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【朝青龍殺人事件/2】

2007-08-27 | ・nTinDEEP



前々回で、(マスコミ - 体制に殺されゆく)朝青龍殺人(計画)事件
つまり朝青龍の悲劇を書いたら、さすが「嫌われ者・朝青龍」だ。
それについて共鳴するヤツだけではなく、そーかなぁ。そーじゃないだろー。
とか言うヤツもかなりいるらしく、負けず嫌いの私だもんで、
人気者の俺まで嫌われ者になりそうなのはやなんで、
そいじゃーつーんで、いまいち信頼度のうすいUDJ的とゆーよりも、
格調あるJMM的に、ちょっともう少し書いてみるかに。

朝青龍の悲劇は、日本がアメリカへ送った不世出の右腕投手、
伊良部秀輝選手の悲劇のことを思い起こさせる。

伊良部は、千葉ロッテのエースとして、パリーグの投手として頂点に立った時点で
名門のニューヨーク・ヤンキースに入団し、そのヤンキース時代の成績は、
圧倒的勝利によるワールドシリーズでの優勝など、輝かしい黄金時代に大いに貢献し、
その成績は目覚ましいものがあったにもかかわらず、
今でもアメリカで「嫌われ者」で、あまり良いイメージが伝えられていない。

全くダメで、2~3勝しかできないというなら、
オーナーもファンも「スカウトのミスだった」と諦めて、
他の戦力を探すのだろうけど、伊良部投手の場合は
立派に先発ローテーションを守って責任を果たしていた。

その上で、「たまたま、勝負のかかった数試合で、無様な打たれ方をした」
その部分だけを、あの激情家であるヤンキースのオーナー、
ジョージ・スタインブレーナーからクローズアップされて、
「悪漢・嫌われ者」のイメージを作られてしまった。

オーナーの発言に乗ってしまったファンの方からも、
「伊良部=悪役」のイメージが出来上がってからは、
アルコールに溺れているという「噂」が一人歩きしたり、
ファンに対して悪態をついたというようなことが大げさに新聞に書かれたり、
打たれて降板するような際には容赦のないブーイングが飛ばされたりして、
伊良部とオーナーとの確執は、徐々に悪化していき、ついには、
キャンプへの参加差し止めなどという具体的な騒動に発展したりもした。

何が悪かったのか。

伊良部投手がアメリカ人であれば、こんなことは起きなかっただろう。
ということは、スタインブレナーや、NYのヤンキースファンは
「日本人が嫌い」なのだろうか?
人種や出身国で人間を差別する感情が働いていたのか?

それは違う。何故なら、

現在、松井秀喜選手が同じスタインブレーナーから、そして、
同じように思い入れと思いこみの激しいNYのファンから
まず手放しの尊敬を受けていることは明らかだからだス。

問題は、コミュニケーションなの。

当時のヤンキースはベンチ内でのコミュニケーションのために、
通訳を配置してはいたけど、NYのファン向けに
伊良部選手とのコミュニケーションを続けるような
広報活動を行うバイリンガルのスタッフはいなかったんだ。

その結果として、ヤンキース以外は考えられないと、
他の大リーグチームの誘いを蹴ってまで、どうして、
伊良部投手があれほどヤンキースに入りたがったのか、
その伊良部のチームへの愛のストーリーをファンが理解することはなかったの。

上手くコミュニケーション出来ないまま伊良部選手は、
オーナーに言われれば言われっぱなし、
ファンから野次られれば言葉で釈明するのではなく、
最後は悪態とも取れるような見よう見まねのボディーランゲージに走ってしまい、
誤解が誤解を生む状態に陥ってしまった。

言葉の通じない異境にあって、その社会の中で窮地に陥りながら、
その土地の言葉では自分の思いを語ることができないというのは、
それは人間の精神に取って危機に他ならないわけだス。

今から思えばヤンキースが最も輝いていた数年間に、
その中心にあって何一つ恥じ入ることのない成績を収めながら、
現在でも「ああ、あのイラブね」とNYっ子たちから揶揄される。

これが伊良部投手の悲劇だス。
朝青龍にも、同じような構図があると思いやす。




日本相撲協会、高砂部屋、メディア各社、
あるいは政治家など周辺での反応を見れば、それは、
伊良部投手の悲劇とよく似ていることは間違いないだろう。

そこには人種差別はないし、国技というナショナリズムのバイアス、
消えゆく伝統を保持したいという保守的なこだわりについても、
どれも薄味の人畜無害な範囲のもので、大した問題でもない。

