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【世界中の苦悩する森たちに】

2007-03-14 | ・nTinDEEP


森しんいちだけではなく、今の世、苦悩する人は、たくさんいるべ。

つーことで、「苦悩」について。ちょっとかきますだス。

苦悩の時期ってのは、確かに木の葉の如く揺れちゃって、
非常に大きな事件のように思うかもしんない。

そんな時は、二つの視点を忘れてはならない。わけだス。

その1つは、マクロの視点。
遥かなる無限の彼方から見た自分の姿。

それは「神の目」と言ってもいー。
非常に大きなものの目から見た自分の苦悩の姿、
混乱の姿というものを見た時に、果たして、
それがそれほどたいした事件かどうか。つー。

そうした無限点から現在の自分というものを眺めた時に、
果たして、それがそんなに大きな苦悩かどうか、
馬鹿らしいことなのではないのか、よくある話ではないのか、
過ぎ去っていくものではないのか。という観点、見方。

人生の悩みを解決するためには、これが、
非常に大事になってくるわけだス。




もう1つは、ミクロの視点。こりも大事だス。

ミクロの視点というのは何かというと、
一日一日を充実させていく。ということかもしんない。

何か不幸があると、やたらまた力を出して、がむしやらに頑張ったり、
人目につくようなことをする人もいて、やたら派手なことを始めたり、
やたら人に大言壮語したりするような人というのは、よくいますに。

失恋をすれば急に他のことを始めて、景気のいいところを見せたがる。
あるいは会社で出世が遅れると、途端に自分は
こんな趣味があるというようなことを人に言って回るような人、
とにかく悔しくて、何かを見せたくて動き回る人がいるよ。

こういう人は、やがて自己嫌悪に陥っていき、
もっと苦しい淵に立たされることが多いんだ。

こういう苦悩の時には、動かないことがいい。
ということも事実なのだス。
そう極端な動きはしないで、一日一日を充実させていく。とゆー。

自分が苦しんでいるからといって、
その反動で大きなことはやらない、
あまり人に見せようとしないことだス。

こういうことをすると、さらに大きな反動がきて、
もっと自己嫌悪の道へと入っていくことがありやす。

こうした時には、大きな動きをせず、人目を気にしない、
人の目につくことをあまりしないで、
淡々と自らの道を歩んでいくということ。
この視点、このミクロの視点が大事だス。




淡々とどうするのか。

自分のできる範囲内で自己改造をし、自己改善をし、
自己向上の道を歩むということだス。

少なくとも一日二十四時間のうち、
他人の目についてどうこうということではなくて、
それ以外のところで自分の力をつけていくということだス。

たとえば会社で、ひとつの仕事を任されて、
それで失敗したとする。それが悔しくて、
もっとでっかいことをやってみようとする人もいたりして。

ただ、そうした時に自分のプライドばかり気にしてそうしたことをやることをせずに、
ただ静かに自分を見つめながら、
自分の精進ということを、自己啓発ということをやっていくこと。
これが大事なわけだス。

こういう時には、自分の心の均衡がくずれており、
自分のバッテリーが上がってるから、充電することが大事なわけだス。

そういう時には、人目につくことを避けて、人目につかない範囲の中で、
自分の内なる蓄積をつくっていくこと。これが大事なわけだス。

毎日、毎日、確かな足どりで歩んでいくということ。
これが何よりも大事なんだス。

健康に気をつけて、日々自らの内を充実していくこと、
外のもので目がかく乱された時、外の現象でいろいろ心が揺れた時に、
心を内に向けて自分の内なる蓄えをすること。これが大事なわけだス。





外国で戦争が起きているからといって、
それを見て、自らもということで竹槍を持って走り回らずに、
まず、やはり、そうした戦争が起きないような国造りをするために、
しっかりした人をつくっていく。
しっかりした経済をつくっていく。
しっかりした農業をっくっていく。
そういうふうに内を固めていけばよいのだス。

隙があると外敵というものは出てきます。
心の内に隙をつくらないようにすることだス。

だからに、苦悩と対決する場合の大きな二つの視点として、
マクロの視点から、神の視点から現在の自分を取り巻く不幸を見てみる。
そうすると意外に大したことがないことが多い。
またよくある話であることも多い。過ぎ去っていく話であることも多い。
こういうことだス。

もうひとつは、そうした時にミクロの視点に立ち、
やたら大言壮語を吐いたり、大きなことをしようとしたり、
自分の失敗を正当化しようとして動き回らないことだス。

そういうことをすると、小人物であることがばれてしまいます。

そうではなくて、そういう時、失意の時、泰然として悠々自適、
そして自分を磨いていくことだス。

本当にあなたが必要な人であり、
本当にあなたが社会に有為の人であるならば、
人は放っておきません。必ず声がかかります。
やがてあなたが再評価され、そして用いられる時が釆るでしょう。

