もしもブルーマンよりつまらなかったらどーしよ。と心配で心配で。
しかも、解散してからもーいージジーになってまたやるにおいて、
あの完璧な不屈のシンクロニシティ・Liveをやってしまったポリスが、
それを超えるLiveなどあり得るわけがないあのまんまでいーじゃんそいでとめといて
というのもあって心配で心配で。こわくてこわくてびくびくちんこぴくぴくしながら観に行ったら、
そんな私の心配ぴくぴくなど蹴飛ばすようにして、予想以上。
シンクロニシティ・Liveとかなもん
関係させる事もない蹴り飛ばすほどの施しよーで、すんごとても良かった、うわー感心した!
ので、すんごいやっぱポリスは私の大好きなロック・バンドであると思う自分は、
同じ仕事仲間として、誇りを持った良い気分だしぃ。
なにしろそれまでロックバンドの王道として、
ジミヘン、クリームといった「三人バンド」というかっきー形があって、
それは不動のかっきーものの殿堂ものでもあった中で、
しかし殿堂つーだけにスタンダードになりつつあったそんな時期に私は、
渋谷公会堂でポリスの日本初公演を観て、それまで王道だった
「3人バンド」の基盤をぶち壊すほどの斬新さで私に迫って来る
その新しい3人-ロック-バンドのサウンドその「Live-演奏力」を観て、
その俺たちだけさオリジンさそのレゲきかした新鮮ロックなビートの気持ち良さに
どれだけかっきー!と衝撃を走らせた事か。
特にその致命傷としてあったのは、それまでジミヘン、クリームの三人バンドの花形だったギターが、
派手に目立つ事なく緻密にエフェクトされた音色で潔いほどにシンプル極まりないアンサンブルで、
堂々と全楽曲の大黒柱として「気持ち良く」光らせているそのバランス感。
まったくかっきーったらなく、私が重要視するキャラも不良いーでーエロく、
何しろそしてとにかく「三人バンド!」やっぱロックバンドは
「トリオ」だとかもーかっきーにもほどがあるもーなんだこいつら!?つー。
そんな衝撃的出会いから100万年。
心配ぴくぴく観に行ったポリスは、大きな東京ドームのステージで、まったくシンプルにポリス3人だけの演奏力で力む事なくちゃんとに素直にジジーさ出し、そのリスクをしぶーいしびれるような粋なアレンジで引きつけ聴かせるあのコナシは、最初に出会った衝撃と同じほどの驚きだった事はまったく予想だにしなかった事で、やった。奇跡みた。ラッキー!
つー感じだスどスでス。
奇跡。というのは、ラッキー!ということ。
ポリスだかモリスだか知らないが、
ロックだロックだ言ってていー歳して何。おま、バンドやんだって?
あ。俺のシュゴレーだ。嫌な時に現れやがったな。
何があらわれやがったなだえらそーに。俺はお前のシュゴレーなんだぞ。
あれ。あれ書けほれ、前から言ってるやつ。
今バンドをやろうとしてんでそういう話書いてんだからアレは今いいだろ。
いくないべ。そうゆう話だったら関係あんべ。バンドやんだろ?
やる。
どんなのやんだ?何。かっきーの。って?お前はガキか。
かっきーんじゃないだろ。いくつだお前は。え?お前は舟木一夫か?高校三年生か?
ニレの木陰に夕日を染めてか?何?そんな古すぎてかっきわりーもんじゃないって?
舟木一夫は昔はハイミナールでらりってばっかだったらしーじゃねーか、ええ?
それがロックとかゆーヤツなんだろ?セックスどらっぐろっけんろーるって。
キチガイかおめーら。なもん何がかっきーんだ。
ロックとかじゃなく「魂」だろ。それだけでいいんだ。それがあるもんやりんさい。
何?それがロックなの?せっくすどら.....ってのは、違うのか?えなに?
そんなのははるか昔のはなし?フナキカズオは歌謡界?
