某所コメント欄でまた言われてしまいました。
「そのネタ、記事にしたら?」
いや、なんというか、「話しながら出てくるネタ」というものがあるわけで。
では、「それをまとめて文章に」っていうと、なんかちょっと違っちゃう感じがするというか。
「記事にする」というと、どこか「起承転結」を考えてしまう自分というものもありまして。
と、ぐだぐだと言ってみる。
で、今日は、ぐだぐだと「起承転結」なんぞを考えないで、「音楽」をネタにどたどた打ち。
わたしはBUMP OF CHICKENが好き。
なんで好きかっていうと、というのを説明する「言葉」というもの、これまた人んちのコメント欄に残していたりするので、そこに飛んで、人んちの「ブログ内検索窓」なんていうものを利用する、まあ便利。
あった、あった。
わたしがBUMP OF CHICKENが好きなのは、もちろん「歌の世界」。
自己実現に対しての欲求不満のギザギザした感じと、女性に対して包容する視点。
あとは「声」かな。
BUMPの新曲の「
プラネタリウム」は好きです。この曲、「
うたまっぷ」で現在アクセスランキングトップを飾っておりますので、この歌の世界が好きな人は多いのでしょう。
しかし、ふと思うのですが。この歌詞の中の行動、対象となっている女性が歌詞の主人公に「全く興味を持てない」場合、この歌詞の世界の行動を知ったら、ストレートに「キモっ!」となる可能性は高いかもしれないと思う。そして「手作りプラネタリウムに存在しない星を作って名前をつける」男というのは、実際には存在する可能性はとても低い。なんというか「やらないことをやっちゃう」ことで、歌詞の背景にある感情をどどーっと広げ、その感情を載せられた音楽の世界に人は没頭するのかもしれないと思う。
むだづかいにっきの「
スタレビっていいよね。」は、わたしは好きなエントリーのひとつで、先日二つのブログにこのエントリーのURLをおいてきたのですが。
うちひとつが
宝探しの旅「今年の宵山は佐藤竹善ライブ」。
このコメント欄でsariさんが「どうしても残る疑問が、『木蘭のつぼみが ひらくのを見るたびに あふれ出す涙は 夢のあとさき』というくだりで、『男が茫然と涙を流すのか?』という点です。」
「まちなかで人目はばからず涙を流す男、見たことがないんです。」とおっしゃっている。しかし特筆すべきは
むだづかいにっきの「スタレビっていいよね。」のコメント欄の中で「木蘭の涙は男だ」と言っている「男」が、そのことにふれていないことなんですよね。
この曲の「主人公」は男か女かってことよりも、この曲を聴いた「男」が「この世界の主は男だ」と思うこと。それは実際には「まちなかで人目はばからず涙を流す男」はそうそう見られるモンじゃないが、「まちなかで人目はばからず涙を流す」という心境を「理解する男」というのは存在するんだろと思うこと。そしてそうやっては「泣けない」男が、「そうやって泣く」この歌の世界の男に「やらないことをやってくれることでわかる感情」ってのがあるのではないかということ。(「
木蘭の涙」)
「男性」というものを考えるに、というところで、自分の過去記事のコメント欄から拾ってきたいものがあったのだけど。
わ~ん、どうやっても、それがどこに入れたか見つからない。記事内容から「発展した話題」になるときは要注意ですね、あとで「掘れなく」なる。
発端は
ぽんすブログですすめられた
「婦人公論」の6月22日号。大槻ケンヂ×みうらじゅんの対談がメイン話題でぽんすブログで話していたのだけれど、わたしはこの雑誌のこの号の渡辺淳一の文章にいたく反応した。そのことを言って、
朴念仁さんに相手にしてもらったのが、自分とこのどこかの記事のコメント欄に入ってるはずなのだが見つからない。
要するに「男性は別れた女性の『性的な感触』に未練を残す」ということが渡辺淳一によって語られていて、そのことが「男性が主人公のラブソング」に大きく思い当たることがあったということ。そしてその具体的な曲名なんぞを、このブログのどこかの記事のコメント欄に記載してあるはずなのだけれどさがしきれなかった。
と、思ったら、あったあった。なんだコメントはメール通知をさせているのでこういうときはOEで「メッセージ検索」をすればいいのだった。「
スパム・トラックバックにささやかな抵抗」のコメント欄だった。って、記事内容と全然違うし、この記事ではわたしのこのコメント自体が「スパム」かもしれない。
*シャ乱Q「ズルい女」の「最後もう一度抱きたいよ」
関係が壊れた状態で、というのは女性には考えられないのではないかと。これは誌上本文の女性の意見の通りですね。そしてこの歌詞の意味が、今回、どんぴしゃでわかったような気がしたという感じ。
女性にとって、相手に未練がある場合での「最後もう一度」は、大黒摩季「別れましょう私から消えましょうあなたから」の「冗談じゃない同情のsex」ということになってしまう。
*中西保志「最後の雨」の歌詞上での未練の表現は、確かに肉体的な記憶に結びついているものが多いこと。
*平井堅「why」の、相手に対して肉体的な反応を感じられなくなると、もう関係の復活の希望が見えなくなるのだな、という部分。この「why」の女性が相手に未練がある場合は、相手が肉体的な反応を自分に持たなくなっても、まだ努力すればなんとかなると、精神的な関係のところでなんとかなれば、という思考が捨てきれないのではないかと、そういうケースが女性にはあり得るのではないかと思うこと。
ざっと出てくるのはこんな感じ。
でも、そういう視点で聞き直すと、もっとごろごろと納得するものが出てくるのだろうなあというのが感想です。
女性が「未練」のイメージで出てくるのは、関係が上り調子の頃、つまり相手が自分に対して「追いかけモード」であった状態の全般のような気がするんですよね。肉体・精神関わらず「欲しがられる」こと、それを失ったことに対する未練のような。肉体を「未練」のイメージに持ってくるのは、「欲しがられなくなった」ことを強烈に再確認してしまうようで、逆に避けるかもしれないなあと。
『性的な感触』といえば、最近わたしは
米倉利紀にはまっていて、彼の過去のアルバムをたどりながら、彼の歌を聴きながら「彼に口説かれて」非常にご満悦になっている。「yone’s BODY & SOUL II 」というアルバムの「like, love, need..... 」なんてのは、その最たるもので「好きだから」というフレーズをぼそっと歌う歌い方や「この腕で抱かせて」というフレーズに盛り上がったりしてる。
俗に「歌うレディス・コミック」を言われる平井堅ではどうしても盛り上がれなかったわたしだけれど、米倉では「いける」というのはやっぱり好みかもしれない。平井堅の「息混じりの声で歌うラブソング」がどうしても「生理的にダメ」だったのだけれど、米倉の「ラブソングのべたっとした歌い方」を嫌う人もいるだろうなあと思う。
まあ、いやらしい。
「木蘭の涙」や「プラネタリウム」に戻って、精神性のせつなさをちょっと感じてこなきゃ。
でもBUMP OF CHICKENの「
embrace」の「腕の中へおいで」ってフレーズも、なんというか感触の記憶を体現させて好きなんですけどね。
いやちがう、「
embrace」で本当に好きなのは「この目が視力をなくしても」に続くとこだった。
以上、起承転結無しのべたべた打ちをしてみたぞ23日。
(この最終行は、
黒板ぽのパクり)