その時のために、口を慎み、行動を慎んで、
自らの内を磨いていくことだス。それが大事だス。

こうした「確かな足どり」で日々を歩むことこそ、
苦悩と対決し、それを克服していくためのひとつの導きともなる。
わけだス。

なぁ、世界中の森たちよ。



【かわいそうな「息子」森進一に愛をこめて】

2007-03-09 | ・nTinDEEP




「いつも心配かけてばかり、いけない息子の僕でした
今ではできないことだけど 叱ってほしいよ もう一度」

と息子(わざわざ)そう足してその曲唄ったら、
その母・おふくろさん(その曲の産みの親)、

「歌の心が分からないだけでなく、常識が欠落したような人間には、
私の歌を歌う資格はない」

と、息子のいったとうりに叱ってくれた、おふくろさん。

よかったね息子よしんいちよ!

つーわけにもいかないらしい息子しんいち。

叱ってくれた、そのおふくろさん(その曲の産みの親)の「叱り」の威力は、

「いつも心配かけてばかり、いけない息子の僕でしたぁ~
今ではできないことだけどぉ~ 叱ってほしいよぉぅ~ もう一度ぉぅ~」

と付け足し唄ったその息子の「唄」う力などとは、
まったく比べようもないほど、
そのうたう息子のボッキった男のムスコ(性器)が
もー二度と役立たぬほどのインポテンツなるムスコにさせられてしまうほどの、
その「息子」が「親」に求めた「叱り」の力は、
その「息子」が予測した「親」の力よりも 、
100万倍の威力はあろーほどの、凄まじいまでの

あいの力であったのでした。



子・しんいちよ。おふくろさん・親をなめたらいかん。
年寄りは、頑固だとゆーだけのもんじゃないしんいち。
本物のジジーババーのあいの力は、
真なる「大人の」愛の力なのだス。

世の中まだまだ捨てたもんではないのな。

最近のホソキカズコといー、このカワウチ先生といい、
まだまだ絶滅なんかするもんか!
我らが、本物のくそジジーくそババーたち!

コドモに対する恐怖から、コドモたちを怒ったり殺したりまたは殺されたり、
または不自然にやさしく接し、コドモたちを甘やかしては、あげくの果てには
「自殺」に導いていたような、子供を正しく叱れない、
ニセモノのオトナたちが跋扈する今の世に、
この事件は、私にとって、1つの奇跡の種なんでありやした。

頑張れ!くそジジー!頑張れくそババー!
頑張れ!カワウチ!頑張れホソキ!

ちょっと大変になtyてしまうとすぐに死んじゃうような
そんな1つもエロくわない、生命力のない、
軟弱した世間のアマエタコドモアマエタオトナたちのジョーシキによる様々なる、
どれほどの攻撃からも、負けるな!

頑張れ!真実のくそジジー!頑張れ真実のくそババー!
頑張れ!真実のカワウチ!ホソキ!たち===!

そして。もちろん。

頑張れ!我らが「息子」の 森新一!

「うたう資格がない!」と言われようとも、
死ぬまで「歌手」として人の前で歌を唄い続けていく気があるなら、
お詫び行脚などせんでいー。

おふくろさんが、その息子である自分が求めたとうりに、
ほんとーに叱ってくれた!とゆーその大人・親、のあいの力を、
そのまま反射させ返せばいーだけ。じゃん。

だから、死ぬまで「歌手」として人の前で歌を唄い続けていく気があるなら、
何があろうと何をされようと、あのジジーの伝えるガンコさ伝承して、
その心を、絶対にくじけず、あきらめず、何とかあのジジーの心に唄いつづければ良い。
お詫び行脚などいーから、叱られても叱られても、
あのジジーの心に、「そのあいを、唄いつづければ」良い。

さすれば、いつしか必ず、その息子は、負け続けていた、
あのクソ頑固クソじじーから、
見事逆転勝利するほど(赦されるほど+感動させるほど)の、
日本を代表する「日本の心」を唄う、「艶歌歌手」として、
また再び私たちの前で、堂々と「おふくろさん」を唄ってるだろう。

そして、そのその姿に、誰もが幸福を感じることでしょう。

やれ!森!

お前には、これからの日本の未来がかかってる!

あの月光仮面のジジーはそれが狙いなんだ。魂胆なんだ。
それでやっとあのジジーは安心してアッチに還れるんだから。

アッチにいる(シンイチと自分)両方のおふくろさんに、
ジジーは、堂々と顔を合わせられる。とゆー。

そこでふたたび、おふくろさん唄う前に、
ひさしぶりに、またやってみれば良い。

「いつも心配かけてばかり、いけない息子の僕でした
今ではできないことだけど 叱ってほしいよ もう一度」

と、

もう誰も何も文句は言わないから。

その時が、新一の真実の勝ちだ。