不幸の時代というものは、ある意味、恐怖の時代だ。
その「恐怖」の時代の究極にあるものが、
戦争であったり地震等の天変地異であったりウイルスなどであったりする。
そいじゃー、その反対側にあるもの、不幸・恐怖の反対とは、いったい何かとゆーと、
愛。とゆーことになる。
だから、それを感じ発信伝えることは、
未来を生きようとする私たち人間すべての使命でもあり、責任ということになる。
何故なら、私たちは、100%不幸や恐怖の反対側の存在、もっとはっきり言っちゃうと、
愛そのものだから。私たちは。
クリスマスだから浮かれて言ってるわけでも
大麻とかやりながら昔のヒッピーかぶれのようなことを言ってるわけでもない。
私たちは誰もが、この世に「生命」を持って生まれ、今の時代を生きている。という事を言ってるだけ。
私たちは「生命」ある事で生きている「生命体」だろ?
だったら私たちは愛そのものだろ、だって、「生命」って「愛」そのものなんだから。
私たちは、その「愛=生命」で出来てる(生きてる)わけなの。
私たちは、ソレがなければ生きていけないの。
また、逆に、ソレだけあれば、他に何もなくても生きていけるわけだス。
生命が在る。んだから。
実は、酸素や水や食べ物がなくても、ソレだけあれば生きていけるわけだス。
ま。他の惑星に生きる、気体のような霊体的肉体を持つ宇宙人とかなら
現実的な話として理解出来るだろうけど、地球に住む私たちは、酸素や水や食べ物がなければ、
死んでしまう、生命を失ってしまうので、あまりそのことを現実的に捉えられないけど。
死んだら、わかるわけだス。そのこと。
死んでしまうのは自分の老いた肉体であり、自分自身はソコ(あの世)でしっかり生きていることで。
ソコで自分が、酸素も水も食べ物も必要とせずに、生きていること。
自分の「生命」は永遠に自分を生かすこと。
「生命」はそれ自体で「生命」ゆえに、決して死ぬことなく、すべてを生かす存在として永遠であるということ。
そして、私たちは「生命」そのものであるということが。
とにかく。
もしもあらゆる一切のものが自分から消滅してしまおうと、「生命・愛」だけ、失う事がなければ、
本質的には、決して、不幸や恐怖、孤独すらもやって来ない。
何故なら、「生命」は「新生」することも出来るから。
これは、知ってて絶対に損のない話。いつか必ずどこかでその智慧で救われるときが必ず来るから。
自分の中に「生命」の存在を明確に認識できれば、それがすべてと繋がっている事がわかるようになる。
たとえ今、つらくて孤独で不安でいても、自分の中に「生命」の存在を明確に認識できれば、
不思議に「不幸感」がなくなり、元気になる。さらに生命の永遠性を自分のオーラに出せるようになったら、
かなり魅力的な人を惹き付けるようなヤツにもなる。それが「生命」であり、それが本当の君自身だからだ。
誰もが魅力的な人間であること。そうでない理由は、今、君が、君自身ではないから。
自分を生命そのものにしていないから。
私たちは、本当に生命そのもの。愛そのもの。であるということ。
私たちが私たち自身でいられれば、決して不幸にはならない。
嘘だと言われても、そのようになってるんだからしかたがない。
私の大好きなピクサーの最新作でも、そのこと言ってる。うぉ~りぃ~って。
あいつ、ロボットのくせに。それがアニメーション(絵に息吹を与える)の世界ってもんだ。
それは植物や動物も同じ。愛そのものなる存在。みんな生命を持ちそれで生きてる。
酸素や栄養-植物でみんな生きてるわけではないということ。それらもすべて根源的な「生命」から生まれたもの。
「生命」がなければ、すべてが今ココに存在しない。だから、みんな「生命」が在ることで生きてるわけだス。
それが、「自然」の世界。そのしくみ。だから、それって、愛だろ。
そして、私たちは「生命」そのもの「自然」そのもの。つまり「愛」そのものなんでありやす。
この認識は、大事な事なんだけど、私の苦手な世間一般のマトモな人たちは、
アイソノモノのそんざい!とか言うだけで、センサー動き、あぁ~シュウキョウの話ね、とかして、
