どもっ!
って驚いたべ。ひひひひ。
前回の「じきいぶい特集」5日連日めの
もーあきてきただってネタないしな書込みからして、
まさか、こんなに早くまた再び登場してしかも「じきいぶい特集6」として、
なんかまだ書こうとしてる俺を予測してたヤツなどいまい。ふふふふ。
あまいな。そんなよーでわまだまだ15日のLiveで、俺に勝てんぞぉぅ。
と。
俺は絶対におめーらには勝てない。何故ならその立派なあいじょーもって、
タバになってかかってくるんだから、いくら俺でもさすがに無理だ。
それは絶対に無理ゆえにだからおめーらに勝つ方法は、
勝てるわけがないとよーくわかった上で、そんでも、
そんなアウェーなステージ上から、決して負けねーぞー!と最後までいられれば、
おーこのタバなる私たちに対して、ノックアウトもされずに、
よく一人で(時にはバンドのメンバーさえも敵側にいる)最終ラウンドまで、
判定に持ちこんだものだ。として、じじーになったロッキーは、
おめーらからも自分自身からも、悪いような判定はされないだろー。と思う俺は、
そんな冒頭挨拶コキつつまた戻って来たぜの
よぉ~ろぉ~しぃ~くぅぅぅぅぅぅぅぅ~~~~=っ!えへっ。ぼぉ~よよぉ~ん。
ぅひぇ=====ぃ==っ!!!おもいっきしひぃ==ちゃってるじゃぁ~ん!
てめたちゃこぉ~のぉ~やぁ~ろぉーーーーーーーーーーーーぉぉぉぉってね。あは。
ってんがぁ============ぁぁぁぁぁっ!それでもてめたちゃ
まーだおもいっきしひぃ=========ちゃってるままでやがってぇえ~い!
ぇえ~い!ぇえ~い!ええええいいいいいあいあいあすっぽすぽっき。
ぐぅ============っ。もうにん。べいびぃちくびぃ。にこっ。
ってもーさいてーじゃんぼろぼろじゃん俺なんでだだてめおいいーかげんにしろよ俺カリスマだぞてめなもんやだ俺いらねけどそー思われててこーだったら何だおめてめざけんなよどーすんだこれよおいどーしてくれんだてめこのやろえ~何だ俺おいっ!
ん==============。どっかなぁ。
当日、ほんとーに愛で感動的な愛の素晴しい愛のLiveをしてしまい、
愛あるみんなから愛の盛大な愛するほどのアツいアツい愛のアンコールに愛でこたえ、
頑張ってふたたびみんなの前にこんな感じで明るく出てきてやったら、
気づくといきなりこーゆー地獄に豹変しててしまってた時、どーするか!だよなぁー!
まそれでも、あーやっててめこのやろばかやろーとかそんなコトバ不規則にちょこちょこタケシじゃないけど言ったりしてればとりあえずその場はどうにかなるだろ。
よしっ!これもクリアーだ!
って、もーこんくらい長くマクラ書けば、いいかなぁあ。ん~~~。もー大丈夫だろ。
とーりすがりの大した興味わない人たちは、3秒も読まないうちに何だこのアホ。
と言って去って行くだろーよしよし。........かっこわるすぎだがんま。いっか。
実はな。今回最後になるこの特集の題目は、ちょっと危険なんでな。
ほんとわさ。前回でもー、いっか。ともーこりでいーだろー
と書いて寝てそして起きたらびっくりしたぁ=!てめ何俺のベッドで一緒に寝てんだよ!
なんだ大してちんこたってねーじゃん。
しょろー朝立ちかぁいはははとかゆーおめーのちんこなどどーでもよく。
まいっか。じゃない。まだいくない。今日も書け。
えなに今日は昼から夜までいぶいのための大事な最後のリハーサルだ?
そーかそれでは仕方ない。んじゃーもーこのさい今回で終わりにしてやるから、
帰宅したら最後にアレ書け。
何アレって?
アレを書いておきなさい。
だからアレって何だ?
ほらソレだろ。
ソレはあのとき書いてるじゃん。
ばかちがうソレはコレのヤレソレだろ。それはとっくにロレってレロしたろ。
あのほれ、あのソレだ。ソレだって。ったくもぉ~ホントおめーわアホだな。
あーソレか。ソレなら昨日の書込みでもーやっただろ。
ダメだあんなんじゃ「自分」が入ってる。
まぁあーだまだ「自分」の領域のところで書いてるだろが。やらしくも。
変な心配などいらぬからいーから気にせずもっともっと
だからほれ自分を捨てててってー的にな
ニュートラルなまっさらーになってな、
ソレのもーまぁ~んまを素直にかけかけかけかけっここぉ=っ!
