S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「赤ちゃんポスト」と報道

2006年12月27日 | つぶやき

ウェブ魚拓:『赤ちゃんポスト』渦巻く賛否/東京新聞
赤ちゃんポスト考/天竺堂通信
 この「ゆりかご」というもの、これは支援のひとつの形なのだと思う。支援には様々なものがあり、その究極の形なのだ、と。
実際に設置した病院がそうとらえていることが重要なのだと思う。生まれた子どもを遺棄したい、ということが、心理的制度的支援があれば解決が可能なケースというものはあるだろうということ。病院が設置するのであれば、今まで以上に「困難のある妊娠」に関してのフォローは必要になってくると思う。

 妊娠した子どもは、生まれていきなり養育を放棄せざるを得なくなるわけじゃない。妊娠中にその要因の芽は必ず発生しているはずだと思う。
上記リンクの天竺堂さんは「火事」と称したけれど、火事には出火の元になる火がある。その火事以前の小さな火種の存在を認識する可能性があるのは、もしもその妊娠が妊婦検診を経過しているのならば、その妊娠に関わる産院だと思う。
この「ゆりかご」の使用される頻度が高くなるということがあれば、それは産院のフォロー態勢が疑われるということだとも思う。

 また、遺棄の理由が支援可能なものかどうかということ。これを判断する前に赤ちゃんだけが移動するということも危険だと思う。
衝動的行動、気持ちが弱くなっているときの突発的判断。そうしたことに関して、赤ちゃんの移動後にどれだけフォローできるのか。物わかりがいいということは、けして相手を助けることばかりじゃない。

 しかしウェブ魚拓にとってリンクした東京新聞の報道は、このことに関しての取材をきちんと載せている。「秘密は必ず守る。とにかく病院を信じてまず相談を」という手紙を扉の前に置き、一時預かりの意味をも持たせ、「赤ちゃんさえ無事なら、母親にも冷静に考える時間ができる」としている。
つまり、通常危険であると思われるタイミングというものに関して、それを支援的配慮として認識し、活用させようとしていること。
また従来のこの病院の試みである「妊娠かっとう相談窓口」に関しても記載。その他、あらゆる試みの末の設置なのだということが、この東京新聞の報道からはよくわかる。
この病院が作ろうとしているのは、けして単なる「捨て子場所」ではない。何をするか、ということよりも、誰がするか、ということが意味をもつことというものは多い。
 
 この件に関してこうしたことを報道に入れるかどうか。ここを省く報道は、この病院だからこその試み、ということが抜け落ち、単に捨て子場所ができるということだけが印象的にクローズアップされる。そのクローズアップの弊害は、いったい誰に向かっていくのか。そんなことを思う。

初めての子と二番目以降の子と一人っ子と、そして独自の環境と

2006年08月13日 | つぶやき

嫌なことを「嫌だ」と言うこと /明けぬ夜の夢
 自分の行動の判断基準が「自分がどう思うか、どうしたいか」はなく「他人にどう思われるか」ということになっていると、自分を責めたり、「嫌だ」と言えなくなってしまうような気がする。

 以下、心理研究でもなんでもなく、わたし個人が勝手に思うことを脈絡なくぶつぶつと。

 嫌なことを嫌だと言うことが難しいタイプの人に、やみくもに「嫌な時は嫌だと言っていい」と言っても、それは何の解決にもならない気がする。そしてこのタイプは自分の親にとって「最初の子」という立場の人が多いような気がする。

 初めての子ども、というものは、単なる子どもではなく特別な存在のものだと思う。期待やら親の親としての評価やら親の余裕の無さやら、そういうものを一手に引き受けてしまう。

 一人っ子は我が儘だという言い方がある。わたしはそれに異論を唱える立場だと自分は思う。いわゆる一人っ子というものは、親の愛情というものを堂々と受け入れ、「愛される子」として育つ。「愛される子」として育つものはしあわせだと思う。

 初めての子、という立場を負う人間は、自分より下の子に、親の緊張感が抜けた状態で親が子どもをかわいがる姿を見てしまう。そうした親の姿を見ながら、どう自分のアイデンティティを構築していくか。これは自分の両親にとって最初の子どもであるという立場を背負わされた子どもの宿命のようなものがあると思う。

 自分より下のきょうだい児に、自分の親が見せる「緊張感が抜けた姿」を認識しつつも、初めての子というのは、その成長の中で、常に親の「初めて」の緊張を背負わなければならない。親にとって最初の子の就学は緊張を伴い、最初の子の進学は緊張感を伴い、最初の子の、と、成長の中でそれはずっと続いてしまう。最初の子はそれをずっと背負わなければならない。自分の下のきょうだい児に対して、親の緊張感が抜けた姿を確認しながら。

 親というものは、最初の子に下される他者からの評価を自分に対しての評価のように受け取るのだと思う。だからこそ、最初の子は、他者からの評価というものに不自由な感覚を持ってしまう人が多いのかも知れないと思う。他者からの親の評価と、親自身の評価と、それを一手に引き受けなければならない状況に陥る可能性は高い。

 最初の子、というものは、「悪い子」になるのは難しい。それは親が最初の子に対して「悪い子」になることを許さない余裕の無さというものが関係していると思う。親は最初の子に対しては、常に初心者で、親としての緊張感は続くのではないかと。それをまんま、最初の子に流してしまう危険は高い。

 いわゆる一人っ子も、その最初の子という立場を背負いはするが、成長の中で、親の緊張が抜けた姿であるきょうだい児の姿を見ることは無い。これはこれでしあわせなことなんではないかとも思う。それだけ最初の子に科せられるものは、大きいのではないかとわたしは思う。

 最初の子、というものにとって、親離れ子離れというものは難しく、しかし常に重要なものではないかとわたしは思う。子が意識して意識下の親殺しをやっていかなくてはなかなか自由になれないものなのではないかとわたしは思う。親は最初の子に対して、本人の価値観の育成を意識することを行うことは、子どもを大人にする上で重要な作業なのではないかとわたしは思う。

