大口さんの「追悼Live」の画像記録はなく(あっても勝手に掲載できないのかぁ)
そのかわりショーボートのカウントダウンLiveの俺の画像はったった。

(画像提供はいつもありぎゃとSELMさま)


【2010+UDJ=コトバマ「捨てる」】

2010-01-17 | ・nTinDEEP


昔むかしのおームカシ。

あの、ジョン・レノンが、自宅セレブな豪邸のマイ映画館(があったらしい)で、
セレブな LSD やりながら、毎日のように、その大好きな冒頭のシーンから、
毎回、大興奮&感動で、何度も何度も、何度も何度も、観ては、
そりゃぁえっれぇサイコーにぶっとび観てたとゆーウワサの映画、
それが、あのキューブリックの、「2001年宇宙の旅」。ですが。

ナマイキにも、

私も、ジョン・レノンと同じ状態で、同じような大興奮&感動で、
何度も何度も、何度も何度も観ては、そりゃぁ~えっれぇ~ぶっとび観てたとゆーウワサの映画、
それも、私が初めて観た「哲学映画」の「2001年宇宙の旅」。ですが。

「2001年」が日本で公開されたのは「1968年」でやした。

その頃の私は、まだまだチンコに毛がはえたばかりのまだまだまだな、
13歳わまだまだまだまだまだまだドーテーまだまだぴかぴかまだまだぴかぴか美少年なるぴかぴかまだまだ中学生。
でした。ちがいますか。ちがうのですかぁ。美少年。
それでも、そんなガキだった「1968年」に「2001年」を。ジョン・レノンと同じ状態で、初めて観た時の興奮と驚き。

それもおそらく、まったくもってジョン・レノンさんと同じな、おそらく、おそらく、
おそらく、辺りかまわずおもいっきしべりーべりークレイジーな、
そりゃぁ~えっれぇ~えっれぇ~ぶっとびもぶっとびモンなる、
まだ生まれて一度もみたことないほどの、しんせんなるアホ・アシッドレベル。
くらいな、すんごい驚きだったと思いやす。

ふざけて書いてなんかいません。あの映画に負けることのないよう、
まだ誰も一度もみたことないほどの斬新なタッチで書いててててでももももすこし気をつけて書こう!



それは昔の話。

その映画を初めて観て、アホ・○○○○・レベルくらいなすんごい驚いたその後も、
(○の中に入るカタカナを君が入れろ僕にはもういらないものだからぁ)
どうしてもあの映像のすみずみに行きたくて、知りたくて、購入したビデオ・ソフトで、テレビ放送で、
購入したDVDのソフトで、何度も何度も何度も何度も何度も何度も、「2001年」を観るわけなのだスが、

その度に、私は、

何度も何度も何度も何度も何度も何度も、あの、何だかヤツの顔が好きだった、ボーマン船長と自らなった気分で、
何度も何度も何度も何度も何度も何度も、木星の衛星軌道上で巨大なモノリスと遭遇し、
何度も何度も何度も何度も喧嘩するほどスーパー・コンピュータのHALと、
話したり笑いあったり、ちちくりあっては、俺はコイツ(HAL)を、何度も何度も何度も何度も、やっぱ、コイツとは、
何度も何度も何度も何度も、誰よりも気があい、何度も何度も何度も何度も、誰よりも俺はお前を理解できるすきだ。



と勝手に思っては、

何度も何度も何度も何度も、やがて次第にスーパー・コンピュータのソイツ(HAL)のことを、
出来れば裸にして激しく犯してしまいたいほどに、強く愛しく思うようになり、やがて、えっ!?
ヤツ(HAL)に、そんな私の恥ずかしいイケナイ想いが伝わっ...?
と何度も何度も何度も何度も、勘ぐるぐらいに、いきなり、
私の密かに熱いお気に入りだったそのスーパー・コンピュータのソイツ(HAL)が、
その時をきっかけにするように、ボーマン船長の私に対して、突然理解不能なコトを言うようになり、

その変貌ぶりは、まるでぐちゅぐちゅわけわからんラリったバカが、私にしつこくからんで、
まるで狂人が話しかけてくるようなテンションで、何の気を配ることもなく乱暴に
おかしな文脈でおかしなコトバを脈絡なくいつまでも話かけてきて怖い。HALちゃん。