ってあなんだその目わ。それがお前のシュゴレーに対してする目つきか。
そーだ。それでいーんだ。大体俺のおかげで今があること忘れるなよ。
俺がきてやんなかったら今頃お前わっておいおい!どこいくんだおい!
あわりっ、あはいサンキュ、だからなおめな、
いーんだ。もーいーんだ。もーいー歳なんだからもーそこまでやっちゃっていーんだ。
先はもーそんなに長くはねーんだからな。
今いー機会なんだからいやいやちがうちがう逆だ。コレわ今良い機会なのだわかるか。
.......あ......なんかわかったぞてめわかった顔だろそれ。
そぉーそーそゆことだいい子だなそーだろおーそーゆーことだ。よしよし。
よしじゃやれ!
つーことで、今回は、じきいぶい特集の最終回。
書かせていただきますぅ。題して、
「ほんとわ何なんだ《《eve@i》》」
内容が内容なので、はらきめて何も考えずに一気にいきやすんで、よろしくお願いしやす。
え~~~~。今の時代、「アート感覚」は必須だス。
と、ココの私(UDJ+Artworx)は、書いてるわけでございましてぇ、
必須だ。と押し付けがましく言ってる以上は、何かわけがあるんだろ、ってぇ?
へぇ~。それがありありのこんこんちきでしてねぇ、
なぜならば、それが《《eve@i》》でもあるからですわ。
その対象ブツが、ビジュアル的に美しかったりおしゃれでセンスが良いと、
よく「アートだねぇ」とか軽く言いこなしたりしますね、
でも、大体の人たちは、その時のそのアートだねぇという感覚を、
ちょっとした時間における日常的で表面的な世界の出来事として
その感覚を、「アート」というコトバで記憶するだけでとどまる人が多いわけだス。
「アートだねぇ」とコトバで言う事で、その中にあった「アート感覚」を、
感覚としてではなく、言語として記憶するようなクセが、現代人にはあるのだス。
そこには、その人が「アートだねぇ」と言わせた
「アート」な波動を「発信」する対象ブツがあって、
その人はその発信された波動を「受信」して感じて、「アートだねぇ」と感動した。
わけなのでありやすが。
しかし、受信したその人は、発信する「アート」なる対象に対して、
日常的、表面的にとらえるので、実際には、
その両者全体で、「アート」となっている事がわからない。
自分もその「アート」の対象であることがわからない。
「アートだねぇ」と受信する人は、受信した自分をも含めて
「アートだねぇ」とは感じていないのだス。
感動的な対象ブツと、それをみて感動してる自分、という2ショットの光景を、
上から見て頬えんでる目には見えないナニモノかの感覚がわからないのだス。
したがって、その人の感じた「アート感」な感覚は、
あくまでその対象物だけから感じるものとした、
一般的で日常的、表面的な「感覚」と言えちゃうのだス。
そのアートなる対象物だけがあっても、それを感じる相手がいなければ、
その感覚は生まれないし、同じように感じられる人がいても、
そこにアートなる対象物が何もなければ、その人はその感覚を得られないのだス。
アート感覚というは、それを発信するものと受信する相対的な2つのものが
「1つ」になって、はじめてその感覚の「全体」として存在するわけだス。
それが、本来の「アート感覚」なんだスね。
前回ソコまで、実は、書いたわけだス。
さらにその奥に進んでいきやしょうかに。
ココでどんどん公開させてもらってる私のつくる「絵」だけど、
《《eve@i》》のポスターも私がつくったんだけども、
私は、ここまでのものを、しかも次々につくれるなんて事は、
いくらそれが、コンピュータを使った「CG」によるものであるといっても、
まったく考えられない事でした。
それについては、私は何の基礎知識も技術もないまったくの素人で、
ある友人から頂いた「フォトショップ」という使用ソフトも、
いまだにその使い方がよくわからないほど、専門家とは到底言えない私でしたが、
そんなド素人もいいところの何でもないフツーの自分の「絵」が、
突然「アート」なるレベルなものへと自動的に開花したのです。
それはまるで突然の出来事でした。
しかしそれは、ある画家から受けた強い「アート感覚」によるものでした。
その画家は、画霊とも呼ばれる、
横尾忠則という日本の偉大な芸術家です。
その人のアート・芸術を語ったコトバに、
「宗教性のない芸術など芸術でわない」というのがあります。
彼の言う宗教とは、宗教の教団や教祖の事ではなく、
アート感覚のことです。今の自分には、それがわかります。