 思春期の反抗は、人間の成長の中でとても重要だと思う。複数の子どもをもつ親は、最初の子の思春期の反抗が芽生えるかどうかに対しての意識というものを、最初の子を自由な大人にしていくために重要なことととらえていくことが必要なことなのではないかとわたしは思う。それは最初の子を自分の羽の内から羽ばたかせていくために、とても重要な作業だと思う。
 しかし、親は最初の子に対しての緊張感から、なかなか最初の子の思春期の反抗を許さない。その現実というものを最初の子が独自に渡っていくことは、簡単なことではないと思う。

 と、そんなことを考えていた自分のところには、イレギュラーな構成が生まれて、人生というものは不思議なものだと思う。知的障害児の上の子と、障害というものをもたない下の子と。
 どちらも最初の子のような側面を持ち、どちらも二番目の子のような側面を持つ。運命の展開というものはおもしろいものだと思う。

 そしてわたしは二番目の子どもである息子に対して、障害をもたない最初の子としての緊張感を持ち、その影響を与え、そして障害児のきょうだい児としての環境を負わせる。その環境全てを彼が彼の手で、自身の生育歴を、その人生の有効なカードとしての側面を持つという可能性を持たせるにはどうしたらいいかと思う。

 障害をもつ子どもに対しての「教科書」はたくさんある。しかし、こうした特異な環境をもつ息子に対しての「教科書」などどこにもない。わたしはわたしのために、そして他でもない彼のために、この特異な環境にふさわしい「教科書」を、わたしは独自に模索し続ける。

交通ルールとその実態

2006年07月28日 | つぶやき
 昨日、車で移動中のこと。横断歩道のところに高齢の女性が立っていた。横断歩道を認識し、この女性の姿が見えた時点で減速、横断歩道の前で停まったのだけれど。

 横断歩道に近づき減速しながら(おや)と思った。反対車線にはクロネコヤマトの2トン車が停止している。女性が見えた時点からず~っと停止してるわけで。つまりこのクロネコヤマトの2トン車は、この女性が横断するまでじっと待っていたのだな、と理解。

 わたしの前方には車はいなかった。つまり、完全に停まる車がこの女性の前に現れるまで、この女性は横断歩道を渡れなかった、反対車線に車を停めさせた状態にしていても。

 わたしが完全に停止したのを見て、そして運転席のわたしをうかがうようにこの女性は見る。わたしはゆっくりと左手を横に流すように動かし、会釈をする。やっと安心したようにこの女性は横断歩道を渡り始める。渡り始めてわかる、ゆっくりとしか歩けない。

 女性がやっと渡り終えてから、対向車のクロネコヤマトの車の運転手に手で合図を送る。相手はにっこりと笑顔で合図を返してくれる。ごめんなさいね、待たせてしまっていたのでしょうね、こっち側の車が停まらなかったから。そして停まる車が現れるまで、あの女性に安心感を与えることを担ったのだな、と思うこの人。商用車、仕事中、なんてことはあるだろうと思う。そのことに関してのマイナスを主張する人はいると思う。それでも社の看板を背負った車、この車が一人の女性に安心感を与えたこと、そしてそのことに対して協力という感を対向車にも与えたこと。これは企業イメージとしては大きいんじゃないか、とも思う。宅配便の会社の車って、「横断歩道で停まります」なんて車の後ろに書かれてたりするしね。有言実行ってイメージを与える方が、この場の数分なんてことより大きいんじゃないか、とも思う。

 横断歩道で停まること、そんなに難しいことかねえ、とはいつも思う。横断歩道がある、ってことを予測できる道路は多いと思う。その予測できる道において、視界に入るはずの横断歩道のそばにいる歩行者を、意識して視界に入れてないんじゃないか、自分の動きの判断材料にする気がはなから無い運転者の方が多いんじゃないか、と思う。それが多分、現実。

 それが多分現実、と思うこと。娘の通う養護学校のそばの横断歩道、そこを車で通る時に思うこと。横断歩道の前ではっきりと停止しても、車がそこに存在するだけで「絶対に渡らない層」というものが、養護学校の学生には存在する。多分、自閉関連の障害なんだろうと思う。彼らの認識する社会に対しての法則には「横断歩道で停まる車」というのは存在しないんだろう。

*関連リンク
人命は尊いと言うけれど /ぽんすブログ
「横断歩道と哲学と私」/お互い気持ち良く走るための豆知識 ~運転マナー特集~
横断歩道

ダウン症の赤ちゃん

2006年06月27日 | つぶやき
 ここのところ、17年生まれのダウン症の赤ちゃんのママと話すことが多い。どう話すか何を話す糸口を作り出すか。これはだいたい「合併症はありますか」の一言が糸口になる。ある場合でも無い場合でも、だいたいここから生まれた頃や告知近辺の話が始まる。人には人の数だけドラマがある。
話し方、声のトーン。展開される内容だけでなくそうしたことなどから、その方の言葉以外の現在の気持ちや現在の状態に耳を傾ける。

 大きな衝撃や、乗り越えていく体験というものがあっても、人間とは逞しいもので、少しずつ少しずつ忘れていってしまう。そんなことのひとつひとつを、赤ちゃんのママと話しながら思い出す。

 車は運転できないんです、ペーパーなんです、なんて話。これはよく出る話。病院だのなんだのと、普通の赤ちゃんより出かける用事は多くなる。わたしもそうだった、練習したのよ、ペーパードライバーコースに行ったの。運転したかったの。病院に車で行きたかったの。病院に連れていったときにすぐに入院だと言われて、娘は真新しいベビー服をくるくると脱がされて保育器に入ってしまったの。タクシーで行って電車で帰ったの。まだ暖かみの残る娘のベビー服を手に持って電車に乗って帰ったの。その残り香の暖かさの感触がつらかったわ。それから心臓の手術を経過して、長くかかってやっと退院したけれど、スケジュールが決まっている検査入院のときには絶対に車で行ってやる、って思ってたの。これは入院治療が必要な合併症のある子のママにする話。車の運転がどうのってことじゃない、車の運転にまつわるあの頃の話。
赤ちゃんのママと話していると、わたしの中で時間はさかのぼり、わたしはふわりと飛んであの頃に戻る。

