S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「みんなで選ぶ第一回gooグッドブログセレクション」結果発表

2005年03月31日 | インターネット雑記
「みんなで選ぶ第一回gooグッドブログセレクション」結果発表がありました。
5位までの中に、わたしが推薦した5つのブログから2つが入りました。
(3/71の確率には破れた模様)

この結果発表に際し、わたしの推薦文がそのまま使われています
チョイスされたことはうれしいですが、引用先が明らかにされていないことが、ちょっと不満。
記事上げし、自己申告。

「1位 むだづかいにっき♂」と「5位 ブログはじめますた」に記載されているコメントは「存在に意義があるブログ」gooブログ版 からの引用です。

*参考リンク
この春、無料で始めるgooブログ gooブログAtoZ「第4回:gooでネタ探し&トラックバックの使い方」
以下コラム「引用」と著作権のルールを覚えておこう より引用。
誰かが書いたもの、撮った写真などは「表現」のひとつとして著作権はが生じ、著作権法という法律によって保護されます。これらを他人が勝手にコピーしたり、多くの人の目に触れるホームページやブログに転載することは法律で禁じられています。

 この著作権の保護に対して、いくつかある保護制限(保護が及ばない条件)のひとつが「引用」です。つまり、一定のルールを守って「引用」としてなら、ほかの人の著作物――つまりブログの記事やニュースサイトの記事を、複製することも可能になります。ルールについて著作権法では「公正な慣行に合致するもので……」などと明確には定義されていないのですが、ネット上での引用は、おおむね次のようなことに気をつければOKでしょう。

1:報道、批評、研究など、正当な目的・必然性のある引用であること
2:適切な範囲のみを引用していること
3:引用部分が明確に分かるようになっていること
4:引用の出所が明記されていること
5:自分の書いた記事が「主」で、引用部分はあくまで「従」であること

*追記
「お祭りイベント」にケチつけるのもねえ、と、けっこう迷った挙げ句、自分だけのことじゃないのでスタッフブログ該当記事にトラックバックです。

*4/7追記
修正日時ははっきりわからないのですが、推薦文にリンクが貼られました。

電車の中の「社会」

2005年03月31日 | つぶやき
昨日は子ども二人を連れて、電車に乗って遠出をした。
JRで片道45分程度。
この45分という時間は、普通の人ならもちろん座っていきたい時間だと思う。

ホームには乗りたい電車が来る一本前に着くように家を出た。
つまり、待っている列の一番前に並べるように。
電車がくる寸前、すっと50代くらいの男性が、わたしたちの前に割り込む。
ごく一般的な視点で言えば、感じの良さそうなタイプの方。
特に悪気があったわけでも、他意があったわけでもないと思う。
わたしが立つのより少し離れて後ろの方に行こうとしていた娘、そのことに気を取られたわたしがほんの少し列より後方に、足一歩下がった。
そこになんとなく入っただけのことだったのだと思う。
来た電車の空席を見つけるチャンスがたった1人分少なくなったというだけのことで、電車に乗れなくなるというわけでもないので、たいしたことでもない。
その小さな行動に対して、非難するのどうのというより、すっと思うことがある。
この方にもしもお子さんがいらしたとしても、この方は父親として育児参加というものをしていないんだろうな、と。
子どものちょっとした行動とその対処の意味が、この人にとっては見えないものなのだなと感じたので。

幾駅か経過して、できた空席に子どもたちを座らせる。
ふと、無遠慮な視線に気づく。
小学生と中学生らしい女の子を連れた母親の、3人の同じような無遠慮な視線。
お出かけにはしゃぐ娘が、脈絡のない単語を連発してにこにこしている様を、眺めていることに気づく。
そうした「ちょっと変わった子ども」が物珍しいんだろうなと思うくらいのことで、特にたいしたことでもない。
相手の失礼さは相手のものであって、わたしや二人の子どもたちがその失礼さに責任を取る必要のあることでもない。
ただ、ふと思うことは。
もしも、この二人の女の子が障害を持つ子の母親になるときがあったら、とても苦しい思いをするんだろうな、と。
その可能性を多大に与えるのは、この母親の当然のような「自分とは違う範疇」という傲慢さなのだろうな、と。
実際、障害を持つ子の母親の中に、「子どもの障害を受容することは、自分の母親が自分に与えた価値観からの解放だった」ということを口にする人は少なくないのだから。

途中、二人の幼児を連れた家族連れが乗ってくる。
混んだ車内に、小さなため息をつく。
下の子はすっかり眠がって、母親に抱かれたままになっている。
母親が幼児を抱いているのは風景としては自然なことなのかもしれないが、重さとして考えればかなりつらいもの。
重量として考えたって、5キロの米袋だって、ずっと抱えているのはつらい。
まして、それ以上の重さがある幼児、しかも眠がって体重を預けている子を抱いて、さらに1人幼児を連れているのはかなりつらい。
わたしたちが「持っていた席」はこの時「二つ」。
最初に子ども二人に座らせて、途中息子がわたしに席を譲るために立っていた。
二人の幼児を連れた家族連れに声をかけながら、娘を促して席を立つ。
安堵の表情で、丁寧にお礼を言われる。
この「安堵の表情」は、かつて自分が何度も経験したことのあるものだから、とてもよくわかる。
空いた2つの席に子どもと座るように母親に父親が促す。
これが当たり前の光景だよな、と思いながら、ふとモラルハラスメントが日常的に行われる家庭を思う。
まず父親が座り、上の子を座らせ、そこで空席が終われば、母親は下の子を抱き続けることを強いられる。
こうした家庭に必要なのは「3つの席」。
父親と子ども、それ以外の席はいらない。
母親は、その体が「子どものための『席』」であれば、それでいい。
衣食住が足りていても、それ以上に必要なことを得られないばかりに、精神が弱っていく女たちの存在をふと思う。

この幼児を連れた家族連れや、わたしたちの行動。
どんなに近くにいても、「3つの席」を持っていた、前述の「無遠慮な視線を向けてきた3人の母子」には、全く見えていないものだったと思う。
自分の範疇だけでものを考えるというのは、精神的な貧しさなのではないかと、ふと思う。
わたしは自分の子どもたちには、精神的におおいに「裕福」になって欲しいと思ったりする。

通学や通勤で日常的に電車に乗っていたときは気づかなかったことが、今はとてもよくわかる。
電車の中の「社会」は、かなり興味深い。

わたしにとっての閲覧したくなるブログの条件

2005年03月30日 | ○○さんにトラックバック!
いろいろな人にいろいろな価値観があると思うのですが。
あくまでも、わたし個人が、ブログというものを読む上で。