実際、何か、それは本当に怖いことを、私に話してるようにも思えてくるなど、
そんないかにも俺が慌ててしまうような状況の中で、私は、しかし俺ではなくボーマン船長なので、
がんばって慌てず、よくよくそのいつも私が投げかける独り言に対して、
下手な人間よりもとても知的でユーモアのあるおもしれーイカしたコトバを返してくれては、
よく私を笑わせては、誰よりもこの孤独な宇宙船の中での私のダチやってくれていた、
世界一賢くセンスの良いスーパー・コンピュータであったソイツ(HAL)の、
突然ぱっぱらぱーみたいになっちゃっておかしくなってしまってる最中での、
それでもヒョウメン的だけ見れば、いつもと変わらぬ表情でって機械だからだけど、
孤独な私に話しかけてくれてる光景だけど、その話だけはいつもと変わらぬどころの騒ぎではなく、
よく集中して話を聞けばところどころ聞き取れるそのコトバは、
何だか、殺意?を持って私に謀反?を起してるようなそして、何でそうなったか記録なくなってるけど、
ヤツ(HAL)はとうとう積極的な行動を示し、私を騙してディスカバリー号の船内から追い出すと、
そのまま二度と私が船内に戻ってこれぬようディスカバリー号を操作して、私は、危うく、
本当に二度と船内に戻れぬまま、怖いほどまったく無音で静寂なる大気圏外の不気味な宇宙の大海に漂う、
儚い塵になるピンチを、何度も何度も何度も何度も、なんとか頑張りどうやって頑張ったのかぜんぜん覚えてないけど、
ソコはいくらキューブリックといえども、映画だ。つくりばなしだ。
私は、どうにか、船内に帰還し、そして、あれほどまでに好感を持ち、内心やべーほどに
好きでもあった、スーパー・コンピュータのソイツ(HAL)との敵味方の闘いがはじまり、
しかし相手は所詮機械。私は、難なくヤツを「システム終了」させ、
その息の根を複雑な思いで止めると、さーついにクライマックス。

「2001年宇宙の旅」だ。




私は、何度も何度も何度も何度も、あの映画クライマックスの
もってかれそーな驚愕的「ど」宇宙「ど」空間での、「ど」迫力な、
「ど」映像と共に、何度も何度も何度も何度も「ど」トリップしては、
何度も何度も何度も何度も、ついに、何度も何度も何度も何度も、
人類を超越したスターチャイルドなる存在へと進化するという最終クライマックスを、
何度も何度も何度も何度も何度も何度も、あきるほど遂げまくっては、
結局いまだにその物語の内容においてまったくちんぷんかんぷんな私ことボーマン船長であった。

なんだそれ?「セーボーの2001年宇宙の旅」か。しかしべちゃべちゃへたくそな文書なんで、
くっだらなくてつまらない、そんなことより。

私はそのように、あの映画が初公開された「1968年」に「2001年」みてやられてしまい
「1968年」から「2001年」を大体「1978年」まで何度も何度も毎年毎年何度も毎年何度も、
観つづけてたわけだけれども、いつも上映後に感じていたのは「時間感覚」だった。

それは、「タダイマ付近の感じ」という、「自分の感覚」そのものを作品とした、
自分のライフワークを今こうして手がけている私にとっては、大きな発見でした。

「感覚」を記録し保存させておく。ということは、九九や歴史の年号を覚えるようなものとは違って、
もっと肉体的で、ウソやゴマカシのきかないエロいもので、だから、
それは、ぐっと、勃起するほどの真実性がある。

たとえば、怪我をした時に伴う「痛み」は、必ずやがて消えていくので、
そのままの自分の身体にその感覚を記憶保存させておくことは難しい、とゆうか、無理だ。

そのように、「感覚」というものは、常に瞬間的に現れては瞬間的に流れ去っていく、
まさに「タダイマ付近の感じ」であり、それは、常にウソ偽りのない肉体的なものなので、
それは羅針盤とも成り得るとても大事な「今の自分」そのものだ。
だから確かに「ブログの日記」なんてものよりも面白いものだが、
いざやってみようとするとなかなか難しいとゆうか不可能なことやってる。