 ダウン症の特徴的な顔貌、筋肉の柔らかさからくる特徴的な仕草なんてのがある。赤ちゃんのときはたいがいの人がそのことに怖れを抱き、外に連れて行くと「ほらあれがダウン症の赤ちゃんよ」なんぞとささやいているんじゃないかと思う。いやなに、大半の人の目には実は単なる赤ちゃん、ってのが現実なんだけれど。

 この特徴的な顔貌、特徴的な仕草、というものが、育っていくと別の観点が出てくる。ダウン症の子どもは生きたアルバム。いくつの子でも、そこに自分の子どもの姿が垣間見られる。ああこんなだった、あんな仕草がかわいかった、と、生きて展開されるアルバム。そしてそこにいるのはあのときの自分。

 あせらないでだいじょうぶ、今の気持ちは今の気持ち。自分といっしょに大事にして欲しい。あなたがあなたを大事にすることが出発だわ。
これはこういう風に解決していくわ、そのことはこんな工夫で超えられるわ、これはこんな風に避けることのできる問題よ。だいじょうぶ、ちゃんと育っていくから。

 全ての不安に原点がある。歩いてきた軌跡の発端がある。たくさんのことを教えられているのは実はわたし自身。

「自尊心」考

2006年06月12日 | つぶやき
 人間は失敗や挫折を味わったときに、次のどちらを言われた方が、より生産的な方向へ進むことができるだろうか。
A. だからアンタはダメなのよ。ちゃんと反省してこれからを考えなさい。
B. あなた自身が乗り越えて解決していく可能性を、わたしは信じる。
 Aの場合は、思考の中で、ずっと挫折感や自己卑下を持ち続けていくのではないかと、わたしは思う。
反省、後悔なんてことは、失敗や挫折を味わったときには、わざわざ言われなくても充分に味わっているんじゃないかとわたしは思う。

 Bの場合は、思考の中で経験から「その先」へと続く希望を持って、失敗や挫折と向かい合っていけるのではないかと、わたしは思う。
誰かから信頼されること、生の存在、生き続けるということ、その上での可能性を信頼されるということは大きな力となる。
「ピンチはチャンス」、経験から拾うことができる「宝の山」というものがある。
その「宝の山」を前にしても、自己卑下で下を向いていれば、見えるはずが無い。
実に実に、もったいない。

 生きていくという上で、失敗や挫折なんてものはくさるほど出てくる。
そのときに大事なことは「どんな経験をしたか」ということ自体ではなく、「経験から何を拾ったか」ということなのではないかと、わたしは思う。
失敗の数だけ「宝の山」を拾っていけばいい。

 「自尊心」は、自惚れや高慢とはちがうと、わたしは思う。
自惚れや高慢は、自分の視界や視点、熟慮の幅を狭くする。
このことは「自分を大事にする」こととは逆行する。
本当の意味で「自分を尊ぶ」ということは、自惚れや高慢ではなく、謙虚さを呼ぶのではないかと、わたしは思う。
そもそも謙虚さを持たなければ、経験ということで発見する「宝の山」は見つけられない。

 「自尊」という心は、自己の現在の姿だけでなく、自己のマイナス面さえも受け入れ、そして自己が存在することそのものを尊重、つまり「成長する未来」という可能性をも視野に入れるものだと、わたしは思う。

 自己を「マイナス面を含めて『受け入れる』」ことは、他者に対しても同様のことを思考するトレーニングを積んでいることにつながっているのではないかと、わたしは思う。
すなわち、「自尊」という心は、「他尊」にもつながっていくのではないかと、わたしは思う。

 とは言いつつ、子どもに対して生活の中で、「A」の言い方が口をついて出てしまうこともあるわけで。
あっと口を押さえ、そして自省の道順を教えてやり、見つけられること、失敗のその先の糸口の見つけ方なんてものを、教えてやる毎日。「これこれこう考えて、こうやっていけば逆転よ~」と言うと、ぱっと輝かせる顔を見るのはなんとも楽しい。
そうしたまだ「手の内」にいる我が子だけれど、成長の中で、もっと手痛い失敗や、深い挫折を感じることも出てくるだろう。
その成長の中で、いつか「自尊」を中心とする思考が、我が子の「標準」になって欲しい。
 
(2005年5月29日記事、加筆修正)
 

離任式

2006年04月06日 | つぶやき
 子どもを学校というものに入れて初めて知った行事「離任式」。
つまりその年度でその学校を離れる先生にさようならという式。

 年度が新しくなって離任した先生に、子どもの代表が花束贈呈と作文を読む、そして先生が挨拶。式が終わると先生は児童の列をゆっくりと回り別れを告げる。最後の列が有志参加の保護者。これが流れ。

 保護者の列で、花束だの記念品だのの贈呈がある。集団でまとめての有志と、個人と。
これがうちの学区の小学校の毎年の光景。だいたいどこも同じようなことを同じような段取りでやるんだろうか。
娘の養護学校の離任式も、流れはほぼ同様。違うのは「子どもの作文」が無いこと、離任する先生一人一人のスピーチが無いこと。
養護学校の職員の数はハンパじゃない。年度ごとに人の流れも多い。全員がスピーチをしたら、児童・生徒の間が持たない。

 初めてこの「離任式」というものに出たときの印象、保護者に人気のある先生とそうでない先生と、列の最終地点ではっきりと差が出ること。
保護者に人気のある先生は、抱えきれないほどの花束と紙袋を下げ、そうでない先生は「みんながもらえる花束」のみ。