わたしは「今日○○があった」ということの「報告」だけの内容のところは読みません。
「特定のメンバーと日常的な会話をくり返すだけのコミュニティサイト」というものも、わたしは興味がありません。
記述されている内容に関して、発展性のあるものを内在している場合に、「おもしろい」と思うことが多いです。

わたしが「閲覧したい」と思うブログ記事の指針は、以下のことに関して、どれか一つでも該当しているものです。
・感じ入る部分があること
・「なるほど」と思わせられることがあること
・「自分はどうだろう」と考えさせられることがあること
・情報が得られること
・知ってよかったと思うリンク先が表示されていること
個人のブログに、「常時のハイクオリティ」を望んでいるわけでも無いので、上記の一つでも存在していることが指針ということに、わたし自身は落ち着いたように思います。
たったひとつ、それも片鱗程度でもいいわけです。
片鱗程度でもあれば、「過去記事」をチェックしたり、「次」を期待していくことにもつながります。
自分がコメント参加をしていくときもあれば、ROMだけのときもあります。
この違いは、自分が参加する意志とネタがはっきりしているかどうかという点で左右されるので、コメント参加と記事評価はイコールというわけではありません。

記事に上記のことがひとつも無い場合は、コメント欄は読みません。
記事に上記のことが少々でも存在している場合は、コメント欄を軽くチェックします。
記事が充実している場合は、コメント欄をきちんと読破します。
記事内容が素通りしたいものであっても、メニュー上に自分がブックマークしているブログ主のコメントの存在が表示されているときは、コメント欄を最初から丁寧に読破し、その記事の最近の過去記事をチェックする場合もあります。

コメント欄に関しての「プラス評価」の指針は、上記の「記事に関しての指針」と同じです。
記事内容に関わらず、コメント欄にマイナスの評価をするときもあります。
記事内容が充実している場合でも、コメント欄にマイナスの評価の感覚を持つ場合は、そのブログにおいて、コメント欄をチェックする頻度が低くなります。
以下、コメント欄にマイナスの評価をするときのケースです。
・複数の参加者による、複数の「内輪ウケネタ」が存在するとき
・参加者に対しての管理者の態度が終始「発展性の無いイエスマン」で、コメントのやり取りに得るものが無いとき
・「TBありがとう」コメントが多数並び、そのコメントに対してのレスに「挨拶」以上の発展が無いとき
コメント欄にこうした「マイナス評価」を感じるものがあっても、記事内容が充実している場合は特に問題にはなりません。
ただ、コメント欄をチェックしないことが増えるだけのことです。

以上の指針に対してクリアするものが少しでもあるということが「わたしにとっての閲覧したくなるブログの条件」です。
例外は、自分にとって「人間関係を築いた」と思われる人物が管理するブログです。
この場合は、「継続して相手を知る」ことが目的になるので、更新される記事に関して必ずしも上記の条件を満たしていなくてもいいということになります。
ただし「人間関係を築いた」という認識は、過去において、上記の条件を満たしたやり取りがあったということが重点となっているようです。

さて、ここのところ連続して参加してきた「何でもかんでも総ブログ化計画」の最後のお題は「【最終募集】終了間近!ブログでこれから挑戦してみたいことは?」となっています。
わたしがこれから挑戦してみたいことは、上記の自分自身があげた指針を「客観的に」満たしたものにすることです。
「お題」提示の説明文にある「野望・希望・願望・妄想」から見れば、小さいことかもしれないけれど、この指針を充実して満たすということは簡単なようで、意外に難しいことなんじゃないか?と思います。
でも、自分の指針を自分が満たせなくちゃ、公言なんてできないんじゃないか・・・と。
だからわたしにとっては、この程度でも「おおいなる挑戦」のような気もします。
(言わなきゃ良かったかもしれない・・・)

そして むだづかいにっきの「良いブログを作るために、自分の文章の欠点を知っておく」から自省。
・文体にクセがあるよっ!
・記事が自己完結し過ぎるよっ!
・コメント欄に愛想が無いよっ!
・コメントレスがくどいよっ!
こ、こ、これの「改善」は、公言できないような気もします。。。
「個性」ってことで。。。

*トラックバック
何でもかんでも総ブログ化計画「【最終募集】終了間近!ブログでこれから挑戦してみたいことは?」
むだづかいにっき「良いブログを作るために、自分の文章の欠点を知っておく」

わたしと「モラルハラスメント」

2005年03月29日 | つぶやき
「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」の一例という記事で、「モラルハラスメント」という言葉を多数連発したわけですが。
「モラルハラスメント」という言葉を知らない人が知ろうとしたときに、もっともわかりやすいサイトは、やはりモラルハラスメント被害者同盟でしょう。

わたしと「モラルハラスメント」の関係ですが。

子どものときから、いくつくらいまでだろう。
「友達に父親の話」というのを、あまりしたことがありません。
いや、自分が子どもを持つ年齢になっても、あまりしませんね。
言っても、理解できないだろうな、と。
子どものときは、特にそうでしたね。
作文というものはうまいタイプの子どもだったのですが、「父の日の作文」というのは、たいがいテキトーに作ってました。

10代の頃から、わたしは曾野綾子の小説やエッセイがとても好きで、よく読んでいたのですが。
曾野綾子のエッセイには、彼女の「父親」の話がよく出てくる。
読みながら、「おお」と思った。
同じような人が世の中にはいるんだな、と。
例えば、ですが。
彼女の著書、「夫婦、この不思議な関係」には、こんな記述が出てきます。
アベカワの好きな人がいるなら、せめてキナコを絶やさないようにしようと思い、砂糖醤油につけたモチを小さく千切って丹念にノリを巻いて食べるかみさんが、何となくばかばかしく見えようと、ひょいとノリの缶を手渡してくれさえすれば、それで家族などというものはうまくやって行けるのである。私は異常に望みが低いのかもしれないが、アベカワを食べようとしていると、キナコを庭に捨ててしまわれ、ノリマキを食べようとしているとノリの缶を取り上げられるような変わった生活の経験があるから、今の、ごく普通の生活さえありがたくて仕方がない。
「モラルハラスメント」などという言葉が存在しなかった頃の著作です。
「モラルハラスメント」などという言葉が存在しなくても、この数行だけで「共感」を持つ層は、確実に存在したと思う。

