みなさん元気でお過ごしですか。
私はみなさんに負けないくらいみなさんに決して負けてなるものかみなさんに負けるなど死んでもいやだみなさんに負けるも責めるもうるせー!俺ぇ=!
つーぐらいにだから私はみなさんに劣らず元気にお過ごししてはるねん。
だからみんなも元気でそれではさよならぁ=。
って
おいおいおいまだ書き始めたばかりだろうしかし書いてて快いほどのその自然な流れに
だかどうだかは知らないけれど何だか書いてたらもういーだろう他に何が言いたいのだ
つーくらいな元気さでもって、そのまま勝手に終ってしまおうとしてるくらいに
みんなよりも元気なだから私はそうだ元気だ何よりだ。
って久しぶりの更新なのでこの際出来るだけ字をいっぱい書いて
みんなにその字の数くらいいっぱいサービスしてあげようと思って書いてる。
というのはうんそうだねやっぱわかるかい。嘘だけど、え=とぉ、
何を書こうとしてたんだっけ俺、知ってるなら誰でもいいから教えて下さい。
とかまじで字の数くらいいっぱいサービスしようとして実は書いているのかと
自分でも思うくらいに平気でばんばんくだらないことをわけ知らず書き走っていたりするのは
もうよそう。
「どしても観なければいけない映画」というんで「アンヴィル」を観た。それは見事なまでのコイツらの「嫉妬克服」映画だった。フーやLツェッペリンやPフロイドやラモーンズやそれにスレイドとかは好きだけど、ダスティホフマンではないが、「メタル」はどしても苦手だった。でもそんな私の度量(あい)の狭さをコイツらはおせーてくれた。とにかく愛しいなぁ~コイツら、コイツらの愛する「メタル」もよぉ。映画観てたら「T」がダブって仕方なかった。やはり最後のシーンではないちまった。だってその「場所」が「日本」だったんだもん卑怯だわ。日本、日本人、コイツらまで愛しいなぁ~だもんな。冒頭の欧州ツアーでの悲惨さからエンディングの華咲く「日本」だもん。やっぱ観ててどしても「T」がオーバーラップしてくんでまいった。レコーディングでのこの二人の大喧嘩に至っては、悔しいほどに涙でる。ホント卑怯でいとし~「嫉妬」克服名作映画だった。
さてそんなところで。「嫉妬」についての話をしてみようと思いやす。
なんでかというと、勘がするからだス。
なにそれ?だから勘がするからだス。
今、私がそれについて自分の感じたままをココで書くのは、
なんだか良いぞ。みたいな勘がするからだス。何が良いのか知らんがよ。
さぁ「嫉妬」というものについてだ。
どんなところから入ろう?.......うん。よし!
あのね。
人から、して欲しい。こんなことしてもらうと嬉しい。、
とかいうことを、正直に思い浮かべて自分の心を探してみると、
誰の心にも、そんなもんなどいっぱいあったりする。
例えば、「評価をされると嬉しい」「良い人だ好きですと言われると嬉しい」
女性だったら、「キレイだ」「かわいいなぁ~」とか言われると嬉しい。
ということもあるでしょう。
そういうことが、自分ではなく、他の人に与えられた時、
それを見て、素直によろこべるかどうか。
これが、「嫉妬」というものに対しての、
チェック基準になるわけだス。(「基準」だから知っておいて損はない。)
自分の給料が、同期の人より1万円多かったならば、
やはり嬉しいだろうけど、反対に、同期の人が自分より1万円多かったら、
その人に対してどういう思いを持つでしょう。これも、チェック基準。
出世の問題でも同じ。
君が課長だとすると、部長に昇進したら嬉しいだろうけど、
自分は課長に昇進した場合、それをどう思うか。
自分が部長になった時は嬉しいが、他の人がなったら嬉しいか。ということです。
君は、他の人が評価されているのを見て、素直によろこべるかな?