 今日は娘の養護学校の離任式、「特別な支援が必要な子ども」の保護者と教員とは、普通の児童・生徒の保護者と教員よりも、やはりコミュニケートが濃い例は多いと思う。だからこそ、はっきりと目に見えて出ていた「抱えきれないほどの花束と記念品を持つ人」と、そうでない人と。
これって、ひとつの「評価」みたいなものなのかな、と思う。

 今日の離任式で、離任される方の代表としてスピーチされた先生の言葉が心に残る。
「町へ出ましょう、町で生きましょう」、保護者に向けて「町で生きられる子どもを育てましょう」。
養護学校ならではのスピーチ、様々な思いを込めてだろうと思う。
様々な思いをもって、この言葉を受け取る。

 明日は娘を行かせた、そして息子が通う小学校の離任式。
今日は集団での有志参加で一個用意、それとは別に個人で一個用意。
明日は個人で4個用意し、娘を連れて出席の予定。学校には「母校の離任式出席で遅刻します」と連絡済み。
思い出の多い先生の門出を、娘といっしょに花で飾りたい。
母校において、特別な支援を受けて教育された娘と共に、特別な感謝を込めて。

旅の同行

2006年04月03日 | つぶやき
 人の話を聴く。その話の根底に迷いがあればあるほど、それは「旅」に似ていくと思う。話すことで浮かび上がる景色、聴きながらその見えていく景色を共に眺める。
 共に眺める景色の中には、扉が存在していく。その扉に気づくのが本人であることもあるし、聴きながら扉の存在がかすかに見えるときもある。かすかに見えたときにそのことを伝える、扉を開くのは本人であって同行者ではない。扉を開くための資料情報提供は同行者にはできるが、扉を開くのは本人でなければならない。それは「旅」の主体だから。
 やがて一つの旅は終わる。一つの旅で見えていったことは、新たな旅を助けていく。見えていった景色は記憶として残っていく。

 また別の人の「旅」に関わる機会が出てくる。「旅の同行」の経験を重ねていくと、見えていくものがある。ああこれはあの「旅」のときに見えていった景色と、もしかしたら似ているのかもしれない。
 
 ただし、全ては「初めていく場所」としての「旅」なのだと思う。それでも別の「旅」の記憶は、訪れた経験として同行する自分を助ける。「見たことがある」という要素は共感を生み出す。新たな地での失敗を防ぐひとつのヒントにもなっていく。

 人間一人ができる「旅」など、実はたかがしれている。もちろん一人の人間の中での「旅」は、濃厚で深く、示唆に充ちていると思う。それでも人間たった一人ができる「旅」などは、実はたかがしれている。
 そんなときに、同行させていただいた「旅」の記憶は、自分にとって大きな経験となり、知識となり、ちっぽけな自分の「旅」さえも少なからず助けていく。
 ああ、あんな「旅」にも同行させてもらった、こんな景色もあのときあの人といっしょにあんな風に眺めた。そんなことを思うことは多い。

 「聴く」ということを仕事としている人の存在がある。大変だろうな、と思うのは、話し手との相性に関して、自分からは逃げられないだろうということ。
 その上で、「聴く」ということを仕事としている人に聴いてみたいと思うこと。「聴く」人間がこうあるべき、ということを超えて、「聴く」人間にどんな成長が生まれていくのかということ。素養、仕事としての「べき」を超えた、また問題の類型化の材料ということではない「与えられるもの」に関しての話を聴いてみたい。

*トラックバック*
リーガルカウンセリングにおけるインテーク面接/リーガルカウンセリング

被食-捕食と、ファンタジー

2006年03月14日 | つぶやき
 『あらしのよるに』考/天竺堂通信を読んで、つらつらと思ったことを、多分まとまらないままに。
動物(擬人化されていても)であるガブとメイが、被食-捕食関係で悩むところが異様なのだ。動物は食餌に感情移入などしない。そんなことをするのは人間だけ。
 食物連鎖という自然法則を、友情という人間感情で乗り越えさせようとすることに、大きな無理がある。まさに“不自然”だ。
 手塚漫画の「ジャングル大帝」はここに行き詰まった要素があると、昔何かで読んだことがある。「マダガスカル」の宣伝を観ながら、(どうするんだろう、この要素)なんてのも思った。

 動物好きな友人がいた。動物をとても大事に思っていたのだけれど、彼女が生育歴の中で見るのは、彼女の生活圏の道路で、ぼろきれの雑巾のように、ただ轢き殺されて無惨に死んでいく動物たち。関東から車でちょこっと行ったような海のそばの観光地の近くに彼女が住む家はあり、都会から走ってくる車は動物を轢き、ふり返りもせず走り去る。走り去るものは忘れるだろう、でも残された死体を何度も何度も、何匹も何匹も抱く人間には消えない記憶は残り続ける。

 「人間なんて、そんなもんだ」と彼女はよく言ってた。食べもしないのに動物を殺す。着るものが無いわけじゃないのに皮を剥ぐために動物を殺し、たかがハンコを作るだけくらいの理由で象の顔だけを切り落として殺す。
 密猟者は顔だけを狙って、殺して捨てるんだよ、と彼女は言う。象牙のハンコ、精力剤にするためのサイの角、高く買うのはみんな日本なの、ヤダねえ、と彼女は言う。

 そうした「言論」だけで済ませる批判者、というのもいるだろうと思う。彼女と接していることに次の扉が見えるような気がしていたのは、出口が見えずに悩みながら、「言論」だけではない思考と行動に進もうとしていたからだと思う。

 「釣りがしたい」と言った。手で釣って魚を自分の手でさばくのだ、と。スーパーだの魚屋だの肉屋だのといったところに何かを任せて知らん顔をするのではなく、「殺して食うのだ」ということを知らなければならない、と。
「殺して食う」ということ。人間と他の生き物は「被食-捕食関係」で成り立っていることを、その手で殺して知らなければならない、と。
居酒屋で酒を飲みながら、食ってる焼き鳥をふと見つめ、「鳥をさばくことも覚えたいな」と言った。