だけども、本人を取り巻くコミュニケーションの不全状態は、
明らかに危機的で悲劇的だと思う。

白衣を着た「モンゴル語のできない」日本人医師が、
ドルゴルスレン・ダグワドルジという26歳のモンゴル人と日本語で面談して、
一体何になるのだろう。


いくら朝青龍が流暢に日本語を話す「横綱」といっても、
人生の危機にあって、その波及効果を計算しながら、
自分の心の中を語ってゆくというのは、
母国語であるモンゴル語では可能でも、
日本の価値観とのギャップを計算しながら語るとか、
処分に対して受けた精神的動揺を、ある程度正直に語って共感を求めつつ、
相手との和解を探る、というようなことは日本語では難しいだろー。

というのは、同情して言うのではなく、ごくごくニュートラルな話。

そんな日本語での会話を強いる中で、
「何も話してくれない」とか「話が途中で止まってしまう」
という状況が起きて、それが精神疾患だと、もっともらしい診断が下るなんて、
そんな話、どっちがまともなのかわからないほどまともな話じゃない。
なんか、それって、朝青龍だけがおかしいと言うよりも、
もっともっとそういう「体制」全体がおかしーんじゃないのか。

それを言ってるんだス。UDJは。

朝青龍関が不自然に黙り込んだり、話の脈絡が途切れたりするのであっても、
それは、自分の気持ちを正直に表現できる日本語の言い方が見つからない。
というのが90%であって、残りはそのために疲れた。
つーことなんじゃねーだろーか。

だからって、その精神科の医師を批判してるわけじゃない、
医師だって、朝青龍と日本語でコミュニケーションができないだけで
「混迷状態」だとか「解離」だとか言っている精神科の医師に、
悪意がないことはわかるし。

それは、日本からアメリカに来たばかりの子供が、英語ができないために
小学校などで「聴力障害では?」とか「発達面の検査をしましょう」
などと言われる感じだろー。

相撲協会の処分や、周囲から寄せられた非難への正直な思いは、
恐らくは彼の心の内で語られている母国語の中でしか
心境として吐露はできないだろー。

仮に診察が必要であるならば、
モンゴルから信頼できる精神科医を招聘するか、
それが医療行為に当たるので不可能であるのなら、
優秀な通訳を用意した上でしか
「診察」というのは意味を成さないと思いやす。

そうでなくては、表面的、儀式的なものに終わるだろうし、
ファンと本人の心はいつまでたってもうち解けないだろー。

モンゴルに帰れば「症状」は良くなるか? 

勿論だろう。と思うけど、別に帰る必要もないだろー、
通訳を介して、お互いに誠意のある、
正確なコミュニケーションさえ行えれば、済むことなんだから。

気がつくと、そんなこんなで、国境を越えて
スポーツ選手が活躍する時代でありながら、
そうゆうような悲劇はいまだに後を絶たないみたいだ。

でもそれは、国際人の素質がなかったからダメだ。
ということではないだろー。

問題は、そうした基本を、誰もアドバイスできない「体制」に、
問題があるのだろー。

その「体制」がコミュニケーション不全を生み、
最終的には個々の選手とチームメイト、ファンとの間を引き裂いて、
せっかくの「才能」を殺すことになる。
そこに問題があるのだろー。と思うぞ俺わ。

だからって俺を「反体制ロック歌手」とか言うのはやめろー。
俺は全学連出身者かーマリファナ解放戦線のヒッピーかー。

そんな古代人のような「体制」の意味付けしてると、
どっかの古くさい遅れた国の工作員に誘拐されて、
テロリストという白痴にされてあげく自爆テロって死んでしまったら
クヤシさからか、生まれ変わったら俺は今度は反体制として生きるぞ!
とかわけわからん事思ったそのまま生まれ変わってしまい、
まーたどっかの古くさい遅れた国の工作員に誘拐されて、
テロリストという白痴にされてあげく自爆テロって死んでしまったら
まーたクヤシく、ずーっと毎回自爆テロで死に続けて今もそーだったら
どーする。