おーそーなのかよくわからんがすまんすまん。しかしだったらだから関係あんべってんだろ。
「魂」の話。「本質」の話。今回も書きなさい。
あ~~~~~~~~~~~~~~~~とぉ~~~~~めんどくせーけどぉ~~~~、
まず「魂」という言葉な。
それって、二千年前、二千五百年前の宗教や哲学なんかだと、幾らでも出てくるけど、
現代に近づけば近づくほど、霊的な色彩は薄れ、精神や心、あるいは、
脳の作用、神経の作用というような表現になって来てさ、でもって、
そのように考えることが、学問的な進歩・進化であるかのように思われがちだけどさ。
たとえば、哲学という学問は、現代では、数学的な考え方や記号論理学の考え方などが入ってきて、
えれー難解なものになってて、そのため、
「哲学書を読んで、魂が浄化されてきれいになり、悟りを得られる」
とかいうようなこと、誰からも聴かなくなってるべ。
哲学は、昔とは違った学問に転化してんの。
ただ、プラトンは、はっきりと魂の存在を知っていて、その存在を肯定してたんだって。
彼の一連の著作には、何度も何度も魂の話が出てくるの。
しかし、それを読んでいる近現代の哲学者の多くは、霊的な体験がないために、
魂の存在について触れていないことが多いし、デカルトやカントあたりから、
精神と肉体を分けて考える傾向性が強く出てきたので、その影響もあったりで、
精神と肉体を分けて考えることは、学問の細分化、専門化という意味では、
確かに諸学問を発達させた面があんだけど、逆に、
それによって物事の本質が見えなくなった面があんだね。
もともと、哲学はいろんな学問が統合されたもので、哲学者は、
「人間の本質とは何か。人生とは何か。この宇宙に人間が生きているということは、どういうことか」
という、本質的なことをマジメに求めていたはずなの。
だけど、機能がさまざまに分化し、学問が細分化した結果、
それぞれの専門家は生まれたけど、全体を見ることのできる人は少なくなってしまったのな。
哲学だけでなく宗教においても、同じようなことが言えるの。
キリストやブッダとかいった本物の宗祖といわれる人たちは、もちろん、魂の存在を理解していたはず、
でも、数百年、千年、二千年とたつうちに、霊的体験のない宗教家が出てきて、
経典を文字だけで学問的に学ぶことをもって宗教とする人、あるいは、
法具を用いてさまざまな宗教的儀式を執り行うことをもって宗教とする人が、
たくさん出てきて、宗教においても、本質が見失われて、文字になった部分や儀式などのかたちだけをなぞり、
みんなの知るところではあの悪霊の巣窟の象徴みたいなアサハラ?「オームしんり凶?」
とかいう教団だか凶団だかみたいのがいたっけね。何しろ、哲学でも宗教でも、音楽でも。
ちゃんと「魂」が入っていない状況が続いているの。
魂の存在を抜きにやってるもんなんて、つまらないもんばっかだろ。
どいつもこいつもこーなんつーんだろ心に付着したうんこを、浄化し
真っ赤に燃やしてくれるようなそんな魂に響く音楽ねーだろええ?
と俺のシュゴレーは言うだから。俺が言ってんじゃないからな。
なイーワケいーわけーモンでもねーんだから誰が言う言わぬじゃなく
いらない事書かずにいーから、ほら、私の言うことぼんぼん書きなさい。
えなに?もーこれにばっか時間使ってられない?