 平成に入る前年だったか、わたしは成田で彼女を送る。彼女はタンザニアに旅立つ。野生生物管理大学に留学するために。「動物保護管の勉強をするのだ」と。

 手紙をやり取りする。ポストに入れた手紙はいつ届くのかわからない。彼女の手元に届く手紙は、たいがい、破られた封筒の切れ端がまとわりつき、やっと住所と宛名だけが見える状態という「ほぼ便箋だけ」だったそうだ。日本からのエアメールは「金目のものが入っていないか」と、公的機関のどこかで隠れて破られる。

 ずっと記憶に残る話。動物保護区の調査のためのキャンプ。国立公園の動物保護区は広い。キャンプを張りながら何日もかけて移動する。
 キャンプの出発時、数匹のヤギが一行に参加している。海外留学の淋しさもあって、彼女はそのヤギ一匹一匹に名前をつけ「遊んでもらっていた」んだそうだ。

でもね、Sちゃん。そのヤギはね、お弁当だったのよ。

 自ら歩いて連れて行かれる「食物」。殺して食べるために連れていく「食物」。「野生生物の調査」なんてもっともらしい理由が無くたって、それを当たり前の生活にしている人々は、世界にはたくさんいる。スーパーで買って、「殺す」ということに知らん顔をしているわたしは、轢き殺して走り去る都会から来た車のようなものだ。いいも悪いもない、それがわたしの「生活」。

 毎週、「どうぶつ奇想天外!」を見る。この番組は生態系の被食-捕食をきちんと見せる。この前の日曜は、カバがシマウマを食っていた。カバは草食動物? いや、「雑食」の仲間でもあるそうだ。ワニが殺したシマウマをカバが食う、亀が生きた魚を食う、カエルが生きたコオロギを食う。生き物を知る、ということはそういうことだ。

 「子どもに聞かせるお話」で、友情を語るのに被食-捕食を混入させる。そりゃ無理があるよ、根底から。言っちゃ悪いが暢気なもんだ、とも思う。子どもに対して何を誤魔化して何を伝えようっていうんだろう。フィクションの設定というものは、フィクションの中で真実を語るためのもので、現実を誤魔化すためのものじゃない。現実を誤魔化したファンタジーは、わたしは好きじゃない。

「死別」と「日常」と

2006年02月06日 | つぶやき
 誰かと「死別する」、ということは生きていく上で避けられない。人間関係というものは、相手が生きている限り、何らかの発展の機会を持つ可能性がある。それがたとえトラブルであったとしても。
しかし「死別」というものは、相手の存在を「失う」ということを認識していく過程が始まるということ。

 「失う」ということがつらい相手と「死別する」ということは、深い悲しみを伴うことだと思う。それに加え、死別する相手が自分の日常に組み込まれた相手である場合は、相手の死、という事実は、自分に「事後の日常」を形成していかなくてはならない必要性が生まれるということ。

 2006年1月25日、午前7時40分、姑逝去。

 義母を失って明日で二週間になる。忌引きで欠勤していた夫は今日から職場に復帰し、家は日常のモードになる。
夫を送り出し、子どもたちを送り出し、わたしは自分の一日の予定を考える「さあ、今日は病院には何時に行こうか」。

 病院に行っても、もうそこには義母の病室は無い。病院に行くのではなく、すでにわたしの日常は、すぐそこにある夫の実家の和室の祭壇におかれた義母の「骨」に向かい、線香をあげることになっているはずなのに、わたしの潜在的な思考はそれを認めようとしない。
義母はもういないのに、義母の病室のあったフロアに行ってみたい気さえする。
これは、存命であった頃の日常に対しての未練なんだろう。

 容態が急変し、持ち直し、悪化し、逝去。この流れの中の強く記憶に残るシーンを、いちいち反芻する時間が毎日存在する。その反芻に痛みを伴うことがわかっていても。
これは「やがて記憶が薄れていく」ことに対しての抵抗なんだろう。

 「姑の入院」という過去記事を読む。このときの入院は一週間で終わったなあと思い出しながら、更新日付を見て愕然とする。ちょうど一年後の同じ日に、容態が急変したことに気づく。

 この過去記事に出てくる「小さな畑」の跡地を整地する、春の花をそこに咲かせるために。
この場所に花が咲き乱れる頃、去年衝撃を受けたこの記事から、一年が経過する。

通学路

2006年01月20日 | つぶやき
 小学校の通学路は、教員も大人もいない。時々、子どもたちの「無法地帯」になる。

 わたしは娘が入学してから数年、朝、学校まで一緒に登校していた。最初はいっしょに、そして徐々に見守り、尾行と変えていったのだけれど、いろいろな形でわたしは「朝の通学路」にいた。

 子どもたちの社会、経験で学習していくこと。そういう観点で通学路に存在する「大人」として、あえて口を出さなかったことも多い。

 女の子は、1人いじめをする。もうこれは子どもの発達の中で起きるということなのかもしれない。3人になれば2-1になり、4人になれば3-1になる。これはある意味、もうどうしようもないことなのかもしれない。そこで何か言っても、これをやる子、これを仕掛ける子は、「大人」のいないところで必ずやる。

 「お友だちを待ってるの」とずっとずっとひとつの場所に居続ける子、「もうこんな時間だよ、遅刻するよ」と声をかける。「でも待ってなきゃ」。
 「誰を待ってるの?」「○○ちゃんと○○ちゃんと○○ちゃん」
 ああ、3-1か、と思う。多分、いやかなり高い可能性で、この子はまかれた、のだと思う。すでに子どもの流れは途絶え、この子も走っていかなきゃ多分遅刻するだろう。
 「わたしが○○ちゃんのおうちの方を通って帰る、会ったらあなたが先に行ったと必ず伝えてあげる、だからもう行きなさい」
 「ありがとう、先に行くからゴメンねって言ってね」と明るく答えて走っていくこの子の後ろ姿を見ながら、なんとも言えない気分になる。もちろん、この日、わたしはこの「待っている3人の子」と出会うことは無かった。