本当は、反体制なんてものはないんだ。人間は常に「体制」なんだね。

いくらそれに逆らおうとしても、人間は常に「体制」なの。体制側なの。
それはね、本当はね、反抗するものでも逆らうものでもなく、
ましてや爆弾などでぶっ壊すものでも殺すものでもなくて、
生長させ生かし続けるものなの。
みんなで。1つになって。
めんどくせーぞー。しょーがない。人間は常に「体制」なんだから。だから、

We're all come from there
Do you remember ?.... you are" ONE "

とかなんとかうたってんじゃん。歌手でもないのに。あ。あるのに。

やれこんなことやらーやれあんなことやらーを、こーしていろいろ忙しいにもかかわらず、
頑張ってココで私はだからかいているわけなんじゃんかよぉう。
もーかいてかいてカキ続けるわけなんだス。そーちんこしごきながらも。なこといーつつ
たとえ嫌われ者となろーとも(冒頭と違う)。

そこんとこよろちくびーとるず。





【100万年ぶりの再会(笑)とつぜん「今日は来い」いわれ】

2007-08-24 | ・Live



(everything is)P+O+E ( you are ONE)


+++++++++++++We're all one of them
+++++++++++++We're all come from there
+++++++++++++Do you remember you are ONE

+++++++++++++We're all one of them
+++++++++++++We're all shinning child
+++++++++++++Do you remember you are BRIGHT

+++++++++++++Everything is PEACE ON EARTH
+++++++++++++Everything is PEACE ON EARTH

+++++++++++++We're all one of them
+++++++++++++We're all come from there
+++++++++++++Do you remember you are ONE

+++++++++++++We're all need is love
+++++++++++++We're all come from thered
+++++++++++++Do you remember you are LOVE

+++++++++++++Everything is PEACE ON EARTH
(everything is)P+O+E ( you are ONE)



+++++++++++++

すでに多くのものを与えられている。
それに感謝することから出発すると、
人はお返しをしなければいけなくなり、お返しの人生になる。
でも、お返しの人生においては、不幸になる道がありません。
自分がお返しの人生に入ったときには、不幸はないのです。


いけねいけねお返ししなければ。してるけどけっこー俺。


おそらく。なんで知らせてくれねーんだよ!と不親切なココのブログはたまた私を責めるヤツも何人か多からず少なからずいや少ないだろうけどいると思うので、最初に誤ってじゃなく謝っておこーかに。それは突然その日の昼。私のかわいーあいする少年ドラマーのGから。今日かまやつさんがストーミーに来るからかまやつさんにあいにきなさい。とゆーメール。そー言えば、決して仲間を忘れないこのGからの業務連絡系チーママ・メールは、その前に来たのが、ファンでもあるGのユニット「竜巻」の横浜でのLiveの報告メールだった。あの、ある時突然脅迫のようにこっちの状態おかまいなしでリンリンあいやいまではピロピロか---鳴り止まぬ「電話」とかゆーものすごー便利でもあり良く出来た通信装置に対して、私はだからといってもいまだにものすごぉー「恐怖症」でもあるからもーどうせ電話したってよっぽどの事がないかぎりでないんだろーしがこの歳になっても続けれれていれば、そりゃー誰も私に電話とか連絡とかして来なくなってきても不思議ではないだろー。というような感じの中で、かわいーGはちゃんとそーゆー事を忘れないでしてきてくれるんだぜみんな!とか書いときながらも純粋にファンでもある「竜巻」のLiveに顔を出せなかったんだった。なんで?そーあの日は大阪に三谷幸喜の芝居を車で日帰りで見に行ってたときだったららだ。あー大阪公演でよかった、東京公演だったら見ててもあいま竜巻やってんだなーと落ち着けずにみてただろーとかなほどに、Gからの有難い。だけど、そんな三日間もぶっ続けでそんなことやってるなんて連絡来るまでまったく知らなかった。すごいなーZZKってバンドわー。なにしろかまやつさんが来るので会いに行かなければ!という理由から、ストーミーに行くと、丁度一部が終ってみんな外に出てきて店の前で麻薬を打っているところだったのであまやくはジョークだあたりまえだろおー久しぶり!と言われまくるなかでかまやつさんに会いに来た+かまやつさん今帰った。インディアン嘘つかない。疑ってはいないが何!まるで俺が来る事を知ってあいつが来るなら俺はもー帰る。とか言って帰って行ってしまったのではないか?とか思うはずはないのだろアホかお前はでもうん会いに来たのに会える事なくその人は帰ってしまい目的もうつろな中でふと気づけばそこはストーミーつまりLiveハウス。そしてこれからZZKのLiveはまだまだつづくわけだけど誰からも電話かかってこないよーな自意識過剰とゆーこわいこわい職業病を持ちながら人見知りで引っ込みじあんな男としてやらしーキモイヤツでもある俺なので、一体今このその中でどーしていればいーんだろー教えてくれといってみんなにつきまとったらうざいだろーなー俺だったらあっちいけとかいうかもとーゆー単純に人間としてどーかな感じになりいつもいつも困ってしまう俺様なんだけど、そゆー時のために書いたと思われるほどの、前回書いた、UBAココの自分のブログの朝青龍への思いを思い出し、おーそーかそーだと、そこで一気にみんなと同等みんなと「ひとつ」になれ、みんなと同じほどに、中々の立ち居振る舞いだった。

