積み上げていく「力」のネコバスさまのコメントに対してのレス的エントリです。
知的障害は、特に乳幼児期に、そして学齢期においては、予測される範囲ということはあるけれど、まだまだ固定障害としていくには、発達という要素が存在するわけで。
ここで、適切な判断による「中・長期目標」というものが重要になってくると思います。
その適切な判断とは、「親の障害に対しての心理的抵抗感」で左右されることであってはならないと思うところもありますので、療育や教育の専門家との話し合いは意味を持つことだと思われます。
そして、この「中・長期目標」というのは、本人の「QOL」に逆行するものであってはならず、本人の「QOL」に対しての感覚を、むしろ育てるものであって欲しいと、わたしは思います。
ネコバスさんのコメントの中で出てくる「ボタンかけ」の練習と、「好きな服を選ぶ力」というお話。
わたしはこれが相反するものだとは思えないんですよね。
これが相反するものになるかどうかは、「ボタンかけ」という能力の習得が、現在はできなくても中・長期目標として設定できるものかどうか、ここに関わってくるものなのではないかと思います。
中・長期目標として設定するのが困難な障害であれば、そこに使っている時間を「好きな服を選ぶ」気持ちや力に持っていく方が現実的でしょう。
ただし、中・長期目標として設定できるのならば、「好きな服を選びたくても、ボタンのあるものを避けなければならない」ということを回避できるわけです。
また、ボタンかけができない状態のときでも、四六時中ボタンかけに格闘させるのであれば、それは洋服を選ぶ楽しさが育つ可能性を大きく含む時代をつまらないものに変えてしまう。
わたしは中・長期目標にボタンかけを設定できる状態と時代であっても、日常の服ではなくパジャマ程度、しかも必死の格闘ではなく機会として存在させるくらいの気楽さで臨めばいいんじゃないか、と思います。
また、「教育の場」と「家庭」とのメリハリということもある。
「教育の場」は、本人が中・長期目標に対して向かい合う場であって欲しいと思うし、「家庭」は気持ちを育てていくことを主体とする場、なんていう思考もあります。
「教育の場」で許されすぎたり、「家庭」で追い込まれたりするようなことは、本人の成長・発達に関してマイナスの要素を与えかねないのでは、と思うところもあります。
どちらの場に関しても、本人に自信や自尊、達成感の積み重ね、そうした心の成長にプラスの材料を与えていくものであって欲しいし、そのために必要になることは、適切な無理のない、小さな小さなステップでの提示という工夫。
それが求められているところだと思います。
知的障害に対しての養育、療育、教育、支援。こうした場でいつも求められているのは、問われているのは、「関わる側の知的能力」なのではないかと思います。
「先端技術」は、上手に利用したいと思う。これが基本です。
利用する、ということは、頼る、頼り過ぎるということではないと思う。
そして同じ先端技術でも、その存在が有効なものかどうかは、やはりその障害や本人によって違うだろうな、と。
たとえば電動歯ブラシですが。
これは、わたしは使わせていません。
試してみたことはあるのですが、ただ口の中に突っこんで満足するので、歯ブラシの方向はいつもあさってで、意味のないものだと判断したからです。
同じ「あさっての方向」でも、普通の歯ブラシを使って鏡を持たせた方が、まあそれなりに歯に対してブラシはあたる、と。
そして本人にとって「自分で歯ブラシ」の満足感は、後者の方が高そうだ、と判断したためです。
でも、これは、完全な個人のパターンであり、電動歯ブラシを使うということが利点になるタイプの子であれば、それはもう、とても感謝すればいいことなんだと思うんですよね、電動歯ブラシというものが存在することに。
ここでも問われているのは、関わる側の判断力なのかもしれない。
知的障害児を育てる、ということは、知的障害をもった、心豊かな「大人」にしていく、ということ。
それはやっぱり「心を育てる」ということで、このことに関して言えば、実は障害のある子も無い子も同じなんではないかな、と思うのが結局の結論かもしれない。
大人になっていく、ということは、精神的に親から離れ、社会に向かって巣立っていくということ。
そこで手を振って見送るためには、そのときに持たせてやれる「自尊心」という名のきびだんごを、せっせせっせと仕込む工夫をする毎日。
それが「育てる」ってことなんじゃないかな、なんぞと思っています。
まあ、行きつ戻りつ迷いつつ、そして適当に楽をしつつ、なんてとこなんですけどね。生活ですから。