《《eve@i》》は、ご存知のようにクリスマスと関係があります。
クリスマスは、キリストの生誕を世界中で祝う祭日・ホリーデイ(holy day)で、
キリストといえば、世界中に普及してるキリスト教というのもあって、
「宗教」の代名詞ともなっています。
しかしキリストは「宗教」ではありません。
キリストが「宗教」なのではありません。
キリストは自らを「預言者」であると言っています。
「預言者」とは、神から「預(あず)かりもの」を持って、
この世に生まれて来た者のことを言います。
キリストは、天から、あるものを、預かり持ち、人々のために生まれて来た者でした。
何を預かり持ち来たかというと、ま。愛。なわけですが、
それは、目に見えるものでも手に触ることのできるものでもまた言語でもない、
それは、愛という「感覚」なわけだス。
愛、とゆー漢字に目をとらわれずにね、感覚、という方が大事なところなんで。
それは、同じ人間として地上に生まれて来た預言者の媒体を経て、
天からの預かりものを地上の人々に向って発信し、それを受信能力を持つ人の「魂」に、
それを注ぎ込む運動。魂を救済する。
「宗教」というのは、その天からの預かりものであるその「感覚」が、
その使命を持つものから降ろされ、
それをどーにか受信させて人々の魂を救う「感覚の原理」であって、
その感性を含むすべての創造世界が、アートであり、アート感覚。
宗教性のない芸術など芸術ではない。そのホンモノのアート。
それが、今の時代には、必須だ。とゆーことです。
それは、別に、小難しくかたっくるしく、怪しくいかがわしいものではありやせんね。
ただただ、それは、ソイツ(あい)の感覚の話なんだから。ソイツが必須。別に何も文句ないでしょう。
《《eve@i》》は、俺流のクリスマスのLiveだス。
だからそれは、この自分つまり「saybowのLive」ではありやせん。
このよーに自分を捨てた、全体で良い加減になるよう考えられたLiveでありやす。
実際には、その形として、あまり変わりはしませんが、
その時、歌手の感覚は、《《eve@i》》モードなのでございやす。
いま、この世は、本来の宗教的信条を信じ、そのために、
信仰心を持って生きようとする人にとっては、不利な環境になっていやす。
基本的に、そうゆう人は少数であって、多数の人からは「おかしい」と言われて
信じる以前に、笑われるような状況にありやす。
宗教的信条を信じている人は大体10人に2,3人ぐらいで、あとは、それについて、
「ちょっとおかしい」と言う人がほとんどだと言われていやす。
そしていま、
この世は、時間のサイクルが短くなり、人々は忙しくなって・秒単位で動いている反面、
「道徳的なな面がかなり後退してきた」と言われていやす。
昔から言われてきた古い価値を捨てて、
自由気ままに生きる人がたくさん出てきた結果、道徳的なレベルが下がり、
犯罪も増えてきました。
責任を伴うことで「自由」といえる事がわからないばかりに。
現代人は、この流れを止めることができずにいます。
それは、「警察に捕まって刑務所に入れられるぞ」という脅し以外に、
人を律するものが何もないからです。
それ以外には、自分に当てはめるルールがないため、
「人に見つからなければよいだろう。人に分からなければよいだろう」
という考えが横行するようになったのです。
昔は、なぜ、そういう悪いことがしにくかったかというと、
「天国・地獄があり、来世で、必ず、この世での生き方についての判定が出て、
その清算をしなければいけなくなる。よいことをした人にはよい結果が、悪いことをした人
には悪い結果が、必ず来る」
ということを、人々が宗教的にずうっと教え込まれていたからです。
ところが、現代人は、それを迷信か子供騙しの教訓のように思っていて、
「地獄話で子供をおとなしくさせようとしている」というように捉えるのが普通でしょう。
ただ、昔から、先祖供養を通し、「ご先祖様が、いつも見ている」という言い方をすることで、
この世の生き方を清く正しくさせようとする流れはありました。
そのため、現代の唯物論者であっても、お盆やお彼岸にはお墓参りをしたりしています。
それは、無意識のうちにやっているのかもしれませんし、
「単なる風習だ」と思つているのかもしれません。
「ご先祖様が見ている」と思うと、人が見ていなくても、
悪いことはできないものです。
そういうことを、人々は昔からくり返し教わってきたのです。
「おじいさん、おばあさん、ひいおじいさん、ひいおばあさん、先生など、