しかし、私たちは、喉が渇くと、自然に水道の蛇口をひねり、
コップにその水を注ぎ、水を飲んだりするわけですが、
そこまでのコトを、ほとんど「感覚」に身を任せたまま、「感覚」に導かれ、
気付くと勝手に自分の身体は、水分を補給しているわけだス。

考えてみると、水分が補給できなければ人間は死んでしまうわけだから、
自分の「感覚」というものが、自分にとって、どれだけ大事なものであるかを知るわけだス。

その中で「時間の感覚」というものがある。

それは私の場合、記したように、私が何度も観るほど好きで面白い映画だった、
「2001年宇宙の旅」を観て感じては、保存状態よろしく強く記憶されていた「時間の感覚」が、
非常にわかりやすいわけだス。




それは、まさに「時間の感覚」で、「2001年」はまだまだ遠い未来。という感覚でした。
それは、まだまだ遠い未来という感じなわけだから、時間の流れる感覚は「おそい」ものでもあるわけだス。
しかし、驚いてしまったんだけど、そんなに遠い未来だと感じていた「2001年」は、
すでにもうとっくに来ては、さとっくにっさと過ぎ去り、
「遠い未来」どころかすでにそれは9年前の「遠い過去」となっていた。

何だ、このアッという間の時間の感覚は!

確かに私は7年前に「2001年」を迎え。その1年を過ごしたわけだが、それは、
長い年月を経てようやく来たには来たんだけど、あの時感じた私の「おそい」のんびりとした「時間の感覚」は、
すっかり今の時代に適合するよう知らぬ間に「高速仕様」に変形されてたみたいで、
その1年は、これといった記録がほとんどないほどにアッという間に過ぎ去り、何と気付けば今やすでに「2010年」。
完結編の年だ(笑)。

いつからそのような感覚になったのだろうか。

私には、あの頃のはっきりとした「おそい」時間感覚が、保存状態良好な形に記憶されているので、
「2001年」が、まだまだ先の遠い未来に思えた「おそい」感覚と、
「2001年」が、アッという間に訪れアッという間に過ぎ去っていたという「はやい」感覚の、
その2つの異なる「おそい・はやい」の違いが、感覚的にわかる。

そこで、グッ!と来たわけだス。ぐぐっと自分のアンテナに、何かをキャッチしたわけでありやす。
それは、まさに今年のUDJのコトバマにリンクした霊感的な閃きでした。

「2001年」というものが、まだ先の遠い未来であり、なかなかすぐにやって来るものではないと感じていた、
あの頃の自分のゆっくりとした「おそい」「時間感覚」を今でも感じられるゆえに、
その年が、アッという間に現れ、アッという間に過ぎ去ってしまったと感じる
「はやい」「時間感覚」がある事に気付けるわけだス。





考えてみれば、今ではもう、私も、毎年、大晦日になると、
「アッという間の1年だった」と感覚的に思え感じられるわけで、
それは、決して悪いことでもないんだろうけど、「おそい」「時間感覚」を今でも感じられる自分としては、
すべてのものが、「速さ」がモノを言う時代という枠の中に注ぎ込まれて行くのは、
ちょっとした「遅れ」を取ることで、すぐにその場を奪われ脱落していくような、
なんだか残酷で殺伐としたとんでもない仕組み=社会が出来上がっていくような危機感を感じるわけで、

それでは、ゆっくりとのんびりした時間で自分を休ませ、自分を見つめ直し、
自然なるままの時間に浸る時間も平気でなくして、
「自分」がこの世に生きてることだけでなく、生かされていることさえ忘れてしまうほど、
まったくもって、忙しいだけの、忙しくしていないと落ち着けなくなるほどの「仕組み」が、
知らぬうちにじわじわとつくられているような、しかしそれは必ず、何か大事なものを
見失っていくような人の世の中になっていくと思うので、

いくら、今のこの地球や自然環境や人類の未来を考えると、
のんびりしている場合ではない、行動を起さなければいけないと言っても、
「ねばならぬ」という強迫観念だけが、一人歩きして、その行動は、いつしかただただ「焦燥感」にとらわれただけの、
無駄なものに振り回され、本来の目的から反した、ただただうざく迷惑なるものになっていくような、