わたしはこうしたことを淡々と記述していく曾野綾子氏の視点や文体に、かなり影響を受けたような気もします。
そして、そうしたことが自分の「日常」の中で、まあ、当たり前のようになっていき、「『嵐』を事前回避する『生活上の知恵』」なんぞも身につけていくわけです。
慣れるというか、慣らされるというか、「圧政」によって服従させられていますので、世の中の常識や感覚で自分の家庭を判断するという「無駄な抵抗」よりも、「事前回避のテク」を身につけた方が、余程現実的なわけです。
(この「事前回避のテク」、普通の常識感覚から言うと、あまりに恥ずかしくてこれが必要ではない人には、ちょっと言えません。)

ただ、配偶者の立場にある人間は、常に「自分が悪い」と卑下する感覚を持つことを訓練されていますので、堂々と「事前回避のテク」を磨いていくということに、どうしても卑屈さが伴ってしまう。
「結局、自分が選んだ相手」ということで、自分を刺す要素を自ら持ってしまう。
「子ども」は自分が選んだ相手ではないわけですし、大人になっていくことで「脱出」できますが、配偶者の「脱出」は犠牲も大きく、それができずに「共存」の道を選ぶには、強い衝撃的な経験で、「自己尊重」「自己肯定」の感覚を身につけていく必要があるんだろうなと思います。

モラルハラスメントの加害者となる男性。
これは、同性の目から見て、気づかない存在だろうなと思います。
女性の目から見ても、体験したことのない人にはわからないだろうなとも思います。
モラルハラスメントの加害者となる男性は、人間関係の概念に「ウチ・ソト」ということがあり、「ソト」の人間は攻撃の対象になりませんから。
こうした「個性」を知らずに結婚してしまう人がいるのも、ここにからくりがあります。
つまり結婚以前は「ソト」なのですから。
「攻撃」は、彼らの概念の中で「ソト」だった相手が「ウチ」になったときに始まります。
結婚後すぐに「ウチ」としての関係が始まる男性もいれば、子どもが生まれたことで「ウチ」になる人もいるようです。

モラルハラスメントというものが実感としてわからない人がどんなに多くても、それでもモラルハラスメントの加害者となる男性は、普通の人が思っている以上に多いと思う。
わたしは町中で、スーパーの片隅で、そして自分の人間関係の中でさえ、ちょっとした瞬間にそうした「加害者」を見つけることができる。
「ソト」の人間にどんなにいい顔を向けていようと、その傍らにいる「ウチ」の人間のちょっとした行動に、ゾッとするほど冷たい視線を送り、時には「自分のエモノ」にだけ聞こえるように実に効果的に小さな舌打ちを発したりする。
そしてそのそばには、脅えた目をした小動物のような「被害者」がいる。

前述の「夫婦、この不思議な関係」という本は、現在はかなり入手が難しいようですが、わたしにとっては大切な一冊になっています。
曾野綾子氏のように、母親に無理心中させられそうになった経験も無いし、両親が離婚したわけではないけれど、「同じような父親」を持ち、そして「同じような配偶者」と結婚したことがこの一冊からよくわかり、かなり親近感を持つ一冊です。

「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」の体験例

2005年03月28日 | ○○さんにトラックバック!
「何でもかんでも総ブログ化計画」の12番目のお題の「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」
これは、体験談でまさにこんな感じだった日々があったなあと。

8月にブログを開きまして。
まあ、開いてみたってとこで、誰にも教えず、遊んでました。
今まで「知的障害児母」ネタで、HPや掲示板、メーリングリスト参加などもしてきましたが、それとは関係ないとこでブログ、って感じで。
まあ、生活自体は「知的障害児母」なので、全く関係なくというのも、また不自然な話ではあったのですが。

そこにある「事件」が起こりました。
松田聖子主演で、ダウン症ネタのドラマが放映されるそうだ、と。
それは、明治安田生命のCMで大きな話題を呼んだ「たったひとつのたからもの」で、高視聴率を記録するのはほぼまちがいないだろうと。
俳優として、3人のダウン症児がオーディションで選ばれたと。
放映前から、その話題はとても大きいものとなっていました。

さて。
知りたいのは、「普通の人」の感想です。
知らせたいのは、こうしたドラマの功罪です。

ふむ。
ブログ、持ってるな。
ブログ、使えるな。
これを利用しないというのは「損」、なんだろうな。

と、いうことで、まず放映前日に「たったひとつのたからもの」:ドラマを見る前に という記事をアップしました。
そして、いよいよドラマ放映。
見た後に、「たったひとつのたからもの」:感想 という記事をアップしました。

話題になったネタに関して反応の早いブログ、実に大活用するという経験になりました。
まずわたしは、「たったひとつのたからもの」というワードでブログ検索を重ねて、かなりの記事を読み尽くしていきました。「泣いた」だけの感想記事はどんどん読み飛ばし、「泣いた」にプラスアルファがある記事をどんどんメモっていきました。ひとつひとつにコメントを入れるのが大変だったので、自記事内に「ご挨拶」を入れる形でトラックバックを入れていきました。
トラックバック先の方でご訪問いただいて、コメント入れてくださった方とそうでない方がいらっしゃいましたが、コメントを入れてくださった方々とは、実に充実したやり取りになったと思います。
自分の感想としては、まさに「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」というのが実感でした。
そして、さらに、コメント欄で「関心」を持ってくださった方がいらしたことに力を受け、さらに関連していく「ダウン症」に関しての記事を、「たったひとつのたからもの」というカテゴリ を作って、そこに加えていきました。

この時期、気になっていたのは、参加している「医師が主宰する、ダウン症児の親とダウン症児に関わる人のためのメーリングリスト」のメンバーの、このドラマに対しての反応でした。乳幼児の親の参加者が多いこのメーリングリスト、メンバーである親たちが、特にダウン症という事実の告知から間もない小さい子の親たちがどんな思いでこのドラマを見ただろうかということ。親たちが、「普通の人」は、このドラマをどんな風に見たのか、関心を持っているのではないだろうかということ。

スットコドッコイなHNを使ったこのブログを、このメーリングリストのメンバーに知らせるのは、ちょっとこっぱずかしく躊躇があったのですが、見せたいものの「価値」と、自分の赤っ恥と、この二つを天秤にかけて、結局わたしは「価値」を選択。そしてわたしは、「ダウン症児の親」というものに「なりたて」で、まだまだ様々な「衝撃」にダメージを受けやすい小さい子の親たちの手をつないで、彼らの精神的安全圏に配慮しながら、ブログという世界に現れていった、このドラマの「普通の人」の感想を見せたのでした。
このことに対しても「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」という実感が、わたしにはありました。