自分の話として引っ張って来れないのが、文字道理世間一般みたいな感じ。
とにかく。テレビなどの報道では、現在「不幸の時代」を迎えているらしい。
経済的に成功しないことや、未来が見えないこと、未知のウイルスなどの発生で生存していくことの不安から、
人々は、自分の身を守りきることができず、苦しみ、悲しみ、恐怖の中にあった時、
こうした恐怖から救うものは、やっぱ、人の愛。それっきゃない。
それは、「人を助けたい」という優しい気持ちであるかもしんない。
「そのままの君を、私たちは、あるいは私は、愛しているぞ」と言ってあげる心かもしんない。
たとえ首筋がかゆかろーと、恐怖の時代には、
「そのままのあなたで素晴らしい。そのままのあなたで、天使であり、神の子である。
あなたの輝いている素晴らしいところが、私の目には見える」
と言ってやれる人が数多く出現することが、必要となったりする。
「他人が自分を害するのではないか」という、お互いに、他から身を守ることのみを考える人々が増大すると、
そこに、国境を超えて、戦争というものが起きる。
国境を超えない場合には、内乱が起きたりして、さまざまなかたちで国難が現れて来る。
もはや人類にとって、その恐怖を打ち消すものは、愛しかない。ということ。
それはキレイゴトではなく、未来を生きる人類に課された責任として、
悟り伝えなければいけない時期に来てんぞぉ=っと、私の内なる「生命」は発している。
愛とは、人々を結びつける力。そして、人々を強くする力でもあり、希望へと導く力。
だということを。めんどくせーなーもーだけどしょうがない。
世の中は、政治のほうも、経済のほうも、うまくいってないし、
21紀以降の世界を引っ張っていく新しい思想や、方向性が、明確に見えない状況にあって、
ただ、こういうときに気を付けなければいけないことは、ともすれば、外側に表れたものによって、
幸・不幸、成功・失敗を考えがちになるということだス。
この危険性を感じ、訴えかける者が、これから一人でも多く出て来る必要性を、最近なんか強く感じちゃうわけ。
感じたくねーよそんなこと俺。だけどもどーしても感じてしまう。「アンテナ」もってんから。
しょーがねーよなーそいじゃーなー。
特に、20世紀は、ある意味で唯物論の世紀、物万能の時代だった。
科学技術が進歩したために、物づくりの能力が非常に高くなり、そして、あふれるばかりの物が、
ある意味で人間の生活を幸福にもした。
さらに、食料に関しても、その生産性を飛躍的に高める手段が、肥料や、さまざまな機械類によって、もたらされたとも言える。
その意味において、物質的な豊かさも、完全に否定しきることはできないと思うけど、
ただ、目に見え、手に触れることができる幸福というものは、どこまで求めても、やはり有限なわけ。限界があんの。
そのことを、SARSやトリインフルエンザなどのウイルスは、私たちに警告してんのかもしんないよ。
鶏に大量の卵を産ませるために、日も当たらぬウインドウレスの窓のない大きな箱に大量の鶏を押しこんで、
ただただ卵だけを産ませる機械のように鶏を扱っていたら、その「生命」は、同じ生命を持つ私たちに、
「それは間違っている!」ということを私たちに伝える何かしらの合図=抵抗を送るようになってる。
と断言してもかまわないだろう。大体事実だから。ウイルスは「生命」からの使者でもあるし。
物質的な豊かさも、完全に否定しきることはできないと思うけど、
ただ、目に見え、手に触れることができる幸福というものは、どこまで求めても、やはり有限なわけ。限界があんの。
じゃー。その有限の世界のなかにおいて、無限に求めることができるものとは何かとゆーと、それは、
人間の心のなかに眠っている、深い深い潜在的な価値。心のなかの宝物。誰もがみんな持っているもの。
それが「生命」という力、「生命」という智慧、「生命」という光、つまり愛。
自分の「生命」は、それを発するだけで、自分だけでなく他をも生かそうと光を発っする(運動する)。