「ブログ」とはそういうもので、そういう自分を自分自身が護る力を秘めているブログが「ブログ」という。みたいな感じでへーきで調子に乗せてもらったりして、もーみんな何でも許してくれるような顔しちゃっててそんなこんなで知らぬ間に歌も唄わせてもらっちゃって気持ち良く。ってだけでなく何と図々しくドラムまで三曲ほど叩いたりもしちゃって、それもちゃんとやれて(何しろ私は元々小学生時代はドラムを叩く神童と言われていたくらいなものだったんだ)何かかまやつさんだけじゃなくみんなと久しぶりだっつーんで会うの、だから自意識過剰になるくらいものすごー緊張してたんだけど(それを実に上手く表現してるべ今とかいって)、終ってみたら、行って良かった!すんげー良かった!みんな喜んでくれたしほんとみんななにしろ嘘みたいにもー映画みたいに優しく良い人たちばっかで負けてしまうしそのいっぱいの久しぶりの顔さらにステージから見るみんなの顔はそれだけで沢山のアートで。こうゆう大勢のあいで大勢空間って。何か奇跡の種がそこら中に潜んでいるようで、それはそれはクサイハナシをしてんだけど、UDJってクサイの名家だからいーんで---で実際にココのヤツらがさらに「ひとつ+ONE」になっていけば、何が感じられるんだろうなーと、思うと、すごいなーココはみんなは今。とかドラム叩いてる時に思って遊んでたりしたっけ。とにかく、ぞくぞく家族は、本当に名実ともにぞくぞく家族になって来てるのだなーと思った。ま、らいん?だっけそれもふくめ?ちょっとは認めてやってもいーだろーとかみちあきに思った(笑)。あいかわらずふざけたやろーだあのやろーわぁ。テッシーZZKにもどって来たので嬉しかった。ZZKというバンドは、テッシーがいないとZZKではなくそれだけテッシーはその空間にとって重要なヤツだという事を俺は知ってるとぼけよー上手くけむにまこーとしたって無駄なのさテッシー素晴しく謙虚なくせに生意気なガキでもあるテッシー(笑)。そして。久しぶりに拝観させていただいたまーちゃん。横浜の誇りであり何しろ私の誇りだ。
そんなこんなで私もなんだかぞくぞく家族の家のものなのだと思うと、おーラッキー!と思った。Tもいるなんて思ってなかったから、ホント行って良かった。行かなかったら俺だけみたいな恐い世界でもあった(笑)。

でも今の私のやりたい「Live・おんがく」は、ZZKとはまるで違う世界だ。とも思った。

だから、たいへんなだよぉ~ぅ。いい加減に出来ない俺だからよぉ~ぅ。まーちゃんのところまで行くにはだから、まだまだなのだ。それだけすごいとゆー事またあらためて実感しもー指とめよ。

KETAI photo = SELMA (The photo material of this work was the one from SELMA, and it came from the cellular phone)

【面白いということつまらないということ】

2007-08-12 | ・nTinDEEP


自分に負け、今年もーLive出来ない朝青龍。の大ファンの。今年ついにLiveやる自分に面白いったらないタダイマ付近の俺。俺今勝ってる朝青龍にすげー。だから自分に負けてることほどつまらないことはない。それは俺(誰)にも勝てないということなんだから。横綱!嫌われ者に磨きをかけて復活しろ!強すぎるから嫌われるんだから。へこんでる意味もない場合でもないこの弱虫の朝青龍!負けるんじゃねー俺なんかにまで。頼むぜ!