この、高視聴率を記録したドラマの放映から、5ヶ月が過ぎました。
DVDも発売されました。
Googleでの「たったひとつのたからもの」というワード検索で、トップページに「たったひとつのたからもの」:感想 という記事が表示されることが、相変わらず続いています。
この現象がいつまで続くのか関心があったので、11月末日に、この記事に記事限定でアクセス解析をつけました。
その結果として、今年に入ってから減少しているものの、いまだにアクセスがゼロの日は皆無、12月1日から現在までユニークアクセスで千件を超えました。
ドメインで見ると、個人や企業からのアクセスに加えて、次のようなものがあがっています。
「ac.jp (大学/専門学校など)」「ed.jp (各種学校)」「go.jp (政府機関)」「lg.jp (地方自治体)」「or.jp (各種法人団体)」「ad.jp (管理組織)」。

新たなコメントがつくことは無いものの、インターネット上に表示されない日が皆無というこの「たったひとつのたからもの」:感想 という記事とコメント欄に「存在しているもの」が、何を生み続けていくのか。
この記事を存在させ続けていくことも、わたしにとっては「こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」ということのひとつのような気がします。

*トラックバック
何でもかんでも総ブログ化計画 「【募集12】こんな使い方があったのか!ブログの可能性に挑戦」

*2005.6.25追記
 トラックバック
  ♪3足わらじで福祉を考える♪ ■ [障害者家族] 「たったひとつのたからもの」を観て

「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」の一例

2005年03月27日 | ○○さんにトラックバック!
何でもかんでも総ブログ化計画で、「ブログを使った新しい情報コミュニケーションとは?」という募集が、11番目の「お題」としてあげられています。
「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」とは、そのブログのコンセプト、内容、方向性がはっきりしているときに生かされていくものだと思います。
つまり、ブログという媒体の機能をどう生かしていくか、どう生かされていくか、その可能性はブログ自体の内容によって左右されていくものなのではないかと。

「存在に意義があるブログ」gooブログ版 というわたしが上げた記事に紹介した5つのブログの中の一つに、「まっち~の三日坊主日記」があります。
このブログは、「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」という機能を持っているとてもいい例だと思われます。

 まず、このブログが発信する「情報」ということでですが。
このブログは、「モラルハラスメントという虐待を日常的に受ける生活をする人」に対して、ブログ主本人が数年に及ぶ日常的なモラルハラスメントの被害者としての立場であったことを通して、「自分自身が『自己を大切にすることに向かい合う』ところに至るまでの経験」や、「そこに行き着くまでの心の動き」を「情報」として手渡しています。
また、被害を自覚してからの行動の記録や、被害からの脱出の方法論としての「情報」も充実させています。
「自分自身を大切に生きよう」という意志と勇気を閲覧者に感じさせ、また具体的な方法論の提示も存在するという、このブログならではの「情報」です。

 次に「HPと、ブログという媒体の違い」ということで。
HPは、整理されてアップした情報と、その内容に対しての閲覧者とのやりとりを掲示板で行うという形になりますが、このブログでは、ブログという形態を利用することで、日々更新によって出される記事ひとつひとつに閲覧者がリアルタイムに感じていくという要素があります。
ひとつひとつの記事内容に対して、同様の被害を体験する人が管理するブログからのトラックバックもあり、相互でのやり取りも行われています。
また、ブログという、更新に高度のテクニックを必要としない媒体を利用していることや、このブログがブログ主本人をも精神的に支えている要素を感じることで、閲覧者が自分のブログを持つことへの発展性につながっていく可能性を持っています。
これがブログという媒体の特性を生かしていることなのではないかとも思われます。

 そして「情報」が「現在進行形」で閲覧者に手渡されていく上で、このブログが閲覧者に込められている「情報以上の要素」がここにはあります。
モラルハラスメントの被害者がその被害に気づくという作業は、実は自己を傷める作業でもあります。それは自己犠牲を持って作ろうとしている幸せが、「砂上の楼閣」という虚像ではないかと気づいていってしまうことからくる「痛み」です。また、モラルハラスメントの被害の中で、すっかり見失ってしまっている「自己」に向かい合うことは、被害の中にいる自分自身と向かい合わなければならない作業でもあるからです。
このことを熟知しているのは、その痛みとのたうちまわりながら向かい合った経験を持つブログ主本人でもあります。
ブログ主本人が熟知しているからこそ、ここであげられる記事群には、常にそうした「被害者たち」への愛情が込められています。
モラルハラスメントの被害者たちがこのブログに出会ったときに、閲覧する記事ひとつひとつに反応していきながら、ブログ主がひとつひとつの記事に込めた閲覧者に対しての愛情を感じることで、その自己を傷める作業で発生する「痛み」を緩和させていくのではないかということ。
これがこのブログでの「情報以上の重要なコミュニケーション要素」を持っていることではないかと思われます。

 このブログ中の「モラルハラスメント」という言葉に出会ったばかりのあなたへという記事には、こんな記載があります。
あなたは悪くない。
あなたはひとりじゃない。
あなたにはのびのびといきいきと輝いて生きる価値がある。
あなたには「安心・自信・自由」を得る権利がある。
それを求める権利がある。
 これは実は、彼女が過去の自分に向かって、再度、伝えていることでもあります。
離婚が成立していない現状の中で、彼女の「モラルハラスメントの被害者」としての人生は、まだ完全に終わったわけではありません。
そうした彼女の人生の経過の中で、彼女は自分が開いたブログで意志表明をし、決意と気持ちを語る。
ブログ主本人が、ブログという場を得ることで、どんどん精神の自由を手にしていこうとしている姿がそこにはあります。
この「現在進行形」の彼女の姿が、潜在的なモラルハラスメントの被害者たちをどんなに勇気づけていくか。
そうした「力」を大きく持っているブログだと思われます。

・経験を通して、決意と共に、閲覧者に対して愛情を込めて発信される具体的な「情報」。
・現在進行形で進む記事群や、トラックバックでの相互交流という「ブログの性質の有効利用」。
・閲覧者に愛情を持って対し意志と勇気を与えていく「コミュニケーション」と、新しいブログを生みだしていく「可能性」。