自分の「生命」も他人の「生命」も、同じ「1つ」の「生命」だということ。
私たちは「生命」そのもの。「愛」そのもの。それは、本当の話だということ。
これからの私たちは誰もがその「生命」を持っていることを、誇りに思って、
それを堂々と放射させては生き生きとした人生を心がけて生きる責任がある。
責任がある。ときつく言うのは苦手な私だが、ハシモト知事も、
その「生命力」を輝かせ孤軍奮闘頑張っておられるので、そー言っちゃう。
事実、そうだから。それを意識するべきだから。
それがまず、不幸感覚という、生命の正反対側なるものを、簡単には引きつけない力となるから。
私たちは、ソッチ側の出身ではないんだから。という強い自覚。それが今、必要だということ。なハシモト。
石油や石炭、鉄鉱石、金、銀、ダイヤモンドなどが、地中深く眠っているように、
一人ひとりの心のなかに、無限の価値が眠ってんの。
この無限の価値は、必ずしも、外に表れて、無限の成功として形あるものとなるわけではないんだけど、
心のなかにおいて、それを見つめ、味わう限りにおいて、それは、無限の成功を人間に与えてくれるの。
世の人々は、物質的な豊かさによって、幸福になったと同時に、それに釣り合うように、
不幸感覚が強くなっているように思えるわけ。
それは、便利さというものが、同時に人の欲望を加速させている。とも言えるんだと思うわけ。
「とにかく一日の糧を得られればよい」という考え方だったのが、
もっともっとぜいたくなものを求め、快適さを求めるようになり、さらに、地位を積み重ね、財産を積み重ね、名声を積み重ね、
他の者との競争のなかに最終的勝利を得たいと願っている人も数多くいたりする、そんな今の世の中でもあんだ。
そゆー価値のピラミッドのなかでは、最終的な勝者は数が少なくなるので、
多くの者は、ピラミッドの側面を転げ落ちていっちゃう。
しかし、今の日本の不幸は、このピラミッドの頂点に位置すると思われる人たちが、
次々に転落する姿を見せていることだ。
ピラミッドの頂点にいる政治家、官僚、財界人その他、社会的にも尊敬されているような人たちが、
新聞の一面で、まるで生まれつきの極悪人ででもあるかのように報道されることが数多くある。
これは、ピラミッドに登ることができずに地面で苦しんでいる多くの人たちの、
「上に登った者が落ちてくれば、彼らは自分たちと同じような不幸を共有する。それによって自分たちは安心できる」
という虚しい価値観から生まれているかもしんないの。
しかし、考えてみれば、そーゆー「一握りの人たちが幸福で、他の者が不幸である」
という考え方には、納得のいかないものがあるわけで。それは、
あくまでも外面的な勝敗、名誉であり、外側の物差しで測れる幸福にすぎないものだからそーなの。
そーではなく、大切なのは、内面にある物差し、心の内なる物差し。それは、決して気休めを言ってるんじゃーないけど、
だけど、心のウチというもの、あるいは心そのものを、いまだ発見することができない人にとっては、
そんな話は、まるで抽象的なおとぎ話のようにしか聞こえないわけ。
それは、土のなかに、石炭や石油、ダイヤモンド、鉄鉱石、金鉱が眠っていても、
それに気が付かない人にとっては、それはただの土くれでしかなく、
「その土から農作物がとれるかどうか」ぐらいの判断しかできないよーな感じ。
それと同じ感じで、深いところに眠っているものに、多くの人は気が付いてないの。
それは無限の喜びの源泉であるつーにもかかわらず。
現代の人々は、人を愛することの喜びというものを、率直に味わうことができるでしょーか。つー話があって。
それは、きわめて稀な、「貴重な瞬間」であって、でも、これからの人間は、その「瞬間」こそが、
最も重要な鍵になる。つー話があんの。
過去一年を振り返ってみて、「私はこのように人を愛した。人を愛したことによって、これだけの喜びを得た」
ということを思い起こす幸福を、みんなは持ってる?つーこと。
この一年、人を愛することの喜びを、どれだけ得ましたか。また、その反対はどうだったでしょう。