 口を出したケース、女の子の集団が、1人の目の前でにやにやと、その子だけがわからない合図を送る、仲間で送り合う。陰湿だなあと思う。この集団がわたしを「友達」と認識して、その合図をわたしに教える。笑いながら、「仲間の認識」を楽しみながら。
こら。ここで介入。「誰とでも仲良くなんてきれいごとは言わない、誰が誰を好きで誰が誰を嫌いだろうが、わたしはいっこうにかまわない。ただ、集団で陰湿なことはやるな。」と言う。
返ってきた答になんだかうなだれるような思い。「だってあの子は一人っ子で我が儘だってママが言ったもん」。おいママ、なんとかしてくれよ、まったく。

 口を出したケース、男の子がひとり道路のまん中でうずくまり、3人が蹴る。「何やってんの」
 最初はジャンケンで負けた子をぶつ、というところから出発して、だんだんエスカレートしたらしい。見物する子どもたちが取り囲む。こら、黙って見てるんじゃないよ、これはプライドの問題として度を超えてる。
 とりあえず、場を崩す。「だいじょうぶ?」(体じゃないよ、心はだいじょうぶ?) 親に報告すれば子どもに問いただして、再度この子のプライドが傷つくかもしれないと思って、黙る。数日後、一言だけ聞く。「あの子は最近、どう? 変わったこと、ない?」
 母親が泣く。通学中のあの子の姿であなたには感づかれていたのか、と。実は下の子が大きなケガをした。心配で気持ちが乱れて、何度も上の子につらく当たった。そのことをゆっくり聞く。これは母親を助けなければ、あの子も多分助けられない。一通り話を聞いてから「しばらくあの子を大事に見てやってほしい」と伝える。本当の展開を教えたのは数年後、この子の許可を得てから。

 笑いながら、殴る蹴るの「寸止め」。非常に陰湿。殴ってもいない、蹴ってもいない、「寸止め」。ぎりぎりの「寸止め」。小手先で獲物をもてあそぶかのような行為が続けられる。心はずたずただろうと思う。体の大きい、集団で目立ちそうな男の子、おどおどとやられっぱなしの男の子。
このとき、わたしはこの「暴力に達しない悪意という暴力」をふるっていた男の子に言う「あなたは悪い」。発した言葉は一言だけ。でもわたしはこのとき、この子の胸ぐらをつかみあげてしまった。わたしともうほとんど変わらないような身長の6年生の男の子。
このタイミングで「獲物」は逃げた。わたしはこの日から数週間、電話に脅える。親からの電話。わたしは「暴力」を胸ぐらをつかみあげるという「暴力」で抑えた。子どもの「暴力」、寸止めで言い方によっては「行っていない暴力」と言える暴力。そしてわたしは「小学生の胸ぐらをつかみあげた」。怖かったのは親からの苦情。親は子どもの言い分をなんでも聞く生き物だから。結局、電話は鳴らなかった。

 通学路上の子どもの危険を再三言われ、学校から何度も「1人で帰らないように」と子どもたちに伝えられる。
それでも1人で帰る子というのは多分存在するだろうと思う。1人で帰る展開になる子は、けして1人で帰りたいわけじゃないのにね。

賞賛

2006年01月17日 | つぶやき
教職員による給食注入実施決定/atelier F.F. ゆうくんちの日常
 日常的に医療的ケアが必要な子どもたちというものがいる。この医療ケアは養育者に関しては、医療従事者じゃなくても認められる。しかし学校の場に関しては、教職員がやるのはダメという自治体は多い。給食注入以前に気管切開をしている子どもが肢体不自由養護学校に通学する(通学籍をもつ)ということも、自治体によってはひどく難しい。
 医療ケアを行うときには、養育者が学校に行って、その医療ケアを行う必要がある。←簡単にいっちゃえばこんなことだけれど、それは養育者の体調不良時には「親ガメこければみなこけた」状態になるということであり、子どもは学校を欠席することを余儀なくされる。そして子どもが学校で「社会生活」を行うという精神的な成長の場に常に親がうろうろすることというのは、障害の有無に関わらず、子どもの成長にとって、けしてほめられたことではない。
 「教職員による給食注入実施決定」、これはこの壁に穴をあけ、道を開いていくこと。ここに行き着くのは、簡単なことじゃない。簡単なことじゃないなんて簡単な言葉で語ることさえ罪なんじゃないかっていうくらい、簡単なことじゃない。
 よくやった、よく道を開いた、と思う、リエ、エラい!
 あなたが歩いた道は、きっと誰かの力になる。

「女性自身」を読んでください!/モラルハラスメント・ブログ
 これはもう、本文参照で用は足りる。
 あの精神的な地獄の日々、揺り返される泥沼からよく這い上がったと、いつもいつも、何度も何度もそう思う。そしてあなたの記していく軌跡は、誰かの目覚めと勇気につながっていく。
 まっち~、エラい!
 
