U+B+A :udj+blog+artworx

welcome to U+B+A in saybow(2005~)

【HNY+udj+2007】

2006-12-31 | ・nTinDEEP
++++

信念 あけまして
おめでたうごぜーやす
の2007と。





今年、ん?去年?ん~、2006は、
毎年やってた「eve@i」(せーいちのクリスマスディナーショー?)
出来ずだったので、
クリスマスイブに、大好きな富士山に行って来て、
みんなのへいあんを祈ってまいりやした。

また、29日は、久しぶりに、
ぞくぞくかぞくのストーミーのLiveにも顔を出す事もでき、
ヤツらのすんばらしぇー演奏ですんばらしぇーみんなの前で、
ぜんぜんまだまだげんきに唄うことのできる俺を
しょうめいしてやったわいひひひひひひひ。

でもって、富士さんは、言ってやした。
「北極の氷は確実になくなるんだよ」と。

とにかく。何があろーが。
自分なりの「運動」は続けていかねばならぬ。
自分なりに、生き続けていかねばいけねー。
それは、
キープ・オン・ロッキング だし、
さらに俺にとっては、
キープ・オン・アートワーク だし、
ライカ・ローリング・ストーン だろーにの、
今年もやっぱし、さらにすすめた、
UDJ+Artworx in sayboy
でいこーっと。のぉ、おめーら様。

今年もよろしく。と。

2006+晦日の前日。とりいそぎねんがじょー。



















































































【06+udj+Xmas.2/矛盾する価値観+アノヨとコノヨ】

2006-12-17 | ・nTinDEEP
++


もともとは、(UDJ語でゆーと)みんなのいえである

「アノヨ」から生まれてきて、どーにかこーにか、
「コノヨ」で、頑張って今もこうして生きてる私たちは、
「生まれてくる以前の自分たち」の存在、そのあり方、
つーもんを、みーんな誰もが知っている。
はずんだけどもぉ~、

コノヨに生まれて成長していくにつれて、
私たちは、だんだん、忘れていきます。

でもそれはそれで、コノヨ的には一つの成長であり、完成への道ではある。
んだけどもぉ~、もう一方でそれは、

「生まれてくる以前の霊的な存在としての自己」を、
だんだん忘却していっちゃう流れ。でもあるわけだす。

ってついてきてるかぁ~。

あーんーあのな、えーん~そー、
私たち人間は、10歳ぐらいになると
「自我」が芽生えるようにプログラムされてて、
「自分」という独立した存在を認め、
コノヨ的に、より生きやすくなるように、
より生存しやすくなるように、努力しはじめるので、
次第に、コノヨのほうが生きやすくなり、楽しくなり、
自分の思うようになってくると、
コノヨ的な生き方に染まっていっちゃう感じになんのな。

ところがすごい。

年を取ると、次第に肉体が不自由になっていくわけで、
コシが曲がり、シワができ、シラガが多くなり、
カミノケが抜けてきますうん抜けてきてますますます俺とかいーからなにしろ
若いころは自由自在であった体が、次第に、鎧兜のように重い、
なんか、鈍重なものに感じられるようになるわけだす。

また、思うように言葉が言えなくなり、記憶力が薄れて、
いろいろなものを忘れたりして、あれもこれも不自由になってくる。
それは、コノヨ的には非常な苦しみだろうよ。

そーゆー結果として、
この世が生きやすい世の中ではなくなってくる。
つーことは、事実なわけだす。

この現象は、「退行現象」といって、
小さいころに返っていく現象とかなわけ。

「年を取ると、幼児化して、小さいころのようになってくる」
と言われているけど、
この世が生きにくくなることによって、
かえって元に戻ってくるところがあったりして、

それで、この世に別れを告げる時期が近づいたことを、
悟るようになる面があります。

コノヨにおいては、
「自我を確立し、生長する」
ということは、良い事だと認められてたりして、
コノヨ的な修行の目的としては、そのとおりだったりするわけ。

しかし、反面、本来の自己存在というものを忘れ、
そこからどんどん遠ざかっていくことがあるわけ。

ところが、年を取ると、体が自由に動かなくなり、
思いを遂げられなくなるわけで、そのように不自由になると、
この世が自分の生き場でなくなっていく、
....ように感じてきたりすんだ。

そして、なんだかもう一つ別の世界が
自分を待ち受けていることが分かるような気がしてきて、しだいに、
そちらのほうに誘われていくようになる。

コノヨ的に成功し、立派になっていくためには、
コノヨ的人間として自己完成をしていかねばならなかったりして。
しかし、そうすればするほど、
アノヨ的ではなくなり、霊的な自己が失われてくる。

こういう矛盾した価値観が、この世のなかには、事実あるの。

だけどもそれは、年老いていくたびに、
コノヨが自分の生き場でなくなっていくように感じ、
もう一つ別の世界が自分を待ち受けていることが、
分かるような気がしてきて、
コノヨにおいて本能のままに生きれば、
「自分」の方向に突き進んでいくものを、
しだいに、むしろそんな不自由な、物質的で欲望的な、
コノヨ的な「自分・自我」を捨てることで、
「無我・アノヨ」へと、流れみちびかれていくように感じてくる。

つーのが、本来の自然の流れ。
なんだけど、今や、私たちニンゲン、
不自然なる流れ。のチャンピオン。つまり、
自然(の流れ)に還る智慧を捨ててしまった存在じゃん俺は違うけど。