ご先祖様や亡くなった人が、自分をいまも見守ってくれているのだ」
という視点を持っている人は、常に反省をして、
間違った道に入らないように自分を点検しなければいけなくなるからです。
また、宗教の信条を信じていて、「善因善果、悪因悪果」、つまり、
「よいことをしたら、必ず、よい結果が来る。悪いことをしたら、必ず、悪い結果が来る」
ということを信じられる人は、やはり、
自分を正しい道に入れようとするでしょう。
しかし、現代は、宗教学者であっても、
それを「昔話だ」と言って笑うような時代です。
なかには、「キリストや釈尊の思想が現代にも通用するなど、そんなばかなことがあるものか。
『死んだら地獄に堕ちる』と言って、人々を脅しているが、
そういうことは、あるわけがない。それは単なる方便なのだ。
当時の人はレベルが低かったので、そういう方便を使って、
人々をたぶらかしたのだ」というようなことを言った人さえいます。
しかし、そういうことを言った宗教学者は、死後、
地獄に堕ちているような気がしやす。俺のアート感でゆーと。
世の中の様相は、さまざまに変わっていきますが、変わらないものがあります。
それは、「価値」を中心としたものです。
つまり、「何に値打ちがあって、何に値打ちがないか。
何が正しくて、何が間違っているか」ということに関しては、法則として、
一本、ず======っと流れているものがあるのだス。
この法則は、この世の人がそのルールを知ろうが知るまいが、
必ず、その人の魂に降りかかってきやす。
この基本的な法則は、千年前も二千年前も、さらにもっと前においても、
その「価値観」は、変わらないのだス。
ところが、この法則が、現代では、
砂や埃を被ったようになって、見えなくなっています。
現代は、そういう大変な時代なのですが、昔の人は、そーゆー宗教的信条によって、
「努力や反省は大事だ」ということを理解したり、「ご先祖様が見守ってくれている」
という考え方で自分を律したりして、そのアンテナ、
「アート感覚」を大事に護ろうとしていたようで、
その感覚のおかげで、いまだに続く、ニセモノが起した宗教戦争などの時代の中でも、
その時代時代、その他いろいろな苦難や困難を乗り越えて来たりもして、
歴史に残る数々の偉人たちも、その感覚を信条として生きた人たちがいっぱいいたのです。
ま。今まで狂ったよーに連日じきいぶい特集だといって、
書込みまくってきましたが、そのシメとして、私。
あきてきたからといって、やるならやるやらないならやらないの性格の私としましては、
その特集その感性その完成を、今ここに、立派に仕上げさして頂きやした。
これもひとえにココに来るとひしひしと感じる、皆様のご支援その心に潜在する、
かわいーかあいー「アート感」。そこから発信され受信した感覚。
そのおかげだと信じて疑わぬ私でありやす。だからこそ、こんな事、
誤解を怖れることなく、書いている次第でありやす。
しかし来るべき15日のその「俺・おめー・俺たち・おめーたちのLive」である
《《eve@i》》なる「イベント」の日は、
今回のこんな話もほどほどに、むしろ、
出来れば聞かなかったほどないーかげんなるかるぅ~い気分でもって、
どーかこのいーかげんに用意された、いーかげんなるその1日を、
「良い加減」にお楽しみおすごしあらん事を、
らくにたのしくさらには生きてんだもんエロくもいこーや人間だもん。
と、とくと希望する、ワタクシメにてごぜーやす。
あーめんはくぶつかん。
特集;じきいぶい(50すぎての)。おしまい。
おいシュゴレーてめ、これでいーか。
なんかまだまだあぶねー感じもするが、おめーの人格と力量では仕方ないだろ。
ちっ、てめーだって俺自身でもあんだろが。だからシュゴレーなくせに
おめーわなーんか威厳もねーし風格も品もねーんだ。
てめ。そのちんこもーそろそろたたねーよーにしてしまうぞ。
あーだめだめだめそれだけはやめろー!何を言われても、
エロだけは手放したかねー!
じゃもっとがんばれエロでも下品でもなんでも。もっともっと良い加減で。
しかしこんなの年に1度で沢山だわ。
ま。お前のくせに年に1度でもやれるだけでも、ほめてやるわ。
早く、そんなもん気にせずにやれるsaybowでのLiveしてーわ。
saybow自体は、大したヤツじゃねーからな。おごるなよ。
おめーもな。
てめこのやろぉ===============。
なんだばかやろてめーもだから俺なんだろーがぁ===!
ダメだこりゃ。(天国のいかりや+特別出演)