 だから何? いや大声で賞賛したくて。

ショート・アイズ

2006年01月15日 | つぶやき
 2005年08月20日にアップした「宇宙遊星間旅行」に入れられたねこどしさんのコメント。
大人になってふと思い出し探してましたが廃刊との事。しつこく古本屋を探し、おととしネットを通して見つけなんと2万で購入しました。
 そうそう、こうやって、探し続けたものに出会えるチャンスを拾えるのがネットというものであるよなあ、と。

 過去、自分の中で未完成になっている思考の元になっているもの、そんなものを解決させるためにネットを利用することがある。その中で、ネットでも見つからない、非常に残念なものがわたしにはある。

 1982年に文学座で上演された「ショート・アイズ」という作品がある。わたしはこの作品のゲネプロ、つまり上演前の通し稽古を見学する機会を当日突然に得て、前情報全く無しに観劇。非常に強く印象に残ったのだけれど、テーマや、その演出においてどこに主眼を置いたものだったのか、全く覚えていない。観劇後、そのポスターを見ながら、強く残った余韻に呆然としていた記憶のみが残っている。

 ずっと長いことそのままになっていたのだけれど、ネットを利用するようになって、この終わらない感想を完結させたいという欲が出る。

 でも見つからない。本も出版されていない。このときの上演の感想や解説をしてくれる個人サイトも無い。

 見つかったもので、めぼしいものはコレだけ。 ミゲル”マイキー”ピニェイロ”を知ってますか

 以下、本文から引用。
「ショート・アイズ」とは、児童暴行犯を指す隠語で、プエルトリカンやアフリカン・アメリカンばかりの刑務所に白人の「ショート・アイズ」が収監されるというドラマだ。
 柄の悪い悪質な犯罪者ばかりが収監されている刑務所。そこに白人の気弱そうな囚人が収監される。その囚人の犯した犯罪については、他の囚人たちに隠されている。
 やがて、この白人の犯罪を、他の囚人たちが知ることになる。この犯罪がわかった時点で、他の囚人たちは瞬間沈黙し、憎々しげに吐き捨てるように呟く。「ショート・アイズ」「ショート・アイズ」「ショート・アイズ」…。
 児童に対しての性的暴行犯は「ショート・アイズ」と呼ばれ、もっとも軽蔑され、憎まれる存在だと、そんな意味合いだったと思う。この白人はこの日から、他の囚人たちから数々の暴力と暴行を受け、殺されるのだったか自殺するのだったかという形で、ぼろぼろの状態で死ぬのがラストだった。
 この白人が、自分を忌み嫌いながらも、自分の犯罪を語るシーンがあった。そのシーンの視点が誰よりであったのか、記憶が定かじゃない。ストーリーの展開もよく覚えていない。たった1人の白人という、人種差別が関係していたのかということもよく覚えていない。ただ、わたしの記憶に強烈に残ったのが、他の囚人たちが新参者の白人を「児童に対しての性的犯罪者」と知った時点の反応と、その憎み方だった。全て囚人で、いわゆる世間的に正しい人間など1人もいない。しかしその中でも、憎むべき罪として、法律を超えて人間の価値観で裁かれる存在と出てきた「ショート・アイズ」。

 映画として上演されたというこの「ショート・アイズ」、日本では公開されなかったようだ。日本では、この文学座の上演後、本多劇場にて公演されているらしい。

 これ以外の情報が手に入らない状況で、わたしは誰かの「ショート・アイズ」公演のレビューが読みたい。この作品についてもっと知りたい。とりあえず、検索であまりにも少ないこの「ショート・アイズ」に関しての、個人が出せる情報のひとつとして、拙いなりに出しておこうと思う。

姑の入院 つれづれ

2005年12月29日 | つぶやき
 子どもたちは冬休みに入り、ちょこちょこと姑のいる病院に連れていっています。

小児病院や小児病棟での入院で「きょうだい児及び子どもの面会禁止」に慣れていたわたしは、姑の入院後、子どもを面会に連れて行くという発想が全然無かった。
いや、普通の病院なんだからいいんではないかと思い、とりあえず1人ずつ連れていった冬休み前。そしてどうやら騒いだりしなければ、長居しなければ問題は無さそうだと判断。

 息子は、すっかり病人の様相を見せる姑に対して見せたショックが、姑に悟られてしまいました。また面会という時間の持ち方に手持ちぶさたになる。わたしには「いつ退院できるのか」と聞く。姑の現在を飲み込んでいく成熟を、彼はまだ持ち合わせていないんでしょう。
それでも姑にとっては大事な孫。旧家に嫁ぎ、跡取りという思考が強い姑にとっては、息子は大事な跡取りで、かわいさもひとしおのようで、顔を見せれば喜ぶので息子に言い聞かせて連れていく。

 何の配慮もいらず、安心して連れて行けるのが、娘の方。病人の様相を見せる姑に対して、こちらは全く動じず、また違和感無しに、療養前と変わらない日常のテンションで「おばあちゃん」と声をかける。
「おば あ ちゃん、 だ い じょうぶ?」
療養前とちっとも変わらない稚拙な言い回しに、聞いているわたしでさえも、日常を取り戻すかのようにほっとする。
看護師さんが来ると、彼女の意識がすっと前に出るのを感じる。そうそう、これはこのとき感じたことと全く同じ。
ベッドのそばの小さな丸椅子にちょこんと座る。意識はまっすぐ姑に向いていて、「アタシが看病しています」という真剣な顔つきになっている。

 療養と、少しずつ始まったリハビリ。退院、在宅まではまだ数ヶ月かかるだろうし、退院すれば介護という状態にもなると思う。姑は今までのように自分ひとりで出歩くことはもうできない。家を出ない日は多くなるだろうと思う。
 それでも、わたしには、小さな安心状態がひとつ生まれたような気がする。姑が、体が思い通りにならないという状態ならば、娘はきっと活躍してくれるだろう。まっすぐに、必要な優しさだけを持ち、自分が役に立つのだという意志と自負とをきっと持つだろう娘の存在に、姑はきっと心が助けられるんではないかと推測。

 病院に娘を連れて行くこと。病院で出会う医療従事者たちは、娘を見るだけでみな、14歳の女の子と思うよりも「ダウン症児だ」と思うだろう。
何度も連れていってから、ふとそのことに気づく。ふと気づくというほどに、そんな視点の感覚はすっかり忘れてしまっていた。
年数が経つというのは、そんなものかもしれない。

サンタの存在

2005年12月25日 | つぶやき
 サンタ考/S嬢のPC日記
 カウントダウン/S:今日の一言
 サンタさん/S:今日の一言
 上記の経緯をもって、Xデー、つまり25日の朝を迎えた我が家であります。
サンタに夢を持つ、というよりサンタを信じる5年生11歳♂の「結果」が今日。
 