12月15日。横浜グッピーにて、
今年初であり最後でもある、今年唯一の「自分」のLiveを、
ついに行なう事が決定した時点で、その日までの自分の毎日の生活の基盤は、
その日のためのものとなって今設定されている。

大袈裟に言うと、その日までは、私の人生は、その時のためにある。
として今を生きている。みたいな感じ。

だから、今年において、自分の生活感は、
今現在のLiveが決定したソレ以降とソレ以前とでは、大分違ってる。
というのをタダイマ実感中で、それは、
ソレ以前で感じていた全てのものが、ソレ以降の現在、
自分にとってワクワクする新鮮なものとして感じるようになって来てる。
ということで、マジでこれはかなりエキサイティングな感じだス。

今の自分の感覚において、生活上に現れる
みるものふれるものすべてのものが、ソレ以前と比べて、
かなり集中され本質的に感じられるようになっているのがわかる。

それは、自分に出会うものすべてが、立派なアートとなって描かれている、
という感覚。台所のゴキブリを発見しても、ソレ以前は、
うわ=っ!とあわてふためきながら、スリッパなどでがんがんに残酷なまでに叩き殺す。
みたいであったものが、今はそれほどにも大嫌いなゴキブリが自分の前に突然現れると、
逃げないようにそーっと近づいて、
その生き物の形態やら色彩デザインその動き、さらには、
コイツの性格はどんなヤツだ?....とか、
気づけば、そんな感じの私になってる。みたいな。それは、みるものであうものすべてが
本当にアート。ということで、醜いものがない。とか、私はそーかー、
この感覚を得るために、Liveをやろうとするのか、さらには、
この感覚を高めるために、人間は生まれ生き体験し死んで次に流れて行くのか、とか、
とにかく、毎日生きてて、そんなもんだから、面白いったらない。

しかしそんな幸福感にイってしまい無防備にワクワクしてたら、
ますます世間からアホだと思われ自分にワザワイをよび危険でもあるから、
気をつけなければいけない。
とも、昔と違いしっかり思えるようにもなってるので、そーわいーつつもやっぱり、
とにかく、いま毎日生きてて、そんなもんだから、面白いったらない。

「面白いったらない」のその中には、いろいろなる「面白いったらない」があって、
たとえば。この前テレビを見てたら、私の大好きな朝青龍のあの報道をしてて、
もういーだろというのにもかかわらず相変わらず、あのサッカーやってる映像を、
まぁーだしつこく流しては、朝青龍の心の病さ加減なんかを伝えてて、
ミスった横綱でもミスった政治家でもおまけに言うと
巨人に入団した時の江川卓でも、何か力あるものがあると
クビつって自殺でもしてもらいましょうかぁ、とかな感じで、
生かすことなど考慮にもないほどに、ただただ殺そーとしてるような、
あいもかわらずの日本のマスコミ、ジャーナリズムの報道センス、
そのヒョーゲン力の面白なさつまらなさ愛のなさ。
(それは大方「強いもの・力」に対する感応する力なんだけど)
もぉーそのアート感覚のなさ加減に、むかついてむかついて「面白いったらない」
というような「面白いったらない」まであったりして、



ゆえに「面白いったらない」としつこく言ってるんだ、わかるか、
「面白い」と感じられる事、「面白い」という事は、そーゆー事なんだぞ、
それを知れば、「つまらない」という事もわかって来て、
面白い、つまらない、とは一体どんな事なのかとか、そーだ、
お前はその使命つーか職業上、「つまらない」では決していけないヤツなんじゃん。
ソレを表現する者つーの?伝える者つーの?歌手?
そー、ミディアム媒体つまり「歌手」でもあるし、こぉ~りゃもーまじ
「面白いったらない」ったらないだろーがなーわかるか.......とか自分が自分と話してたりもして、だからアブナいから気をつけなければいけない、って思えるし
大丈夫だ昔と違って心配ない!こんなアホでも生長すんだなジブン。

とか何しろ。今の私の生活環境は、
アート感覚で満ち溢れているんだどーだもんくあるか。



「仕事」をするということは、大変な事でもなく、めんどくさい事でもなく、
早く退社時間となれ!とかいうよーな、まとにかくつまならいものでもなく、
「面白いったらない」というものなんだね。
面白く生きる。ことが仕事なんだろーがに。