これらの要素を大きく持ったこのブログは、文字通り「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」という機能を持ち、ブログという形態を大きく生かされた形で展開されており、閲覧者への影響力をも内在しています。
モラルハラスメントとは、被害者が第三者に理解されにくい虐待という要素があります。そのため、その被害から勇気を持って脱しようとするときに、モラルハラスメントを知らない第三者から、無理解のために傷つけられる「二次障害」というものも存在します。
このブログが、ブログという不特定多数の目に入りやすい形態で展開されることで、啓蒙活動的要素も含まれていく。

ネット上に存在する多くのブログの中で、存在に大きな意味と意義を持っているブログであるとわたしは思います。

*トラックバック先
何でもかんでも総ブログ化計画「【募集11】ブログを使った新しい情報コミュニケーションとは? 」
まっち~の三日坊主日記「『モラルハラスメント』という言葉に出会ったばかりのあなたへ・・・続き」

2005年3月25日

2005年03月25日 | つぶやき
今日は娘の学校の修了式、明日から春休みです。
なんか、とても清々しい気分で、修了式の日を迎えています。

清々しい気分で迎えているのは、やはり娘の自力通学が完成した形で、年度最後の日を迎えられたこと。
娘が生まれた13年前、ダウン症の告知を受け、この記事であげたように、わたしはずっと彼女の「生きる力」と「生きる楽しさ」について考えてきたように思います。
目先の「何ができる」ということではなく、「生を満喫する大人」になって欲しいということ。
目標がとても長期的なものだったので、すぐに自分の目標のために積み上げるものの効果というフィードバックが得られるものではなかった。
でも、ここに来て、13歳という年齢、そして「ひとりで電車に乗って乗り換えをし、学校に行く」ということが習慣化された今、本人がつけていく自信・自尊心を感じると、ものすごく大きなご褒美をもらっているような感じがします。
そして、自分が当初考えていたよりはるかに、この自力通学の完成が、本人にとって果てしない可能性をもたらしていることも感じます。

娘にルートをそばについて教え、1人で行動する経路を少しずつ増やし、隠れて見守る。
娘を送り出し、別ルートで先回りをするために時には坂道を全力疾走でかけのぼり、電信柱や塀の陰に隠れながら。
他家の生垣のすみに身を隠すためにかがみこみ、不審者と通報されたらどうしようなどと思ったり、犬に吠えられたり、まるで未熟な探偵のような行動を重ねました。

娘の入学準備をする中で、自分のための入学準備はナイキのシューズとたくさんの音楽。
そしてN505i P-doco?mini
新品だったナイキのシューズは、底も減り、ずいぶんと使い込まれた印象の靴になりました。
隠れて歩きながら聞いた音楽の数々は、「この曲を聴くとイメージで出てくるのはあそこの交差点、ここの道」というものになっているのも、ちょっと笑える副産物。
耳に流れる音楽のための機器も、MP3が聴けるポータブルのCDプレイヤーからV602SHに変わったりしつつ、プレイやんの登場に大喜びしたり、ヘッドホンを新調したり。
こんなことも楽しい副産物。

とっても満足。
「よくやったぞ、自分」
と、いう、自画自賛。

ダウン症児の親のための「初めての書籍」紹介

2005年03月23日 | 書籍紹介
生まれた子どもが「ダウン症です」と告知を受けたときに、関連する書籍を読みたいと思う人は多いと思います。
ところが、最初に手に取る「第一冊目」の選択に失敗すると、その衝撃を引きずることも多い。
この最初の「第一冊目」の選択に関しては、その方がそれまで生きてきた中での「個性」により、どんな本が選びたいかが決まると思います。

さて、「選びたい本」の傾向別に、一挙紹介。

ダウン症って、よくわからない。どういうこと? どんな子なの?
「ダウン症の子どもたち」子どものためのバリアフリーブック―障害を知る本

ダウン症の子って不幸なんじゃないの? そんな子を持って、不幸なんじゃないの?
ようこそダウン症の赤ちゃん

ダウン症って何? 少し怖いけれど、わかりやすく説明して欲しい。
ダウン症は病気じゃない―正しい理解と保育・療育のために

ダウン症について知りたいことはいっぱいだけど、なかなか本が読めない。
今、聞きたいことだけ、手っ取り早く、わかりやすく知りたい。
Q&A ダウン症児の療育相談―専門医からのアドバイス

ダウン症ってどういう風に育てればいいの?
前向きな気持ちで、ちょっと勉強したい、療育とかも。
新版ダウン症児の育ち方・育て方

「しょうがいじ」を育てるって、どういうこと?
障害をもつ子のいる暮らし

「普通に育てる」ってどういうこと? どうやって育てればいいの?
子育て―みんな好きなようにやればいい

ここにあげた本は、わざわざ買わなくても、たいがい大きめの図書館においてあることが多いです。
まず、図書館で調べて借りてみて、気に入ったのがあったら、買うのはそれからでもいいと思います。
図書館で借りて読んだ方が、選択をまちがえたときの「衝撃の引きずり」は少なくて済みます。

最初の一冊目として、あまりすすめられない本。
これは個人の手記本です。
読む方と書き手の個性が合わない場合、衝撃をけっこう引きずってしまう可能性があります。
ダウン症児の親になったばかりの頃に手記本を選ぶ場合は、その手記本が出版されることになったその本のテーマの背景を、本の帯や解説等でチェックし、自分に「合う」ものかどうかの視点は必要かもしれません。
個人の手記本は、いろいろな経験を乗り越えた上で書かれてあることが多いので、経験が未知数の場合、その経験自体に衝撃を受けてしまう場合もあります。

書店に積み上げられた、評判の「感動の手記本」でも、そこに出てくる子どもが亡くなってしまうケースの場合は、「我が子がダウン症児」という受け入れに関して、まだまだ時間が必要な時期には、「亡くなったことによって美化された事実」に憧れを抱いて、子どもが生きていることを生き続けていくことを心から望めなくなってしまう場合すらあります。

また、「ダウン症の親になったばかり」という立場になったことが無い人にとってどんなに「良書」でも、同じ書籍が「ダウン症児の親になったばかり」という人にとっての「良書」とは限りません。
「ダウン症児の親」というよりは、「ダウン症児の親になったばかり」、ということの方が重要なのです。
その人にとっての「時期」の見きわめがとても重要で、そしてその「時期」に対して、けして査定するような視線・視点を持たないこと。
この辺は、周囲の方々に、気をつけていただきたいことかな、と思います。