 その「結果」の重要な経緯となるのがこちらになります。
姉が子ども連れて一時帰国/S:今日の一言
おもちゃ発祥の国ジャパン/S:今日の一言
 22日午後、彼はわたしの実家に泊まりに行き、彼の仲良しのイトコと共に、わたしの姉と二泊三日を過ごしました。そして息子は「サンタは実在する」という強化を受けて帰ってきました。

 姉は、小学生のときにサンタを「見た」そうです。誰がプレゼントを買うかなんてことは、その存在に関係無いそうです。「だって、見たもん」と言います。感激と共に最初にうち明けた妹には一笑に付されたこの話、自分の一人息子にさえも相手にされなかったそうです。
 しかし、11歳の甥は、目を輝かせて聞いてくれる。姉がサンタの話を聞かせるのではなく、姉と彼がサンタの話を共有したようです。

 クリスマスが近づくにつれて増えていった彼の「サンタ」に関しての質問を、わたしは「いない」ことに対して背中を押されたいのかと思っていました。しかし、実は違いました。彼が背中を押して欲しかったのは「いる」ということに対してだったようです。姉の「だって、わたしは見たもん」という一言が、彼には一番重要だったようです。
自分が見るか見ないかということではなく、「見た」と、「いる」と、そう言ってくれる人が欲しかったのだと感じました。

 息子は、姉が見たサンタの話をしてくれました。わたしは姉の、小さかった姉の最初の話の切り出しをろくに聞かずに否定した。姉の息子も同じようなものだったそうです。姉はやっと、わたしの息子に対してその話を克明にすることができ、そして息子の心にはその情景が焼き付いたようです。
だから自分が見たいとは言わない。言わないのだけれど、サンタクロースはいるのか?/ko-ko-sei nikki や、サンタ・クロースは実在した!?/ぽんすブログの「光」の話は、きっと目を輝かせて聞くことでしょう。

 24日の夕刻、オーストラリアに戻る姉を、新宿の成田行きのリムジンバスの停留所で送り、そのまま新宿で24日の夜を過ごしました。画像はそのときの一枚。キラキラと輝くクリスマスムードの中、彼のクリスマスはおおいに盛り上がっていました。

 家に帰る道を歩くときに、息子が姉が見たサンタの話をしてくれました。
 玄関に立っていた、というその話。とても大きな人だったそうです。もちろん父親の変装なんぞではありません。わたしはこの話をちゃんと聞くのに、何十年もかかってしまった。

「そう。同じおうちにいたのに、おかあさんには見られなかったわ。」と、少し淋しい思いで言うと、「どうしてかなあ」と彼は言う。
「おかあさんは、あんまりいい子じゃなかったんじゃないかな」と、口をついて出ました。サンタに説教を持ち込むことが嫌いなわたし。それでもこのときは、なんというか寂寞感と共に、このフレーズが口をついて出てしまった。

 息子は立ち止まり、まっすぐにわたしを見て言った。
「そんなことないよ!」
 ああ、これが、この子がサンタを信じ続ける素養なのかと、ふと思った。

 今日、25日の朝は、彼のクリスマスツリーに向かって走る物音と、叫び声で始まりました。その叫び声は「来た!」というもの。「おかあさん、来たよ!」が、二度目の叫び声でした。
 
 さあて、来年はどうしましょう。彼の心の進む道は、きっと彼が決めることでしょう。

 彼の父親である夫の弁は、「来年もツリーはきちんと飾らなきゃな」というもの。
うちのクリスマスツリーは、150センチという大きなものです。出して飾り付けをするのも片づけるのもけっこうな作業です。サンタの存在にとって重要なアイテムである我が家のクリスマスツリーは、今年も立派に効力を発揮してくれました。

「あの子は、きっといいサンタになるよ」
この夫の一言が今年のクリスマスを象徴したような、そんな結末です。

被リンクの収穫

2005年12月19日 | つぶやき
 サンタ考 が、被リンクでぐるぐる回りました。以下、回った順に。
■[コラム・エッセイ]サンタ考 [S嬢のPC日記]/明日は明日の風が吹く
2005年12月13日寒すぎる/ネタサイド
2005-12-14■[テキスト]サンタ考 (fromネタサイド)/酔拳の王 だんげの方
 今回の被リンク、最大の収穫は「一日のアクセス数が4ケタを記録」とか、そのことにより一時的にランキングで高位置とかではなく、2005-12-14■[テキスト]サンタ考 (fromネタサイド)/酔拳の王 だんげの方で紹介されていた「この人の考え方が好き」というサイトを知ったこと。
これはすごい。思わず拍手。このURLを記載したフレーズ「この人の考え方が好き」に大きく共感。
 
 わたしが嫌いなのは、「サンタのプレゼントを有償にする」こと。つまり「いい子にはサンタが来る」的な言い方。わたしはこういう類の事は一度も言わなかった。
いや、悪いけど、ウチのガキ共は未熟ではあるが、過ちも行うし欠点ももちろんあるが、「いい子」ですから。「いい子にしてれば」なんていうことは必要ない。もちろん始終「いい子にしている」なんてことはあるはずが無い。そんな状態だったら、むしろ不自然だ。子どもが悪いことをすりゃもちろん叱るが、悪いことをするにはするなりの理由なんてものもあるだろ。その理由を解明しつつ、違うことは違うと言う。サンタのプレゼントでつらなきゃならんほど、こっちの姿勢だってちゃちじゃないぜ、とも思うんですよね。

 いい子にしてたらサンタが来る、なんていう、そんな小さいとこで完結させるものじゃなくて、「ワクワクをもらう」ということ。「ワクワクをもらう」ということが、誰かにイメージを作ってもらうことだったのだとわかったら、次は「ワクワクを誰かに贈れる人間になれよ」。
このメッセージ、使わせていただきます。ここに行き着く流れを作ってくださった3つのサイトの管理者の方々に感謝です、ありがとうございました。