そのために、時には、時間にとらわれないゆっくりとした自由なる環境で、
じっくりと自分や世界のことを「感じてみる」ことは大事なことなのだけど、
そういう者たちが、そういうコトを邪魔するウンコのようなヤツらになって、
そこらじゅうに跋扈しては、世の中をつまらなくさせているような気がしてならない。

最近ぼこぼこ増加してる、エチゼン・クラゲや、ゴミ屋敷のおかしな住人などは、
そんな今の世の中をうつす鏡となって、現れてもいるんじゃないかと、そんなことまで、感じる正月の俺なんでありやすが、

私がまだチンコに毛がはえないまだまだガキだった頃に、
「2001年」が先の先の遠い未来として感じられた「おそい」時間感覚は、
「おそい」というだけで、使い物にならないと言われてしまいそうで、
しかし、そんな自分も今では世間の人たちと同じで、大晦日になると、「1年なんてアッという間だ」
と、心底感じてしまえるほどの、社会人として適応する存在には、一応なってるようだけど、

「感覚」というのは「機能」ではないわけだス。

だから本来は、「遅い」からといって使い物になるならないとか言うのは、
しょっぱいものを食べてしょっぱいと感じないで甘いと感じろ。
と言われるようなものだから、おかしいわけだけど、おかしいと即座に思えるような、
正常な感覚を持った人材すら、失われているのではないかと思うほど、

とにかく今の世の中、無駄でウンコのようなものが、そこらじゅうに多すぎる。

と正確に調べたわけでもないのに、ただそう感じるなら、それは「タダイマ付近の感じ」のナニモノでもないので、
無責任なようであるかもしれないが、ただそれをこうして書くわけだけど、

おっとじゃーここらで、そろそろ、最終コーナーといきやしょう。



ものが多くなればなるほど、時間の向き(方向)は、
一方向に向って行く。という、エントロピーの法則というものがありやす。

それはどういうことか。というと、たとえば、この宇宙に2つのタマしかないとしやす。
むこうからタマがやってきました。ピンポン球のようなものが。で、ぶつかりました、跳ね返りました。

で、これをビデオで撮ってみやす。

すると、あら不思議、それは、逆まわしにしても、同じような映像で、
逆まわししてることがわからなければ、それが逆まわしなのかどうかわかりやせん。

そのことで、「時間」は、実は、一方向ではない。その方向性は、自由な中で無限にある。ということがわかりやす。

さらに、逆まわしにしても、逆まわしなのかどうかわからぬほどに、どっちもまったく同じ映像-動きにしか見れないので、
その世界には、まったく無駄の存在しない、自由自在で無限なる方向性があり、
それは、一度としてまったくブレずに混乱さえ生じさせない、常に安定した「力=エネルギー」であり、
実は、それこそが、「時間」の本質、その正体であることが、わかるわけだス。

ところが、そのタマを、100万個くらいにして、やたらいっぱいタマを増やし、同じようにぶつけあわせてみると、
いっぱいのタマたちは、複雑にいろんな方向に、そこらじゅうを混乱した嵐のようにウザク飛び散りまくるんだけど、
それを同じようにビデオカメラに撮影して、逆まわしして見てみると、簡単に逆まわしってわかっちゃう。

それは、結局は、ただ1方向なるものでしかない。というわけだス。
それは無限の方向性を持つ本来の「時間」を、貧乏臭いほどに、たった1つだけのせまっくるしい方向だけしかとらえられず、
狭い1つだけの方向=視野の中で、個性も出せずに一塊となって、ちーちゃくちーちゃく生きてるわけだス。

とにかく、ものが多すぎるんだス。今のこの世は。



ものが多すぎると、障害が起きます。

多ければ多いほど、その中には、無駄で意味のなさそうに思えるものやら何やら、
平気で含まれていて、つまりが、多すぎるということは、
そこに必ず、必要ない無駄なものが含まれている、ということなわけだス。それは、「病気の原理」でもありやす。

そして。

多すぎると、あっという間に時間が過ぎていくわけだス。ものを減らすと、それだけ時間は増えていくわけだス。
だから、もっと今よりゆっくり落着いて生きたいと思うなら、まず「無駄」なるものを判別出来る力を身につけ、
その力で無駄なものをどんどん発見し見つけ出して、どんどんそれを廃棄し、ものを減らしていくわけだス。