UDJ+Artworx。

それが、自分にとって、「運動」であり、「UDJ+運動場」であり、
「UDJ+Artworx」であんだ。
つまり、自分の属する「ギョーカイ」であり、自分にとっての「仕事」なのな。

みんなも俺と同じギョーカイに属する者なんだけど。
仕事しねーから、嫌いだから、みんな。遊んでばっかいて。(笑)
遊ぶんだったら、運動場でだろ。自分の。持ってないからなみんな。
自分の運動場。自分の「UDJ+Artworx」。このビンボー人め。なんだこのやろ。

だから俺とは関係ない「ギョーカイ」?...CDがまったく売れなくなったとか
深刻なほどの不景気で困ってるとか言っても、そんなのとっくに予想して
ずいぶん前からからソコから脱出し、自由の身になってる今の自分には、
そんな問題まったく関係ないなー。

とにかくLiveをやること決まってから、毎日、面白いったらない。

朝青龍。聞いてるか!
横綱なだったら負けるなよ。そんなひ弱なギョーカイなものに。
平気でまた嫌われ者になって。強くなって、
またあの土俵上での太々しい存在感みせろやてめこのやろ。



私は「嫌われ者」が大好きだ。....とかいうハナシがある。
なんで?........それはきっと....、
「嫌われ者」というヤツも、実は「嫌われ者」という「人気者」だから。

結局両者は共に「人気者」なんだったら、同じ者なんじゃん。
いやいやそれは違う者だ。

人気があるからの「人気者」と、
「嫌われ者」であるにもかかわらずの「人気者」では、
その「強さ」が違う。

「嫌われ者」は強い。「人気者」よりも。

より強いから嫌われ、より強いゆえに「人気者」だったりするのが、
「嫌われ者」という「人気者」だ。とかわからなくなってきたから
とにかくもー私は朝青龍が昔から大好きだ。嫌われ者だから。

私は小心者だから「人気者」だけど。だから大したことない。
Liveの客席が満杯になるほどにもっともっと「嫌われ者」にならなければ。
職業上つまらないものにならないために。

真に面白いものが、強さ。力。つまりがあい。光なんだに。

光は闇を消せるけど、闇は光を消せない。


朝青龍。聞いてるか! お前は光だ!
なんだあのサッカーしてるときの楽しそうなガキのような明るい顔。

あの顔をひ弱なギョーカイは殺そうとしてる。

そんなものに負けるなてめこのやろ。
早くあの太々しい顔でみんなの前に現れ、
「すまんかった!この借りは相撲で返すからもーてめーらごちゃごちゃ言うんじゃねー!」
ぐらい言えるくらいに、まず自分にうっちゃり決めて自分に勝てこの。
そんくらいの太々しいさらなる嫌われ者になってもどってきやがれてめ。

横綱は強いんだから決して負けてはいけない。それが力士だ。
教えてやれよ、ひ弱なギョーカイのヤツらに。


【子供にとっての親の愛+UDJからの暑中見舞い+07】

2007-08-03 | ・nTinDEEP


人間には、母の胎内から生まれ、年老いて死ぬまでに、
60年~70年の生涯がある。

この生涯を貫いている1つのエネルギー、

つまり人間が数十年の人生を精いっぱいに生きられる原動力、
とは何かについて、まず考えてみましょうか。

赤ん坊として畳の上をはいまわっていたころ、
それから、幼稚園、小学校、中学校のころのことを、振り返ってみて、
まず、赤ん坊の仕事とは何かということから考えてみると、
母の愛を感じ取り、つかみ取ることが、
どうやら赤ん坊の仕事になっているようだス。

赤ん坊は、自分が愛されていないと思うと、泣き出し、
また、愛されていると思うと、非常にうれしそうに喜ぶ。

それはめちゃくちゃ純粋で自然な反応であり、
生まれてからもう長く世間に染まってしまっているオトナには、
決して奏でることの出来ない「音楽」でもあんの。

それは「本音」という、生きた人間の魂からの本当の音の響き。
つまり、愛の響き。それが「音楽」ほんとうの。

その響きは、なかなかのもので、愛の響きだからといって、
決して人間を甘やかしたりしない。

それは、どれほどここちよいもので人の心を癒し和ませる響きだろう、
とか思うかもしんないけど、ぜんぜんそんなことはなく、
お乳やおもちゃを与えられると喜び、母親がいなくなったり、
自分の思うとおりにならなかったりすると、泣き叫ぶほどの響き。

