U+B+A :udj+blog+artworx

welcome to U+B+A in saybow(2005~)

【世界中でお金がない!価値が上がらない!と騒ぐ中「ゴミ」「捨てる」について】

2008-10-16 | ・nTinDEEP

最近ゴミばかりのテレビドラマが多いなかで、久しぶりにしびれるほどに良く出来たテレビドラマを見た。完結10話までぐぐーっとこんなに入り込んで観た「純愛」テレビドラマはないかもしんない。今回の話しにもリンクするしこれ。本当に素晴しいから是非みんなにも観てほしい。最初は暗いなーと思うかもしんないけど最後まで観ると鳥肌立つから。


お金がなくて苦しんでいる人たちは、たくさんいることだろう。今のこの、世界的な経済的苦境のなかで。

この高度に発展した現代社会の中では、経済力がつけば、大体の問題は解決可能だからだ。

だけど、本当は、お金がないんじゃないの。本当は、自分の欲望を叶えるだけのお金がないの。

あるいは、お金の手に入れ方や、お金の使い方を知らないだけ。

そうでなければ、だただ、人たちは、「智慧」に不足していて、ただただ、人たちは、思考停止のなか、
無駄づかいや損をしているだけ。に見える。わけだス。

高額の医療費や、入院費用が払えなければ、腹八分目を守り、よく歩けばいーじゃん。

親は、子供の塾の費用が出せなければ、学校の授業での集中と、自助努力の精神を教えればいー。
そー、あのビッグダディのように。

家が建てられなければ、借金と相続税の憂いから解放されるじゃん。
遊ぶ金がなければ、酒・ゴルフ・マージャンなどをやめればよいだけじゃん。

子供は、金なんてなくとも、大いに遊べる。「遊ぶ」においてホンモノのプロだから。
ホントーに遊べるわけだ。金などなくても。

とにかく。考え方を整理しなさい。

と。かみさまは、そんなことを、もーずーっと、いってんの。



考え方を整理すると、その中から、いつも振り回されては安定安心出来ずに、
自分でどうにも運動、動けずに、自分を困らせていたその原因、
どんどん見えてきてどんどん出て来る。
足の踏み場もないほどにためてしまっていた自分の中の、
もう今の自分には、まったくいらない「ゴミ」たちが。

ゴミをすてられれば、いつまでもそれにふりまわされることもなくなって来るので、
人生が楽になって来る。

とかどだ。

「考え方を整理する」それは、「論理を立てる」つーことでもありやす。
「論理を立てる」つーのは、人生の論理を立てるつーことだス。

今の、先行き不安な「株価」じゃないけど、そんな紙っきれの価値に惑わされず、
自分にとっての真なる価値を見つけ、「自分は、こういう考え方で生きていくのだ」
という1つのものの考え方をつくれば、もー上がったり下がったり、
あちらへ行ったりへこちらへ行ったりと、揺れ動いていた心は、ピシッと定まり、人生は非常に楽になるわけだス。

そのように論理を立ててみる、考え方を整理する。わけだス。


でも。

私の言っている論理は、通常の論理学で言う論理とは少し違いやす。
私の言っている論理とは、「信仰」に基づくドッシリとした人生観につながっていく「論理」だス。

なんだシューキョーの話しかよ!

とか、ひーちゃったおまえ。

そゆー感じはもー古い。ひーちゃうと、人生ラクにはなれないんだ。


シューキョー?でもなんでも、そーやってひーてかえしてしまうクセは、よくないし、もう古い。ダサイ。

それに対しての考え方の整理も出来てなければ論理も立てられないヤツ。
になっちゃうから。
だからもーそんなのは古いんだ時代遅れなの。「ひーちゃう」つーのは。

ひーちゃうんじゃなく、捨てるの。古くなってしまってる自分を。
そして、観るの。
ひかずにしっかりそれを観てチェックするの。それは考え方を整理するための方法でもあるから。
それがゴミであるかそうでないかの。