自閉症児の持つ「不安」

2005年03月22日 | つぶやき
先日、「『自力通学』のために積み上げるもの」 という記事をあげ、コメント欄で「妖精が見える子供」のビッグママさんと会話。

それからわたしは、道を歩くときに「自閉症と呼ばれる子ども」の感覚をさがす行動になんだかとりつかれている。
周囲に存在する人の気配を可能な限り自分の意識から消し、自分の視界に入る「物」だけの世界に自分を投入する。
実感で思ったことは、世界というのは、なんと怖いものだろうということ。
視界に入る「物」だけの世界に自分を投入すると、ひとつひとつの「物」から自分に向かって入ってくる情報に溢れ、その情報量と刺激量の多さに、窒息しそうな気がする。
安心できるような「一定のもの」が少なすぎる。

コメント欄の会話で出てきた「マンホール」。
これひとつ取っても、地面に存在する「蓋」にはかなりの種類がある。
つけられているものが多い「行政のマーク」に安心したりする。

道の傍らに、鉢や花壇で花が咲いている。
この「花」を、「物質」ととらえると、これもまた、怖い。
植物自体の種類も様々で、色も様々で、当たり前なのだけれど、「同じもの」というものが無い。

なんとなく、「自閉症と呼ばれる子ども」の「こだわり」という意識や行動がわかるような気がする。
彼らがこだわるものとは、この不安感を増大させる感覚に対しての、「安心の杖」のようなものなのかもしれないと。
膨大に入ってくるこの刺激の中で、自分が決めたものに対して「安心」を見つけるのだろうと。
だから、「こだわり」を持つものを取り上げられようとするときに、あんなにも抵抗を示すのだろうと。
「いつもと違う行動」に対しての抵抗も、わかるような気がする。

道を歩きながら感じた膨大な刺激量の「恐怖」の中で、マンホールの蓋につけられた「行政のマーク」に安心する自分を感じながらそんなことを思った。
「同じ形」で変わらずについているそのマークに、安心感を得る自分。
これはなんというか、もう理屈ではないような気がする。

「こだわり」を持つ具体的な物や行動を、許容できにくい、そのことから危険が発生しかねないものがあるときには、「こだわり」をただ取り上げるのではなく、本人にとっての「安心できる代替品」を手渡していくことができないものだろうか。
その可能性をどうやって模索していくか。
これは「障害」がどうのということを超えて、「不安を感じる人を救う」ということなのかもしれないと思った。

だって、実際のとこ、わたしは言いようのない「恐怖」を感じたのだもの。
自分が当たり前だと思っている「感覚」。
その「感覚」に対しての意識を崩壊させるだけで、全然別の世界が見える。
知識や思考、理屈だけで「彼らの不安」を解釈しようとしていた自分の浅はかささえ感じたような気がした。
ごめんなさい、と、彼らに対して自分の浅はかさを謝罪したいような気持ちも見えてくる。

「人間」というものは、今まで自分が経験してきたという「幅」を超えて、もっともっと奧が深いものなのかもしれない。

地域で暮らすということ

2005年03月21日 | つぶやき
娘の障害というものがすっかり日常になってしまっていて、人が娘をどう見るかという視線、視点にかなり鈍感になってしまっている。
ダウン症を知らなくても、(普通の子じゃないな)と思うくらいのことなんじゃないかという感じで。
まあ、実際普通の子じゃないんだから、そう思うのも普通かなと。
と、改めて思うことも忘れてしまうほど、すっかり鈍感になってしまっている自分がいる。

徒歩圏に、個人商店を少し大きくしたようなよく行くスーパーがある。
わたしは娘のことなど、娘の障害のことなどすっかり忘れて、ごく日常的におつきあいをしているお店なのだけれど、そのお店の中でふと気づくと、わたしと娘とのやり取りに視線を感じたりする。
その視線は、たいがい、見守るように暖かい。

今日、車でよく行く最寄りのダイエーに行った。
大きな店舗で、食料品の売り場も広い。
ハムやソーセージの売り場に、いつも休日に大きな声で客に話しかけながら、試食のためのハムやソーセージを炒めたり盛りつけていたりする方がいる。
毎週休日に行くわけでもないのだけれど、混雑した休日のその売り場あたりにその方がいつもいるなあという風景になっているという感じ程度で。
今日は、そこで3パック買うと福引きというサービスをやっていて、その福引きを一回だけ引くことになって。
まあ、一回だけ、というと、こういうときに息子がやりたがるのが常なので、わたしは何の気無しに息子に声をかける。
「じゃあ、あっち行って福引き引こうか」
すると、その試食販売の方が声を張り上げて叫んだ。

「そのお客さん、二回引かせてやって。
 あのお嬢ちゃんに引かせてやりたいから。」

(ん???)と思ってふり返ると、その方は快活に笑顔を見せる。
「ありがとう!」と言うと、人の良さそうな笑顔でうなずき、またソーセージを炒める手を動かしながら、傍らの客に試食をすすめて、何事も無かったように。

「地域」という世界の中で、知っている人もいれば知らない人もいる。
そして知らない人の中にも、わたしたちのことを「知っている人」がいるんだろう。
そうした「知らない人の中の知っている人」に見守られながら生活しているんだなあと思うのが、こんな時。

「存在に意義があるブログ」gooブログ版

2005年03月20日 | インターネット雑記
「みんなで選ぶ第一回gooグッドブログセレクション」に参加します。

参加するのは「グッドセレクション」部門。
選択のコンセプトは「存在に意義があるブログ」です。

☆π氏の雑記(PCのジャンキー)
http://blog.goo.ne.jp/suzuka_web

PCや周辺機器に関して幅広い話題が網羅されている。
また、コメント参加される方が情報提供しやすいムードを持っている。
管理される方自身が楽しまれながら、コメント参加される方とともに大きな情報提供の場として展開されている。

☆むだづかいにっき
http://blog.goo.ne.jp/simauma_dx

ウェブに関してのこと、ブログに関してのこと、管理者の意見が展開。
意見を展開する要素になるリンクも充実。
閲覧者が「では自分はどう思うのか」ということを触発される要素を持っている。
この「触発」が、閲覧者によっては、時々別方向に理解されることが個人的には残念。

☆ブログはじめますた
http://blog.goo.ne.jp/rd-xs40user

現在、休止中ではあるけれど、こちらに出されているgooブログに関してのツールやテンプレートが多くの人に使われ続けていることを考えれば、「更新休止中でも存在に意義がある」と思われる貴重なブログ。