でも、それが「本音」という、生きた人間の魂からの本当の音の響き。
愛の響き。つまり、それがほんとうの「音楽」。

お乳やおもちゃを与えられると喜び、母親がいなくなったり、
自分の思うとおりにならなかったりすると、泣き叫ぶということは、
赤ん坊も、子供心にではあるけど、与えられるか与えられないかということを、
非常に敏感に感じているわけ。

こうした赤ん坊が、三歳、四歳、五歳、六歳になってくると、
兄弟のなかで誰が親からいっそう愛されているかといった比較を問題にしはじめたりして、
四歳、五歳の子供であっても、弟や妹ができたときから、
両親の愛がそちらに注がれているのを感じて、意外に小さなころから嫉妬心とか発生させたりして、
いろいろといたずらをしたりして、あれほど純粋で力強かったその子の奏でる音楽も、
段々オトナのそれと変わらないものになっていきやす。

そこで、嫉妬心の働きを見てみると、結局、
もらう愛、与えられる愛に対する強い欲求がそこにあるということがわかりやす。

その欲求が満たされないと、嫉妬の思いから、いたずらをしたり、
人に迷惑をかけたり、さまざまな行動をするの。

要するに、子供時代においては、与えられる愛が食物の代わりになってるのな。

そして、小学校の高学年から中学校、高校に上がっていくと、この与えられる愛は、
両親からの愛だけではなく、友人や先生からの愛へと変わっていきます。



つまり、大人になるまでの人間は、こうしたものを獲得することで、
それを一つの糧として生きている。といってもいいのな。
それは共振したり共鳴とかのようなとても「音楽」的な物語だス。

では、大人になってからはどうなるのか。その子たちの音楽は。

20代になると、女性であれば25-6歳までに、男性であれば27-8歳から30歳までに、
結婚を真剣に考えるようになり、そして、異性の愛を獲得するために、
よい学校で勉強したり、社会に出て働いたりするようになるんだけど、
こうした発展を見ると、人間はそのままでいけば、
人から与えられる愛ばかりを本能的に欲するものだと考えられてしまう。

しかし、問題は、はたしてそれでいいのかということだス。

「赤ん坊として生まれて以来、人から与えられる愛ばかりを追い求めていていいのか」
ということを考えねばならないのです。

人間は子供の時代から、
「他人から愛を与えられるのはよいことで、愛を与えられないのは悪いことだ」
ということを、本能的に嗅ぎわけていきます。

しかし、誰もが愛をもらうばかりだったならば、供給する側がいなくなってしまいます。

宇宙は人類を広大無辺な愛で包んでて、この広大無辺な愛は、
愛してほしいと思って愛される、そうした愛ではないのな。
与えたり与えられたりするような愛ではなく、与えきりの愛なの。

まだ生まれたばかりの赤ん坊の音楽は、そこから降ろされていたものだったから、
本当の愛の響きであり、本物の音であり音楽だったの。

音楽とは元来、太陽が一円のお金も取らずに、無限のエネルギーを、
地球および地球に生きる動植物や人間に与えているように、
宇宙は与えきりの世界において、ただ愛として、
最大の「存在の愛」として、輝いている、その響きの流れなの。

人間は自分が親になると、子供のとき両親から愛されたように、子供を愛するはず。
宇宙というのは人類の父であり母でもあり人類の両親なの。
人類の両親である宇宙がこれだけ人類を愛しているのだから、
この愛を人類はどこかに返していかねばならない。その本音を言うの。音楽って。

「音楽」に携わる人たちは、この宇宙の愛を受けている以上、
世の人びとにその本音愛の調べを上手く音楽にして、還元していかねばなりません。
世の中にそれを流していかねばなりません。

なぜなら。上流から受けた愛を下流へと流していくのが、義務だと言えるから。つー。

そんな感じでCDセールスとか、そんなもんどーでもいー。
とかやってれば、
こりがまたセールスとかいくなってくるもんだりちくび。

とぉ、2007。UDJ+Artworxから暑中お見舞い申しあげやす。



こんな話になるなんて。とにかく。Liveのためにか?
大金はたいてある楽器購入してしまい。それに馴染むのに(つかいかたおぼえるのに)、
時間があるかぎりたたかっていやす。UBAの更新する暇もないほどに。
のタダイマ付近の感じ。