ひーちゃう。のは自分がバカにされる心配もなく相手をバカにも出来たり関わりもたぬで
責任も回避できるしラクちんでカンタンな感じ。だからクセにもなる。

捨てる。のは、間違ったら悪人にもされたりえらい目にあったり、勇気も責任もいれば愛情もいるし、
えらいエネルギーが必要で、ラクちんでなく大変な感じ。だけど、自分にいらないものを整理し捨てられることで、
それに振り回される事もなく、実際は、コッチの方が、人生をラクに生きれる。

ひーちゃうのは行き場がないからうろつきまわってしまうけど、
行き場があるからゆえに、捨てることの出来るヤツの人生には、安定や幸福や楽しいことががうろうろしてて、
ゆえに医療費や保険などの心配で弱々しくなってる波動もなく、いつでも健康で元気で在る。
とゆー世界がそこらじゅうに見え隠れしてる。

捨てるためには、自分なりの考え方を整理して、
それが今の自分にとって、捨ててもいいもの、いらない「ゴミ」かどうかを、判断出来なければ、
捨てたくても捨てられない。人間には欲望も必要だから。

そんな中からひかずによく観ることが出来ることで、やがてはしっかり考え方が整理出来て来て、
自分の中で論理が立つようになってくると、
ひーちゃうヤツってのは、考え方を整理出来ずのただのアホつーことになっちまう。つーこととかもわかってきたりして、
あ~?......「ひーちゃう」じゃないわ......それは意味が違うわ.....そう!「捨てちゃう」だ!
という考え方の整理もつきはじめる。

とかなようにしないでいつまでもリコウぶって古くさい中で冷めきっていろーんなものにひきまくってたりすると、
おめーどころか、人類全体を巻き込んで、ゴミになっていってしまうそのリーダーの害虫となっちゃって、
おめーこそがこの世界から捨てられていってしまう。という危険が孕んでいてもーそんくらいなほどに今の世の中は、
人類にとって、経済危機どころの騒ぎではないほどに、過酷なところでもある。とゆータダイマ付近な感じ。

シューキョーでもなんでも、それがゴミのようなものだと自分でちゃんと考え方を整理出来れば、
なもんニセモノだから、捨てちまえばいい。それはシューキョーでもなんでもなくゴミなんだから。
そーやって、ひかずに向って行き、ソレをよく観て、考え方を整理し論理を立たせ、
判断できて、そのゴミと一緒に古い自分を捨てられるヤツ。これナウい。

ゴミは、整理されて捨てられるためにある。ゴミは捨てられてこそ成仏できる。
ゴミは捨てられることで、その真実、本当の光を甦らせ、その仕事をこなす。

その協力者として、ゴミを捨て、整理が出来れば、自分も捨てらたそのゴミも、
そんなものなんかに振り回されることはなくなる。ゴミは実体ではなく、それを人に整理させ消し去らせることで、
その実体となるから。だから、ゴミは、
「早く俺を発見して早く捨ててくれ=!早くこんな俺を消し去ってくれぇ=!」といつでもおめーに発信してるし、
「早くラクになりてー!もとの原子にもどりてー!オーアトムハートマザー!ピンクフロイドばんさ=い!」
とか自分を励ましがんばってたりしてて。

だんだん話しがそれてきて。

えー、そして、私の言ってる「論理=考え方の整理」とは、
「信仰」に基づくドッシリとした人生観につながっていく「論理」のこと。
「信仰?なんだ。シューキョーか!」とかもどりきたりしてやっとまたココに戻って来たわけで、
おーもどったやったーさーそりからの話しを進めていこうぜべいびー。