☆まっち~の三日坊主日記
http://blog.goo.ne.jp/machimachi_2005

モラルハラスメントを、個人的体験を通して考察するブログ。
「モラルハラスメント」という、表に見えにくい虐待、被害者が被害をなかなか自認できず、他者からも被害が認められにくい「攻撃」に対して考察し、「自分が自分らしくあること」を大切にすることを主張。
相互リンク関係にある「モラルハラスメント被害者同盟」というサイトと連動しながら、インターネットにおけるセルフ・ヘルプ・グループとしての機能を持っていることは「存在に大きな意義がある」と思われる。

☆ゆうくんちの日常
http://blog.goo.ne.jp/yu-kunchi

親子ともに一般的な社会から隔絶されやすい「日常的に医療処置を必要とする重度心身障害児」。
この生活の日常をありのままに伝えていくこのブログは、どんな環境の人間においてもインターネットに接続する環境を持つことで社会と接点を持ち、意見を表明していくことができるブログの有意義さを感じることができる。
また、個人の日常を描くことで、障害児の家族と周囲との精神的障壁を解決させていく可能性をも含んでいるという要素も「存在に意義があるブログ」と思われる。

社会経験

2005年03月18日 | つぶやき
今日は、娘が通う養護学校の小・中学部の卒業式。
在校生として、この卒業式に出席。
ってことで、スーツ着せてスカートはかせて行かせました。
式の間、椅子に腰掛けているときに。

座るときにスカートを直して座り、とても立派だった。

と、担任から報告が入りました。

去年の卒業式、入学式では、そんなこと、なかったんですよね。
でろんと乱暴に椅子に腰掛け、足もすぐにだらしなくなる。
「ちゃんとしなさい」って感じだったんだけど。

コレも、実は「自力通学」の賜物なんですよね。
親が「きちんと」というのは、言ってはいたんだけど、言うこと聞くのは言ったときだけ。
すぐに、でろんとだらしない状態になっていた。
ところが、毎日電車に乗るようになって、いろんなことを身につけ始めた。
つまり、「大人の女性」のお手本になるモデルが、電車の中では存在するわけです。
乗る電車は下り方向ですいてるし、車内の人をよく見る余裕がある。
そして、乗り替え後の電車は始発駅なので、乗ってくる人が座るところも視界に入る。
こうした車内の風景を実によく見ているようで、そのことが生活全般で見られるようになりました。

親が百回言うよりも、モデル行動を視覚から吸収することの方が、本人にとってはインパクト大きいようです。
本人自身が学びたいことを選択する機会が、社会経験の中に存在するという感じです。

まあ、車内で化粧をするような女になって欲しくはないと思いますけどね。

「自力通学」のために積み上げるもの

2005年03月17日 | 自力通学
13歳の知的障害児である娘の「自力通学」に関しては、こちらの記事を参照ということで。
二度のアクシデントの経験を経て、二度目のアクシデント後の「指導」を本人がきちんと理解できたことが確認できる状態になり、年度終了を前に「完成」と判断できる状態になったかな、と思っています。
今は娘の登校に関しての「尾行」作業から解放されていますが、春休みを中にして、また新年度に一定期間、確認のための「尾行」を開始する予定です。

Googleで「自力通学」と入れて検索すると、こんなページが出てきます。
これは沖縄県立八重山養護学校のHPの中の「職員必携」というコンテンツの中のページです。

この「自力通学についての条件」の中の、「2 自力通学に対して意識のある児童生徒 」「5 下記の(1)から(9)ができる児童生徒 」とについては、単に「できる、できない」ではなく、ここを目指してどう育てるか、ということなのではないかと思います。
自力通学を考える年齢になってから着手することではなく、数年がかりでここを目指していくことが大切だと思うのです。

知的障害児の自力通学に必要な力は、知的能力よりも生活能力についての方が重要になります。
この「生活能力」に関しては、幼児期からの積み重ねの部分がとても大きい。
生活の中で「チャンスを与える」ことで積み重ねた力が、大人として身につけるべき能力を考えるときに、重要なレディネスになっていくのだと思います。

さて、この「自力通学についての条件」に記されていることに関して、わたしが「幼児期から積み上げた」と認識するものに関しての具体的なことですが。

*本人の自主性を育てる
・「全部やってやる」から、「ここからは自分でやる」機会をとても小さなステップから作り、徐々に増やす。
・生活の中のいろいろなシチュエーションで、自分で判断するタイミングという「間」を作り、本人の「見通しを立てて行動する」という力を育てる。
・集団に預けるときに、「いってらっしゃい」と、「この時点から親と離れる」という区切りを意識した言葉かけとわかりやすいサインを作り、それを同じ形で積み重ね、定着させる。
(意識として、「親」から「保育者・教師」の元に、「自分から行く」という意識を生ませ、育てる)
・本人の自主的な行動に関して、「行動の理由の存在の認識と理解」という感覚を保護者が持つことを意識し、安易に否定的な態度を取らないように気をつける。

*「移動」の経験に関して
・幼児期から家の周囲の「散歩」を習慣的に行う。
 このことで、基点になる場所と現在地との「位置感覚」を養い、「車を避ける」「信号のある交差点や無い交差点を横断する」「飛び出さない」等の経験を長期に渡って積み重ねていく。
・日常的に連れていく場所に関して、ひとつの目的地に「行って帰って」ということがわかりやすい行動を習慣の中に入れていく。
・自家用車での移動に頼らずに、公共の交通機関を使うことを日常的に行う。

これらの「移動のための生活能力」を育てることは、自尊心や自信を育てることにもつながると思うし、そうであって欲しいとわたしは思う。
知的障害というものを持っていても、あなたの命には価値がある。
自尊心や自信を育てることで、このことこそが、わたしが娘に伝えたかったことでもあるのです。

生活能力を積み重ねても、本人の知的能力としての「限界」はあります。
これを「機会を持つことの不可能」という思考・判断・結論につなげていくか、「支援の工夫で埋められる可能性」を模索していくことにつなげていくか。
これが支援する人間に問われていることかなと思います。
娘はこの「自力通学についての条件」の(9)と(10)に関して、現在不可能です。
これを現在はP-doco?miniという機器で補っていて、さらに位置確認の正確性を求めるためにココセコムの併用を検討中です。
しかし、この「機器による他者からの位置検索」ではなく、迷子時や不意なトラブルに関して「本人の意志で解決に向かう行動を取る」ことが「機器使用の工夫」によってできないか、そうした新しい道を、現在模索中です。