「アイツは要領がよかっただけだ」「たまたまタイミングが良かったんだ」
とかいうように、相手の成功にケチをつけるような気持ちが沸いてくるのなら、
それこそが、「嫉妬心」だス。
「嫉妬心」という否定的=不味い料理を、うまく調理し健全なる肯定的なるご馳走に仕上げると「ライバル」というものになる。「ライバル」という世界(カテゴリー)で、私の中での最高のアート作品は、この「王と長嶋」。現在、この二人の偉大な野球選手で創られた「ONの時代」という偉大な大河ドラマも、ついに終焉を迎える直前の、最終章「有終の美の時代」に入り、どっぷりリアルタイムで第一章からこの時代=物語=作品に興奮感動浸かっていた私は、それを読み終えるさびしさ、また良き「男の時代」「男の世界」が終焉を迎えると思うと、複雑なる思いのジジーでござりやす。
この「嫉妬心」。そもそもは、他の人と競争する気持ちから生まれて来たものなのな。
それが、「あの人が頑張っているから私も頑張るぞぅ!」という健全な競争心なら良いけど、
度が過ぎてしまうと、困ったことになる。
「嫉妬心」の強い人が成功することは難しい。
そういう人は、嫌われます。
人の幸福を望んでいない、利己主義者のように見えるからだス。
「嫉妬心」が強かったり「猜疑心」疑う心が強かったら、
友達になりにくいだろうし、そういう人が家族にいると、辛いものだ。
身の周りにいる成功してる人や恵まれた人のことを、悪く言っていると、
自分にはチャンスがまわって来なくなる。ということを知っておこう。
たとえば君が、成功者や恵まれた人を揶揄すると、周りの人たちは、君のことを、
「あいつはやっかみ深いのだ嫉妬深いのだ」と思うようになり、
君には、良い話、成功した話をしなくなりやす。
そして人々は君を見ると、こそこそ隠れたり、君を外して飲みに行ったりしやす。
君は、その理由がわからないので、
「何故か自分は、つま弾きにされている。」「自分は人の輪に入れないでいる。」
とか考えるのだス。
他人の成功を羨み妬む。という傾向が、結局、君自身の成功を妨げているわけだス。
成功した本人の居ない所で悪口を言ったり、不平不満をいつもぶつけている人。
そんな人の話、聞いてても気分が良くないし、一度や二度は聞き流せても、いつもそういう態度だと、
「あぁ~コイツに良い話を持って行くと、嫉妬されてしまうんだなぁ~」と、
だんだん信用出来なくなってしまいやす。
その人は、自分がこのように嫉妬深いということや、その事が成功やチャンスを逃す原因になっている。
ということがまったくわからないでいる人だス。
私は、恵まれて育って来たせいか、昔から有難い事に、自分の周りはほとんど良いヤツばっかで、
本当にそんな人いるのだろうか?と思うほどだ。私はホントに恵まれているなぁ~ありがてぇなぁ~とか、
浮かれているヤツなど、そういう嫉妬深いヤツが見つけようもんなら、
そういう嫉妬深いヤツから吐き出される唾や啖などで
ウンコのように汚物まみれにされされて八つ裂きにされてしまうだろう。
あーやだそんな恐ろしいシットフカイマン&やウーマンたちなんてヤツらはみんな、
すでにソイツ自体が不幸や憐れの汚物を背負った悲しき貧乏神やら死神やらなんだろう。
しかしホントにそんな人間が現存するというなら、一度見てみたいとも思うが、
でもでも「嫉妬」ほど始末の悪い「心の思い」はない。ということを、
私はよぉく知っているので、やっぱ、最も苦手な人なんで見たかねぇな。
勿論私だって人間だから嫉妬くらいするだろうけど、
そんな時であっても、決して自分の心を貧乏神や死神に売ってしまうほどの馬鹿野郎には
さすがになれる資格がない。つまり、私は「(貧乏&死)神」ではなく、
あくまで「人間」なわけだス。ただ、人間なわけだス。
「人間」であるならば、嫉妬でも何でも、
あくまでその許容量は「人間」の範囲でしかないので、
それなら嫉妬でも何だろうと、別に悪いもんでもなく、
そんなのも必要なもんとして在ったりすんじゃんとか
「人間」らしい世界ってのは、本来は下町的なきたねーもくせーも
きれーも凄いも何もかもゴッタごたしてて
喧嘩だぁ火事だぁ花火だぁでわいわいがたがたうるせーけど楽しい世界じゃんかな。
で、すむことになっていたんだすが、
しかし今の世の中は、その「嫉妬」さ具合が遥かに「人間」の許容量を超えて、
「神」の領域に達する勢いだったりして?
いえいえ俺は「人間」だぁ=!俺の「人間」を守ろう!守り抜いて死んでいこう!