「信仰」とは、天気でも自然でも良い、それと一体になること。
つーだけの事でもあんじゃんか。と論理を立てられてる私。には、ドコもひくことがない。中断する理由なし。

あ!それに、

今人間にとって一番必要なものは、ゴミではない、ホンモノの、「宗教」感覚だし。

それ以外にないんだからもう今の人類。と言う悲しい人類の実情を知っているので、
そのためにも、それが果たして、テロリストを増産するような捨てるべきゴミかホンモノか。
シュウキョウをしっかり分別出来るための自分なりの考え方の整理を、
私の言う「信仰」に基づくドッシリとした人生観につながっていく「論理」で立てていけないと、
もー経済だけではなく、来るべくしてこれから突発するかもしんない、あらゆるパニックなどに、
対処して行く事は、出来ないよ。だって、「自然」にとってそんなヤツは、これから、
捨てられるべきゴミにどんどん流されなっていってしまうんだから。

あいったそばから中断して横道それてた。とにかく、

いらないゴミは、自然や生命の迷惑になるから、考え方を整理して、
そんなもんに振り回されずに、しっかりと捨てる。消す。

ことで、人類の未来はラク~になってくる。とか書いてたりする私なのだが何か。

なんだかんだいってひかそーとしてるイタズラ好きな俺がいて。そいでも、
ひかずについてくるんだがんばれ!おめー。と、俺。



そんな中で、またしても、突然っすが、ある偉いお坊さんは、
「代償の法則」ということを説いています。

「代償の法則」ね。その法則には、「何かを得るためには何かを捨てなければいけない」
ということと、「努力・精進した者には、その代償として、それだけのよい結果が出てくる」
ということの、二つの意味があります。とか言ってね、

ただ、「努力・精進したことは、この世で必ず百パーセント報いられる」とか、
「何かを得たければ、すべてを捨てなくてはならない」とか、あまり極端に考えちゃーだめだ。
それは単に捨てればよいというものではない。

とかも言ってて。

すべてを捨てて乞食になったら幸福になるかといえば、ずっと乞食のままということもある。

「お釈迦様の時代には、仏弟子はみな乞食だったので、自分もそうしよう」と考え、
「私も家を捨てました。妻も捨てました。財産も捨てました。服も捨てました。
そのように何もかも捨てて乞食になったら、公園で逮捕されました」
ということでは困るだろーし、ダメなんだよそれは単に捨てればよいというものではないんだよ。

と言い、

捨てた部分のなかにも、ほんとうは、人間として生きていく上で太事なこともたくさんあったはずなのだよ。
したがって、極端な人生を生きた人は、「捨ててしまったために、自分には足りない部分がある」
ということを自覚しなければいけないよ。

とかも言ってて。

その「代償の法則」、昔の修道院などでは、ときどき、
人に対してとても意地悪をするようなかたちで使われることがありました。

「神に仕えることと、この世に仕えることは、一緒にはいかないから」
と言って戒律をたくさんつくり、「あれも駄目。これも駄目」と、全部、切っていき、
人をただいじめるようなダサい話しがよくあったのです。

しかし、だから、もう少し寛容さを持ち、人によって違いがあるところを認めたほうがよいのじゃ。

とかも言ってて。

そーそー、あのオードリー・ヘップバーンが主演した昔の映画で、「尼僧物語」というものがありました。
その映画では、主人公の女性(オードリー・ヘップバーン)が、修道院に入って修道女となり、
あるとき、アフリカの病院に派遣されて病人の介護をすることになります。
ところが、そこで働くシスターは、ミサの時刻を知らせる鐘が鳴ると、仕事をやめてミサに出なければいけないのです。

その主人公は、「外科の治療をしているときにも、ミサの時間が来たら行かなければいけないというのはおかしい。
そんなことは職業倫理として成り立たないのではないか。
神は、病人を治している最中でも、『時間が来たら、ミサに出てお祈りをせよ』と言うのだろうか」と疑問を持ち、
その教会の仕組みとぶつかって、結局、尼僧院を出ていく。とゆー映画がありました。