人を苦しめたり、害したりしたことの反省もあるでしょうか。つーこと。
一年のあいだには、いろいろな出来事があったはず。しかしながら、
その耀く「瞬間」、心のきらめく「瞬間」というものは、そう多くはなかったのでのではないのか。
私たちこれからの人類は、1つになって、その「瞬間」を、1つでも多く増やしていかなければならない。
とゆー使命を与えられちゃってんの。だって実はソノモノの存在だから。
それは、未来を生きるすべての人間の条件でもあり責任でもある。とゆーこと。
でもそれは本当は簡単なこと。愛を感じ、愛すること。それだけのことだから。
でも、とてもそれが難しーことになってるわけ。
表面的なソレなところではできても、もっと本質的なところのソレを感じたり伝えたり
ソレを実行したりすることが、簡単に出来なくなってきてるの。ソノモノのくせに。
真実の自分を見失ってるの。自分が、決して世界を不幸になどさせない、愛そのものの存在であることを。
そういった重要なことを、重要なこととして、多くの人は気が付いてない。
そんなことは、キレイゴトであって、今の自分にとって、現実的に何の利益にも収入にもならないので、
それが自分の本来の幸福につながるとは、リアルに思えない。とか言っちゃって。
だけど、現実には、今の人間の環境、というより地球の環境は、そんな感じの人によって明らかに汚染されてんの。
人肉が焼けこげるよーな変な火薬の匂いとか今だにしてる。
いくらリアルに思えなくても、私たちは、人間本来の方向を持ってみんなで生きることによって、
はじめて、人類は、不幸から身を守る。というのは、事実だ。
だからウイルスは、目的を持たずにただ生きている生命・存在を発見し、出てくる。
また、地球という生命体にとって、不必要になっている過剰なるもの・腫瘍を排斥するために、
使命を持って生まれて来る。
それは、正しく生きる方向性を持とうとしない、過剰になった、無目的の、「自分がない」生命体、
その存在に、「あなたは今生きているけど死んでんだよ、それは地球にとってはガン細胞も同然なんだよ」
と言うことを警告するため、また、それを全体に悟らせる運動のために生まれてくる。
だから、外面的な成功のみを求める人にとっては、
これからも苦しい試練が続くことになる。それは、法則だから。
けれども、心の奥なるウチ側から成功を求めている人にとっては、どのような試練が目の前に展開しようとも、
幸福の連続ということがありうる。ことになる。
それは、きっとこれからの未来を生きる私たち人類にとって、最も重要な価値観となってくると思う。とゆーか、
そーならなければいけないことだ。
そーだ!岡本太郎だ!芸術「と」人生。じゃーなく芸術「は」人生であり、人生「は」芸術なんだ。
ナニナニ「と」なに、なんてことはどーでもいーんだ。
君は。何かを与えられてもらえたら幸福になるというものではない。何かを奪えたら幸福になるというものでもない。
何かを達成したら幸福になるというものでもなければ、何かを手に入れることによって幸福になるというものでもない。
そのままの君で、幸福になる道があるんだよ。それは、ソトではなく、君のウチにあるんだ。
とゆーこと。
今年は「eve@i」が出来ず誠に残念。
せめてブログだけでも《《eve@i》》してみよーと頑張ってみやしたの感じ。
(今回の作文はまたも、今はなきUDJのホームページでの看板コーナー「タダイマ付近の感じ」の復刻版で、その中から2004年3月5日に発表した「不幸の時代」を、現在の私のタダイマ付近の感じに再編集書き直して完成させたものです。それにしても当時の自分の感覚を記録した作品でもあるもうかなりムカシ付近でもある「タダイマ付近の感じ」だが、ココに「復刻」させる目的もありまたあらためて読み直しているけど、読んでて自分が書いたとは思えぬほどに何か不気味で怪しい予言書をひも解くような感じで、なんか、こわい。けど、おもしろい。それは現在でもタダイマ付近の感じでもあることがうれしい。よくもわるくも、それは普遍的な価値を持つことだから。)