それは、「ニュートラル」なる生命力を、護り育てず活かせずに、
平気でぼんぼん捨ててしまってるチャンピオン。

捨てるのは、「自分」だつーの。それがわからない。

その時が来たら、自然に還るんじゃん。
アノヨつー、みんなのいえ。
「生まれてくる以前の自分たち」の本来の「家」に生還出来るんじゃん。


家なき子なんていないの、みんな家ある子。
コノヨになくてもアノヨに帰ればみんなのいえがあるの。

だって人間はみんなその時がくれば死ぬじゃん、
それは、みんなには、ちゃあんとに、
みんなのいえがあるから帰宅するんじゃん。

寿命を全うする。ってことは、家に帰れる!
とゆー目出度いことでもあんじゃん。
自殺すんと家に帰れないけど。自殺なんかしちゃうと、
もっと違う、なんつーか、めんどくせーほどの、
はずかしートコに堕ちちゃうけど。とゆー話はいーけど、

だから、本来、もともと、みんな、家ある子。

だからに、どんな立派な家だろうと、
いえはその家にあるんじゃなく、みんなの心の中にあるんだよ。
家が欲しい!たって、あんじゃんかみんな、すでに立派なの。

それが、「みんなのいえ」じゃん。
みんな、もともと立派なやつもってんだ。

それ以上は必要ない。自分の心は1つだけだもん。
3つも8つも必要ない。

なのに、どこ流れてんの?生きてるの?
一体みんな何が欲しいの?と。
ココのサンタ・クロースは言うわけだす。

とかね。

だって「サンタクロース」の本当の正体って、
「アノヨ」なんだもんよ。
「コノヨ」のものじゃないの。ヤツは。
そー言えば何となくそーんな感じじゃんやろう。

実は。サンタってヤツは、
ホントーの「自分自身」なんだ。ってことっす。
ココのサンタは。いや、サンタクロースってのは、
そもそも、そーゆーヤツ、そうゆー「象徴」とか。

そりわ、アノヨなるもの。つまり、
そりわ、真なる自分自身。無我。

だから、その、真なる自分自身なるアノヨなるものサンタ言う、

何が欲しい?.....ってのは、
自分自身からの魂の叫び。自分に向っての。

自分の欲しいものは、ちゃんとに自分で探せ。って。

だから、欲しいものはみんな同じものなのかもしんないよ。
自分自身。

それは、絶望的なる唯物的コノヨなるものをぼっこわす
「奇跡の種」でもあんじゃんとか思うわけだす。

「奇跡の種」を探す。それが、今の私たち人間の、
本質的な責任かもしんない。

「奇跡」は、アノヨ的なもの。「種」は、コノヨのもの。

生きものはみんな、その後、いつか必ず死ぬ。
死んでコノヨから姿を消す。それは、
アノヨに帰還するということで、先祖帰りなんじゃん。

寿命を全うして、人生を生ききって、アノヨに帰還する、
ということであるなら、無我にいたる。つーことでもあって、

つーことは、アノヨ=無我に帰還、進むなら、
コノヨ=自分。を捨てなきゃちゃんとに帰れない。
執着、未練たらたら自縛霊、つまり幽霊、
家に帰れぬふわふわしてるお化け、ただの浮遊霊になってしまう。
お化けになんじゃねーよおめーらよ。

のぉ~、

UDJメリークリスマス。つーのわどだ。


Merry Christmas to U!
+2006+
++
udjArtworX in saybow


?Do they Know it's Christmas time?+++すなおにこのうたすきだすぅ?


























【今年最も感動の映画】

2006-12-01 | ・nTinDEEP



出だしからこんな言い方は不謹慎かもしんないけど、
私は、横田夫妻の大ファンだ。
横田夫妻を見ていると、たまらなく可愛い。

こんな可愛い「夫婦」が日本にいる、
というだけで、私は、日本が、日本人が、
たまらなく愛おしくなる。

私はかつて、この拉致被害の家族の方たちの、
「運動」する姿を見て、
「みんなのいえ」というキーワードを閃いて、
自分のHPでさかんに、その意味を書いていたっけ。
つまり、みんななぁ~、「家」なんだと。

だからこそ、この映画を見て、
私は、たまらないものを感じてしまった。

おそらく、この映画は、今年封切られた数ある映画の中で、
最も純粋に泣けてしまう本物の感動の映画だろうなぁ、
と強く思った。

それだけこの映画作品は、マジ素晴らしかった。
そして、今でも涙が出るほどやっぱ、横田夫妻、特にその妻・母は、
素晴らしい。く、可愛い。

また、この作品を見て、私は、つくづく、
「映画」には「力」があるんだと痛感し、そして、確信した。

それは、テレビでは決して放射出来ないものだった。

それは、「光」と言っていいのかもしれないけど、
この作品を観ると、それはまさに「力」なんだとゆう感じだ。

この映画の素晴らしさ力強さ、感動は、
映画館で観る事で、それが感じられる。だけでなく、
「映画」というものが、わかる、素晴らしさだす。

だから、どうか、みんな、
この映画を映画館に観に行って欲しい。


お金を払ってわざわざ映画館まで観に行って良かった!

と、必ず思うので。

この映画が、世界中の人が観て、成功することで、
またひとつ、
世界に「奇跡」の種が確実に1つ増える。から。

堂々、アカデミードキュメンタリー部門最有力候補なこの作品。
この、アメリカ人である監督夫妻に拍手だす。


また、前回「イジメによる自殺問題」について書いたけど、
私がそこで言いたかった「自分を生きる」ということについて、
とても説得力があると思われた映画が、
「ワールド・トレード・センター」だった。
この映画、いろいろ、まー賛否両論だけど、
俺は(オリバー・ストーン好きだつーのもあんだろうけども)、
とても良かった。と感じた。
とにかく、この映画を観れば、「生きる」ということ、
つまり前回の「イジメによる自殺問題」について書いた私の事が、
わかる。つー感じだす。こりも観るとよろし。
また、コメントを書いてくれた(メールでもくれた)すべてのおめーら、
ども、ありがとよ。勉強になったぞ。