このような場合、ほんとうは、医療の面と修行の面は少し分離して考えなければいけない。
お籠りの修行をして神に仕える人は、ミサなどの時間をきちんと守るべきでしょうが、
医療の仕事をするシスターたちは、やはり医療のほうを中心に行うべきでしょう。

宗教においては、こういう意地悪に見えるような部分が多少あるので、
代償の法則のところで、「神に仕える身なのだから、捨てなさい」というように、
あまりいじめすぎてはいけない面もあります。

または、例えば、仕事真っ最中の時間に、オラの国は、お祈りの時間は仕事を止めてお祈りするだー。
とか言って、突然平然と仕事をしてくんなくなるどっかの国の出稼ぎの人たちにいますね。
そうゆう人には、「こらてめ!すがってる場合か!んなとこでんな格好して祈ってないで仕事しろ!」と、
これは、特に世のために忙しく大事な仕事をしてる職場などの場合の時なんかは、その上司は、
「なもん捨てろ!」と、ぼっこぼっこに言って叱ってやっても良いでしょう。
「お祈り」とか言いやがっても、ただ、忙しい仕事中に勝手に仕事やめて、
場合も読めずに、「自分をどうかお守り下さい!」と壁に向ってすがって言ってるだけのゴミ野郎なんですから。
そんなこときっとそのシューキョーの教祖は言ってなかったはずですし。
勝手に都合良いように曲げてやってるだけですから。大体が。

それはともかく。この世的に大事な仕事もあるので、
あのオードリーヘップパーン主演の「尼僧物語」の話しではないけど、
「代償の法則」を嫉妬心のレベルで使わないようにしたほうがよいぞ。

とか、言ってたりもしてる。

整理意識強すぎて何だか私は力入ってしまって、話しがとびまくって作文下手だし、
どんどん何だかよくわからない話しになってきてしまって、みんないいかげん思わずひーてしまってるのでは
いひひひひひひひひひひ。とか。

とにかく。代償の法則とかそうゆう高尚なお坊さんの話はおいといて。

世界的な経済的苦境のなかで、「お金がなくて苦しんでいる人たち」がたくさんいて、
今、政治やマスコミなどは、そういう人たちによって動かされていて、
しかし、どこもかしこも、ほとんど、「ゴミ」のような動きで、どうみても、
誰の責任でもなく。ただみんなでもって、自分たちで発生させた各々のゴミを捨てることも出来ず、
捨てる場所さえもわからず、責任を押しつけあっては、みんなであちらへ行ったりへこちらへ行ったりと揺れ動いては、
何も出来ないでただただ全体で動いてるだけな感じ。

のようです。

まるで、みんなでゴミそのものになって、誰かに捨てられる時を待っているかのようだなぁ。

そういう人たちは、とても大事で必要なものに対しては、平気で、捨ててる。思考停止のまま。
だから、ゴミそのものになってしまう。んだね。

もー今や世界には古くさくなってただのゴミ化した捨てなきゃいけないものが山積みで、
それを人類は、捨てられるか否や。になってるぞー。


だから、そう思えるおかげで、私も、いつまでも「お籠り」してねーで、早く、
「Saybow&the Wipers」のLiveをしなきゃ!とか思えるわけで、やろうとしてんだけど、
そんなエラそーに言うけど、俺だって、いざ、気づくと、
ゴミを上手く整理して捨てられてないじゃん!まだまだ!
そのための考え方の整理もその用意にも、まだまだすんげー時間をかけてしまっては、
中々上手く進めず、みんなに会えず、でいる俺なのでした。

みんな、ごみんに。まっててに。

という、ながーいながーただのいいいわけの話。でした。

でも、こんな俺を今でも忘れず心配してくれ、Liveを楽しみに待ち続けてくれているおめーら。のためにいっしょーけんめー書きやしたぁ。



ぜんぜん今回の話と関係ないけどこんな感じの話の後は何故かこんな音楽なんかが私の疲れを癒します。コレけっこーなお気に入りの曲です。意外だろ。バカにすんなな。