もういい歳だからなぁとか。
では、「人間」を守れず、許容範囲を超え、貧乏神や死神にしっかり両足を掴まれたまま、
どんどん奈落の底に堕ちて行くような「シットブカイマン&ウーマン」たちの展開を、
私は感じるままに、書いてるよう。
とにかく。
嫉妬心というものは、要するに「他人を押し下げたい」という気持ちにあるわけだス。
その、「押し下げたい」という「他人」というのは、実は、他ならぬ、
自分自身の理想像でもあるわけだス。
本当はそういう風に自分もなりたいのだス。
なりたいにも関わらず、そこに立っているのが、自分ではなく、
他人であるというのことが、自分には許せないでいるのだス。
嫉妬した後。人間はどうなるでしょう。
「あの人のようになりたくない」ということを、言い始めます。
何らかの形で、嫉妬の対象である人たちに対して、マイナスの評価をし始めます
「あのようにはなりたくない」「あんな人が大した事がない」
「あんな人のことは何とも思っていない」などといったコトバを繰り返すことによって、
自分自身が、その理想の対象から、段々遠ざかって行く事になるわけだス。
ちょっと思い出してみよう。
他の人に、「悔しいな」という思いを抱いた時。
それは、相手のおさめた成果が、自分の興味関心のあることだったからこそ、
悔しいと感じたんではなかったんだろうか。
本当は、自分がその立場に成り変わりたかった。ということであり、
見方を変えると、
「嫉妬を感じる相手」というのは「自分の理想像」でもある。
ということが言えるのだス。
そうすると、相手の事を否定するのは、
自分の理想や目標を否定することに繋がってしまうわけだス。
自分の理想や目標を否定してしまったら、
自分で自分の成功を遠ざけてしまうことになるだろうがねぇ。
何とこの宇宙は愛に溢れていることだろう。上手く出来てるなぁ=。
そんなこんなな「真実」を知ってしまった今、そいじゃその「嫉妬心」
襲って来た時、その災害に打ち勝つには一体どうどうしたらいいか。
とカチャカチャうるさくも私黙って黙々と打込んではさらに
そこまでも書いていこうとしてる私いや俺の指たちだス。
成功している人を見たら、
「嫉妬心」
その人間の「心の思い」の中でも、人間を簡単に狂わすほどにいっちゃん猛毒を持つ、
そんな「思い」が私たちの心に襲って来た時、
ソレに打ち勝つには一体どうどうしたらいいか。
そのためにまず大切なことは、
成功してる人を見たら、まずそれを理想像として祝福すること。
つー。ことなんだがどだ大したこと言ってねえってか?
そーかそーだか。まもっとも、うん、そういう人に、
「素晴しいね」というのは、大変な事だ。中々恥ずかしくて言えないだろう。
俺はけっこうそういう時は平気で言えちゃうけどな。
いやいや別にえらいことじゃなく、そんな時そう思えば良いんだ。って結果わかってるから
やれちゃうだけの話だがってすごいいやらしくないかそれにつめたそーで俺。まいいか。
なこといちいち気にしてられんかとにかく。
ある日とつぜん、高校時代一番仲の良かった同級生から電話がきた。一番仲の良かったくせにヤツとは卒業式以来まったく話す事も会う事もなかったのでびっくりした。卑怯にもコイツ酔っぱらっていた(当時から酒が好きだったコイツ)。俺はシラフだったんでどしても照れちゃってしかたなかった。なにしろ卒業式以来だもんよ。でもその懐かしさから次第に二人して盛り上がり「招待するから俺の舞台見に来いよ」と。俺じゃなくコイツに言われる。そーだったコイツは現在「田邊哲久」という「能楽師」なんだった。「歌舞伎」は観た事あるけどまだ「能」の観賞体験は無く、すっと観たいと思っていた私は当然この突然の同級生のコトバに興奮し、勿論行ってきた。最初は高校時代は全然そんなイメージなかったから思わずあの野郎があんなことしてるとか笑ってしまったりもして妙な気持ちだったが、その見事な「能楽師」っぷりで、私は初めての「能」の世界に魅せられ感動。観終わった私の心の奥には、快い「嫉妬感」があった。
素直に相手の力を認め「あの人は凄いな」と肯定することによって、
自分もその理想像に近づいて行く事が出来る。
人間は、自分が理想化し肯定し祝福した相手に、必ず近づいていきやす。
自分が目標として、心に描いてる人や、人生の目標に向って、
人間は、必ず近づいて行くものなんだス。
もしも、これから、自分の目の前にどこでいつ傷を負ったのか、
とても嫉妬深くなってるような友人やら知人が現れたら、怖がらずに、
ちょっと見方を変えてみて、といってみみょう。
その人に対して「自分の理想像」であると思う事。
そうなったら今度は、理想像である相手を、「素晴しい」と祝福すること。
そして相手の長所をみつけその優れているところに、学んで行く事。
これで完璧だス。ってビューティコロシアムか。
でも、本当にそういうヤツになってしまったら、ソイツは、素晴しいって
誰からも思われるだろうし人気は急上昇になるだろうし俺だって尊敬しちゃうし
凄いなしかしそんなヤツいたらなそりゃ嫉妬なんて強毒ウイルスも木っ端みじんだろう。
だからなもんはじめは中々難しいだろうけど、心がけていると、
これが不思議なもので、「心」の神秘だけど、そういう「想い」を続けていると、
それは強くなり「念」になって、
段々と本当に祝福の思いが沸いて来て、いつしか、
否定的な思いは薄まって来る。その時、その自分の凄さに感動してしまうかもしんない。
自分を愛せることを本当の意味で取り戻した成果の証だ。
そして、それだけでなく、その「嫉妬心」を奇縁として、
お前はお前の人生をより高めていくことが出来るようになるのだぁどだぁまいったかとな。
そんなヤツを見つけたらこれはもうみんなであかのたにんだろうと関係なく
できるだけ大勢でみんなで祝福してあげよう。そこにいるみんなも凄くなってる最中であることを楽しみながら。
はい。今回はこれでおしまいっ。