とにかく、モノが多すぎると、「時間」は1つの方向にしか動けない。

果たして、その方向が、みんなにとって良い方向だったらいいけど、
悪い方向だったとしたら、そこから無駄なものを省かない限り、一巻のおしまいになりやす。
何故なら、ものが多すぎるので、その方向は、1つだけしかないから。

たとえば新宿のあるホスト・クラブの一番人気の
おにーちゃんの持ってる時計の時間やら、土方のおっちゃんのしてるごっつい時計の時間やら、
日本から一番遠い国の一番時差がある国のある人の時計の時間やら、
世界中の大勢の人たちが、それぞれみんな勝手に、自分の時計の時間こそ「1つの方向」であると主張してたら、
全体的に「1つ」の方向でしか流れることの出来ないその人(タマ)たちのいる世界は、
そのタマ自体が無駄で必要のない1つの方向として、「時間」は流れていくだけでしょう。


しかし「時間」は本来、そんなせめーヤツなどではありやせん。
決して一方向のものではなく、その方向は、自由自在で無限であるからして、
一方向だけしか認められない狭い心の人には、そのことに気付けないだけで、
「時間」さん自体は、自由で無限なる方向を持つものだから、ある人には遅かったり、ある人には速かったりしても、
ぜんぜん良く、それが、「愛」の分身である本来の「時間」というものの「力」だス。

ということで、今年のUDJのコトバマは、「捨てる」というヤツ、出やしたぁ。

はっぴーにゅーいやーべいべ。


【2010+UDJ+年賀状】

2010-01-05 | ・nTinDEEP



そゆわけで、誰も予測できなかっただろう今年のUDJの年賀状は、
はじめて「手書き」によるポニョ形式で制作された、これまた名作だス。
それはいつもの私の「絵」の作品と同じく、じーっとこの「絵」をみつめていることで、
必ず潜在的な感覚があなたのノドチンコを....ってそんなこと言っちゃダメだろ、
いかがわしーことこの上ないべ。それは、俺だけそうなるわけで
他の人にもそうなるとは限らないことでもあるんだから。っってのも、いやらしかぁ=。
ま。私の絵は、でも、いつみても、しかし、特に新作のときはじめてみたりすると、
不思議なインパクトとおかしな感じになるだろうとは思われやす。
別におかしくないです。安心しろ。

今年はTのLiveは、おそらく半年以上はないだろう。
出来れば、今年いっぱいTの「セーボー」を、休ませたい。
去年までのTのセーボーでは、新しいTを生むためのアンテナにはならないし、
今年いっぱい休ませることで、去年までのTのセーボーは発酵エキスとなって身体にしみこみ
表面的には消えてなくなるだろう。

Tもこのさい今年は消えてなくなれば良いと思ってる。

わりーが正直そう思う。自分としては本当にTはやりすぎた。
それは自分に大いに自覚できる。ほどだから、
いまだTのセーボーが、抜け切れていない。

なにしろ今の自分は、まだやっとTから解放されたばかりの俺なもんだから、
TをTのセーボーを、早く自分の顕在意識の中から排除させ、
久しぶりに、はやくにとことん「UDJ+Artworx」となって、
自分の意識に「本来の自分の仕事」からの合図をキャッチし、
それをやること、または、それをやれること。が出来る状態になりたい。

Tの晦日のショーボートでのカウントダウンLiveのことなどは、
そんな自分になった客観的な状態で、書いてみたい。ので、楽しみにしてたおめー。
そのときまで待ってなさいというより、俺がその日の記憶を忘れてしまって、
書けなくなってるかもしんない。けど、どうなるでしょう。

つーことで、ついに2010年、俺の、宇宙の旅、はじまりやす。

果たして、モノリスは、この原作のように木星の黒点となって幾何学的に増大して現れ、
前作(2001年)で様々な謎に対するアーサー・C・クラーク氏の推理された返答、
宇宙の神秘を伝えに、何かおミアゲ下げて私たちの目の前に現れるのでしょうかぁ。

とにかく、私は近いうちに、今年のコトバマのおミアゲ下げてまたココに、
出来れば明日にでも現れるだしょう、とりいそぎよろしく。