「絶対評価」が生む「喜び」

2005年03月15日 | つぶやき
知的障害児を育てるということは「絶対評価」というものさしを、確実に自分の中に持つことだという実感があります。
「相対評価」、つまり、標準と比べてということではなく、

その子自身が育つという中での「絶対評価」。
「誰よりも」ではなく「昨日よりも」。

「あの人のように」ではなく、「この子の明日」。

「相対評価」はマイナスの感情を生む可能性が多いけれど、
「絶対評価」の副産物は、喜びの倍増かもしれない。


さて、わたしは昨日から「絶対評価」の副産物の「鑑賞」に、頬がゆるみっぱなしです。
阿呆のように、たった7秒間の音声を聞いて、にんまりとしまくっています。
「絶対評価」の対象になる部分に関しては、「障害レベルが重度と判定されている知的障害を持つ娘」との「言語的コミュニケート」です。

昨日、コメント欄に記事の存在をお知らせいただいて、誰も見ないblog「V602SHのボイスレコーダ」という記事を見に行っていました。
そして、この記事の通りにソフトをインストールし、V602SHのボイスレコーダーに以前記録したファイルをMP3に変換。
この「重要ファイル」で、頬がゆるみっぱなしなわけです。

この、他者にとっては、実にど~~~~~~~でもいい音声ファイル。
ファイルの名前は「04-11-01_17-01-35.mp3」。
去年の秋の夕刻の、ちょっとした時間に録ったものを、昨日MP3ファイルに変換したものです。

わたしにとっては、ヨダレものの、素敵ファイル。
ま、ど~~~~~~~~~~でもいいものだと思いますが、
興味のある方はコチラから。

医療と薬

2005年03月14日 | つぶやき
「タミフル」で検索していらっしゃる方が、毎日いらっしゃるようです。
検索して上がるのはこの記事です。
「タミフル」と併せて検索ワードとされているのが「インフルエンザ」に加えて「低体温」。
「低体温」を経験された方、他にもいらっしゃるのだなあと思いました。
驚いたのは、「不正出血」を併せて検索した方がいらっしゃることです。
インフルエンザ時の「不正出血」が何に原因するものなのか、不明です。
ただ、わたしは「あった」。
この検索ワードで、他にもそういう方がいらしたんだ、と、不思議な実感を得ました。

タミフルに関して、はっきりしたことは何もわかりません。
ただ、わたしはわたしの経験した症状という「事実」を出した。
その上での、個人的な「迷い」を出した。
それ以上でもそれ以下でもなく、何らかの主義主張を出そうというわけではないのです。
まして、タミフルの副作用不安を煽ろうとするものでもありません。
ただ、「こんなことがあった」ということ、その事実は大事なことだろうと思います。
もしもあの症状が副作用によるものならば、わたしの例は「副作用」としての数にはカウントされてないということもあります。

データとして、処方してくださった医師に報告しようとも思いました。
でも、やっぱりできないんですよね。
わたしにタミフルを処方してくださった医師には、タミフルに関しての「恩義」があります。
その年、タミフルが足りず、緊急輸入というニュースが何度も報道されました。
どこに行っても「無い」というのが普通になって、インフルエンザの流行も下火になった頃、息子がその年「二度目のインフルエンザ」に罹患しました。
前回はA型、そして二度目はB型でした。
タミフルが無い。
その状況の中で、診察室でその医師は、電話機と名簿を片手に、片っ端から病院・医院・薬局に次々と電話を入れていきました。
「タミフル、ありますか?」
「無い、そうですか、ありがとうございました」
いったい何軒に医師が頭を下げ続けたかわかりません。
それから、医師は、しばらく黙り、そしてひとつ呼吸をし、意を決したように、また電話をしました。
「タミフル、ありますか?」
「ある!? そうですか! 」
「大変申し訳ないのですが、数日分、お分けいただけないでしょうか。」
見ていて申し訳ないほど頭を下げ、そして患者が取りに行く旨を伝えていました。
電話を切ってから、話してくださったのは、このタミフルを持っていた薬局は、この医師と犬猿の仲で有名な内科医院の敷地内にある、その医院の薬局であるということでした。
申し訳ないが、取りに行くときに、丁重にお礼を言って薬をもらって欲しいとのことでした。
「タミフル」というのは、受診した医師がそこまでして、患者のために手に入れたいと思う薬であること。
そのことも、わたしは忘れてはいけないことなのだと思います。

薬というものは、もともと、全てにおいて、メリットとデメリットとの天秤を、その状況に応じて持つものだと思います。
確率うんぬんということを考えなければ、全ての薬が、実は「自分の体」という個体に向けて、人体実験をなされていることだとも思います。
安全な人体実験であるために、薬の製品化までにいろいろな安全のためのフィルターにかけられていることも、忘れてはいけないことだとも思います。

あとは、危険のリスクの数値に関しての「感受性」かもしれません。
「1000人に一人、副作用が出る場合がある」
こう提示された時に、自分が999人だと思うのか、1人だと思うのかという「感受性」です。
わたしは「1人」になる可能性を、捨てきれない「感受性」の持ち主だと思います。
「一万人に1人」でも「10万人に1人」でも、「1人いるんだ・・・」と思うのです。
それは、一般的には「1000人に1人生まれる」と言われているダウン症の子どもが、自分の子どもだということがあると思います。
大きく言ってしまえば、障害児を我が子に持つ親というものは、我が子の障害と出会うときが「自分が999人だと思う」という感覚に対しての「別れのとき」かもしれません。

「薬に対しての信頼」は、「医師に対しての信頼」が支えるものだとも思います。
不安を感じたら、医師に質問をすること。
その対応に信頼を感じられなかったら、信頼できる医師をさがすことだと思います。
以前、大きな総合病院の小児科で、診察を終え薬を処方された後会計を待っているときに、診察室を飛び出して混んだ待合いのロビーの中からわたしを見つけ出した小児科医もいらっしゃいました。
息をきらしておっしゃったことは、次のことでした。
「自分が今処方した薬よりも、もっと飲みやすいタイプの薬を見つけたから、処方を変更させてください」

「薬」というものは、医療の重要なツールだと思います。
でも、そこに関わる「人間」と「信頼」が、実は最も重要なものなのかもしれないと思います。
もちろん、そのことを、医療に関わる方々が、自覚と共に強く持っていていただきたいことだとも思います。