知的障害は、特に乳幼児期に、そして学齢期においては、予測される範囲ということはあるけれど、まだまだ固定障害としていくには、発達という要素が存在するわけで。
ここで、適切な判断による「中・長期目標」というものが重要になってくると思います。
その適切な判断とは、「親の障害に対しての心理的抵抗感」で左右されることであってはならないと思うところもありますので、療育や教育の専門家との話し合いは意味を持つことだと思われます。
そして、この「中・長期目標」というのは、本人の「QOL」に逆行するものであってはならず、本人の「QOL」に対しての感覚を、むしろ育てるものであって欲しいと、わたしは思います。
ネコバスさんのコメントの中で出てくる「ボタンかけ」の練習と、「好きな服を選ぶ力」というお話。
わたしはこれが相反するものだとは思えないんですよね。
これが相反するものになるかどうかは、「ボタンかけ」という能力の習得が、現在はできなくても中・長期目標として設定できるものかどうか、ここに関わってくるものなのではないかと思います。
中・長期目標として設定するのが困難な障害であれば、そこに使っている時間を「好きな服を選ぶ」気持ちや力に持っていく方が現実的でしょう。
ただし、中・長期目標として設定できるのならば、「好きな服を選びたくても、ボタンのあるものを避けなければならない」ということを回避できるわけです。
また、ボタンかけができない状態のときでも、四六時中ボタンかけに格闘させるのであれば、それは洋服を選ぶ楽しさが育つ可能性を大きく含む時代をつまらないものに変えてしまう。
わたしは中・長期目標にボタンかけを設定できる状態と時代であっても、日常の服ではなくパジャマ程度、しかも必死の格闘ではなく機会として存在させるくらいの気楽さで臨めばいいんじゃないか、と思います。
また、「教育の場」と「家庭」とのメリハリということもある。
「教育の場」は、本人が中・長期目標に対して向かい合う場であって欲しいと思うし、「家庭」は気持ちを育てていくことを主体とする場、なんていう思考もあります。
「教育の場」で許されすぎたり、「家庭」で追い込まれたりするようなことは、本人の成長・発達に関してマイナスの要素を与えかねないのでは、と思うところもあります。
どちらの場に関しても、本人に自信や自尊、達成感の積み重ね、そうした心の成長にプラスの材料を与えていくものであって欲しいし、そのために必要になることは、適切な無理のない、小さな小さなステップでの提示という工夫。
それが求められているところだと思います。
知的障害に対しての養育、療育、教育、支援。こうした場でいつも求められているのは、問われているのは、「関わる側の知的能力」なのではないかと思います。
「先端技術」は、上手に利用したいと思う。これが基本です。
利用する、ということは、頼る、頼り過ぎるということではないと思う。
そして同じ先端技術でも、その存在が有効なものかどうかは、やはりその障害や本人によって違うだろうな、と。
たとえば電動歯ブラシですが。
これは、わたしは使わせていません。
試してみたことはあるのですが、ただ口の中に突っこんで満足するので、歯ブラシの方向はいつもあさってで、意味のないものだと判断したからです。
同じ「あさっての方向」でも、普通の歯ブラシを使って鏡を持たせた方が、まあそれなりに歯に対してブラシはあたる、と。
そして本人にとって「自分で歯ブラシ」の満足感は、後者の方が高そうだ、と判断したためです。
でも、これは、完全な個人のパターンであり、電動歯ブラシを使うということが利点になるタイプの子であれば、それはもう、とても感謝すればいいことなんだと思うんですよね、電動歯ブラシというものが存在することに。
ここでも問われているのは、関わる側の判断力なのかもしれない。
知的障害児を育てる、ということは、知的障害をもった、心豊かな「大人」にしていく、ということ。
それはやっぱり「心を育てる」ということで、このことに関して言えば、実は障害のある子も無い子も同じなんではないかな、と思うのが結局の結論かもしれない。
大人になっていく、ということは、精神的に親から離れ、社会に向かって巣立っていくということ。
そこで手を振って見送るためには、そのときに持たせてやれる「自尊心」という名のきびだんごを、せっせせっせと仕込む工夫をする毎日。
それが「育てる」ってことなんじゃないかな、なんぞと思っています。
まあ、行きつ戻りつ迷いつつ、そして適当に楽をしつつ、なんてとこなんですけどね。生活ですから。