バンド結成Liveの用意始める?何言ってんだアホだねお前は、これもその用意だろ。その一環だろ。
大体、実は今年初めの書込みからして、もうその「バンド」のLiveその物語、
その「作品」は、すでココで始まってる。ココはすでにもう会場で、Live前に流れる「BGM」は、
ココで書込まれるコトバたちが、その響きを放っているわけでとかあっ!ばらしちゃったが、
まーいつものやり方でもあんからいいだろ、だからいいからいいから書くの。
と「俺のシュゴレー」は言う。俺じゃないから。じゃー書くが。
魂の存在そのものを、きちんと教える必要があるんだ。
そうしなければ、人間は、自分の本質や人生の本質を見失ってしまい、
何のために、この世に生まれ、この世を去っていくのか、その意味が分からなくなる。
人生の目的を知らなければ、正しい人生のあり方は分かるはずがないから。
魂の存在を抜きにして、正しい人生のあり方や人生の意味をいくら問うても、
根本的な解答を得ることはできないんだよ。
あのな、在るから在るとしか言えないが、私のシュゴレーが存在してるように、
死後の世界、あの世は、100%存在してるから。
わからないだろそんなのじゃなく、存在してるから。責任持って言えちゃうから。
だから、この世の部分だけを取り上げて人間の生き方をいろいろ議論しても、
決して本質に辿り着くことはできないの。
特に、19世紀後半から20世紀にかけて、実存主義哲学が流行ったが、
いろいろな人が説いているので一概に要約はできないけど、その背景にある思想は、
「人間は、自分が望んだわけでもないのに、偶然に、この世に投げ出され、
何をどうしたらよいかが分からない不安のなかを手探りで生きている存在である。
そういう盲目的な人生を生きているのが人間なのだ。」というもの。
この思想は、まったく的外れだから。断言するから。
実存主義の哲学者が説いていることは、たとえて言えば、子供が、
「ある日、気がつくと、私は小学1年生になっていて、ある山間部の小学校の教室で、
机に向かって座っていたのであった」と言っているような感じに近いの。
「自分は、なぜ、ここにいるのか。なぜ、このような勉強をしているのか。
私は誰なのか。それがさっぱり分からない」というのが、現代的哲学の一つの姿と思えるが、
現代的哲学が、生きていく恐怖や不安の概念、さまよえる人間の姿を描写している様は、
20世紀に大きな威力を発揮した、「唯物論」という物万能のものの考え方と似たものがあるんだ。
仏陀、仏教では、
「人間は、長い転生輪廻の過程を通して、繰り返しこの世に生まれて人生修行をしている」
と明快に説いてる。
とにかく今、本質が見失われて、文字になった部分や形だけをなぞり、
「魂」が入っていない状況が続いているの。
と、俺じゃないぞ俺のシュゴレーが言ってる話だから。あだがそれって俺でもあんのか。
だからってな。
俺がやろうとしているバンド、音楽は、シューキョーじゃねーからな。
そこんとこ頼むぜ。
別に当たり前の話してるだけだし今回だってな。
そこんとこマジ頼むぜ。俺に変なイメージつくるんじゃねーぞ。
いちいち女々しくせこいのなぁーマッことおめーわぁ、
間違った事言ってねーんだから、もっと堂々としてろや!
あこれも俺じゃないぞシュゴレーが言ってるから。あだからそれって俺か。
つーかおめーもだ!
関係ないような顔してんじゃねーぞ客だろうがファンだろーがうーたーだ何だろうがおめーな。
おめーらみんなのソイツらたちもそー言ってんだから。
俺はココにその代表で書いてるようなもんだから。
とかもうこれ以上書くとアブナいんではい今回おしまい!
先日ね、不思議の国へ行ってきた。
皆一見ふつうに働き生活し、地震もなくて平和なんだけど・・・その国の平和って何だろう?って思ってしまった。
バランス取れてる!と思うココの基準は何なんだ? とか 考えてたら・・・うぁーもうこんな時間だ、おやすみなさい zzz...
はここでは無くて 不思議の国の事だからね。^_^
<もっと>堂々とするだからただ堂々とするだけじゃダメなんだから、ただがもっとになってなくちゃダメでそれは今の堂々とする加減ではダメで、とにかくダメダメダメ!つーのがもっとを付加させる所以か。ダメだしされてしまったかたじけない。
しかし昔。当たり前の話をしてるだけなのにセーボーはシューキョーいっちゃったよぉあーあ。と落胆言われた体験があって、それは決して人を落胆させるような話ではないのにそう言われ俺も落胆する事だったので、その時の自分にとっては、それは気をつけなきゃいけないこわい事でした。でもそれじゃダメだ。今は、そんな事を言ってくれるおめーみたいなのもいたりする。ということもあるので、そーかー昔に比べ俺の環境もバランスとれ大分平和な不思議の国にもなってきてもいるよしよし。そのココの基準。ここの基準でもあんじゃん。とするのは、もっと堂々とするでもあるまる?